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二章 19

間島視点です



真っ白な天井を見つめ続けて、遠近感が狂った。

そう認識したのは日が傾き始めて腹の虫が活発になる頃合いだった。


強烈な空腹感が俺を襲った。

最後に食べたのがネカフェのポテトだったから、かれこれ半日は何も食べていない。

何かを作ろうにも食材がないし、買いに行こうにも水瀬さんが見舞いに来るとかで下手に出掛けられない。


俺ははあ、と溜息を吐く。

仮病なんて使わなきゃ良かった。見舞われても全然体調悪くないし。

そもそも水瀬さんが俺の体調を心配するなんて、ちょっとキモい。

あの人が優しいのって最初だけで、一旦雑になるとその後ずっと雑なのに。

まあ、そんな恨み言を言っても仕方ないけど。水瀬さんが夜ご飯になりそうなものでも持ってくるのを祈るしかない。


こんな状況になったのも全てはたった一人のせいだ。

常盤めぐり。

由良ちゃんの代わりに第八特務課に来た女の子。

後輩としては特に不満なんてない子だ。

仕事は真面目にやってくれるし、人当たりも良い。

少なくとも由良ちゃんよりは協調性のある子だと思った。

『血の特異性』への適性はそこそこだけど、別に戦えないわけじゃない。

普通の後輩の域を出ない、本当に普通の子だった。


でも、ここ最近の行動は目に余る。

人の過去にああもずけずけと踏み込むなんてどうかしている。

妙な正義感と偽善であそこまで無神経なことを言える、その精神性を疑う。

あの子のせいで今日一日の俺は使い物にならなかった。

お母さんのことを、お父さんのことを思い出してしまった。


……結局いつかは向き合わねばならない事実だとわかっている。

だけど、あんな何も知らない奴がきっかけなんて納得がいかない。

なにが自由だ。なにがお母さんなんて切り捨てて良いだ。

そんなわけないだろ。そんなこと、して良いはずがない。

全部俺のせいでこうなったんだから。

……それに、できるならとっくの昔に捨ててる。

捨ててどうにかなるなら捨ててるし、そう簡単に捨てられるほど酷いだけの人だったら俺だってこんなにお母さんのことで悩んでない。


本当に、なんで常盤さんにあんなことを言われなきゃいけないんだ。

俺は頑張ってるんだよ。ちゃんと、どうにかしようとしてるんだ。

お母さんが幸せになれる道を、ずっと探し続けているじゃないか、俺は。


……それで何かが変わったってわけじゃないけど。

いつまで続くんだろう。この一人相撲は。

わかってる。本当は俺がただ逃げてるだけだってことは。

何もしていないわけじゃないけど、決定的な解決策も避けている。

本当はお母さんと会って、ちゃんとお母さんと話し合うべきだ。できるならあの変な泥団子を崇めるのはやめて欲しいし、昔みたいに一緒に暮らしたい。


帰って、お母さんと話して、それが俺のすべきことだってわかってる。

だけど、帰ったところで絶対に状況が好転する確証なんてない。

寧ろ今より悪化する可能性だって多分にある。

俺の力だけでどうにかなると、そう思えるだけの自信はない。

だってこれまでも俺は何も出来なかった。


もういっそのこと、魔法か何かでどうにかなって欲しい。

神様でも仏様でも、助けてくれるならなんでも良い。

この状況をどうにかして欲しかった。

それか、どうにかするだけの力を俺にくれたらそれでも良い。


……結局、困った時に行き着くのは神様とかそんなものなんだな。

これじゃあ俺にお母さんに会いに行く資格なんてない。


俺は左手を額の上に乗っけた。

余り視界に情報を入れたくなかった。


ちょうどその時、ぴんぽーんという呼び鈴が鳴った。

ああ、水瀬さんか。忘れてた。

なるべく体調悪そうにしてないと嫌味言われそう。

まあちょうどお腹空いてて微妙に元気ないし、誤魔化せるでしょ。


そう思って、俺は何気なく玄関の扉を開いた。


「___あ……先輩……」


扉の先に居たのは常盤さんだった。

俺は反射的に扉を閉めていた。


なんで常盤さんが居るんだ。水瀬さんは?

