二章 12
あんなことがあったから、私と先輩の間の空気は最悪だった。
土日を挟んでこれなのだから、もうどうしようもない。
月曜日、朝から私と先輩は一言も口をきかなかった。
高階由良の件があるからどうしても通勤は同じでなければいけないのだけど、本当に何も話さなかった。そもそも目だって合わなかった。
仕事が始まってからもそれはずっと続いて、私と先輩は新人とその教育係という関係がまだ一応継続しているから、側から見ればそこには異様な雰囲気が漂っていただろう。
業務で必要な会話はしなければならない。だけど、二人の目は合っていない。話し方もなんだか堅苦しい。
それは第八特務課の狭いオフィス全体にも波及して、今日はいつにも増して静かな日だった。
お昼の時間がやってきた。
それまでは私のお昼の選択肢といえば自分のデスクで食べるか、それともオフィス外で食べるかの二択であった。
しかし最近はお昼のバリエーションも増えてきた。高坂さん神楽くんと一緒に食べる、それか麻生がもしかしたら襲撃してくるかも。
そして、今日はそこにもう一つ新たな選択肢が加わった。
「常盤さん、少し良いですか」
そう私に声を掛けたのは、お弁当を片手に持った水瀬さんだった。
「ちょっと話したいことがあるので、ラボの方に来てもらって良いですか?昼食を食べながらで構わないので」
話したいこと、か。怒られるんじゃなければ良いけど、と思いつつ私は水瀬さんに向かって頷いた。
私は水瀬さんの後ろについてラボまで向かう。
ラボを訪れるのは久し振りだ。
まあ三保さんでもなければ余り仕事で使うような場所じゃないからそれは当たり前かもしれない。
ラボに着いて水瀬さんが扉を開くと、その先には三保さんもいた。
カップラーメンの容器にお湯を注ぎつつ、彼は私たちを迎え入れる。
ラボは大まかに二つのエリアに分かれていて奥が研究スペース、手前が休憩スペースという感じだ。
私たちは手前の休憩スペースに備え付けられているソファに腰を下ろす。
いや、正確にいうとソファは二人掛けが限界だったので、私はソファ脇に木でできた丸椅子を運んでそれに座っていた。
話を切り出すよりも前に水瀬さんがお弁当の蓋を開け始めたので私もそれに倣う。
因みに、水瀬さんのお弁当はお重だった。金箔が散りばめられた漆塗りのお重。
しかし、そんな華美な容れ物とは裏腹にその中身は所謂普通のお弁当だった。
上段には丁寧に巻かれた卵焼き、ごろっとしたじゃがいもの入ったポテトサラダ、出汁を染み込ませた焼豚。下段には色とりどりのふりかけで味付けされたまん丸のおにぎりたち。
普通だ。びっくりするくらい普通。
いや、とても創意工夫の凝らされた素晴らしいお弁当だが、少なくとも水瀬さんのイメージではなかった。
「それ雛子さんのやつ?」
「そう……ですよ」
「良いなあ。美味しそう」
「毎回この量はキツいですけどね」
「贅沢か、お前」
雛子さん?誰だろう。ああ、もしかしたら水瀬さんの恋人とか……。
それはあり得そうだ。だってこんな素敵なお弁当を作れる人はきっと人柄も素敵に違いない。
それか、愛妻弁当的な可能性も……水瀬さんの結婚話なんて聞いたことがないから億測に過ぎないけれど。
それに比べて私のお弁当ときたら……。
今日は本当に茶色一色すぎて救えない。いや、これは昨日カレーピラフにしたから茶色が目立つだけであって……。
まあそれ以外の茶色は冷凍食品なんだけど……。
私は水瀬さんの素敵なお弁当を視覚的なおかずにしつつカレーピラフを口に運んだ。
美味しいよ、私。ちゃんと美味しい。いつか見た目にも美味しいものを作れるようになろうな……。
「常盤」
「はい」
私がもぐもぐとカレーピラフを咀嚼していると、三保さんが少し真剣な顔で私の名を呼んだ。
水瀬さんの言った話というのは三保さんからのものなのだろうか。
「間島と何があった?」
あ、なるほど。そのことか。
どうしよう、話すべきかな。先輩のことは二人に相談しても良いかもしれない。
寧ろゲーム通りローレルの協力を取り付けたいなら二人に相談すべきか。
うん、そうしよう。ちゃんと、二人には説明しよう。
……先輩との約束を少し破ってしまうことにはなるが。
「あの……話し方が難しいんですが……」
「間島の実家のことか?」
「え、」
三保さんが私の思考を読んだように言った。
いや、本当に読まれた訳はないから三保さんも元々先輩の家庭の事情を知っていたということだろう。
「ご、ご存知だったんですか?」
「こっちは七年の付き合いだぞ?そりゃ多少は推測もできる。……あれ、八年だっけ?」
「さあ、僕に聞かないでください」
「まあ何年でも良いや。とにかく、あいつがああまで露骨に不機嫌になるのは珍しいんだよ。良くも悪くも深いこと考えないやつだから。でも、あいつは唯一実家のことに触れられるとキレる。もうめっちゃキレる。俺らでも簡単には聞けない。なあ、燈真」
「別に僕は間島の実家のことには興味ないんで聞こうとも思わないですけどね」
「なんだこいつ。まあ、とか言って毎回律儀に焼肉奢ってやってんだから意外と気にしてんだろ。なあ?」
「違いますよ。あれは成り行きで仕方なくですから」
「まあまあ、そう照れるな」
「うざ……」
お二人が仲良いのは結構なんだけど、それって要するに水瀬さんも三保さんも先輩の家庭の事情を知ってたってことなんだよね?
