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二章 15



間島レイヤの母親は京都伊勢丹の美容部員だった。

朝は早くに出かけて行って、夜は遅くに帰ってきて、それでもいつだってメイクもスタイルも完璧な、そんな人だった。

自分を律することに長けていて、上昇志向の強い人だった。


そんな彼女は医者と結婚した。学歴だとか年収だとかを重視した結果だった。

彼女が二十九歳の時、レイヤが生まれた。

これは彼女の人生設計より少し遅れていた。本当ならもう三年は早く子供を産んでいるはずだった。


間島レイヤは鍵っ子だった。

両親が共働きだったから、彼は家に一人でいることが多かった。

それでもある時までは家族全員で休日によく遊びに行っていたし、長期休暇にはみんな一緒に旅行にも行っていた。


それが崩れたのは間島レイヤが九歳の頃だった。

大きく何かが変わったから、それで崩れたのではなかった。始まりは誰も気が付かないほどに穏やかで、全ては緩やかに進んでいた。

父が家に居ないことが増えた。

母が怒る頻度が増えた。

両親が喋っているところを余り見かけなくなったし、レイヤも二人と一緒にいる時は下手なことを言わないよう気を付けることが増えた。


レイヤは十歳になった。その頃になると両親の喧嘩も絶えなくなっていた。

そんな十歳のある日のことだ。八月の、暑い夏の日だった。

レイヤはリビングで夏休みの宿題をやっていた。本を読んで感想を書く、読書感想文をやっていた。

翌日に迫る登校日の提出に向けて、彼は必死に原稿用紙を書きなぐっていた。

彼はそれの提出日を誤認していたのだ。だから、彼は涙目で洟をすすりながら筆を走らせていた。


暗闇を映し出すテレビを前に正座するレイヤの反対側で、母がダイニングテーブルに突っ伏していた。

テーブルには雑多な紙が散乱しておりホワイトオークの木目は完全に覆い隠されてしまっている。

母は突っ伏したまま、右手の人差し指でトントンと机を叩いていた。

父は朝早くにどこかへ出掛けてしまっていた。

ここ数ヶ月の休日は殆ど同じような状況が展開されている。

母は何をするでもなく茫洋として自分を閉ざして過ごしていたし、父はそんな母との諍いを避けて逃げていた。

レイヤは母の隣に寄り添うこともあった。父の出先に付き合うこともあった。それとは全く関係なく友達と遊ぶこともあった。


母はぐしゃりと手で髪を撫ぜる。

シャンプーとコンディショナーとヘアオイルの人工的な甘い匂いが重だるく彼女の肺を満たした。

何を考えるにも頭が重かった。何を見るにも目に痛かった。

何をしたってどうしようもなかった。

何もしなければ悪くなる一方なのはわかっている。だけど、何かしたって結局自分が苦しいだけだった。

わからない。自分はどこで間違えたんだろう。

女らしさを押し付けてくる両親に嫌気がさして家を飛び出して、やっとの思いで仕事をみつけて、仕事で結果を出して、医者を捕まえて結婚して、子供も生まれて。

頑張ってきたと思っていた。十分な努力を積み重ねてきたはずだった。

でも、その結果がこれだ。

仕事では若い子に追い抜かれ、夫とは離婚寸前で、頼れる人間も居ない。

今まで自分の築き上げてきたものが何もかも、こんなに呆気なく崩れ去ってしまう。

本当に、どこで間違えたんだろう。自分はずっと正しい道を選んできたのに。


母はこてん、と首を右に倒した。

視界の中央にレイヤが映る。彼女の息子が、映る。

彼女は息子を愛していた。

レイヤを産んで彼を初めてその腕に抱いた時、彼女は無条件に、心から息子を愛したのだ。

温かくて重たくて可愛らしい赤子が自分から生まれてきたのだという感動は、彼女の人生に於いて一等幸せな感情だったから。

でも、そんな思い出は思い出としてどんどん遠のいていく。

彼女の人生で唯一計画通りでないことがあるとしたら、それは間違いなく出産だった。

子は授かりものだから仕方のないことだ。

誰が悪いなんてそんなことを決めることはできないし、してはいけない。

でも、もっと早くにあの子が産まれていれば、それで何かが変わったかもしれない。あの子がもっと早く産まれてさえくれれば、それで私は___。

違う、と思った。そんなことを考えるのは絶対に違う。

そんなことを考えて、何になると言うのか。それは単に責任の所在を誤魔化しているだけだ。

でも、自分は何も悪くないはずだ。ずっと正しい道を選んで、それがずっと正しくあれるよう努力してきたはずだ。自分は悪くない。絶対に、悪くない。

じゃあ、何が悪い?私の思い通りにしてくれなかったあの子が、違う、自分が駄目だったんだ、いやでもそんなことはないはずだ、なんであの子はもっと早く産まれてきてくれなかったの、違う、そんなこと、私は思ってない。