いや、冷静に考えたら水瀬さんが謀ったんだろう。

俺と常盤さんを仲直りさせようとして、みたいな。

あの人、余計なことするなあ。

前々から思ってたけど、水瀬さんは常盤さんにちょっと甘い。もし喧嘩したのが俺と流亥とかだったら、水瀬さんだってこんな余計な気は回さなかったはずだ。

まあ野郎より後輩女子に優しくするってのは、気持ちとしてはわからんではないけど。

でも、そういう意図が透けて見えるのもちょっとキモい。


じゃない。どうしよう。

常盤さんが来るとは思ってなかった。かなり気不味い。

昨日結構酷いこと言っちゃったし。


「あの……先輩、すみません。こんな不意打ちみたいな真似をしてしまって。その……謝罪をさせていただきたいなと、思ってまして……。あっ……えっと……すみません、こんな勝手な……」


扉の向こうからくぐもった女声が聞こえる。

しどろもどろなその言葉選びは、こちらとの距離感を掴み損ねているが故のものだろう。


別に俺が彼女の謝罪をバカ真面目に受け取る義理なんてない。

でも彼女も水瀬さんに騙された同士なのだと思えば、そうまで邪険にするのも躊躇われた。


だから俺はそっと扉を開ける。


「あ……」

「水瀬さんは?」

「み、水瀬さんはお兄さん?に呼ばれたとかで……私が代わりに行ってこいと……」

「あー、なるほどね。身内が職場に居るのって意外と便利だな。良い言い訳の理由になる」

「いっ、いえ、言い訳では……」

「別に誤魔化さなくて良いよ。水瀬さんの考えそうなことだし。それで?謝罪だっけ?今更?」

「す、すみません……」


そんな怯えたような顔をされても困る。俺が悪いみたいじゃないか。

悪いのは全部常盤さんだろう。俺は何もしていない。


「本当にすみませんでした。私、何もわかってなかったです。それなのに首を突っ込むような真似をしてすみませんでした。無神経なことを言ってしまいました。謝罪してし切れるものではないとわかっています。でも、すみませんでした」


