二章 9
先輩が倒れてから一日が経った。
今日は普通に先輩も朝から仕事に来ている。
昨日気付いたのだけど、先輩が倒れたのには多分私の責任もあった。
大掃除の日に行ったステーキ屋さん。あそこで私たちは会計を折半したのだ。
やっぱりあの時全部私が払えば良かった。掃除を手伝って貰ったのだから。
その罪滅ぼしもあって、私は先輩におじいちゃんおばあちゃんから届いた野菜をお裾分けした。キャベツとナスとミニトマトを。
そして、今はお昼である。
私は毎回お弁当(残り物詰め合わせセット)を持参して適当なところで食べている。
それはオフィスだったり別のところだったりするけど、今日はオフィスじゃないところで食べたい気分だった。
だから、私はランチボックス片手にオフィスのドアを開けようとする。
ちょうど、その時だった。
「失礼します!」
こんこん、というノックの音の後に私の目の前のドアが開いて一人の女性が現れた。
茶色と黒の中間の髪を丁寧に編み込んで纏めあげ、後毛ですらもコントロールしているかのように磨き上げられた頭部。
自然さをとことんまで追求した化粧の顔。
小動物のような愛らしい動きをする胴体。
見覚えがあった。知っている顔だった。
でも、今世界で二番目くらいに会いたくない顔だ。
だから私は彼女の手によって開かれた扉をバタンと閉じた。
「なんで閉めるの!?」
扉の向こうで女性が叫ぶのが聞こえる。
防音性低いな、と私は思った。
しかしすぐさまその扉は再び開かれる。
「ちょっとちょっと、めぐりちゃん酷くない!?なんで閉めたの!?そんなに私に会うの嫌か!?」
再び姿を現した女性は敷居の上でミニマムな身体を躍動させながら私に不平不満を訴える。
「いや、ちょっと不審者かと思って。ごめん。……麻生」
そう、目の前の可愛らしさを詰め込んだ女性こそが常盤めぐりの大親友、麻生その人である。
なんでここに麻生が?どうして?
「不審者って。こんな可愛い子を捕まえておいてよく言うなあ?まあ良いけど~」
麻生は拗ねたように唇を尖らせる。
まあ、麻生は可愛いとは思うよ。胡散臭いけど。
麻生。麻生か。
そういえばメッセージの返信してない。どうしよう、怒られる。
別に会いたくない理由はそれじゃないけど。
麻生に会ったのは総務課を去った時以来だった。あの時以来ずっと会っていない。
私の方から麻生を避けていたのだから会わないのは当たり前だった。
なんで私が麻生を避けていたのか。その理由は単純だ。
私は麻生とどう話したら良いかわからない。
いや、別に話題を見つけるだけならそこまでの苦労はしないのだ。
だって私は麻生の好みを知っている。趣味嗜好を知っている。
だから会話のネタに詰まるなんてことはない。
だけれども、私はわからない。麻生とどんな顔をして話せば良いのかわからない。
常盤めぐりと麻生は親友だ。
だけど、私と麻生は見知らぬ人間だ。
その隔たりを意識しないのは難しい。
「ねえ、めぐりちゃん。今既読無視してるでしょー。酷くない?最近なんか返信遅いしー。なに?彼氏か!?彼氏ができて忙しくなったのか!?」
「……違うよ」
あ、今のは違ったな、と思った。
普段の常盤めぐりだったらもっと軽く返していたはずだ、今のは。
こんな深刻そうな声音で言うのは違う。
「めぐりちゃん?」
麻生は私の瞳を覗き込む。
多分、麻生にも今の違和感は伝わっていた。
「ごめん。冗談だよ?怒った?」
「違う。ごめん。怒ってないよ。それで、麻生なんで来たの?仕事?」
「違うよー。普通にお昼誘いに来たの。一緒に食べよーって」
「え、」
まあ確かに、冷静に考えたらそれしかないか。
