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二章 14



薄汚れた白のコンクリートは二人分の足音を反響させる。

無機質な官舎の階段は、真夏であっても心なしかひんやりとした空気で満ちていた。


私の前を歩く先輩は暑さのためかスーツのジャケットを左腕に抱えつつ、ワイシャツの袖を肘まで捲り上げている。

後ろから彼についてわかるのはこんなものだった。それしかわからない。

今先輩がどんな表情をしているのか、何を見て何を考えているのか、わからない。


結局、今日は先輩と仕事以外でまともに喋らなかった。

仕事で話していても目が合わないことが多かったし、私も何を言ったら良いかわからなかった。


どうしよう。どうしたら良いんだろう。

素直に謝るべきなんだろうか。あの時私は間違ったことをしました、と。

しかし、それは本心じゃない。私は間違ったことなんて言っていない。

だって先輩はあんな母親からは離れるべきだ。

あんな人は見捨てるべきだ。

先輩は自分を苦しめる悪役のことなんて忘れて幸せになるべきだ。

その思いは今も変わらない。いくら口を出すな、手を出すなと言われてもそれは変わらない。

先輩が母親のエゴで苦しめられる必要なんてないのだ。先輩はなにも悪くないのだから。


私の耳元をぶーんという音が掠めていった。蚊だ。

別に蚊自体は好きでも嫌いでもないけど、虫の羽音は無条件にこちらへ不快感を与えてくるから嫌いだ。

私はその羽音から逃れるように身体を捩る。


きっと先輩は母親から離れることを悪だと思っているのだろう。しかし、そんなことはないのだ。

だって世間一般であっても一定の年齢になれば子は親から離れて独立して暮らすのだから。

先輩のように親が子供の足を引っ張る状態なのであればいわんやであろう。

だから、先輩が母親を気にする必要なんてどこにもない。

先輩はもっと単純な、普通の幸せを求めて良いはずなのだ。


目の前を黒い影がちらちらと横切る。蚊だ。

私は眉を顰める。できるなら刺されたくない。まあ今の私は露出が少ないからそう簡単に刺されないだろうが。

蚊は上下に揺れる不安定な飛行で私たちの元に纏わりつく。


先輩が五階のフロアに左足を踏み入れた、その時だった。

蚊が先輩の前腕に止まったのだ。

私はどうしよう、と思った。蚊に刺されたい人間など、この世に存在していないだろう。

でも、だからと言って私が勝手に叩き落として良いものか。今のこの気不味い空気感で肌に触れるというのも躊躇われるし……。

私は先輩に向かって手を伸ばしかけては止めてを繰り返す。

そんなことをしている間に蚊は自分の食事を終えて飛び立ってしまう、かと思われた。


「え?」


蚊が、溶けた。

ほんの微かなしゅう、という音を立てて蚊が溶けた。

溶けたのだ。紛うことなく、溶けたのだ。

先輩の腕には、蚊の黒が消えた後に少しの赤が残っていた。血の、赤だ。


先輩が私の声に首だけを振り返る。


「なに?」

「あ……いや……その……腕に……」

「腕?」


先輩は自身の腕を持ち上げて目に見える高さまで持っていく。

そして、血の赤を目に留めた瞬間その顔を苦々しく歪めた。


「はあ……そうだった。忘れてた……」


先輩はそう呟いて、持っていた鞄からティッシュを一枚取り出し血を拭い去った。


血。そりゃあ、蚊に刺されたら血が出るのは当たり前だ。蚊は血を吸わなければ生きていけないのだから。

蚊が人の肌に止まってその羽を休める時間、それは同時に吸血という食事の時間でもある。

だからさっきの蚊は止まって、血を吸って、そして溶けたのだ。血を吸った後に溶けたのだ。

だったら、蚊が溶けた理由は血にあるんじゃないか?

血を吸って、そのせいで溶けたんじゃないのか?

でも、普通の血はいくら吸ったって蚊の身体を溶かすようなことはない。血がそんなに危険なものなら蚊だってそれを食糧には選ばない。


しかし、この世界はちょっと不思議な世界だ。『血の特異性』なるものが存在する世界だ。

そして先輩は『血の特異性』を持っている。


先輩の血が蚊を溶かした、ということなのだろう。

自然と訓練の時の会話が思い出された。

先輩が自身の『血の特異性』を隠したがっていた、あの会話。

先輩は自身の『血の特異性』について明言を避けた。誤魔化した。


私は先輩の血について、一つ心当たりがあった。

私だって第八特務課に入ってからただ漫然と時間を過ごしてきた訳ではない。ちゃんと『血の特異性』に関して勉強をしている。

それに、そうでなくても私は彼の血と同様の『血の特異性』を使ったことがある。


笠原の血だ。

あの、三保さんから貰った血だ。かけるだけで硫酸のように、寧ろ硫酸よりも万能にこの世のあらゆるものを分解することのできる血。

先輩の血はそれと同じなんじゃないか?


