二章 20
前回に引き続き間島視点です
「帰りましょう。京都。お母様のところに。会えたら絶対、嬉しいですよ」
常盤さんは少し硬さのある笑顔で、しかし優しくそう言い切った。
嘘だろ、と思った。
なんの冗談で彼女はそんなことを言っているんだ。
いや、違う。そうじゃない。彼女の言ったことが嫌だったわけじゃない。
そうじゃなくて、ただ、本当にわからなかった。
彼女はついさっきまで俺の元から逃げ出そうとしていたはずで、そもそも彼女のその台詞は一度俺が拒んだものとそう大差ないはずだ。
なのに、なんで戻って来てくれたんだろう。
なんでもう一度俺にチャンスをくれるんだろう。
なんで俺の望んだとおりにしてくれるんだろう、と思った。
「……なんで?」
「なんでって、何がですか?」
「なんで急にそんなこと……」
ああ、と常盤さんは得心がいったというふうに頷いて見せた。
「先輩がそういう顔してたからです。帰りたいなあって顔してるなあと思って。違いましたか?」
そんなの知らないよ。自分がどんな顔してるかなんて、俺が一番知りたいくらいだ。
俺が押し黙っていると、常盤さんは眉尻を下げて不安そうな顔をした。
「ごめんなさい。今のはちょっと、私の言い方が悪かったですね。私が勝手にそう思っただけなんです。ただ、先輩はお母様に会いたいんじゃないかなって、私が勝手にそう思っただけですから。先輩は帰りたくないですか?…………あ、いえ、やっぱり今のはなしで。先輩は帰るのは嫌じゃないですか?私が無理やり先輩を京都まで引っ張っていっても、先輩は嫌じゃないですか?嫌な時は嫌だって言ってくださったら、私は無理強いはしませんから。逆に、嫌だって言われなかったら私もやめる気はありません。そういうの全部ひっくるめて、先輩は今、嫌じゃないですか?」
常盤さんは一つ一つの言葉を丁寧に積み上げていく。
丁寧というか、探り探りあからさまな不正解を踏まないように言葉を選んでいる感じだ。
気を遣わせているな、と思った。
後輩にこうまで情けない姿を見せることになるとは思っていなかった。
常盤さんがここに来た時とは完全に立ち位置が逆転している。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。寧ろ、ほっとしていた。
「……嫌じゃない」
「本当ですか!……じゃなくて、良かったです。じゃあ、あの、日程、どうしましょうか。有給と休日合体させたら三泊四日くらいはできそうですよね。今週末だと早すぎますか?そうするともう来週末くらいしか時間ないですね。再来週になるとどうしても出動に予定がかぶりますし……」
常盤さんの中で勝手に話が進んでいるようだが、当事者であるはずの俺が置いて行かれている。
まあ、俺が実家に帰るのは良いよ。いつかは帰らなければならない場所だし、ずっと帰りたいと思っていた場所だったから。
俺がそこに行くための手伝いを常盤さんがするというのも、まあ良い。
だけど問題は、俺の実家まで常盤さんが付いてきそうな勢いであるということだ。
……いや、もう我儘なんて言っていられる立場じゃないことは良くわかっているのだが、それはこう、流石にちょっと抵抗がある。
「あのさ、常盤さんがうちまで来るの?」
俺がそう素直に疑問をぶつけると、常盤さんはきょとんと効果音でもしそうな表情になった。
「いえ、別に私が行く必要は……あ、でも、うーん……そうですね……私か高坂さんか、どっちかは行ったほうが……というか行くべきかなと……」
「え、流亥?なんで?」
なんでそこで流亥の名前が出てくるんだ?