母は机の上に散らばっていた紙を握りつぶした。

そしてレイヤから視線を外して下を向き、嗚咽を漏らし始める。

二人分の啜り泣きがリビングには響いていた。

太陽が天を駆けて行って、カーテンから伸びる光の筋がどんどんと短くなっていく。

いつまで経っても泣き声は収まらない。どこまで行っても状況は変わらない。

ある時、母のブラウスの裾が引かれた。

その感覚に母が顔を上げると、傍らにレイヤが紙と鉛筆を握りしめて立っていた。

レイヤはボロボロと涙を流しながら宿題おわらへん、と呟いた。

しゃくりを上げるレイヤの目からどんどんと水が溢れ出してきて、彼はそれを手で必死に拭う。

涙を拭う右手には鉛筆が握られていて、その側面は黒鉛で真っ黒に汚れていた。

母はそれをぼうっと眺めながら湧き上がってくる情動を宥めていた。

泣き声を聞いていると、自分まで不安になってくる。子供の泣き声だと尚更だ。

大きな音は嫌だ。怖くて、不安になるから。

だから、母はレイヤの肩を押した。


「ごめん、レイヤ。お母さんちょっと気分悪いから一人にして?」


母の言葉はレイヤを宥めすかすような雰囲気を纏っていたけど、その態度は氷のように冷ややかで素っ気ないものだった。

母は再び腕の中に顔を埋める。

そんな母を見て、レイヤは見捨てられたような心地がした。

明日これを出さなければ、自分はダメなのに。今まで宿題は一度も忘れたことがなかったのに。忘れたら先生に怒られる。友達に笑われる。それに、とにかく自分がダメになってしまう。だからどうにかしないといけないのに。でも自分じゃ全然書けない。本の感想なんて思い浮かんでこない。お母さんに手伝って貰えばどうにかなると思ったのに。

だから、レイヤはその泣き声を一際大きくした。

あ゛あ゛あ゛、と喉を無闇矢鱈に振動させる絶叫がリビングに響き渡っていた。


母はそんな声を聴くまいと突っ伏したままで耳を塞いだ。

ああ、もう、やめてくれ。いやだ、本当に、もういやだ。

大きな音も人の泣く声も自分を不安にさせる。得体の知れない感情が湧き起こって、自分まで泣きたくなる。

それに何より、自分がこの子を、息子を泣かせたのだという事実は耐え難いものだった。

自分は今、間違えたんだ。この子は何も悪くなかったのに。自分は親として間違った行動をした。

しかしその事実をそっくりそのまま受け入れられるほどその時の彼女は強くなくて、だから彼女はそんな不安と後悔と罪悪感の出力を過つ。

母は机から顔を上げてレイヤを睨み据えた。


「ねえ、お母さん一人にしてって言ったよね。どっか行ってよ。なんでいっつもレイヤは私の言うこと聞いてくれないのよ。なんでなの!?あたしは、ずっと、レイヤのこと大事に育ててきたじゃない!ちょっとくらいお母さんの言うことも聞いてよ!ねえ!」


