二章 17
その後、レイヤは宣言通りに母親と共に暮らすことになった。
親権は父にあったから苗字が変わることはなくて、レイヤの家の事情はその他大勢に余り知られることなく悪化していった。
そもそも親権が一緒に暮らしている母でなく父にあるというのは、別にそう珍しい話でもないけど、少し歪ではあった。
というのも母には親権を持つだけの能力がないと判断されたのだ。
母は仕事を辞めた。辞めざるを得ない状況だったというのはある。あれだけの傷を負ってそれまでと同じ生活を送れる訳がない。
それに、母の傷は消えなかった。母の顔面は完全には癒えなかった。
薬療だとか手術だとか、できることは全てやった。
それでも、痘痕のような凹凸と色素沈着の黒ずみは消えることがなかった。
それによって、母は精神を病んだ。
元々まともな精神状態をしているとは言い難かったが、それに拍車がかかった形だった。
母は一日の殆どをベッドの上で過ごして、一日中飲んだくれていた。
日に日に顔色は悪くなったが、多分それは見た目だけの問題ではなかった。
その間、レイヤはただただ耐え続けていた。何に耐えていたのか、と訊かれても答えを言い尽くせないほどに色々なことを耐えていた。
お金は父が出してくれていたから衣食住に困ることだけはなかったが、逆に言えばそれ以外は到底文化的な生活とは言い難いものだった。
最初の頃は週に一度ほど、父の雇った家政婦が家に訪れて諸々の家事をやってくれていた。
しかしそれも長くは続かなかった。
母は外部の人間が家に入り込むのを嫌った。母は家政婦と顔を合わせると専ら彼女らを怒鳴り飛ばした。
いつの間にか家政婦は来なくなっていた。
だから、家事の殆どをレイヤがやるようになっていた。掃除や洗濯は勿論、料理もやった。
料理を母の元に届けに行くとレイヤは決まって罵倒された。お前のせいだ、とか、どっか行け、とか。
その中でも一番レイヤを悲しませたのは、母の「大っ嫌い」という言葉だった。
しょうがないことだとは分かっていた。
母から嫌われるのは至極当然のことだと、分かってはいた。
でも母親に、大好きな人にそれを言われるのは悲しかった。どうしようもなく、悲しかった。
そんな堅忍の時を経て、レイヤは小学校を卒業した。
レイヤはこの時自分の弱齢を呪った。早く大人になりたいと、そう強く思った。
レイヤが中学に入る頃には母もよく外出するようになっていた。
しかしそれは状況の好転を兆している訳ではなかった。
母の外出はその殆どが一日の内に十数本を消費する酒のためであった。
レイヤの作った食事には手を付けず麦酒と清酒とで胃を膨れさせていた。
母の悲嘆と惑乱はとどまるところを知らなかった。
精神科にかかることもあったが、母はそれを嫌がった。母が自分から動くのは酒を買いに行く時だけだったから。
それ以外は動けなくて、レイヤが無理矢理に引っ張っても効果は薄かった。
アルコールの気怠さを誘う匂いが充満した薄暗い部屋に四六時中居れば、母でなくとも気が滅入る。
だから、こんな惨状がずっと続くと、レイヤには自然とそう思われた。
しかし、それは誤った推測だった。
状況は変わった。突然、レイヤの預かり知らぬところで変わった。
ゴールデンウィークに差し掛からんとする、春の陽気が夏の暑さに移ろう準備をする、そんな時期のことだった。
レイヤが家に帰ると母が居なかった。それは珍しいことだった。
しかし、母の出先といったら専ら最寄りのコンビニだったからレイヤも最初は心配していなかった。
でも、母は彼の帰宅から三十分経っても一時間経っても戻ってこない。日没の時間にまでなるとレイヤの頭には色々な憶測が飛び交っていた。
