二章 11
がたんごとん、と規則的に電車が揺れる。
私と間島先輩は官舎への帰途についていた。
今日は金曜日で一週間の疲れが蓄積されており、私も先輩も無口気味であった。
そうしてそのまま北千住駅へと到着する。
あとはほんの少し歩けば優雅な休日がやってくる……と思ったその時だった。
「ちょっと郵便局寄って良い?」
間島先輩がそう切り出したのだ。
私は何の気なしに頷いた。別に反対する理由なんてどこにもなかった。
郵便局まではそこそこの道のりがあった。態々遠回りするには手間なほどの距離だ。
平日のこの時間だと開いている郵便局も限られているから仕方ないと思うが。
郵便局に到着して先輩は私にちょっと待っててね、と告げた。
私も他人の郵便物を覗き見る趣味はないので外で待つことに決めた。
私は日差しを凌ぐために建物の影に隠れる。今日は日焼け止めを塗り直していないからなるべく日には当たりたくない。
郵便、か。私、何か送らなきゃいけないものあったっけ。
遠くに知り合いはいないから、送るとしたら家族だ。でも、家族にだって早急に送らねばならないものはなかったはず。そもそも最近仕事以外で郵便局を利用するなんて余りないからな。
先輩は何を___
そこまで考えて、私ははたとある可能性に思い至った。
先輩が何かを送るとか送られるとか、最近そんな話を聞いてばかりだ。
郵便は遠くにものを運んでもらうために利用するものであり、そして、今日は給料日だ。
こんなにタイミングの良いことがあるだろうか。
もう、それ以外に考えられない。
先輩は母親に仕送りをしようとしている。
そういうことではないのだろうか。
私は余り仕送りの方法に詳しくない。給料関連は銀行口座でどうにかしているから、仕送り自体はしたことがないのだ。
だから、もしかしたら間違っているかもしれなかった。全然見当違いなことを考えているのかもしれなかった。
しかしそれならそれで構わない。違っているならそっちの方が良い。
だってこれ以上先輩がお母様に尽くさなきゃいけない理由なんて、どこにあるというのだろう。
あんな……倒れるまで生活を切り詰めて、身を削って、そこまでして母親の勝手な行動に付き合う必要なんてどこにもないじゃないか。
私は思わず一歩を踏み出していた。郵便局の建物の影から飛び出していた。
咄嗟に、先輩を、止めようとしていた。
しかしその時、ちょうど先輩が郵便局から出てきた。
私はつんのめりながらも何とか身体を止める。
慌てた様子の私を見て、先輩は不思議そうな顔をした。
「どうしたの?なんかあった?」
「い、いえ……。……終わりましたか?」
「うん。待たせてごめん。帰ろっか」
間に合わなかった、という落胆を隠しつつ私ははい、と返事をした。
私たちは官舎までの道を歩き始める。
今日はやっぱり会話が少ない。
多分、私と先輩はお互い疲れていた。
私は今週なんでか本部から呼び出しを喰らいまくり、先輩はいつもより外回りが多かった様子だったから。
それが良くなかった。
もっと別の、取り留めのない話題を思い付くだけの元気がどちらかにでもあって、そしてその話題がちょっとでも沈黙の間を埋めていれば私だってこんなことは言わなかったかもしれない。
「さっきの、仕送りですか?」
郵便局を発って五分ほど、人気のない路地でのことだった。
私は先輩の方を見なかった。配慮のない発言だということを少しは理解していたからだ。
だから、私はその時先輩がどういう顔で私の言葉に受け答えていたか知らない。
「……そうだけど、それがなに?」
「いくら送ったんですか?」
「なんで常盤さんにそんなこと言わないといけないの?関係ないでしょ」
「すみません。それはそうですね。じゃあ残ったお金で先輩は大丈夫なんですね?次は一昨日みたいにならないんですよね?」
先輩が歩みを止めた。それは突然のことですぐには対応できなかった。
私は先輩の二歩先で足を止め、そして振り返る。
「先輩?」
路地は存外真っ直ぐだった。
先輩の背後には遮るものがなくて、西日がその表情を眩ませる。
「大丈夫なんですよね?……先輩?」
私はなんとか先輩の表情を確認しようと首を斜めに傾ける。
その時、西日の目に痛い光の中からぬっと手が飛び出してきて、私の左頬に触れた。
え、と声をあげる暇もなく、すぐさま先輩の顔が近付いてくる。
ぶつかる、と思うほどに近くでその顔は止まった。
息が掛かりそうなほどに近かった。
「送り迎え、ボランティアでやってるだけだからね。言っとくけど。だから、常盤さんがこれ以上首突っ込むなら対価を貰わないとやってけないなぁ」
そう言って先輩は私の頬の感触を確かめるように撫でる。
あ、駄目だ、と思った。こんな近くにいたら、何をされても逃げられない。
ぞわりとした感覚が背筋を駆け抜けた。
私と先輩じゃ体格差が圧倒的だ。普通にしていても彼から私が逃げ切れる要素なんてどこにもない。