そう言って常盤さんは腰を折った。

それに合わせて彼女の手に提げられたビニール袋ががしゃりと音を立てる。


十二分に殊勝な謝罪だったと言えよう。

これ以上は求める側が悪になってしまうほどに正しい謝罪だ。

でも、そんな正しさなんて俺は知らない。

俺は常盤さんを許せはしない。


「ほんとに常盤さん、何も知らないのによく勝手なこと言えるね」

「す、すみません」

「なんにもわかってないくせに」

「すみませんでした。本当に反省してます」

「上辺だけの正義感で口出さないでよ。どうせ何もできないんだから」

「すみませんでした。身勝手なことをしてしまい、申し訳ございません」


常盤さんは謝罪の言葉を述べて、ずっと頭を下げ続けていた。

お手本のような謝り方だ。社会人としてこの上なく正しい謝り方だ。

いっそこちらを苛つかせたいのかと思うほどに。


常盤さんに俺の気持ちなんてわかるわけがないと思った。

いつかの昼時に常盤さんは話していた。俺に向かってじゃない。流亥と神楽と、弁当を食べていた時の会話が聞こえていた。

彼女は自分の家族のことを笑顔で話していた。

俺にはそんなことできない。父のことも母のことも、できるなら誰にも話したくないし、知られたいとすら思わない。

自分が狂わせてしまった家族を、誰にも知られたくなかった。


「……それで、常盤さんはどこまで知ってるんだっけ。どこまで聞いたの。あの二人から」

「それは……」


常盤さんはこちらの表情をちらりと伺ってから姿勢を元に戻した。


「一応、大まかな流れは全部。その……お母様の怪我のこととか、ご両親が離婚なさったこととか……。今日の昼に水瀬さんと三保さんが話してくださって……」


要するに、俺の知られたくないことは全部常盤さんに知られてしまったということらしい。

あの二人もよくペラペラと……いや、ここまで来たら無理やり隠す方が余計な手間を生みそうだ。

きっと二人もそういう判断のもと彼女に全てを話したのだろう。


それでも、そうと分かっていても、なんで話したんだと思わざるを得ない。

こんな普通の、幸せな家族の形しか知らないような子にそんなことを知られるのは、とても恥ずかしかったしなんだか悔しかった。

憐れまれるのも蔑まれるのも同情されるのも、本当に勘弁だと思った。


「そのことは……偶々なんだよ。わざとじゃない。それに俺は、ちゃんと、色々、やってたし。お母さんのために」


何を言っているんだ俺は、と思った。

何を口走っているんだ、と思った。

常盤さんも少し呆気に取られている。


変なことを言ったと認識してすぐに俺はごめん、と呟いた。


「ごめん。変なこと言った」

「あ……いえ。変なことではないと思います。実際、先輩が悪いことなんて何もないんですから……」

「いや、それは違う。俺が悪いんだよ」


常盤さんが困惑した顔をする。

当たり前だ。自分でも支離滅裂な発言であることは理解していた。


もう……頭がぐちゃぐちゃだ。

自分が何を言いたいのかとか、何を言ったら良いのかとか、何が正しくて誰が悪かったのか、全部わからない。

今話しているのは俺の家族のことで、もうずっと十年以上も考えてきたことなのに。


「あの……」


常盤さんが眉根を寄せて困惑を少し残したまま、控えめに声を上げた。

俺は反射的に下を向いていた顔を跳ね上げる。


「すみません。誰が悪いとか悪くないとか、私に言えることじゃなかったです。部外者がちょっと話を聞いたくらいでわかることじゃない、ですよね。すみません」

「……ほんとだよ」


でも、本当のところはどうなんだろう。

彼女にわからなくて俺にだけわかるなんてそんなものが、この話に存在しているのか。

何も知らない彼女のほうが、よっぽど冷静に状況を見られているんじゃないのか。


彼女の言う通りにするのがきっと一番現実的で、地に足の着いた考え方で、そしてなにより理想的だということはちょっとだけ理解していた。

常盤めぐりみたいな正常な家族の形の中で育ってきた人間の言うことだから、だからきっと彼女の言う通りにするのが普通で、正しいのだと思った。

彼女は俺よりよっぽどまともな家族の在り方を知っているはずで、俺はそんな彼女に到底及びようがないのだから。

彼女が先日言ったことは、確かに配慮に欠ける失礼な発言ではあったけど、それはそれとして圧倒的に正しい発言でもあったのだ。


じゃあ、俺はやっぱり、お母さんを突き放すべきなんだろうか。そんなことが果たして俺にできるのか。でも、俺はお母さんと会って話すべきなんじゃなかったっけ?