じゃあなんで……知っていたならなんで二人はどうにかしようとしなかったんだろう。先輩を助けてあげなかったんだろう。
先輩はずっと、お母様に苦しめられているのに。
「常盤は?どこまで知ってんだ?ていうかどうやって知った?間島が自分から話すとは思えないし」
「それは……完全に事故なんですけど……」
私はお二人に、ここ三週間くらいで起こった出来事を話した。
二人は先輩の事情を知っているとのことだったので、特に包み隠すこともなく殆ど全てを話した。
「ははあ、なるほど。大事故が起こってんな」
「あはは……お騒がせしまして……」
私が先輩の過去について知ったのは偶々だ。
段ボール箱の悪戯である。
でも、本当は元から知っていた。『紅が繋ぐ運命』をプレイしたことのあった私は知っていた。
もちろんそのことは話していない。ゲームのことは流石に話せない。
「それで、間島はどうしてあそこまで怒ってるんですか?知ってるってだけじゃそうはならないでしょう。常盤さん、なんか変なこと言いました?」
「そ、それは……」
水瀬さんは焼豚を仕切りのセロファンから丁寧に外しつつそう言った。
まだ金曜日のことは話していなかった。今の状況の直接の原因は、まだ伝えていなかった。
あれが褒められた行動でないことは私もわかっていたからだ。
「その……ちょっと……首を突っ込むようなことを言ってしまったというか……ちょっと……踏み込みすぎてしまったというか……」
「じゃあ常盤さんが悪いですね」
かなり言葉を濁しつつ、言い淀みつつの私に水瀬さんはばっさりとそう言い放った。
仰る通りです……本当に仰る通り……。
でも、ここで私が動かないで誰が動くというのか、と思っているのもまた事実だ。
だって、多分この状況を解決するのに最も適しているのは私だろう。
私は全て知っている。今の状況も誰が原因になっているのかも解決策も全て、知っているから。
私は先輩を母親という悪役から解放してあげられるから。
「でも、あの、先輩ずっとこのままになっちゃうじゃないですか。何もしなかったら。それは……どうなのかなと……」
私が恐る恐るそう言うと、水瀬さんと三保さんは顔を見合わせた。
見合わせたというかお互いそっちがなんか言えよ、みたいな感じだったので押し付け合いだったのだと思う。
その時水瀬さんの口には焼豚が詰め込まれていて、逆に三保さんはカップラーメンの完成を待っているため手持ち無沙汰だった。
だから、結局口を開いたのは三保さんの方だ。
「まあ常盤の言い分もわかるよ。確かにこのまま放置して良い問題じゃない。でも、それを解決するのは常盤じゃないよ。もちろん俺らでもない。間島本人がどうにかすべきだ」
「でも、一人じゃどうにもならないこともあるじゃないですか。だったら……むぐっ」
私が三保さんに反論しようとすると水瀬さんが焼豚を私の口に突っ込んできた。
この人……何回私の口に食べ物を突っ込めぱ気が済むんだ。危ないでしょ。余計なことは喋るなと言うことだろうが。
まあ、口に入ってしまったからにはありがたくいただこう。……美味しいな、この焼豚。
「そうだな。一人でやるにも限界があるのはその通りだ。だから、間島はちゃんと頼ってるよ」
三保さんの言葉に私は首を傾げる。
先輩が、頼ってる?誰を?
