二章 7
「は~、食べた食べた。美味しかったねー」
「はい。あんなに美味しい焼肉初めてです……」
あんなに高い焼き肉も初めてだったけどね。
一応ね?チラッと伝票を見たんだけど、言葉通り桁が違った。ゼロが一つどころか二つは多かったよ……。
私は今、間島先輩と共に帰りの電車に乗っている。
結構夜遅いので客足がまばらだ。そのおかげで私たちは余裕をもって壁にもたれかかっていた。
焼肉会、楽しかったな……美味しかったし。でも、それ以上に失うものが大きすぎた。
あの後、水瀬さん凄い私に食べさせようとしてきたんだよ……。
あの人は私を完全に大食い枠且つ遊んでも良い枠に認定したでしょ。勘弁してくれ……。
「ねえ、常盤さんって水瀬さんと付き合ってんの?」
「ええ?いや、なんでそんな……。違いますよ」
「えー、違うの?なんか水瀬さんがあーんしてたじゃん」
あーんって。あれはそんな甘いもんじゃないだろう。
強制的に餌付けされてたんだよ、あれは。
ていうか先輩もわかってて言ってるでしょ。完全に目が笑っている。
「あれは水瀬さんが私で遊んでるんですよ。揶揄ってるんです。酷くないですか?」
「良いじゃん、楽しそうで。常盤さん凄いなー。俺、水瀬さんと初めて会った時すげえ嫌われてたから、気に入られてんの凄いなーと思うよ」
「え、そんな嫌われてるなんて……。お二人とも仲良さそうじゃないですか?」
「そりゃ今はね。もう……六年?とかだし。まあ、俺と水瀬さんじゃ生きてきた世界が違いすぎたからなあ」
そんなの、世の中の大半の人は水瀬さんと同じ世界では生きられないと思うよ。
あんなー食うん十万をぽんと払ってしまえるような世界でみんなが生きているなら、世界に戦争なんて起きないと切実に思う。
「でも、今は一緒ですから。意外と俗っぽいところありますよね、水瀬さんって」
「俗っぽいって。まあ、確かに。意外とお坊ちゃんって感じしないんだよなー、あの人。金銭感覚はズレてるけど」
「ですよねぇ。やっぱり金銭感覚おかしいですよね?あのお店月一で行くようなとこじゃないですよ、絶対」
「ああ、あそこはねー。まあ、あの店に行くようになったのは俺の責任もあるというか……」
先輩の、責任?なんだろう。焼肉屋さんの選出に先輩が関わっている?
私がはてな?という顔をしていると、先輩はちょっと困ったような表情をした。
……聞いて欲しくないことだったのだろうか。
「……そもそも、月一の焼肉会って俺と水瀬さんだけの会だったんだよね。途中で三保さんも合流して、去年からは特務課みんなで行くのが恒例になったけど。元々……ていうか今でも、この会の開催理由は俺の生活援助のためなんだよ」
「生活……援助?」
「そう。俺、結構毎月ギリギリの生活送ってるからさ。一食分浮くだけでも超助かるんだよね。それで水瀬さんに月一回奢ってもらってんの」
私ははあ、と相槌を打った。
しかし、頭の中では色々な考えが巡っている。
霊感商法、あるいはマルチ商法。
引越しの日に先輩の部屋で見た段ボール箱の中身が示すのは、やっぱりそういうことなのだろうか。
生活援助、毎月ギリギリ。
幾ら公務員が激務の割に薄給だからといって、生活に困窮するほどではないはずだ。
しかも官舎に住んで毎月家計が火の車なんて、普通ならあり得ない。
普通なら、あり得る訳がない。
それならやはり、そこには特別な事情があるはずだ。
私は先輩に質問を投げかけようとした口を慌てて閉じる。
今、私はあの段ボール箱の中身について話そうとしていた。駄目だ。それは駄目だ。
先輩との約束は破れない。
私は口を閉じて曖昧に微笑んだ。
不自然な間が落ちる。
「……あれ、俺のじゃないから」
「え?」
「お母さんのなんだ、あれ。全部お母さんの。実家から送られてきたやつ」
「あれ、って……」
「段ボールの中のやつのことだよ」
しまった、と思った。
喋らせてしまった、と思った。
先輩は私の言いたいことがわかったんだ。
私は自分が感情を顔に出さないタイプだと思ったことはない。
「お母さんが、なんかこう……変な宗教みたいなのに嵌まっちゃってて。ああいうの、大量に買って送ってくるんだよ」
先輩は薄く笑って淡々と話す。それは余りにいつもと変わらない調子で、なんでもないことのようだった。
「ああいうの買うと、落ち着くんだって。それで俺もお母さんが幸せになれるなら良いかなと思って、買う用のお金送ってるの。だから毎月俺の財布はピンチなんだよ。ただ、それだけ」
それだけ。それだけって、どこがそれだけなんだろう。
私が考えていたよりもっと酷い状況じゃないか。
ごうごうと喧しい音を立てながら地下を疾走する東京メトロはどの窓を見ても暗闇しかなくて、それは車内の風景を余りにはっきり映し出していた。
いつも通りの中に影を潜ませる間島先輩と、動揺以外の形容を持たない私の両方を。
「……すみません、でした」
「なんで謝るの?」
「それは……」
「……俺は、誤解して欲しくなかっただけだよ。勝手に勘繰られたくなかっただけ。常盤さんあれ見て俺が詐欺られてるんだ!って思ってたでしょ。違うよ。全然違う。あれは……仕送りみたいなもんだよ、ただの」
ただの、と言うにしては歪すぎるだろう。
そんなの多分先輩もわかっているのだと思う。先輩はさっきからそれだけだの、ただのだの自分に言い聞かせているみたいな言い方をする。
そもそもあれは先輩が送ったお金でお母様が怪しげな商品を買って、それを送り付けているんでしょ?