今の母は何をしでかすか分からない。人の迷惑になることでも法に禁じられていることでも、今の母ならば何をしたっておかしくない。もしかしたら事故にでも遭っているのかもしれない。それか、希死念慮に駆られてどこかで……。
レイヤは学校指定の靴を引っ掛けて慌てて家を出た。
しかし、玄関を飛び出した先でレイヤの心配は全て杞憂に終わった。
鋼鉄の門に手を掛ける母が、そこに居たからだった。
お母さん、とレイヤは涙声で呟いた。
そんなレイヤを見て、母は驚いたように目を瞠る。
そして、彼女はゆったりと、微笑んだ。
微笑んだのだ。母が。
「早いね」
「……お母さんが遅いんや」
「そう?」
母はそう言ってくすくすと肩を揺らした。
レイヤにはその光景が嘘のように見えた。
だって、少なくとも二年は母の笑顔なんて見ていなかった。
なんで急に、とレイヤは思った。
でも、理由なんてなんでも良かった。またお母さんと一緒に笑って暮らせるんだ、という安堵の方が勝っていた。
自分のこれまでは無駄じゃなかったんだ、とそう思った。
しかし母の笑顔ですらまともな吉祥にはならなかった。
母の笑顔には理由があった。そしてそれは、この家に更なる混沌を齎すような理由だった。
母に笑顔を与えたのは神だった。神は泥団子だった。
それはまろい光を帯びた艶めかしい黒玉だった。
ちょうど保育園とか低学年の頃とかに作っていた泥団子みたいなものが恭しく、紫地に金の糸で刺繍された小さな座布団の上に鎮座していた。
そして、それを前に大の大人が何人も両手を擦り合わせて祈っていた。
レイヤは馬鹿げた光景だなと思った。
確かにあんな綺麗な泥団子を作れたら小学校のークラスの中で神にはなれるだろう。きっと、それくらいの価値しかあの黒玉には宿っていない。
それをちゃんとした大人がこうまで信奉するなんて、本当に馬鹿げていると思った。
そしてそんな大人の中に母が混じっているんだから、堪ったものじゃなかった。
憲法記念日はレイヤが初めて神を見た日となった。
そして母の信じる宗教の、神殿だとかいう場所に初めて足を踏み入れた日となった。
母の笑顔はこれが原因だった。この、怪しげを通り越して不快感そのものとなった妄想集団こそが原因だった。
母はレイヤの知らぬうちにカルト宗教に傾倒していた。
みどりの日には御水身とかいう教団の幹部が家を訪れた。
母はかつて家政婦を家から追い出したことがあったけど、今度はレイヤがこの不埒者を締め出してやりたい気分だった。
実際母が居なかったら平気でそうしていた。しかし、母はずっと家に居るのだ。
幹部は客間のソファに腰掛けるとすぐに教祖様の素晴らしさについて語り始めた。
天地開闢が云々、穢れた世が云々、世界平和が云々。非常に、この上なく、煩かった。
この不届き者は更に言葉を重ねてこう言った。
御神体である黒珠玉を毎日拝めば身も心も清められ俗世の穢れから癒やされるのです、と。
レイヤは思わず叫びそうになった。
母は、自分より、父より、こんなものを信じたのかと。こんな馬鹿な、どうせその先に金しか見えていないような、そんなものを信じたのかと。
吐きそうだった。吐いてしまいそうだった。どうせならそのまま吐いて、このペテン師にかけてやれば良かった。
幹部はそんなレイヤの気持ちも知らず、いそいそと自身の鞄の中から数珠を取り出した。
曰く、黒珠玉の分霊が宿るものらしい。
これを使って毎朝夕、神殿のある方角に向かって祈れと幹部は言った。
一つ数万円、着ける数を増やすほど霊験は増す。
お手本のような霊感商法だった。
ふざけるなよ、とレイヤは思った。
弱っている母の心に漬け込んで弄ぶ、最低な行いだと思った。
止めねばならない。自分が止めなければ駄目だ。
今の母はまともな判断力を有していない。それは仕方のないことだ。自分が傷付けた、その結果だから。