流亥は特務課の中でも一二を争うくらい俺の過去のことには関係がないはずだ。
まあ、あんな小さな部署の中で一番も二番もあったものじゃないが。
「私と高坂さんだと、能力的には高坂さんのほうが適任なんですけど……。でも高坂さんに今回の経緯を話すのは……。そう……ですね……どうしましょうか……。うーん……まあ次善の策ですが、水瀬さんに同行をお願いするのが良いでしょうか……」
「ええ、水瀬さんかあ」
あの人嫌がりそー。なんで貴重な有給を間島のために使わないといけないんだよ、とか言いそう。絶対言うな。
まあそういうドライさが良い方向に作用することも多いから良いんだけど……。
「俺の家三保さんの大学と近いし、三保さんじゃダメなの?」
「あー……三保さんですかぁ……。いやちょっと、三保さんだとかなり厳しめかなって」
「なにが厳しいの?」
「純粋に役者が足りてません」
「ひどい言われようだなあ」
常盤さんが三保さんにどんな役柄を求めているのか知らないけど、結構散々な評価だ。可哀そうに。
「じゃあ神楽は?」
「神楽くんも今回の経緯、知らないですよね?態々話すという選択肢を取るなら高坂さんのほうが良いです」
「なるほど?じゃあ、総合的に見るとやっぱり常盤さんがうちに来るのが一番良いと」
「いやぁ……それは……どうなんですかね……。私が行くと、場合によっては最悪の事態を招きかねないと思うんですが……。うーん……もうみんなで行きます?態々二人にこだわる必要はないかなって」
「やだよ。遠足じゃないんだから。そんなに大人数で押しかけられても困るし」
「まあそうですよね。……ちなみに先輩お一人でっていうのは……」
「それはやだ。一人じゃ絶対京都まで辿り着けない。米原まで行けるかも怪しい」
「米原ですか……結構健闘してますね。私だったら三河安城くらいで脱落してますよ」
「早くない?」
「そもそも名古屋から京都まで近すぎですもん。ほとんど一駅じゃないですか、あんなの」
「米原の人と羽島の人に怒られそう」
「私米原の駅、乗り換え以外で降りたことないです。羽島は降りたことあるんですけど」
「俺も米原はないなあ。あそこらへんってなんかあるの?」
「先輩、米原の人に失礼ですよ。伊吹山とかあるじゃないですか」
「伊吹山……?」
「うわあ、先輩米原の人に暗殺されないように気を付けてくださいね」
そう言って常盤さんはふふっと笑った。
彼女の純粋な笑顔を見るのは久しぶりだった。
怯えた顔とか困り顔よりもよっぽど、笑顔のほうが彼女に似合っていると思った。
「まあ同行の人選は水瀬さんに相談して決めるとして、せっかく直接会うんですからちゃんと計画を立てていきたいですよね。ていうか、先に何話したいか考えとかないと頭真っ白になりますから。なんか話しときたいなーってことあります?別に私が把握しておく必要もないんですが……」
「なんだろう。なに話したら良いか正直よくわかんない。ごめん」
「いやあ、でもそんなもんじゃないですか?私だって両親との会話を十年以上避けて生きてきましたからね」
常盤さんはわかるわかる、とでも言うように頷いた。
やっぱり俺、常盤さんに気を遣わせてるな。
まあこんな話題で無神経な発言をしたらお互い気まずいから、多少の気遣いが発生するのはしょうがないだろうけど。
でも、何も過去まで改竄する必要はないだろう。
常盤さんは間違いなく、幸せな家庭で真っ当な愛を受けて育ってきた人だ。
俺が常盤さんの何を知っているというわけでもないけど、彼女の人懐っこさと無意識で無邪気な博愛は家族という圧倒的な味方に愛されているが故のものだと思う。
愛されていない人間が、他者に無条件の愛を注げるとは思えない。
彼女はそんな当然ともいうべき愛情に囲まれた人間特有の無防備さに溢れていると、そう思われた。
……これは俺の僻みが入った見方だというのはわかっているけど。
それでも、彼女が両親と十年以上も顔を合わせていないというのは流石に嘘だろうと思わざるを得ない。
そもそも彼女の歳で十年以上と言ったら小学生の頃からってことになるだろう。嘘にしたって大胆すぎる。
「あのさ、別に無理して話合わせてくれなくて良いから」
「いえ、無理はしてないですよ?」
「無理しなくて良いっていうか、無理のある嘘すぎるっていうか。常盤さん、普通に家族仲良いでしょ。そこは無理やり合わせる必要なくない?」
「ああ、なるほど……」
常盤さんは微妙な表情をして黙り込む。