「間島の家は普通の、所謂一般家庭ってやつだろ?燈真の家ぐらい馬鹿みてえな金持ちでもなければ、うちみたいにどっかの系統の血を引いてる家でもない。『血の特異性』なんて関係ない普通の家だ」
『血の特異性』は基本的に遺伝する。原則、『血の特異性』を持った親からしか『血の特異性』を持った子供は生まれない。
しかしそれは、あくまで原則に過ぎないのである。
原則、というのが注釈につく場合、それは必然的に例外があることを示す。
ごく稀に遺伝など関係なく『血の特異性』を発現させる子供が現れることがあるのだ。なんの変哲もない一般家庭から突然変異的に『血の特異性』が現れることが。
それはよく『奇跡の血』に於いて取り沙汰されるが、他の血でも同様だ。
この世の中のどんな『血の特異性』も言ってしまえばどこにだって現れる可能性がある。
「で、そういう普通の家に『血の特異性』を持った子供が生まれると結構な確率で荒れるんだよな」
「あれ……る?」
「そう。家庭が荒れる。荒れ方にも色々あるけどな。まず婚外子なんじゃないかと疑われる。これ結構多い。『血の特異性』は遺伝するっていうのが一般認識だからしょうがないとこもあるけど。で、次に多いのが親が『血の特異性』を忌み嫌うパターンだな。そんな変な血に生んだ覚えはない!って言って子供を拒絶するパターン」
なんだそれ、と思った。そのどれも、ちゃんとした知識があれば発生し得ない事象じゃないか。
親がちゃんと『血の特異性』について学んでいればそんな思い込みは生まれないはずだ。
しかし、私はそう思ってしまう人たちの気持ちもわかる。
私もこの世界に来て最初は『血の特異性』の力に怯えた。魔法みたいな理解のできない『血の特異性』がちょっと怖かった。
それに常盤めぐりだって、一般家庭から生まれた『血の特異性』持ちの人間である。だから常盤めぐりは、私は知っている。
この世界は『血の特異性』なるものが存在する極めて不思議な世界だ。でも、その『血の特異性』の変化の影響を受けるのは主に『血の特異性』を発現させた、ごく限られた家々だけでもあるのだ。
それ以外の人たちは私の前世の世界となんら変わらない生活を送っている。
本当に普通だ。何も変わらない。
多少血液検査を受ける回数が多いかなといった程度だ。
この世界の人全員にとって『血の特異性』が身近というわけではない。
「そういう家庭問題を総称してBMDTって言うんだけど、昔はまあ特に気にされてなかったんだよ。ローレル、と言うか赤薔会は『血の特異性』を独占する以外に興味ないから。でも二十年前とかに一回BMDT関連で裁判沙汰になって赤薔会が損害賠償払わされたことがあってさ。そっからローレルにBMDT対策の専門委員会みたいなのが置かれるようになったんだ」
なんだか、とても生々しい話だった。
『血の特異性』は魔法みたいに華々しくて格好良くて強くて素晴らしいものだと『紅が繋ぐ運命』内ではそう描写されていたから、こんな『血の特異性』の負の側面を見るのはとても不思議な感覚だった。
「で、そのBMDTの対策委員会に間島はちゃんと相談してるんだよ。それでちゃんと委員会の方も動いてる。だから、俺らが動いたってどうしようもないんだ。寧ろ門外漢が下手に口出して撹乱する方がどうなんだって話だろ。俺らがすべきは問題の解決じゃなくて解決のために頑張る間島を見守ってやることじゃないのか?」
落ち着いた声音で諭す三保さんは柔らかく微笑んでいた。
知らなかった、そんなの。
そんな、BMDTなる問題があるのも知らなかったしそれに対策を講じる組織があることも知らなかった。
何より、それを間島先輩が頼っているなんて知らなかった。
知らない、というのは私にとって何よりも困ることだ。だって、私はゲームを知っているから先輩を助けられると思ったのだ。
この状況に何か一つでも知らないことが紛れ込むと、私は途端に使い物にならなくなる。
水瀬さんはお弁当の上段を平らげ、一旦箸を揃えて置いた。
そして私の瞳をじっと見つめる。
「間島も本当にキツくなったらそう態度に出すと思いますよ。あいつわかりやすいですし。それまでは別にこっちが何かする必要はないでしょう。寧ろ手出すと今みたいにキレるので放っとくのが吉です。態々こっちから虎の尾を踏みに行く必要はない」
「……今がその本当にキツい時なんじゃないんですか。先輩、倒れたんですよ」
「まあ倒れるとこまでいくのは珍しいですけどね。でも、本当にキツいってほどじゃない。もっとわかりやすいですよ、間島は」
もっとって。あれ以上何があるって言うんだ。
倒れるよりもっとキツいって、それはもう取り返しのつかないところまでいっているんじゃないのか。
今どうにかしないで、それで本当に大丈夫なの?
