二章 13
一番大事なこと。
私は心の中で独りごちる。
目の前を歩く間島先輩の背を眺めながら。
分からない。私は知らない。
先輩の一番大事なこと。
先輩は早く救われるべきだ。
しかし一人の人間の秘密に誰かが立ち入ることは許されない。
私がどうすべきか、という問題の最も正答に近い答えは三保さんの言った見守る、というものだろう。
でも、私はその行動をとるのに酷く抵抗を感じる。
私は案外強情なのかもしれなかった。
私がぼんやりしていると隣から小突かれた。
私の隣で並んで歩いているのは高坂さんだ。
今は午後の訓練のために実技演習場に向かう途中だった。
彼は私にぐいっと近付くとなるたけ潜めた声で話す。
「喧嘩中ですか?」
「それは……そうかもしれないです……」
「僕、もの凄く気まずいんですが……」
「す、すみません。訓練には支障を来さないようにするので……」
今日もまた仮想訓練を行うようで、だから高坂さんも一緒に実技演習場に向かう。
仮想訓練に使う第三系統の血は特務課内では高坂さんか神楽くんしか使えないのだそうだ。一応私も使えるけど、精度が低いのと訓練を行うのが私自身であることが多いということで余りそちらの要員としては数えられていない。
そういう理由から訓練に付き合わされる高坂さんの立場に立つと、その上訓練するペアが喧嘩中というのは勘弁願いたいことだろう。
私たちは実技演習場に到着した。
今日は、というかここ最近ずっと新編成の訓練をしている。
この場合の新編成というのは私と間島先輩を攻撃の二本軸として水瀬さんを防御、サポートに神楽くん高坂さんを添える体制のことである。
防御、サポートはいずれもその道の手練れが担当するということで大した変更でもないのだが、攻撃に関しては違った。
攻撃を私と先輩の二本軸にする、とは言うものの今現状は一本軸にささくれがちょっとできたかな、程度でしかない。言うまでもないがささくれの方が私だ。
そんなでは実践で使い物にならない。訓練は急を要された。
しかし、ここ最近の私と間島先輩の関係性故に連携が上手くいっていない。課題が山積みである。
ということで私たちは実技演習場に着くや否や、すぐに訓練を始めた。
高坂さんが第三系統の血で生み出す仮想敵は最初は弱く、段々強くなっていく。それが矢継ぎ早に現れては消える。
そう、最初は良いのだ。
ある程度の強さまでは、これは先輩の助力あってこそだが、順調に敵を処理できる。
しかし毎回この十五体目___相手は集団なのだけど、これが駄目だ。
多種多様な血を使い、しかもその精度が各々高い。
この敵がどうしても突破できない。
純粋な息切れ、連携の食い違い、私の単純なミス、相手の予測不能な動き。
毎回原因は違う。だけれども、それが一つも起こらないことはない。
ということはやはり何かが足りていないのだ。
十五体目の仮想敵と交戦している最中、私は手に持っていた試験管を取り落とす。多分。汗が原因だった。
「あっ、す、すみません」
「良いよ。一旦休憩しよう」
私のミスを目に留めて間島先輩はそう言った。
それを聞いた高坂さんも第三系統の血を使うのを一旦中断する。
彼は手にペットボトルを持って私たちに駆け寄ってきた。
「お疲れ様です。これ、どうぞ」
「ありがとうございます」
「ありがと。で、どう?」
「良くはなってますよ。動き自体は。間島さんも慣れてきていますし、常盤さんも切り替えが上手くなってますから。でも、あれを突破するという観点でだけ見ると寧ろ一番最初の方が惜しい感じがしますね」
高坂さんはいつも私たちの訓練を見てアドバイスをくれる。フィードバックを手伝ってくれているのだ。
その時に結構な確率で言われるのが、『一番最初の方が惜しい』という言葉である。
それが私にはよく分からない。
私は、自分で言うのもなんだけれど、ちゃんと進歩していると思うのだ。
状況に応じた血の使い分け、基本戦術、使用する『血の特異性』の切り替えの速さ、体力、瞬発力。
急成長こそしていないが、ある程度は進化ないし慣れがあるはずだ。退化している、とは考え難い。
それなのに『一番最初の方が惜しい』とは何事か、というわけだ。
「何が駄目なんだろう。俺も常盤さんは良くなってると思うんだけどなあ」
先輩がペットボトルの蓋を閉めつつそう言った。
「そうですね。そうなると、必然的に間島さんに問題があるということになるのでは?」