そんなの仕送りでもなんでもないじゃないか。
どちらにも利益を産まない行為だ。先輩にも、先輩のお母様にも。
私は先輩の言葉に何かしら反論を試みようとした。
しかし、私の口ははくはくと空回るばかりで全く音を紡がない。
何を言えば良いのかわからなかった。私に口を出す権利なんてないから当たり前だ。
人様の家庭のありように、私が口を出して良い理由なんてどこにもない。
先輩は多分、この状況が歪だということは認識している。自分と母親との関係が自然なものでないとわかっている。
でも、その上で先輩は納得しているはずだ。『お母さんが幸せになれるなら良いかなと思って、買う用のお金送ってるの』と、先輩は言った。
確かに、そうだ。
別に怪しげなものばかりを買っていようと、それに息子の給料を溶かしていようと、先輩のお母様が幸せなら、そして先輩もその幸せを肯定しているなら、それで良い。
ギリギリでも生活が回っているなら私が手を出し、口を出す必要は微塵もない。
「そう……なんですか」
だから、私はそう返事をした。
当たり障りのない返事をした。
「うん。そうだよ」
先輩は幾分かほっとしたような表情をしてそう言った。
多分、私の返事は先輩の望むものであったはずだ。
私は彼から視線を外してなんの面白味もない車窓を眺めた。
間島先輩は……間島レイヤは複雑な家庭環境に悩みを抱えるキャラクターである。
父親の不倫によって両親は離婚し、母親は間島レイヤに極度の依存を見せる。彼は母親の依存を振り切れない。母親を愛する気持ちが確かに存在しているが故に。
母親は浪費癖のある人で、彼の給料をとことん使い込む。彼はそれを止められない。
母親は息子を半ば洗脳するような形で自分に尽くさせる。彼はそれから逃れられない。
それを救うのは主人公だ。『紅が繋ぐ運命』の主人公。
主人公は間島レイヤに手を差し伸べた。私がお母さんを止めて、それで貴方を逃がしてあげるとでも言わんばかりに。
実際それは成功していた。間島レイヤは母親の呪縛から解き放たれ、そして主人公と幸せな未来を歩む。
一緒だな、と思った。一緒だ。
いや、完全に一緒ではないけど。だって間島レイヤに主人公は現れなかった。
でも、間島レイヤの母親は変わらず存在していた。
そりゃあ母親が居なかったら彼が生まれるわけがないから当たり前だが、そういうことじゃない。
間島レイヤを苦しめる役割を背負った母親は存在している。
ゲームはゲームだ。現実じゃない。あんなもの、この世界に適用すべきじゃない。
でも、私はどうしようもなく知っていた。
知らないことを知っていると言い張るより、知っていることを知らないと言い張る方が難しい。
だって知らないことを知るのは簡単だけど、知っていることを忘れようなんて、そう思えば思うほど逆に記憶に残ってしまう。
知っていることを完全に無視して私が彼と関わるのは無理だ。
私は、先輩が、間島レイヤが母親から逃れたいと思っていることを知っている。
彼が母親の手から逃げ出せたら幸せになることを知っている。
逃がし方も、知っている。
先輩は今一人暮らしだ。官舎のあの狭い部屋に二人は住めない。
先輩は京都出身だと言っていた。きっとお母様もそこにいる。
東京と京都は遠い。逃げるなんて簡単だ。
先輩さえ望めばいつだって___
「常盤さん」
そんな先輩の声と共に私の額が小突かれた。
先輩が手に持っていたスマートフォンで私の額をつんと突いたのだ。
「顔、怖いよ。……俺は本当に誤解して欲しくなかったから話しただけだからね。変に大ごとになっても困るし。だから、余計なことしないでよ。わかった?」
私は突かれた額を手で押さえつつ前髪の隙間から先輩の顔色を窺った。
先輩は私の方なんて見ていなかった。窓の外の、どこが壁かもわからない暗闇を見つめていた。
私は今、何をしようとしていたんだろう。
ゲームの記憶にかこつけて、先輩の家庭を踏み荒らそうとしていたのだろうか。
私はなんでも知っているからと、救世主気取りにでもなろうとしていた?
本当に気持ち悪い。
なんでそんな思考を一瞬でもしてしまったんだろう。
私はゲームの記憶を、前世の記憶を忘れようと決めたんじゃないの?それでみんなと、この世界を生きていくって決めたんじゃないの?
都合の良い時だけ思い出して、それで自分の評価を上げようなんておぞましい。
私は本当に馬鹿だ。救いようがない、生来の馬鹿だ。
私は額を押さえた手をそのまま目に押し当てた。
今は何も見たくなかった。何を見ても冷静でいられる自信がなかった。
世界の全てが私を詰っているように思えた。