だから、自分が止めねばならない。母を、守らねばならない。
レイヤは財布を取り出そうとする母の腕を引いて、その動きを止めようとした。
母はレイヤを見てどうしたの?と首を傾げる。
レイヤは今日はやめとこ、と言った。
その場しのぎではあったけど、下手に幹部を刺激すべきじゃないとも思った。
そう言ったレイヤを見て、母はふふっと微笑んだ。
「レイヤはまだわかってないだけだよ。本当にね、凄いんだから。インファ様は昔ご自宅が火事になって財産も家族も全て失くしてしまわれて、でも黒珠玉の恩恵で数々の分野で成功なさっているのよ。ご本人も酷い火傷を負ったそうなのだけど今では完治して素晴らしい活躍をなさっているの。だから、大丈夫なのよ。私も、大丈夫なのよ。ね?それに皆さん優しい方であたしあそこにいると安心するのよ。ずっと不安だったものがすうっとなくなっていくみたいなの。あたしそんなの初めてだわ」
母は饒舌にそう言った。
それで分かったのは、本当に自分のやってきたことなんてなんの意味もなかったんだなってことだった。
自分のやってきたことは全部母には届いていなかったし、こんな得体の知れない悍ましい何かに取って代わられるほど呆気ないものだったんだってことだった。
もう、反論する気も起きなかった。何を言ったって自分の言葉は母に届きようがないと、そう思ってしまったから。
興が乗ったのか、母は熱っぽい瞳で更に言葉を重ねる。
レイヤを説得するというよりは陶酔に近い雰囲気だった。
そんな母の言うことは確かに日本語で語られていたけど、異世界の論理すぎて全然理解できなかった。
いっそ、そのまま理解を放棄してしまえば良かった。そうして耳を塞いでしまえば良かった。
母はレイヤの手を取って、その甲を愛おしそうにさすった。
こんなに優しく触れられるのは久し振りだった。
「そしたらきっと、レイヤも楽になるからね。レイヤの変な血も、全部治っちゃうから。ごめんね、こんな風に産んじゃって。あたし、一生懸命お祈りするから」
は、とレイヤは息を吐いた。色んな感情が渦巻いて、抱えきれなくなって飛び出した息だ。
もう、なんだかよく分からなかった。
なんでこうなったのか、どうしてこうならなきゃいけなかったのか、誰が悪くて、自分はどう思っていて、どうしなきゃいけなくて、それで、なんになるのか、全部よく分からなかった。
でも、目の前の母は楽しそうに笑っていて、だったらそれで良いのかも知れないと思った。
だって母が笑って嬉しいという気持ちは、その想いだけは、こんな状況でも本当だと、そう言い切ることができたから。
だからレイヤは受け入れた。母の信ずるものを受け入れた。そうするしかなかった。
その日から、確かにレイヤの生活は変わった。
家中に溢れていたアルコールの匂いはなくなって、母ともよく出掛けるようになった。
母は笑顔でいることが増えたし、レイヤの作った料理も食べてくれるようになった。
家にはあの泥団子に似た玉がそこかしこにあった。
数珠と、それと同じような玉が連なったネックレスが大量にあった。
湧聖水なる水の入ったペットボトルが山のように積まれていた。
朝は日も昇らないうちから叩き起こされてお祈りをした。
夕方になると友達と遊ぶでもなくお祈りした。
テレビを見てはいけなかった。漫画を読んではいけなかった。会報誌とインファ様とかいう人が出した本こそが、うちでは正義だった。
休日は神殿に行ってお祈りした。なんだかよく分からない偉い人の長ったらしい話を聞くこともあった。
母と喧嘩をしたら、殴られた。今まで暴言を吐かれたことはあっても手を出されたことはなかったのに。
ある日、レイヤは父と会って話をした。