「あ、やっぱり?んー、俺に問題ねえ。まあないことはないけど……これと言ったのがあるわけでもないんだよなあ……」
「間島さん、少し不躾なことを申し上げても?」
「え、なに。怖いなあ。別に良いけど」
「間島さん、手を抜いていませんか」
私はその高坂さんの言葉にびくりと身体を震わせた。なんか聞き覚えのある台詞だな、と思ったからだ。
私も昔言われたな。『手を抜いてるんじゃないですか』とか『今度は真面目にやってください』とか。
あれはあれで貴重な思い出だ。逆猫被り時代の高坂さんだ。
「えー、別にそんなことしてないよ。なんで?」
「手を抜く、というのは言葉が悪いですね。間島さんからは余裕を感じます。余力があと半分は残っていそうな余裕を感じるんです。なんとなく」
「……訓練だからじゃない?ここで体力使い果たしたら帰れないし」
「別に今回だけに限りませんよ。少なくとも一年半前からずっとそうです」
「そーかな。流亥が俺を高く見積もりすぎてるんじゃない?俺の本気なんてこんなもんだよ」
先輩の顔は明らかにこれ以上追求するな、という雰囲気を醸し出していた。
……図星だったということなんだろうか。でも、先輩が手を抜く理由なんてどこにあるんだろう。
だって人は死んだら一巻の終わりじゃないか。
先輩のそんな雰囲気にもかかわらず、というか気づいていないのかもしれないが、高坂さんは言葉を重ねようとしていた。
ちょっとこれ以上は危ないかもな、と思って私は口を挟む。
「すみません、ちょっと質問させていただきたいことがあるのですが……」
「ああ、うん。なに?」
「後藤から遊佐への切り替えがいつも上手くいかなくて。逆も然りなんですが……」
「後藤から遊佐ね。まあそこは操作する対象が全然違うからなあ。多分常盤さんは……」
先輩は丁寧にアドバイスをくれる。
彼は当代有数の攻撃特化の『血の特異性』の使い手であると、確か三保さんが言っていたはずだ。
使える血の種類の多さ、それぞれの血への適性の高さ、それを戦闘に活かすセンス、どれをとっても高水準であるという話だった。
確かに先輩は素晴らしい『血の特異性』の使い手なのだと思う。彼の戦闘に危なげを感じたことは一度もない。
板倉たちとの戦いでは慣れない防御を担当していたことによる不安定さはあったものの、それでもやはり攻撃の面では圧倒的だった。
だからこそ手を抜いている、というのは俄かには信じがたい。
先輩のアドバイスを貰って少し休憩した後に訓練は再開された。
今回は一からではなく、さっき中断した十五体目からである。
この十五体目は大体板倉たちと同じくらいの強さを持っていた。まあ細かい諸々を含めると実際よりは弱いのだろうけど、大体だ。
そう考えると、あいつらは意外と強かったんだなと思う。だって先輩でも捌き切れていない攻撃がままあるし。
それほどに強い相手だから、私は全く気が抜けない。
どこから攻撃が飛んでくるか、自分が次打つべき手は何か、先輩はどう動くか。それら全てに気を遣うのはかなりの集中力を要する。
相手が鞍田の血を使って爆発を引き起こした。
その衝撃自体は免れても視界が塵埃に覆われてしまう。
視覚情報は人間にとって最も大切な情報と言っても過言ではない。他の五感のどれを失ってもその場限りなら大して困りはしない。
だけれども、視覚だけは別だ。一瞬でもそれが奪われた時、人間の判断力は著しく低下する。
だから、私は土埃の方に意識を向けた。その中で何が起こっても良いように。
しかしそれすらも囮であったことに私はすぐ気が付いた。
煙とは全く別の、明後日の方向から敵が襲ってくるのが視界の端に映った。
戦場ではほんの少しの遅れが命取りになる。そんなことを自分が考える日が来るとは。
ここは現代日本だぞ。正式な軍隊を持たない国日本だぞ。
私はそんな風に心の中で文句を言いつつ、攻撃の向きをほぼ九十度転換した。
それは敵目掛けて飛んで行き、そして見事的中した___かに思われた。
いや、実際に当たってはいるのだ。半分は。
第一系統の『血の特異性』で生み出された氷塊の約半分は仮想敵に向かって一直線に飛んでいった。
しかし残りの半分は制御を失って実技演習場のそこかしこに飛び散る。
なんと、その氷塊の一団が間島先輩目掛けて飛んで行くではないか。
しかも先輩はこちらに背を向けていて気がつく気配がない。