わからない。
知らないことが一つでもあるってことはそれ以上にもっと知らないことがある可能性が高い。
だから、私にはわからない。私には正しい判断が下せない。
先輩は救われるべき人じゃないのか?彼を苦しめる悪役から解放されるべきじゃないのか?
高階由良という主人公がいない今、私だけがどうにかできるんじゃないのか?
「三保さん、麺伸びますよ」
「え?あ、忘れてた……。お前もっと早く言えよ!」
「僕のせいにされても……」
三保さんがカップラーメンの蓋を慌てて外す。
あそこにお湯が入れられたのは私たちがラボに入室したのと同時だったから、三分なんてとうの昔に過ぎているだろう。
「うわ、こりゃ駄目だ」
三保さんの手に収まるプラスチックの容器の中では縮れた細麺が膨張していた。
水は麺に吸われてまともに見えず、お世辞にも美味そうとは言えない。
ああ、ほら、やっぱり、手遅れになってからでは駄目なんだ。早く助けないと。
誰かが無理矢理にでも手を出すべきなんだ。取り返しがつかなくなる前に。
私はカップラーメンを見つめつつ手に持っていたお弁当を机の上に下ろした。
悠長にお昼なんて食べている場合じゃないと思った。
「間島の母親の話ですが、」
酷く冷静な声が私の耳朶を打った。
水瀬さんから発せられたそれに私は顔を上げる。
彼はお弁当の上段と下段を組み替えつつ、そして私に一瞥もくれることなく言葉を続ける。
「常盤さんはまだその全貌を知っているわけじゃない。寧ろ一番大事なことを理解していないんですよ。それも分からずに首を突っ込むのは……いてっ」
そんな水瀬さんの頭を三保さんがいきなりはたく。結構な勢いだった。
「ばーーーーか!お前馬鹿か!マジで馬鹿!」
「罵倒の語彙それしかないんですか?」
「悪かったな!罵倒なんて燈真以外にすることないからしょうがないだろ!つうかお前何さらっと言ってやがる!それはこっちが勝手にバラして良いことじゃないだろうが!」
「いや、僕はまだ何も言ってないですよ。今ので何が分かったって言うんですか?言いがかりですよ、それは」
「絶対確信犯だろ!大馬鹿野郎!」
三保さんの怒号がラボ中に響き渡っていた。
三保さんは全体的に色素の薄い印象なのだけど、今ばかりはその頬を真っ赤に染め上げている。
しかし、その怒りを受けているはずの水瀬さんはそんなのどこ吹く風であった。
この二人は、結構コミカルなやり取りをする。
それが彼らの仲の良さを示すのかそうでないのかはよく分からないけど。
でも、私は毎回それに余りついていけない。
「……一番大事なことって、なんですか?」
水瀬さんは私が一番大事なことを理解していないと言った。
三保さんが怒っているのは水瀬さんがそこに言及したからだろうが、私は訊かずにいられなかった。
それを訊かずにいられるほど、私はできた人間ではなかった。
二人は殆ど同時に私の顔を見る。
「それは……」
「燈真は余計なこと言うな。……あのな、常盤。さっきも言ったろ。間島を見守るのが俺らにできる唯一のことだって。人には人の人生がある。知られたくないことの一つや二つ、なん十年も生きてりゃ誰にだってあるだろ?それを暴いて良い人間なんてこの世に居ないよ、一人も。だから……な?」
三保さんは少し硬さのある、でもとても優しい笑顔でそう言った。
三保さんは意外とまともなことを言う。血が絡まなければ、本当にまともだ。
だから、彼の言うことは正しい。本当に正しい。
私はその正しさを受け入れて、それを実践すべきだ。
私はこれ以上先輩の事情に介入すべきではない。
三保さんの言う通りに彼を見守り、そして密かに心中で応援するに留めるべきだ。
それが、正しいことだった。逆らいようのない、正しいことだった。
だから私は三保さんに向かって小さく頷いた。
 