血は体内の循環を外れた瞬間に『血の特異性』としての能力を発揮する。

笠原の血は世にも珍しく適性が全く関係ない、ただ存在するだけで『血の特異性』を発揮する血である。

笠原の血、というくらいなのだからこれは日本の『血の特異性』だ。

希少系統ではあるが、公に認知されている歴とした『血の特異性』である。

それを先輩が隠す理由なんてどこにあると言うんだろう。先輩はなんで自分の『血の特異性』を誤魔化したんだろう。


三保さんは、人には知られたくないことの一つや二つあるものだ、と言った。

それはそうだ。私にだってある。転生のことは誰にも言えない。言いたくない。私の秘密は全て転生に関連したことが占めていると言っても過言ではない。

大きな秘密を抱えると、小さな秘め事が積み重なっていくものだ。

人生は繋がっている。全ては互いに影響し合っており、それが独立することはない。


私の手先が震えた。

表面は暑いのに芯は限りなく冷えていた。

その手で私は先輩の腕を掴む。

数珠の着いていない方の腕だ。


「……それと、お母様の件はどう関係してるんですか?」


瞬間、先輩の双眸が最大限に見開かれた。

彼の瞳は水面近くの、光が透過したコーヒーのような色をしていた。それは表面張力の影響を受けたように漲って、今にも零れ落てしまいそうだ。


周章狼狽。正にそう言い表すのが適切だった。

先輩は、怒るでもなく笑って誤魔化すでもなくただただうろたえていた。頼りなさげに瞳を揺らしている。


正直、怒られると思った。

昨日次はないというようなことを言われたから、今度こそ先輩は私を殴るんじゃないかと思った。

でも、今の先輩にそんな雰囲気はない。

私の掴んでいる彼の腕は力が入っていなくて、逃げ出そうという意思は汲み取れるけれどもそれを実行するには足りなかった。

先輩は怯えるようで不安げで、今にも泣き出しそうな瞳をしていた。


「……水瀬さんに聞いたの?お昼、二人でどっか行ってたよね」


先輩はなんとかという風情に言葉を紡いだ。

その声も蝋燭の炎みたいにゆらゆらと揺れている。


先輩の質問は、私が持っている情報の所出は何処かということだろうか。

でも、その質問は余りこの状況に相応しいものとは言えない。

私は先輩について多くは知らないし、憶測で語っている部分が大きい。

ゲームの、『紅が繋ぐ運命』の情報はもはや当てにならない。


「いえ……水瀬さんは何も。ただ私が勝手にそう思っただけです」

「嘘だ」


先輩がやにわにそう言った。私は驚く。

嘘だ、と断定されるとは思っていなかったからだ。


「ああ、三保さんのほう?いつ聞いたの。もしかして昨日はもう知ってたの?あー、そういうこと?ひどいなぁ、あの人。勝手に言うなんて」


先輩は焦ったように口先だけで言葉を紡ぐ。

空虚な言葉だけがカラカラと糸車を回っていくようだった。


私が誰から話を聞いたのか、とか誰が私に教えたのか、とかそんなのはなんの意味もない。

私がどうやってそれを知ったとしても、真に大事なのは先輩の過去に何があったのかということだ。先輩とお母様との間に何があったのかということだ。


そもそも私は何も知らない。私は水瀬さんからも三保さんからも何も聞いていない。


彼は話の筋を誤魔化している。

というより無意識に避けていると言った方が正しいのかもしれない。本当に誤魔化したいなら、私とそんなことを話す必要はない。


「先輩、私は何も知りません。水瀬さんからも三保さんからも何も聞いていません。だから訊いているんです。先輩の血とお母様はなんの関係があるんですか。先輩の血は笠原の血ですよね。先輩はご自身の血を隠そうとしてましたけど、何故ですか。そんなことをする必要がどこにあるんですか。先輩、お願いですから、教えてください」


そう言い終えて、私はがちりと歯を噛み合わせた。

私の指先は湧き上がってくるような寒さに震えていたけど、それは手だけの問題ではなかった。

全身が震えていた。


もし私の憶測が当たっているのだとすれば、私は本当に馬鹿だ。馬鹿なことを言った。取り返しのつかないことを言った。

でも、まだこれは単なる憶測でしかない。

いや憶測ですら高尚な、ただの妄想でしかない。

だから、ちゃんと聞かないと。先輩の話を聞かないと。

そうじゃないと、私は___


「俺は、」


先輩が低くそう呟いた。

虚ろに響くそれからはなんの感情も読み取れない。


「俺は……違う。ずっと……ただ……ただ、どうにかしたかっただけなんだ……。ほんとに……」


先輩はそう言いながら私を壁の脇に押しのけ階段を下っていく。

私の手はとうに彼の腕から離れていた。


階下に歩を進める先輩の足取りは覚束なくて、今にも転げ落ちてしまいそうだった。

先輩の部屋はそっちじゃない。先輩はまだ私の質問に答えていない。

だから、彼が下っていく必要なんてないはずだ。


私は先輩の肩を掴んだ。

もう、真実を聞かずにはいられない。

もし、あの血が、先輩のお母様を___


「先輩…………」


先輩は自身の肩に乗せられた私の手を見て、それから腕を伝って私の瞳を見た。

どんよりと澱んだ彼の瞳は私を見ているようで見ていない。


「邪魔」

「先輩……お願いですから、本当に、教えてください。私……」

「邪魔。離して。本当に邪魔」


彼は身体を揺らして私の手を振り切ろうとする。

しかし、そうやって抵抗されればされるほど私も手に込める力を強めていく。

このまま離してしまったら、もう全てが終わってしまう気がした。


「先輩…………」

「常盤さん、さ」


先輩は肩を掴む私の手をゆっくり掬い上げて、そしてそれを突き放した。


「邪魔だよ、本当に。常盤さんなんてあの時、ローレル辞めれば良かったのにね」


先輩は、階下を見つめつつ、そう言った。

私は突き放された手を見た。


あの時、なんて考えなくてもわかった。

私が高階由良に襲われたあの時だ。

本当に、先輩の言う通りだと思った。

私は高階由良に襲われた時点で死んでおくかローレルを辞めるかすべきだった。

本当にそうするべきだった。


全部私のせいだ。

私がいなければ先輩はこんなこと、言わずに済んだ。


「ごめん……なさい……」


私の呟きを耳にしたのかしていないのか、先輩は一歩また一歩と階段を下っていく。

私はそんな先輩の背を呆然と眺めていた。

見守るしかできなかった。

それ以外を、私ができるはずもなかった。



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