麻生の左手にはおそらくお弁当が入っているであろう袋が提げられていて、それ以外にはなにも持っていない。
しかも今は普通に昼食の時間だ。
でも、どうしよう。麻生と一緒にお昼か。
……嫌、だな。今は。
さっきので分かった。やっぱり私は麻生とちゃんと話せない。
文面ですらまともに話せていないんだから、現実ならばいわんやではあった。
逃げてばかりじゃ進歩はない。
だけど、今は……。
「ほら、最近お互い忙しかったからさ、偶にはゆっくりどう?私、行きたいところあってさあ。その話もしたいなって」
麻生はにこにこと笑んで楽しそうだった。
久し振りに友達に会えるのは確かに楽しい。その気持ちはわかる。
だけど、ごめん麻生。今は逃げさせて欲しい。
「ごめん、麻生。私、先約あるから」
そう言って私は横を通り過ぎる高坂さんの腕を引き寄せた。彼は忙しく紙の束を運んでいる途中だった。
別に本当に先約があるわけじゃない。たまたまそこに居たからだ。
「え、僕ですか?」
「えっ、あっ、なに!?もしかしてかれ……。あ、ごめんごめん。なるほど?いやだなあ、先に言ってよ〜。もう、めぐりちゃんってば意外と手が早いんだから……いや、なんでもない。それだったら邪魔はしないよ。また今度一緒に食べよう!ていうか、遊び行こうね!あ、それと返信早くしてね!じゃあ!」
麻生が嵐のように捲し立ててそのまま帰って行った。
とんでもない誤解を招いている気がする……いや、確実に誤解されているがもう仕方ない。今度メッセージで弁解しておこう。
私は取り敢えずほっと息を吐いた。
麻生のことは嫌いじゃない。麻生は良い子だと知っている。
だけど、私は麻生と一緒にはいられない。
私は一旦麻生のことを頭から追い出して高坂さんに向き直った。
ついでに掴んだままの手をぱっと離す。
高坂さん、完全に巻き込まれ事故だからな。
謝っておかないと。
「すみません、お仕事の邪魔をしてしまって。麻生……あの子にはちゃんと私から説明しておきますので……」
「ああ、はい。ちょっと待っててくださいね」
「え?はい?」
「これ置いてくるので、ちょっと待っててください」
そう言って高坂さんは腕に抱えた資料を見る。
なんで私が高坂さんの仕事を待たねばならないんだ?
……あ、これはもしかして……。
私が可能性に思い当たった時には既に、資料を置いてお弁当を手にした高坂さんが目の前に立っていた。
特務課のオフィスはそう広くないから素早いものだった。
あ、うん。やっぱりそういうことか。
これはお弁当を一緒に食べる流れですね?
「あの、別に無理して一緒に食べなくても……。さっきのは麻生を巻くための方便というか……」
「一緒に食べたいです。食べましょう」
「あ、はい」
高坂さんが余りにきっぱりと言ったので思わず頷いてしまった。
そんな私を見て高坂さんも満足そうに笑う。
まあね、別に誰かとご飯を共にするのは嫌じゃない。食育的にも孤食は良くないからね。
私たちは謎スペースのソファに腰を下ろした。
複数人が同時に座れる場所といったらここしかない。
私はお弁当を包んであった手拭いを解く。
あ、どうしよう。今日のお昼碌なもの詰めてない。弁当の中身を見られたら死ぬ。女子力のなさにドン引かれる。
だって見てよ。高坂さんのお弁当幕の内だよ!?
桐の箱に余裕をもって詰められた食材たちはそのどれもが宝石のように光り輝き、自分の美味しさを主張している。
鮮やかな色合いにバランスの考えられたメニュー。作り手のこだわりが直に伝わってくるようだった。
駄目だ。私のお弁当が勝てる要素、マジで一個もない。
昨日の野菜炒めとピラフの残り、余ったスペースに冷凍食品のお弁当じゃ太刀打ちできない……!