現状報告のためだ。一応、親権は父にある。父には監督責任があるのだ。
それまでも父とは会っていた。
大体三ヶ月に一度、旧暦の季節の変わり目の時期に会っていた。
しかし、今回は殆ど一年ぶりだった。
レイヤは学校があるし父は仕事があるから会うのは休日でなければいけないのだけど、最近はその休日が神殿への参拝のために潰れていた。
久しぶりに見る父は心なしかやつれていた。
父はなんだか怒っているようで、だけど、レイヤはそんな父を見て酷く安心していた。
教団の、話の通じない大人と話すのはうんざりだった。
父はそれと対極にある人間だとわかっていたから、だから安心した。
鴨川沿いの、京都御苑の近くにある喫茶店で二人は向かいあっていた。
レイヤはコーヒーフレッシュの容器をいじくりながら、手元をじっと見つめる。
ぱちん、と音が鳴って容器の蓋が開いた。
「戻って……きてや……お願いやから……」
レイヤの口から溢れたのはそんな言葉だった。
全部、元通りにしたかった。なんで全て変わっていってしまうんだろうと思った。
体重をかける位置が変わって机が少し揺れた。
アイスコーヒーの水面がたぷんと跳ねて、その飛沫はすぐに消えてしまった。
レイヤのその言葉に、怒ったような顔をしていた父は心配そうな表情へと変わった。
「何があってん。休日に家行っても誰もおらんし、連絡もつかん」
「それ……は……」
レイヤは素直に現状を話した。
レイヤの話を聞いた父は再びその顔色を怒気一色に染め、憤慨を露わにした。
「だから言うたやろ。レイヤはやっぱりうちに来た方が良い。無理してあいつと一緒におる必要はないんやで」
父の言葉にレイヤは緩やかに首を振った。
もう何かを変えるのは嫌だった。変えるなら元通りにしたかった。だから、父には戻ってきて欲しかった。
それに母とは離れたくない。あの教団の雰囲気の中に居るのは吐き気を催すほどに嫌だったけど、母と離れるのはもっと嫌だった。
漸く笑えるようになったんだ、母は。まだそのくらいにしか元通りじゃない。
自分が傷付けて、壊してしまった分は自分がどうにかしないと。
元通りになったら、大丈夫になったら、きっと母もあんな泥団子より自分を信じてくれるはずだ。
「お父さんが戻ってきてや。俺はお母さんと待ってるから。ずっと待ってるから」
「俺はお母さんとは……杏奈とはもう暮らす気はない。レイヤには幸せになって欲しいけど、杏奈は別や」
「なんでそんなこと言うん。お母さんはなんも悪くないやん。全部俺が悪いのに」
「レイヤ……。なあ、一緒に暮らそう。ほんまに顔色酷いで。レイヤが無理するとこ、これ以上見てられへんわ」
無理なんてしてない、とは言えなかった。
言っても説得力がないことはわかっていたし、無理をしている自覚はあった。
だけど、無理をしてでもしなきゃいけないことがある。
「俺は三人で一緒に暮らしたい。三人が良い。だから今はお母さんと一緒におらなあかん」
そう言ってレイヤは父を拒絶した。
だから、毎日は変わらなかった。
教団の嘘くさい、いや嘘そのものの教えに縛られる日々は続いた。
レイヤに拒絶されても父は諦めなかったようで、どうやら父は母に宗教をやめるよう説得したみたいだった。
しかしそれは却って逆効果だったと言えよう。
信じるものを否定されて、それで信心を捨てられるほど人間は単純じゃなかった。
寧ろ無闇な否定は更に信仰を強固にする。
家はどんどんと殺風景になっていった。
いや、殺風景というのは適切ではない。
どんどんと不気味な場所になっていった。
必要な家具は殆どないのに、まろく艶めく黒玉やその周りを飾るシダのような葉やお祈りのための装飾品や見た目だけは大層な水や、とにかく変なものだけが増えていった。
まるで、そう、家があの神殿に侵食されているみたいだった。