図星、という感じではなかった。
彼女は口をまごつかせながら慎重に言葉を重ねた。
「……私の言うことは決して嘘ではありません。私は先輩に嘘はつきません。少なくとも、嘘をつかないよう善処します。事実として私は十年以上両親に会わなかったし、話していませんでした。私には、先輩と同じとは到底言えませんが、それでも両親との折り合いがつかなかった時期がありました。その時期は私にとってあまり良い思い出ではないですし、やり直せるならやり直したいと思っている時期です」
彼女の言葉を戯言だと一蹴するのは簡単だった。
現実味のなさすぎる話だからだ。
それこそ、彼女が二人分の生を体験でもしていないと出てこない言葉だろうと思った。
「ほんとに?」
「はい。本当の話です。万に一つも嘘はありません。……それを無理に信じろというわけではないですが……。先輩には私のことを信じてほしい。私の言うことを信じられなくても、私のすることは信じてほしいです。私と親の関係を信じてもらえなくても、私がこれからする行動は信じてほしい」
やっぱり、この子の言い回しはわかりづらい。頭でっかちというか、理屈っぽいというか。
もう少し噛み砕いて話せないものだろうか。
言いくるめられる感じになるのは、あんまり好きではない。
俺はさっき常盤さんから受け取ったビニール袋を、すぐそこの台所の上に置いた。
ビニールの細い取っ手が指の節に食い込んで痛かったからだ。
そうして一旦常盤さんから視線を外したのちに口を開く。
「別に常盤さんを信じてなかったことなんてないよ」
「そう……ですか?」
「うん。余計なことしてくれるなーと思ったことはあっても信じてなかったことはない」
「いや……それは……信じてないよりひどいのでは……。……まあ私のせいではありますけど……」
「うん。常盤さんのせいだね、それは」
それでも、そんな常盤さんに頼るしかないんだからしょうがない。
それに、彼女を信じなかったことがないというのは本当だ。
彼女は、それが俺に悪い影響を与えるものであれ、言行が不一致だったことはない。
俺の覚えている範囲では、という限定が入るけど。
常盤さんはある程度素直だしわかりやすい人だと思う。
「……すみません。信じてほしいと言ったのは、私が自分自身を信じられていなかったからだと思います。その……私は自分のしていることが正しいと自分で信じられないし、寧ろ余計なことしてるなって思ってるというか……。だけど、先輩には私と同じ轍を踏んでほしくない。不謹慎かもしれないですけど、人間はいつ死ぬかわかりませんから。いつ限界が来るかなんて、誰にもわかりませんから。その前に願いが叶ったほうが幸せだと思うんです。我儘な願い事でもなんでも、叶ったら嬉しいですもん、絶対。だから……」
常盤さんの掌は固く握りしめられている。
「私は……空気は読めないかもしれないけど、頑張りますから。なんでも、頑張ります。だから、私が頑張ってることが嫌なことだったら遠慮なく言ってほしいです。先輩が嫌なことはすぐやめます。私のしたことで、先輩にご迷惑は絶対に掛けません。全部、私が責任を取りますから。失敗したらぜんぶ私のせいですから。だって私が初めに言い出したことで、全部私が考えたことなんですから。でも、大丈夫です。絶対うまくいきます。私、結構すごいやつなんです。実は。だから、絶対大丈夫です。本当に、絶対、大丈夫です!」
彼女のその言葉に俺は少し納得した。
要するに、常盤さんは負い目を感じているということだろう。俺を京都まで連れていくことに。
確かに一見すると、彼女の一連の行動は大胆で放埓なもののように思われる。
謝罪の後に再度部屋に押し入って突飛なことを言い出すのは十二分に傍迷惑と言えるだろう。
常盤さん自身もそれはそうと認識しているはずだ。
でも、そんなこと、今の俺にとってはどうでも良い。
寧ろ、こんなところで尻込みされるほうがよっぽど迷惑だった。
こんなところまで来てやっぱりやめますなんて、そんな勝手なことを言わないで欲しかったし、それに、見捨てないで欲しかった。
嫌だなんて思ってない。
戻って来て、そして帰ろうと言ってくれたことは、本当に嬉しかった。
やっと前に進めそうなんだから、勝手に居なくなられるのは困る。
だから俺はたぶん、常盤さんの差し伸べてくれた手を離してはいけないのだ。
「信じてるよ。常盤さんのこと。___俺も頑張る」
常盤さんは表情をふわりと和らげて、はいと返事をした。
 