「あはは……高坂さんのお弁当、すっごく美味しそうですね……」
「ああ、美味しいですよ。これ期間限定なんですけどね。ずっと売ってくれたら良いのにって思ってるんですけど」
あ、ははは。なるほど、プロのやつですか。
まあ、それならね?しょうがないよね?こっちは素人だからね?
あ、因みに高坂さんのお家は水瀬さんちに負けず劣らずの大富豪なのです。
お金はあるところにはあるんだ、うん。
「常盤さんのも美味しそうですね」
「あはは……ありがとうございます……。まあ残り物ばっかりなんですけどね……」
すみませんね、気を遣わせて!
良いんだよ、遠慮なく五分でできそうなお弁当だねって言ってくれて!
「あの、これと交換しませんか?」
「え!?」
そう言って高坂さんが差し出したのは尾頭付きのボイルされたエビだった。
いやいやいや、高坂さん。
等価交換の原則って知ってる?そのエビと釣り合わせたかったら私、お弁当丸々一個差し出しても足りないよ?
そんな折角の食材をドブに捨てる行為はやめな?
「野菜炒めですよね、これ。ちょっとください。エビと交換で。あ、ローストビーフもあげるので、そのコロッケも欲しいなあなんて」
止めろ、止めるんだ高坂さん。自分の手にしているものの価値が分かってないぞ、それは。
ローストビーフと冷凍食品コロッケを同値として扱うのは無理がある!マジで!
しかし、高坂さんはキラキラと目を輝かせて私のお弁当を覗き込んでいる。
……あれかな、高坂さんはお金持ちすぎて冷凍食品食べたことないのかな。そうかも。
あれか、漫画でよくあるやつか。庶民の味に憧れるお貴族様みたいなやつか。
「本当に交換しちゃって良いんですか?」
「はい。僕は良いですよ。常盤さんは嫌ですか?」
「嫌じゃないですけど……。多分高坂さん、自分のお弁当食べた方が美味しいですよ」
「美味しいにも色んな種類があるじゃないですか。常盤さんのお弁当だって美味しそうですよ」
そこまで気を遣ってくれなくて良いよ……。
流石に桐箱の幕の内弁当に敵うとは思ってないから。
まあでも、高いものばかりが美味しいものってわけではないよね。
時と場合によっては料亭の手の込んだ料理より、三分で作ったカップラーメンの方が美味しく感じられることもある。
「じゃあ、はい。好きなだけ持っていってください」
「やった……じゃない。ありがとうございます」
高坂さんが嬉々として私のお弁当から野菜炒めとコロッケを摘んでいく。
私もエビとローストビーフをいただいた。
美味しい。どうしよう、舌が肥えてしまう。毎日幕の内じゃないと満足できない身体にされてしまう!
私がエビとローストビーフの誘惑になんとか耐えていると、なんと自分のデスクからやってきた神楽くんが向かい側の席に腰を下ろした。
いや、なんで?
「……俺も、一緒に食べて良いか?」
「どうぞ」
ああ、まあそうか。神楽くんならそうでしょうね。
神楽くん高坂さんの互いへの対抗心は結構随所で発揮される。
ライバルって大変だね。
「……俺も交換したい。弁当」
聞こえてたんかい。地獄耳?いや、このオフィス狭いから聞こえてても不思議じゃないか。
そう言って神楽くんが取り出したのはコンビニの酢豚弁当だった。
良かった。ここで神楽くんまで高級弁当だったら色々な意味で私が危なかった。
「じゃあ神楽にはきんぴらあげるよ。だから豚ちょうだい」
「別に流亥と交換しにきたんじゃない。それに、豚ときんぴらじゃ価値が見合ってない」
「えー、僕酢豚食べたい」
「あげない」
なにやってんだ、君たち。酢豚で争うんじゃない。
全く……まあ酢豚は美味しいけどね。
「めぐり、俺、野菜炒め欲しい」
神楽くんは高坂さんのことを一旦無視してこちらのお弁当を覗いていた。
なんか野菜炒め人気だな。私の野菜炒めのどこにそこまでの魅力があるんだ?