レイヤが中学二年生の夏休みだった。
両親が離婚してちょうど三年が経っていた。
そんな夏休みのある日、米の貯蔵がなくなったというだけのきっかけで、レイヤは折れた。
夕食を作るために空の米櫃をシンクの下から引き出して、米の購入を忘れたことに気が付いた時、自分はなんのためにあんなに重い米を買いに行かねばならないのだろうと思った。
本当にそれだけだった。
きっかけなんてなんでも良かった。
ほんのちょっと何かが違えば、それは米じゃなくて人参とかキャベツとかになっていたかもしれなかった。
それでも結局は同じ結論に帰着していたのだろうと思う。
余りに何も変わらなかった。だから疲れた。
三年前のあの日から、本当に何も変わらなかった。
表面を粉飾するものは変わっても、問題の根本はいつだって変わらなかった。
母の退廃も父の頑迷固陋も己の償いも結局どうにもならなかった。
レイヤは家を飛び出した。
暗くなった街には思いのほか人がいた。老若男女を問わず色々な人がいた。
街灯と星月の明るさに照らされた町を当てもなく彷徨って、真っ暗な路地に辿り着いた。
そこには自己同一性の発揮の仕方を間違えた、社会のあぶれ者たちがいた。要するにヤンキーってことだ。
彼らはレイヤという余所者を認識するなり、彼に襲いかかった。
レイヤはぼっこぼこにされて、だけれども不思議と悪い気分ではなかった。
ヤンキーたちに抵抗するため、レイヤは彼らを殴り返した。その時、ふっと心が軽くなった心地がした。
身体の中に蟠って、凝って、とぐろ巻いていた何かが拳と共にどこかへ吹き飛んでいくみたいだった。
レイヤは、中三の夏に髪を金に染めた。高一の時に酒を呷って女を抱いた。高二の時にタバコを吸った。
毎日外をほっつき歩いて、気が向いたら人を殴って、バイクや車を乗り回して。
この頃になると母とも喧嘩が絶えなくなっていて、ある日気が付いた。
自分は何をやっているんだろう。
母をひとりぼっちにしないために、母を幸せにするために、自分はここに残ったんじゃないのか。
そのためにここまでずっと、あんな、辛くて苦しくて気持ち悪くて、そんなところで、ずっと……。
レイヤが高校三年生に上がる頃、彼は東京に連れていかれた。
彼がいつも通りに過ごしていると赤薔会だかなんだかの人間が突然現れて、彼を連れ去ったのだ。
これはレイヤも後に知る話だが、彼の現状を見兼ねた父が赤薔会に保護を要請したらしい。
笠原の屋敷に引き取られたレイヤはそこで色々なことを仕込まれた。勉学や礼儀作法、『血の特異性』の扱い方もそうだ。
笠原の屋敷はレイヤの家よりずっと広くて、綺麗で、そしてずっと正常だった。
そこでの暮らしは余りに快適で、不満などあろうはずもない。
本当に、数ヶ月前が嘘みたいなほど人間らしい生活をしていた。
ほっとしていた。母と暮らすのが嫌だったわけじゃない。でも、どうしようもなくほっとしていた。
母と一緒に居たいとは思っている。
でも、母から離れることがこんなにも自分を楽にするなんて思っていなかった。
母を嫌いだと思ったことはない。自分にそんなことを言う資格はないから。
それに、本当に好きなんだ。お母さんのことはずっと大好きだ。それは本当に嘘じゃない。
帰らなきゃ、と思った。お母さんのところに帰らなきゃと、そう思った。
でも、帰らなきゃと思うのと同じくらい、帰るのが怖かった。
母を幸せにしたい、自分の手で。でも怖かった。あの、真っ暗な、先の見えない生活に戻るのは怖かった。
それは酷く自分勝手で身勝手な考えだった。自分が母を傷付けたのに、自分の勝手な感情で怖がるなんて。
高校を卒業する歳になると、レイヤはローレルへの入職を強制された。