母の金切り声は調子が外れて、上擦って、酷く聞き心地の悪いものだった。

レイヤはそれを聞いて一開放心したような表情をとったが、自分が怒られたのだと認識するとさっきよりも大きな声で泣き始めた。

彼は自分が怒られると思っていなかったのだ。


響く泣き声によって母は更に正常な判断を失っていく。

彼女は息子の口から出る叫び声を止めようとその手で彼の小さな口を塞ぐ。手を押し当てて、というよりは顎そのものを掴むような形だった。

彼女にだって、これが正しい行動でないことなどわかっていた。

彼女の頭の片隅には、いや彼女の芯の、核の、真ん中の部分には確かに息子を思いやる気持ちが存在している。

しかしそれは彼女の奥深くに眠って、何重にも覆い包まれて、ぼやけて外に届かなくなっていた。

煮え滾るような激しい感情だけが容易に彼女から飛び出していく。


「うるさいッ!どっか行ってよ、ねえ!もうお母さん疲れたんだってば、あたしずっとレイヤのために働いてるんだよ、疲れてるの!変なさ、話の通じない人ばっかで嫌なんだって!お母さん頑張ってるんだよレイヤは知らないかも知れないけど、ずっと!頑張ってるんだってば!なのに、なんでレイヤはいっつもそうなの、私の言うこと聞いてくれないのよぉ!」


ぐしゃ、とか、ばり、とか原稿用紙の破れる音が母のヒステリックの合間を埋める。

母の細くて薄い手では子供の口とて密閉することはできない。

レイヤの喚く声も相俟ってリビングの中央には混沌が形成されていた。

悲嘆と憤怒と狂乱と寂寥と鬱屈と悔恨と焦燥と、それからほんの少しの愛情が一緒くたになってそこにいた。

とめどない感情の奔流は二人の理性を否応なく押し流す。


その時だった。

レイヤの肌から鮮血が飛び出した。

それは鉛筆が原因かもしれなかったし、原稿用紙が彼の肌を切り裂いたのかもしれなかった。それか、母の放置されて伸びきった爪が当たったのかもしれない。

いずれにしても、母が息子の口を塞ごうとして息子は母から逃げるという圧し合いをしなければ起こらなかった出来事ではあった。


きっと動脈の、一番勢いの盛んなところから飛び出したのだろうそれは綺麗な放物線を描いてべちゃりと終点に着地する。


「あああ゛あ゛あ゛!!」


じゅう、と何かが焼ける音がした。

その次に母は顔の肌に突き刺すような痛みを感じた。

痛くて痛くて、形にならない声が喉の隙間から次々噴き出す。

嗄れた声はラジオの砂嵐をひしゃげさせたような音をしていた。


レイヤは何がなんだかわからなくてのたうち回る母を呆然と見つめている。

母は洗面台に駆け込んで、痛みの元だった顔の熱さを水で洗い流した。

激しい痛みは鎮静したが、じくりとした不快感は残っている。

乱れ切った呼吸を、深呼吸にしては浅いため息で鎮めた後、母はゆらりと顔を正面に持ち上げた。

そして、彼女は洗面台に備え付けられた鏡を覗いて硬直した。


化け物が映っていた。

磁器のようだった肌は潤れて赤黒く変色し、振り乱れた髪は鬼神のようであった。

現実とは思えないその光景に、母は躊躇いつつ頬へ指を這わせる。

熱を持った皮膚は不規則に沈降隆起を繰り返し、指もまたそれと同じ感覚を告げていた。

鏡に映る鬼神の化け物と自分が一致した瞬間、母は劈く悲鳴をあげた。


ぼんやりと突っ立っていたレイヤもその声に現実へと引き戻され、洗面所へ駆け込んだ。

そこにはシンクに顔を突っ込んで泣く母親がいた。

お母さん、と躊躇いがちに声をかけると母はのそりと頭をもたげ、千々に乱れた髪の間隙からレイヤを睨んだ。

寝不足のせいで充血した眼球と落ち窪んだ目がぎょろりと動く。

レイヤはそんな母に思わず怯えたような掠れ声をあげた。

その声を聞いた母は一瞬の放心の後、レイヤの首を絞めながら床に押し倒した。


「あんたでしょ!?あんたのせいでしょ!?これ、全部あんたのせいでしょ!?なのになんであんたが……!ねえどうしてくれんのよ!!お母さん仕事どうしたら良いのよ!ねえ!こんな……こんな化け物みたいな顔になって、どうしたら良いのよ!私は!ねえもう本当に、なんでレイヤはそうなのよ。なんでお母さんを苦しめるの?ねえ。もう、なんで……なんでなのお……」


母の手による息苦しさの中で、レイヤは自身の顔面に降りかかる母の嗚咽と慟哭とを浴びていた。

苦しくて、血が出たところが痛くて、自分のやったことが怖くて、彼は泣いた。

彼も母も泣いていた。

涙と血は洗面所の真っ白な床をパレットにして、渦巻いて混ざり合っていた。



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