「あ、でもそれだとめぐりの分がないか……」
「良いよ、別に。これ昨日の残りだし。はい、全部食べて良いよ」
「ありがとう」
てことで私も酢豚をいただいた。
結構甘めの酢豚だった。私は甘いのが好きなので嬉しい。
「僕にもちょうだいよ。肉じゃなくて良いから」
「じゃあパイナップル」
「え、パイナップルか……じゃあ良いや」
「高坂さん、好き嫌いは良くないですよ」
「そうだぞ。ここに置いとくから食べろよ。……代わりにこれ貰ってく」
「ええっ、それ僕の好きなやつ!」
神楽くんは有無を言わさず高坂さんの幕の内弁当から茄子の煮浸しを奪い去っていった。
高坂さん、ナス好きなんだ。
わかる~、美味しいよね。やっぱり麻婆茄子こそ至高。
好物を盗られた高坂さんはちょっと不機嫌になって暫く神楽くんを睨んでいた。
まあ神楽くんの方はそんなのどこ吹く風だったけど。
いやあ、しかし今日は思いもかけず豪華な昼食になったな。
ローストビーフなんていつぶりに食べたっけ。
やっぱり持つべきものは友だね。
「常盤さん、さきほどの方はお友達ですか?」
「ごふっ」
不機嫌が治ったらしい高坂さんがいきなり話題を切り出した。
高坂さんが言っているのは多分麻生のことだろう。
それを蒸し返されるとは思わなかった。思わずピラフを吹き出しそうになったじゃないか。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です……。で、あの、麻生の話ですよね?」
「そう、その麻生さんです」
「まあはい。友達……ですかね。大学の同期で」
「へえ。同じ仕事選ぶなんてよっぽど仲が良いんですね」
「いやー、別にそれはたまたまというか……。示し合わせて同じにしたんじゃないですけどね。麻生が真似してきただけで」
「ふーん。仲良いんですね」
「いや、どうですかね」
「なんで麻生さんとお昼一緒に食べなかったんですか?」
高坂さんが急に豪速球を投げてきた。
ねえ、もうちょっとクッションを挟んでくれないかな。心臓に悪い。
それに、そんな急に聞かれたら答えに詰まるじゃない。どうやって返したら良いかわからない。ただでさえ難しい問題なのに。
「喧嘩中ですか?」
「喧嘩はしてないですけど……」
「なにか嫌なことをされたとか?」
「そんなことは……」
「じゃあ……なんでですか?」
別に麻生に原因があるわけじゃない。
悪いのは全面的に私だ。
私が……前と同じに麻生を見れなくなっただけだ。
「……偶には高坂さんと食べたいなーと思いまして?」
「へえ……まあ、そういうことにしておいてあげましょう。……常盤さん」
「はい」
「今度、麻生さんのことちゃんと紹介してくださいね。友達の友達は友達になれると思うので」
高坂さんは今まで私が見た中でも一等優しい笑顔でそう言った。
……友達の友達は友達になれる、ね。
随分と横暴な理論だと思う。
それに麻生と高坂さんの組み合わせはあんまり想像できない。
でも、多分二人なら仲良くなれるだろうなと思う。だって二人とも優しいから。同じ種類の優しさを持っていると思うから。
私は少し考えて、高坂さんにはいと返事をした。
「俺も。俺にも紹介してくれ」
「はいはい。わかってるよ。また今度麻生が来た時にね」
案の定、そこに神楽くんも張り合ってくる。
そう来ると思った。
大丈夫だよ、そんなに必死に訴えなくても高坂さんに紹介するんだったら神楽くんにだって紹介する。
きっと神楽くんと麻生も仲良くなれるよ。
二人に紹介するんだったら、私もちゃんと麻生と話さないとな。
私と麻生の関係をなんと形容すべきなのか、私にはわからなかった。単に友達というには障害の多すぎる関係性であると思うから。
でも、私は二人に麻生を紹介しなければいけないのだ。
だったら、私は麻生の友達でなくてはいけない。
だから、私は麻生の友達として存在すべきなのだと思った。