所属先は第八特務課。レイヤの『血の特異性』に対する適性の高さが買われたためだった。
初めてローレルに、血統管理機関に足を踏み入れた時レイヤは、自分は大人になったのかと、なんとなくそう思った。
ローレルに入ってすぐ、赤薔会から手紙の束が送られてきた。
差出人は母だった。母からの手紙が赤薔会を経由して送られてきたのだ。
その量は尋常ではなく、一掴みしただけでは持ちきれないほどだった。
日付を確認すると、一年以上前から今に至るまで絶えることなく手紙は送られ続けていた。
こんな時期になるまで手紙の転送を怠っていた赤薔会に思うところがないわけじゃない。
だけど一枚目の便箋を開いた時、そんな思いは露と消えた。
「レイヤへ ごめんなさい。怒ってるよね。ごめんね。直接会って謝りたい。だから帰ってきて欲しい。本当にごめんなさい。私がレイヤにずっとひどいこと言ってたからだっていうのはわかってる。ごめんね。ちゃんと直すからお願いだから帰ってきて欲しい。もうひどいことも嫌なことも言わないから、全部直してちゃんと良いお母さんになるから、帰ってきて欲しい。ごめんなさい。今まで何もしてあげられなかった。レイヤの我儘聞いてあげられなかった。レイヤが怒るのも当然だと思う。後悔してる。ずっと、レイヤが生まれてから、もっと良いお母さんになりたいって思ってけど、私駄目だった。でもこれからちゃんと頑張るから。愛してる。誰よりも、レイヤが一番好きだよ。だから私のこと、嫌いにならないで欲しい」
手紙は少し寄れていた。
手汗か、涙か、それとも雨にでも濡れたのか、字が滲んでいる箇所がある。
母の、丸っこくて筆圧の高い癖字は不揃いで読みにくかった。
これは、確かに母が書いたんだろう。
的外れな謝罪も身勝手な愛の告白も妄想に取り憑かれた懇願も、全部が母の手で書かれたものだ。
レイヤは赤薔会に感謝した。
これを東京に来て直後に読まされていたら、きっと自分は飛んで帰っていた。
母が帰ってきて欲しいと望んだなら、レイヤはきっと、他の何を捨ててでも帰っていた。
他ならぬ母の願いだからだ。
しかし、時間というものは残酷だった。
レイヤはかつてより幾分か冷静だった。
だから、母の言葉の端々を丁寧に掬い上げることができる。
母は、結局何も変わっていないのだ。あの家に父は居ないし、未だ泥団子が祀られているのだろう。
母は変わらない。
自分も変わっていない。母のことが好きだ。愛している。母は自分の手で助けたい。ずっとそう思っている。
それなら、どうしようもないじゃないか。
母が変わらなくて、自分も変わらなくて、それであそこに帰ったって何も変わってはくれないじゃないか。
そうしてあそこに帰っても、待っているのはあのいやらしい黒玉なんだろう?
母を助けたい。だけどあの、気が狂うような信仰の中に戻るのは嫌だ。絶対に嫌だ。
自分が変える力を持たぬ人間だとわかっている。自分は何も変えられない。あの三年間は無駄だった。
だからもう、どうしたら良いのかわからなかった。
自分に何ができるのかわからなかった。できないということしかわからなかった。
自分のことが嫌いだった。何もできない自分が嫌いだった。
母を嫌いだと思った。何もわかってくれない母を嫌いだと思った。だって自分はこんなに頑張っているのに。わかってくれない母が悪いのに。
でも、母のことが好きだ。
強い人だった。強くて脆い人だった。真面目な人だった。真面目で危うい人だった。不器用な愛を示す人だった。
母の、息子を喜ばせようと思って買ってきた菓子を意気揚々と取り出す仕草と、運動会の時の気合いの入ったお弁当と、『おかえり』という弾んだ声と、抱き締められた時の柔らかな匂いとが好きだった。
好きなだけでは何も変えられないと知らなかっただけだった。