二章 16
レイヤはその日の夜の、日付が変わる頃になって目を覚ました。
あの後彼は絞首によるものか、気の動転によるものか、気を失った。
そうして目を覚ました時、彼はやけに漂白されたベッドの上に横たわっていた。
ベッドの周りは天井から吊るされた薄桃色のカーテンで囲われていて、彼は一瞬ここがどこだかわからなかった。
だから、彼はカーテン越しに見える光を目指してベッドを降りた。
しゃっとカーテンを引くと、その先には父親が何やら書類を書きながら座っている。
「ああ、起きたんか」
「ここ、おとうさんのびょういん……?」
「そうや。あのまま家に居るんは危険やったからな」
「おかあさんは?」
「家や。全く……あれじゃ話にならん……」
父は眉間を指先で解しながら忌ま忌ましげにそう言った。
そんな父の顔を見たレイヤは彼を不機嫌にしてしまったことを悔いた。父の前で母を話に出すべきでないことは、ここ一年ずっと変わらずそうだったのに。
レイヤはなんとか話題を変えようと焦り、左手首を右手で掴んだ。
「いっつ……」
その時、レイヤの左手首が痛みを訴えた。
彼が反射的に手首を見ると、そこには包帯が巻かれている。
あ、とレイヤは小さく声をあげた。
思い出した。昼のこと。
起き抜けの倦怠感と身体を襲う疲労感で忘れていたけど、いや、無意識に忘れようとしていたけど、思い出した。
俺は、お母さんを、傷付けた。
自分の血が普通でないことは知っていた。自分の血がどういうものかも知っていた。
でも、今まで自分を特別だと思ったことはなかった。だって、お父さんとお母さんはそんなこと気にしなくて良いよと言ってくれたから。
なんだかよく分からないけれどでも少し変わった血が流れていることは、今までただの事実でしかなかった。そこに存在するだけの、置物のような事実でしかなかった。
でも、それはただの置物なんかじゃなかった。
俺は確実に、この血で傷付けたんだ。
「……ごめんなさい」
レイヤは小さく、そう呟いた。
「急になんや」
「俺……お母さんに……。お母さんは?お母さんは大丈夫?」
「ああ……レイヤはそんなこと気にせんで良い。レイヤはなんも悪くない」
その言い方は大丈夫じゃない時の言い方だ、とレイヤは思った。
でも、それは当たり前だろう。昼に見た母の顔は今でもよく脳裏に焼き付いていた。
火傷をしたように腫れた皮膚、赤黒く爛れた肌、斑らに黒ずむその顔面。
あれが、大丈夫であるはずがなかった。
母はとても肌を大事にしていたのだ。
母の仕事は人と接して、化粧品の良さを身をもって伝える仕事だから。
風呂上がりに何種類もの液体やクリームを塗り込んでいたことを知っている。毎日マッサージを欠かさなかったことも知っている。肌が日に焼けないよう気を遣っているのも知っていたのに。
「治るんやんな、お母さん。治るんよな?治らんの?なあ、お父さん、」
「だから、レイヤが気にすることちゃうよ。ええから一旦落ち着いて。お父さんの話聞いてくれるか?」
父はがらがらと患者用の椅子を引っ張ってきて、そこにレイヤを座らせた。
息子を宥めるように父はその頭を撫でる。
「本当にお母さんのことは気にせんで良いから。お父さんがどうにかする。な?」
「ん……」
「ええ子や」
父はその手をぽんぽんと上下に弾ませた。
お父さんはお医者さんだから、きっとなんとかしてくれる。
この時のレイヤはそう信じて疑わなかった。
父に任せておけば大丈夫だと、きっと全てがどうにかなるのだと、それは彼の中で揺らがない真実だと思われた。
「それでな、」
「うん」
父は慈しむような笑みを崩さず、柔らかい声音で言葉を紡ぐ。
「お父さんとお母さん、離婚しようと思う」
「え?」
そんな声音で紡がれるにしては余りに残酷な言葉だった。
急だったけど、唐突ではない言葉だった。
「ごめんな、こんなタイミングで。でも元々今日言う予定やってん。レイヤが夏休みの間に色々やってしまおうと思ってて」
父の表情は心なしかすっきりしたような雰囲気を漂わせていた。
要はこれでやっと離婚できる、とでもいうことなのだろう。
二人のこれまでを見ていれば、離婚という選択肢はそう意外なものでもなかった。
遠からずそういう日が来るんじゃないかと、他ならぬレイヤ自身が一番そう思っていた。
でもそれが今日であるなんて思わなかったし、意外でないからといってショックでないという訳ではない。
いやだ、と思った。こんなの、納得できるはずがなかった。
「なんで……なんで?俺……そんなん……」
「ほんまごめんな。でも、お互い一旦離れた方が幸せやと思うねん。最近は仕事も忙しいしな」
レイヤも分かってくれるか?と、そう問いかける父はきっと反論など想定していない。
俺は、一緒に居た方が幸せだと思うよ。なんて言えるわけがなかった。
うん、とレイヤの口から心にもない言葉が溢れ出る。
「二人が決めたんやったら、俺はそれで良いよ」
レイヤの言葉を聞いた父は眦を和らげて、破顔した。
レイヤはそれなりに聞き分けの良い子供だった。特に父親の前では。
父は理路整然とした会話を望む。そういう人だと分かっていたから。
だから、今のはその癖だ。
本当は嫌だ。ずっと三人で一緒に居たかった。三人で仲良く、穏やかに毎日を過ごしていたかった。
でも、最後にそんな日を過ごしたのはいつだっただろう。
少なくとも一年前には二人が笑って話しているところなんて見かけなくなっていた。
じゃあ、それが始まったのは二年前だろうか。それとも三年前だろうか。思い出せない。