そりゃあ、先輩としては背中を預けている後輩に背後から攻撃されるとは思ってないだろうからな。
戦場ではほんの少しの遅れが命取りになる。
だから私は『血の特異性』を使って、氷塊よりも早く先輩の元へ駆けつける。彼を守るために。駆けつける、というより殆ど飛び込むような形だったが。
「先輩、危ないっ!」
「え?」
私は『血の特異性』を使った勢いそのままに先輩を押し倒した。変な意味じゃなく。
私と先輩は共に地面に倒れ伏し、氷塊の襲撃からはなんとか免れた。
「いった……。なに?」
「す、すみません……。私の攻撃がちょっと逸れまして……」
「大丈夫ですかー?」
高坂さんが第三系統の血を解いてこちらへ寄ってくるのが見える。
目の前の間島先輩は不愉快そうに顔を顰めてスーツに付いた汚れをぱんぱんと叩き落としていた。
私は自分からピンチを創り出すのが大層得意らしい。
板倉たちの時も自分から危機を招いたようなものだし、今回もそうだ。
なんとも傍迷惑な特技だな、と思いながら私は立ち上がろうと足に力を込める。
その時、視界に赤が映り込んだ。
赤、というのは血の赤だ。先輩のワイシャツの二の腕部分に鮮やかな赤がべっとりと付いていた。
多分あれは『血の特異性』を使ったことで付いたものじゃない。普通に怪我だ。
もしかしたら避けきれなかった氷塊が当たってしまっていたのかもしれない。
「先輩、腕に怪我が……」
先輩は私の示した先にある自分の腕を見る。
それと殆ど同時に私は先輩の手によって後ろへ突き飛ばされた。
立ち上がりかけたままの不安定な重心だった私はあえなく尻餅をつく。
私は状況がよく飲み込めなくて目を白黒させた。
「あ……ご、ごめん。違う。本当にごめん。怪我してない?」
「はい。私は大丈夫ですよ。こちらこそすみません。多分その腕の怪我、私のせいだと思うので……」
「ああ……いや、良いよ別に」
先輩の顔は血の気が引いて青褪めていた。彼は不自然なくらいに動揺している。
いや、味方だと思っていた人間から奇襲されれば恐怖も動揺もするだろうが、先輩の様子はちょっとその域を超えていた。どうしたんだろう。
「流亥、これ治して。早く」
「はい。分かりました」
先輩の隣にしゃがみ込んだ高坂さんが一本の試験管を取り出した。
彼の、高坂の血は治癒の力を持つ血だ。
擦り傷から骨折までなんでもござれの超万能な血である。
それによってみるみるうちに先輩の腕の傷は癒えてなくなっていく。
しかし、そんな高坂の血をもってしても破れた布地の修復まではできない。先輩のワイシャツの左腕側には大きな穴がぽっかりと空いている。
「すみません。シャツが……」
「良いよ。新しいの買えば良いだけだし」
先輩は自身の腕を見つめつつそう言った。
買う、か。まあ縫ってどうにかなるような規模の穴じゃないし、そうなるだろうな。
でも、先輩に金銭的負担をかけるのは私にはどうしても躊躇われる。
「あの、先輩。ちょっと動かないでくださいね」
私は先輩のワイシャツの袖をちょっと摘んで持つ。
そしてウエストポーチから一本の試験管を取り出した。ゲルレロの血が入ったものだ。
ゲルレロの血と言われても多分ピンとくる人は少ないだろうと思うけど、あれだ。三保さんに貰った時間を巻き戻せる『血の特異性』だ。
それを使って私は先輩のワイシャツの破れ目を直す。直す、というか破れる前の状態に戻した。
それを見て先輩と高坂さんはぱちくりと目を瞬かせた。
「今何やったの?」
「それ、なんの血ですか?」
そうか、二人はこの血のこと知らないのか。まあ三保さんも秘密裏にこれらを私にくれたみたいなのでそりゃそうだろうな。三保さんからも入手方法は口止めされてるし。
それだと私はこんな血をどこで手に入れたんだって話だけど。
「えっと……ゲルレロの血です。なんか時間を巻き戻せる?みたいな血で……」
「ああ、三保さんに貰ったの?」
「な、なんでそれを……」
「あのコガネムシの……なんて言ったっけ。あの血も三保さんに貰ったんでしょ」
「サラザールの血ですね。三保さん、あの時水瀬さんに怒られてたのに懲りませんね……」
そんなことになってたのか。それは……まあそうか。
明らかに脱法行為してます感満載だったもんな、これ貰った時。
三保さんはやっぱり血が絡むとなあ……それ以外は良い人なんだけど……。