その上この路地には人がやってくる気配もない。
何をされても、私が助かる術はない。
あ、という微かな声が私の喉から漏れた。
先輩は私を本当に冷たく見下ろしていて、少しでも動いたら取って食われかねない。
私はぎゅっと目を閉じた。もうこれ以上先輩を見ていられなかった。
そのまま少し膠着状態が続いて、いつの間にか先輩は私から離れていった。
先輩は特に何を言うでもなく再び歩き始め、私も慌ててそれについて行く。
私は先輩の後ろ姿を眺めながら手に浮かぶ汗を必死に握りつぶしていた。
怖かった。とても、怖かった。
先輩のあれは多分怒りだ。土足で自分の領域を踏み荒らされたことに対する怒りだ。
先輩が怒るのはしょうがないことだと思う。あの発言が無神経なものであったことは私も良くわかっている。
でもこのままでは先輩が幸せになれないことも、私は良くわかっているのだ。
母親に金を搾り取られて、自分の生活もままならなくて、そんなので幸せなんて言えない。
私は先輩に幸せになってほしい。先輩は私を救ってくれた人だ。だから幸せになってほしい。
先輩のお母様は酷いと思う。こんなに良い人を苦しめなくても良いじゃないかと思う。
だから、私は母親から先輩を救ってあげたい。
先輩を助けるためなら私はなんでもする。
前世の記憶だってなんだって使って、どうにかする。
先輩のお母様は間違ってる。先輩がそれをどう思っていようと、絶対に間違っているのだ。
だって、先輩は何も悪くない。先輩が血縁だけを理由にそんな人に縛られる必要はない。
十分ほど歩いて、私たちは官舎へと到着した。
灰色のコンクリートの階段を上がって私の部屋がある五階まで歩みを進める。
先輩の部屋は六階だから、私たちはここで別れることになる。
その前に一つ言っておきたいことがある。先輩に一つ、言いたいことがある。
無言で六階までの階段を登る先輩の背に向かって私は声を張り上げた。
「先輩、お母様のこと、もう気にしなくても良いと思います」
先輩は階段のちょうど中間で歩みを止めた。
そして私を振り返る。
「先輩が無理をする必要も我慢する必要もないと思います。先輩は自由になって良いと思います。先輩はお母様のことなんて切り捨ててしまって良いと思います!先輩は___っんぐ」
私は口を塞がれ、壁に押さえ付けられた。
そうしたのは言うまでもなく先輩だ。今、ここには私たちしかいない。
「あのさあ、良い加減にしろよ。さっきのでわかんなかった?俺は首突っ込むなって言ってんだよ」
先輩は眼光鋭く私を睨み据える。
その表情はひどく憎々しげで忌ま忌ましげだった。
「ウザいんだよ。良く知りもしないのに勝手に口出ししてんじゃねえ。何様なんだよ」
先輩の言うことは正しい。
私が先輩の家庭の事情に口を出すのは、普通に考えれば非常識極まりないことだ。
でも、私は知っているから。ゲームで、『紅が繋ぐ運命』で、知っているから。
先輩の家のことを、知っているから。
だから、どうにかできるならしたい。どうにかする術を知っていて、それで無視をすることはできない。
先輩は語気の荒さに怯まない私を見て、苛々したように舌打ちをした。
「俺のこともお母さんのことも、お前は何もわかってない。お前のそれは単なる自己満足なんだよ。邪魔だし迷惑だし巻陶しいだけなんだよ。そんな無神経なことよくできるな。ほんと、何様のつもりだ?自分がやることは全部正しいんですって言うのか?頭の硬いエリートさんの言い分がどこでも通用すると思ってんじゃねえよ。良い加減にしとけよ。また同じこと言ったら分かってるだろうな。次こそ頭ぶっ飛ばすからな」
先輩はそう言って階上へ立ち去っていった。
その足取りは乱暴で苛立ちを隠そうともしていない。
私はそんな先輩の後ろ姿を眺めながら小さく息を吐いた。
次、なんてものがある時点で先輩はやっぱり優しい人だと思う。
正直私は今の言葉を言った時点で殴られる覚悟はできていた。殴られてもしょうがない発言だと思うし、それで何かが変わるなら殴られるくらい安いものだと思った。
やっぱり、先輩は優しい人だ。そんな先輩に私は幸せになってほしい。
母親という悪役から解放されてほしい。解放されることが幸せだと気付いてほしい。
先輩は何も悪くないのだから、幸せになるべきだ。
私が階段のすぐ脇で佇んでいると階下から人影が現れた。
その人は私の右隣の部屋の住人で、中肉中背の四、五十代の男性だった。
大掃除の騒音のお詫びと引越しの挨拶を兼ねて彼を訪ねたことがあるので顔は知っていた。
「……痴話喧嘩は外でやってこいよ」
聞こえていたのか、と思った。
というか、もしかしたら私たちの話が終わるまで待たせていたのかもしれない。
「……すみませんでした」
本当はもっと言うべきことが色々あった。
痴話喧嘩ではないです、とか重ね重ねのご迷惑ですみません、とか。
でも、その時の私はちょっと混乱していてそんな風に返せるだけの余裕はなかった。