……ああ、もう、本当に俺は馬鹿だ。俺はなんにもわかっちゃいない。


「___先輩、大丈夫ですか?」


常盤さんがやにわにそう言った。

目の前の彼女は心配そうに眉を顰めてこちらをのぞき込んでいる。

確かに会話には不自然な間が開いていた。彼女はきっとそれを不審に思ったのだろう。


大丈夫じゃなかった。全然、大丈夫じゃなかった。

でも、それを常盤さんに言ったってどうしようもない。

結局のところ常盤さんはどこまで行っても他人で、こんな七面倒な話に好き好んで首を突っ込むほど彼女も暇じゃないだろう。

ここまでは好奇心とか野次馬根性とかで来られたとしても、これからはそうじゃない。


「大丈夫だよ」

「本当にですか?」

「本当」

「……そうですか。あの、今日私が伺ったのは謝罪のためもあるんですが、これをお渡しするためでもあって……」


そう言って常盤さんは手に持っていたビニール袋をこちらへ突き出した。

その袋は許容量を超えて中身が詰め込まれており、でこぼこに形を変えている。袋の口からは菓子パンとか惣菜とかペットボトルとかが見え隠れしていた。


「お詫びの品です、これは。それから、お見舞いの品とお中元もセットです。だからいっぱい買ってきたんです。あ、いや、このお水とジュースは水瀬さんと三保さんからのものなんですけど……。あの、要するに、これ食べて元気出してください!」


なんだそれ、と思った。

配慮があるのかないのか、よくわからない発言だ。

それに、常盤さんがそれを言うのかとも思った。

元気を出せと、君が言うのかと思った。


「……誰のせいで元気ないと思ってるの」

「あ、す、すみません私のせいです。本当にすみません」

「取り敢えず謝れば良いと思ってるでしょ」

「お、思ってないです。すみませ……じゃなくて、えっと……」


常盤さんは視線を落として言葉を探す。


難儀な性質を持った子だなと思った。正面からぶつかるという方法しか知らないのか、彼女は。

別に適当な返事でもしてさっさと立ち去ればいいものを。

それか、もしくは彼女みたいな人間のほうが普通で、俺みたいなのが特別醜いだけなのかもしれないけど。


俺はわざとらしくはあ、とため息をついて見せた。


「もういいよ。ずっと謝られっぱなしっていうのも疲れるし」

「あ……そ、そうですよね。そこまで気が回っていなくて……すみません」

「謝るの好きなの?いい加減うざいんだけど」

「い、いえ、好きなわけでは……。ただ……その、ほかにどう言ったら良いのかわからないというか……いや、謝罪が嘘だったというわけじゃないんですが……」


この子はよく理屈を捏ねくるような言い回しをする。

彼女は今でこそ第八特務課なんていう辺鄙な部署に籍を置いているが、正真正銘キャリアのエリートさんなわけで、そういう節回しは彼女のそんな特質を表しているのかもしれない。


恵まれた人間だ。彼女は。

才能に、愛に、環境に、すべてに恵まれた人だ。

そしてその恵みを余すことなく享受して、その上で努力を欠かさなかった人なのだろう。

そういう健全で、いかにも正しいという生き方は俺が一番憧れている生き方と言っても過言ではない。

どうしたら彼女みたいに生きられたんだろう。俺にもっと才能があって、それか俺がもっと努力を重ねられる人間だったとしたら、もしかしたら俺だって今こんな風にはなっていなかったのかもしれない。


そういう可能性を見せつけられるのは息苦しかった。

彼女は確かに恵まれた人間ではあるけど、何らの不自由もないほど豊かなものを持っている人間でもなかった。

彼女はいわゆる普通の人の域を出なくて、例えば水瀬さんとか流亥とかみたいに金銭的、物的に突出して裕福なわけではないし、三保さんみたいに非常な才能を持っているわけでもないし、神楽みたいに特殊な背景をもっているわけでもない。

それでも彼女は恵まれていたし、幸せな人生を歩んでいた。

特別豊かでないのは俺だって同じだ。だとしたら、俺と彼女の現在を隔てるものはこれまで積み重ねてきたものの違いでしかない。


「謝罪の気持ちは本当です。私は間違ったことを言いました。失礼なことを言いました。本当に申し訳なかったと思っています。私はこれ以上先輩にご迷惑をおかけしたくはありません。今日はそのことをお伝えしたかったんです。私の勝手な話を聞いてくださってありがとうございます。夜分遅くにすみませんでした。これは……お口に合わないものもあるかもしれませんが、すべて差し上げますので。長々と失礼しました。それでは私はこれで……」