父の顔色を窺って、母の機嫌をとる日々はいつ始まったのだろう。思い出せない。
もうずっと長いことそうしているってことしか分からない。
それでも良かった。別にそれでも良かったのに。二人が一緒に居てくれるなら、本当にそれだけで良かったのに。そんな未来を過ごすために、俺は頑張っていたのに。
「そんで、お父さんは引っ越そうと思う。今の家はお母さんが使うから。まあ引っ越すって言っても結構近くやねんけど___」
父の口からはすらすらと情報が溢れてくる。
レイヤはそんな父の目を虚ろに見つめる。
自分の知らないところで、全ては進んでいたのだ。
自分の努力は、ほんの少しの抵抗は、大人の力の前では余りに儚いものだった。
「急で悪いけど、二週間後までに荷物纏めといてくれ」
レイヤはそんな父の言葉にえ、と息を漏らした。
だって父の言い方では、まるで自分が家から出ていくみたいじゃないか。母のいる、あの家から。
「お母さんは?」
「だから、お母さんは今の家使うんやって」
「一人で?」
「そうやな」
父は心底不思議そうな顔をしていた。
「お母さんのことは気にせんで良いって言ったやろ?そんなこと気にせんで、レイヤのしたいようにしたら良い」
気にしないなんて、そんなのは無理だ。自分のしたいようにするとしたら、母を気にしてしまうから。
火傷をしたように腫れた皮膚、赤黒く爛れた肌、斑らに黒ずむ顔面。意識が途切れる前の母の絶叫。
母を、傷付けた。どうしようもなく傷付けた。どこもかしこも、俺が傷付けた。
母は今傷付いている。父はそんな母を放置して、あまつさえ俺を引き離すというのか。
レイヤは沸々と煮えたぎるような怒りを感じていた。
いつか父とレイヤと、二人でショッピングモールに行った時、父は茶髪の女と偶然出会って親しげに話していた。
それが思い出された。
父に媚び、阿るような女の表情。それを満更でもなく受け入れる父。
あの女を見たのは一度じゃない。何度か見かけて、その内に気が付いた。二人の腕に光る、そっくり同じ型の時計に。
分かっている。あれはそういうことだったのだと。
そんな父が、どうして母から何もかもを奪っていってしまうのか。
そんなのは酷いじゃないか、とレイヤは思った。
「俺、お母さんと暮らす」
「は?何言ってんねん」
「俺はお父さんのとこへは行かん。今の家でお母さんと一緒に暮らす」
お父さんは酷い。でも、俺はもっと酷い。お母さんを傷付けたのはお父さんじゃなくて俺だ。だから、俺はお母さんと一緒に居ないといけない。罪を償わないといけない。
レイヤはそう思って父を力強く見つめる。
父はそんなレイヤの瞳を見て少したじろいだ。
「……本気で言うてるんか」
「本気や。俺は、お母さんを一人にはできんし、したくない」
「あいつと……お母さんと一緒に居ても辛いだけや。やめといた方が良い」
「そんなん、お母さんの方がもっと辛いやんか。俺のせいで」
「だから、レイヤが責任を感じる必要はないって。好きに生きたらええねん」
「俺はお母さんと一緒に暮らしたい。それが俺のやりたいことやもん。お母さんをひとりぼっちにはしたくない。俺が一緒におらんでどうするん。お父さんはあの、香織とかいう人がいるから良いかもしれんけど」
その名前を出した瞬間、父の瞳に剣呑な色が宿った。
レイヤは一瞬怯みかけたが、自分の言うことに間違いはないはずだと自身を鼓舞する。
父は険しい顔をしたままに言葉を続けた。
「……香織は関係ないやろ。ていうかどこで名前知ってん」
「橋場先生に聞いた」
「あいつ……。まあええわ。とにかくレイヤは誤解してる。香織と俺はなんもない。ただの同僚や」
「別に誤魔化さんで良いよ。その人とお父さんと、二人で新しい家に住んだら良いやん。最初からそうするつもりやったんやろ?じゃあちょうど良いやん。俺とお母さん置いてその人と一緒におったら」
「なに馬鹿なことを言うてんねん!」
父の怒声が診察室全体に響き渡った。
そうやって怒る父の顔はなんだかとても辛そうで、レイヤは悪いことをしている気分になった。
なんでお父さんがそんな顔するんだ、お父さんが最初に酷いことしたんじゃないのか。
そう、レイヤは思った。
「そんなことのために別れるんちゃうわ。そんな……そんなことのためじゃない。俺は、ただ……」
父は右手で前髪をぐしゃりと混ぜた。
レイヤには父の深淵な考えなど分からない。
父は頭の良い人だった。だから、そんな父の考えを完全に理解できるはずもなかった。
この時のレイヤにあるのは、母を幸せにしたいという気持ちだけだった。自分のやったことの償いをしたい。
そんな気持ちが大きすぎた。
「俺は、お母さんと一緒に暮らすから」
レイヤはそう、父に向かって告げた。
父は海の底みたいな暗くて重い瞳でレイヤを見ていた。
そして父はわかった、と呟く。
「レイヤの好きにして良いって言ったのは俺やもんな。わかった。良いよ。レイヤはレイヤの好きなとこで暮らしたら良い」
諦念を深く感じる声音だった。
それでも父の口から嘆きが濡れることはない。
その顔は悲しみに支配されているというのに。
父は椅子から立ち上がって、それからレイヤを抱きしめた。
「優しいな、レイヤは。……俺はレイヤを応援してる。辛くなったら俺のとこに来たら良い。いつでも待ってるから」
そんなことするわけがない。と、この時のレイヤは思っていたし、実際レイヤは父の元には一度も行かなかった。
でも、それが正しい判断だったのかどうかレイヤに知る術はない。