間島先輩は服の修復された箇所をじっと見つめて、それから私に視線を移した。
「……常盤さん、本当にどこも怪我してない?」
「はい。大丈夫です」
「そう。それなら良いけど。服、直してくれてありがとう」
「いえ、私のせいですから……」
「ああ、そうだ。なんで間島さんは怪我したんですか?僕、よく見えなくて」
高坂さんが試験管を丁寧にしまいつつ、そう尋ねた。
「私が血の操作を誤ったせいで氷が先輩の方に飛んでいってしまって……多分それが当たってしまったんだと思います。すみません」
「なるほど。そういうことですか。やっぱり操作の精度は課題ですね」
「第一系統は特に乱れがちで。第二系統はまだマシなんですが」
「水瀬さんにコツとか聞いてみたらどうですか?水瀬さん以上に第一系統に詳しい人はいないでしょうし」
「いや、それが、一回聞いてみたことがあるんですけど……水瀬さん、結構感覚派というか……」
そもそも最初の特訓の時から水瀬さんはお手本としては申し分ない実力を持っているけど、教官としてはちょっとって感じだった。
いや私の教官としてはちょっと、と言った方が良いのかもしれない。本当に、私と彼だと適性の差が大きすぎたのだと思う。
だって水瀬さんの「このくらいならできるよね?」すら私にはできなかったし、それをできるようにするための説明も高度すぎたというか……。
「まあ、あの人元々才能あるタイプだからね。それに加えて四職っていう最高の環境だし。できないやつの気持ちがわかんないってことじゃない?」
先輩が肩を竦めつつそう言った。
多分先輩の言うことは八割方当たっているんじゃないかと思う。
世界は不平等だ。天は二物を与える。水瀬さんにはきっと私の気持ちなんてわからないんだ……。
高坂さんが先輩の言葉にふむふむと頷く。
「そうなんですか。僕は余り水瀬さんと適性が被っていないので知りませんでした」
「いや、水瀬さん全体的にそーいう感じじゃない?」
「そうでしょうか……。まあいずれにしても第一系統は使用頻度が高いですから精度は上げられるだけ上げておいた方が良いですね」
「そうだね。俺だって第一系統自体は使えるしアドバイスくらいはできるよ。寧ろ俺の方が常盤さんに共感はできるかも。俺の血は第一系統じゃないし」
確かに似た状況である方が相手の立場に立って考えやすくはあるだろう。
というか先輩は第一系統の血ではないのか。それは知らなかった。
「先輩は第一系統の血ではないんですね。よく氷を使っていらっしゃるイメージがあったので……」
「あー……いや、それはまあ使い勝手が良いからね、第一系統は。でも俺の『血の特異性』は違うやつだよ」
「そうだったんですか?僕も間島さんは第一系統なのだとばかり思っていました」
高坂さんが純粋な驚きを湛えた目で先輩を見ていた。
え、高坂さんも知らなかったの?そんなことある?
私はともかくとして、高坂さんは特務課に入って一年半くらいでしょ?それなのに仲間の『血の特異性』を知らないなんて……。
「では間島さんはなんの血なんですか?」
高坂さんはとても自然な流れでそう言った。
私もそれと同じ疑問を持っていたし、この状況でそう思わない人間などいないだろう。
彼が質問しなかったら多分私が聞いていた。
先輩はそんな至極当然とも言える問いかけに大層驚いたような顔をしていた。
いや驚きというよりは、なんと言ったら良いのだろう、とにかく動揺を隠し切れない表情をしていた。
目はあらん限りに見開かれ、瞳は焦点が定まらずちろちろと細かに動いている。
「それは……」
「第二系統ですか?それか鞍田か後藤か……」
「うん、まあ、そんなとこ」
誤魔化した、と私は思った。
先輩の返答は明確な答えではなかった。
その曖昧な返答が示すのは高坂さんの指摘が当たっていたということなのか、そうでないのか。
高坂さんは先輩の返事に大した違和を持たない様子で頷き、そして中腰の姿勢から立ち上がる。
「訓練、続けますか?」
「うん。ああ、でもさっきのはもう良いや。二個前のに戻して」
「承知しました」
先輩も腰を浮かして立ち上がる。
自分ばかりがいつまでも寛いでいる訳にもいかないから私も立ち上がった。
私はお尻の汚れを叩いて落としつつ、前にいる先輩の背を見つめる。
人には知られたくないことの一つや二つあるものだ、と三保さんは言った。
本当にその通りだな、と私は思った。