「あのさ、」


常盤さんが話を切り上げにかかったのは、俺が露骨に彼女を睨んでいたからだと思う。

それは別に、意図してやっていたわけではなかったんだけど。


「常盤さんって帰省とかするの?」

「え……き、帰省ですか……?」


常盤さんは非常に困惑した顔をする。

まあ、そりゃ驚くだろうな。脈絡がなさすぎる。


「いえ……その……どうでしょう。まだ何も決めてなくて……。正直あんまり帰る気はないんですけど……」

「帰らないの?」

「え……はい。帰らないと思います。多分。……帰ってもどうしようもないですし……」


常盤さんでもそんなことあるんだ、と思った。

常盤さんみたいな人でもお盆に帰省しないなんてことがあるんだ、と思った。

まあ、彼女にもいろいろな事情があるのはわかるけど。特に彼女は今年新社会人なわけで、帰省の時間を捻出するのが難しかったというのはそう想像に難い理由ではない。

俺は、ほんの少しだけ、ほっとした。


「あの……それが何か……」

「別になんでも良いでしょ。常盤さんには関係ない」

「あ……はい、そうですね。すみません」

「帰省って普通夏にするものなの?それとも正月?」

「えっ、どっ、どうでしょう。大学生の頃は両方で帰ってましたけど……。でも社会人になるとお盆も結構忙しいので……私の友達も正月だけって子が多いですかね……」

「ふーん。何日くらい?」

「ええっと……お盆だったら三泊とか……。正月は一週間くらいずっといることもありましたけど……」

「そーなんだ」


半開きになった扉からあるかないかの風が吹き込んでくる。

今日は明け方に小雨が降っていて、いつにもましてじっとりとした暑さだったからほんの少しの風でも心地が良い。

もう少しだけこのままでも良いかな、と思った。


目の前の常盤さんは困惑の表情から解放されて、でも今度は苦しそうな表情をし始めた。

常盤さんの考えていることはよくわからない。俺ならともかく、彼女がそんな表情をする必要なんてどこにあるんだろう。


「……思い立ったが吉日というのは、結構的を射ている言葉だと思います、私は。そのくらい勢いのある時じゃないと、人間は動きだせないと思うんです」


常盤さんは右手を顎に添えて慎重に言葉を選び出していた。

やっぱり、彼女のことはよくわからない。急に何を言い出すんだ、この子は。

まあ、今日は俺も突飛なことを言い出すことがあったからお互い様かもしれない。

それにしたって真意の見えない発言だが。


「なんの話?」

「私の話です。私はそれを逃したんです。私の人生の、一番の心残りを訊かれたら私はそれだと答えます」

「本当によくわかんないんだけど、常盤さんは何が言いたいの?」

「親に会いたいと思ったらすぐにでも会いに行くべきだってことを、私は言いたいんです」


馬鹿だ、この子。

勉強ができることと馬鹿なことは矛盾しない。そういう意味で、この子は真に馬鹿だった。

これじゃあさっきの謝罪がなんのためのものか分かったものじゃないじゃないか。

俺のことに勝手に口出ししないと、さっきの謝罪はそういうことを言っていたんじゃなかったのか?


俺は非難するような視線を常盤さんに向ける。

しかしそんな俺に気が付かないほど、彼女の瞳はもっと遠くを見ているようだった。


「私が両親にとって良い子供じゃなかったことは、私が一番よくわかってます。迷惑ばかりをかけて、殆ど何も返せていないと、本当によく理解しているんです。家族だから良かったけど、他人だったら縁を切られていても仕方ないくらい愚かなことしかしていなかったと、それも本当にわかっているんです。でも、それでも、あの時帰っていれば良かったと思います。帰ってもまた喧嘩をして、お互い嫌な気持ちになって終わるだけかもしれません。人はそう簡単に変われないっていうのは、何十年も生きていればいやでも理解します。帰って、両親と会って、そうしたら何もかもがハッピーエンドなんて、そんな風にはきっとならなかったと思います。だけど、死んだら会えないんですよ。本当に、二度と、会えないんです。だから、仕事とか迷惑とか時間とかお金とか、そんなものよりもまず先に、会いたいと思ったその気持ちを大切にして欲しいんです。それが少なくとも、昔の私のすべきことだったと、そう、思うんです……」


常盤さんの声量はしりすぼみに小さくなっていった。


この子の言っていることは、冷静に考えたら嘘でしかない。うわべだけの、薄っぺらな同情でしかない。

それくらい意味不明な発言だった。

今の常盤さんの口ぶりだと、まるで彼女が俺と似たような境遇にいたみたいな、そんなふうに聞こえる。


でもそんなのは嘘だ。

だって、常盤さんはあんなに家族のことを楽しげに話していたじゃないか。

仕事に就いたのは家族のためで、家族のために自分は頑張っているのだと、そう幸せそうに話していたじゃないか。

そんな彼女に俺の気持ちがわかるはずはないし、さっきの言葉だって中身の伴ったものではありえない。

それが正しいものの見方なはずだ。それが現実的な考え方のはずだ。

常盤さんは俺を操るために都合の良い嘘をついている。

そう考えるのが一番道理の通った考え方だ。


しかしそうすぐに嘘だ虚構だと断定してしまえるほど、今の言葉は軽いものじゃなかった。

共感だとか斟酌だとか、そんなものではない。実感よりもっと重い何かが、彼女の言葉にはあった。


「先輩は、お母様に会いたいですか」


常盤さんはほんの少し肩で息をしつつ、そう俺に尋ねた。

彼女の瞳はやや放心気味で、そう深い思慮のもとに発せられたのではないのだろうと思われた。

でもそれは、どんな計画性のある質問よりたちが悪い。


お母さんに会いたいか、なんて答えのわかりきった質問だ。会いたいに決まってる。

でも、たぶん、俺が会いたいと思っているのは俺が好きな部分だけを持ったお母さんだ。

あんな泥団子なんか信じていなくて、俺のことをちゃんと見てくれるお母さんだけを、俺はたぶん求めている。

ずるい答えだ。自分の責任のすべてから逃げた、卑怯な答えだ。

だから、俺の答えは一つに決まる。

俺はお母さんに会いたい。だけど、それと同じくらい、


「会いたくない」


俺のそんな答えを聞いた常盤さんはあらんかぎりに目を見開いて、それからさあっとその顔を青褪めさせる。


「あ……す……すみません……。私……あの……違うんです……」


人間、勢いがないと動けないものだという彼女の言葉には同意しよう。

それは紛うことなく本当にそうだ。冷静に損得だの利益だのを考えていてはがんじがらめだから。

常盤さんを動かしたのもきっとそういう衝動的なものだったのだろう。

だから彼女はさっきみたいな無謀にも思える発言が、いとも簡単にできたのだ。


人間を動かすのがその手の衝動なのなら、俺はもう手遅れだ。

そんなものは十年も昔に置いてきてしまった。時間が経ちすぎてしまった。

なりふり構わず、会いたいという一心だけで動ける時間なんて、とうの昔に過ぎ去った。

俺を動かすものは、俺の内部には既にない。そうであるなら、そうであるなら___


「すみません……今のは……間違えました、私、また……。……ごめん、なさい……」


助けてほしい。

もう、本当に、どうしたら良いかわからないんだ。

それに、俺にはどうにかするだけの勇気もない。

今彼女に、ほんとはお母さんに会いたいんだって言ったら変わるんだろうか。

何かが変わって、それで俺も幸せになれたりするんだろうか。

俺も、お母さんも、お父さんも、元通りになれたりするんだろうか。

いや、流石にそれは都合の良すぎる考え方か。でも、そこまでにならなくても、なんなら何も解決しなくたって良い。


「あの……本当にすみませんでした……。私……もう、行きます。失礼しました。……ごめんなさい」


常盤さんは俺から顔を背けて脱兎のごとく駆け出そうとした。

しかし俺が咄嗟に彼女の持ったビニール袋の端を掴んだから、必然その足も止まった。

常盤さんは俺を振り返る。


「せん……ぱい……?」

「これ、俺にくれるんじゃなかったの?」


一歩踏み出す勇気が欲しい。

そのほんの少しの勇気を、常盤さんがどうにかしてくれないかな。

会いたいよ、俺も。お母さんに会いたい。


でも、それを常盤さんに言うわけにはいかない。

常盤さんをこれ以上巻き込むのは、互いにとって良くないからだ。

だって常盤さんは普通に他人だし。それに彼女は、水瀬さんとか三保さんとかと違ってローレルや赤薔会と特別強いつながりがある人なわけでもない。


それでも、もし誰かがそんな勇気をくれたら俺みたいなやつでも変われるのかもしれない。

あまりにも薄い可能性だし、他力本願過ぎる考え方だけど、少しくらい奇跡を信じてみたい気持ちもある。

都合の良い何かが、いつの日か俺の身に、幸運にも訪れたりしてくれないかな。

自分で言うのもなんだけど、もう充分苦しんだよ。もう充分、これまででも辛かった。

だからもうそろそろ、幸運の女神さまが微笑んでくれたって良い頃合いなんじゃないかと思うんだけど。


「あ……そうでした。すみません。忘れてました」


常盤さんは慌てたようにビニール袋の取っ手を自身の手首から外す。そしてその袋を俺の体に近付けた。


彼女はこのまま帰ってしまうんだろうか。

そりゃあずっとここに居られても困るんだけど、そうじゃなくて……いや、それは身勝手が過ぎるか。

このまま常盤さんに、この状況をどうにかしてほしいなんて。


俺が帰りたいと、会いたいと、さっきそう素直に言っていれば良かったのだ。

その一言さえ口にしていれば、きっと彼女は快く俺に手を貸してくれていたはずだ。

こんなだから、結局俺は変わらない。こんなだから、今の今まで上手くいった試しなんてなかった。

ただの一度だって、俺が何かを変えられたことなんてなかった。今回もそうだ。

だから、最初から素直に誰かに頼っておくべきだったのだ。俺の周りはそんなに薄情な人たちばかりではない。

俺がそう気が付くのはいつだって一拍遅れた後だ。もっと早くに言っておけば良かったと、俺はいつだって少し後になって後悔する。

悪い癖だとわかっている。でもそれを直せていたなら俺は今、こんなところに居はしない。


俺は常盤さんの手からビニール袋を受け取った。

常盤さんは手から袋の重みが消えたのを確認して、後ろに一歩足を踏み出す。


「それじゃあ、本当に失礼しました」


常盤さんはぺこりと軽く頭を下げながら、薄汚れた金属扉をゆっくりと閉める。


俺は、間違えたんだ。どうせ一人じゃ何もできないって、わかっていたのに。

助けてほしいと、たったそれだけを言うだけだった。

自分が変わらなきゃ周りも変わってくれないなんて、ごく当たり前の事実だ。

変わらない選択肢を選んだのは、結局、自分自身だった。


がちゃん、と重い音がして扉が閉じる。

ほんの少しの静寂があって、俺は溜息を吐いた。

夜ご飯、食べなきゃ。

そう思って玄関の鍵を閉めようと軽く膝を屈ませる。


ちょうど、そんな時だった。

ドアノブが回って再び扉が開いたのは。

開かれた扉の先に居たのは、当然のことながら常盤さんだ。


「いつが良いですか?」

「…………は?」

「帰省、いつが良いですか?」


彼女はそう言いながら、玄関にぐいっと押し入って俺の瞳を覗き込んだ。


「帰りましょう。京都。お母様のところに。会えたら絶対、嬉しいですよ」



進学とストックの関係で更新が遅れてしまい申し訳ございません

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