二章 6
金曜日、私がお昼ご飯から戻ると第八特務課のオフィスのホワイトボードに『焼肉』という文字がでかでかと踊っていた。
や、焼肉?なんで……?
私がその焼肉ホワイトボードをオフィスの出入り口で突っ立って眺めていると、扉から神楽くんが現れた。
私は完全に神楽くんの通行の邪魔となっていたが、今がチャンスとばかりに彼の腕を捕まえた。
「ねえ、あの『焼肉』ってなに?」
「ああ……あれは定例の焼肉会だ」
「はい?」
定例の焼肉会?なにそれ。そんなのが第八特務課にはあるの?
「毎月一回、水瀬さんの奢りで焼肉会をやるんだ。別に強制じゃないから、参加したかったらあそこに名前を書けば良い」
神楽くんの指が差すホワイトボードの下部を見ると、そこには確かに既に二人の名前が書かれていた。
物凄い達筆で高坂と、そして走り書きで間島と書いてある。
「水瀬さんの奢りって、全員分奢りなの?」
「そうだ」
「えー、すご。流石だなあ」
私と彼は同じ職業に就いているはずなんだけど。確かに役職の差はあれどそこまで給料に違いもないはずなのに……。
やっぱり実家パワーなのかな。お金ってあるところにはあるよね……。
最大六人分を毎月……凄いな……。
……毎月?
「ねえ、先月は?毎月やるんでしょ?先月は私行ってないよ?一ヶ月前には私、ここにいたのに」
だって私、一昨日で特務課一ヶ月記念だったもん。
因みにコンビニでケーキを買って一人で祝った。
もしかして……私、ハブられてた?
えええ……ショックだよ、それは!
別に奢って欲しかったとかじゃなくて……多分その時誘われても行かなかった気がするけど……誘われてすらないのは話が違うじゃん!?
私はにじり寄るようにして神楽くんを見た。
どういうことかな?説明して欲しいなあ?
「い、いや、違う。先月はめぐりが入ってくる前にやったんだ。めぐりが来る、ちょうど一週間前とか。毎月初めにやるんだが、今月は出動の関係でいつもより遅めになっただけで」
神楽くんが焦ったように言葉を並べる。
もう……そんなに緊張しなくたって良いんだよ?
ちゃんと理由があるんなら、しょうがないじゃない。
そっかそっか。出動がね?あったもんね?じゃあ仕方ないよね?
……良かった。嫌われてたわけじゃなくて……。
「こめんごめん。怒ったんじゃないんだよ。怖くしてごめん。神楽くんは焼肉行く?」
「ああ……いや、迷ってる」
「え、そうなの?そっかあ、折角なら一緒が良かったのに」
「めぐりは行くのか?」
「うん。行きたいなーって」
「じゃあ、俺も行く」
早いな。迷ってるとはなんだったのか。
まあ、良いけどね。一緒に行けるのは婚しいから。
やった~みんなと焼肉~。しかも奢り!良いこと尽くめだ!
ホワイトボードの隅っこに小さく十九時からと書いてある。
よしよし。今日は仕事のモチベーションが最高だ!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「あっ、それ俺の肉!勝手に取るなよ流亥!」
「え、すみません。……いや、別に良いじゃないですか。また焼けば」
「それがちょうど良い大きさだったんだよー!」
間島先輩と高坂さんが向かい側の席で言い争っていた。
食をめぐる争いは怖いぞ……。
ということで、やって来たのは銀座にある焼肉屋さん。
水瀬さんに連れられるままに来てしまったけど、なんかここすっごい高級感漂ってる……。
黒と木目調のシンプルなデザイン、間接照明で淡く照らされた店内、出てくるお肉の霜降り加減。どれをとっても高級感の塊だ。
こんなお肉の取り合いで騒いで良い店じゃない気がする……。
私たちは個室みたいなところに通されていた。
私の隣には水瀬さんが座っており、反対側には間島先輩と高坂さん、そして神楽くんが並んでいる。因みに三保さんは欠席だ。
私は隣の水瀬さんにぼそっと喋りかける。
「いつもこのお店に来ているんですか……?」
「はい、大体は。偶に違うところに行ったりもしますが」
はえー……行きつけってやつか!?
私の行きつけはすき家だよ、因みに。天地の差すぎて泣けてくる。
お金は、あるところにはある。世の中は不平等だ……。
いや、すき家も美味しいけどね!
「あの、すみません下世話な話なんですけど、この会はその一、水瀬さんの奢りという話を……小耳に挟んだんですが……」
「ああ、そうですよ。だから遠慮せず好きなだけ食べてください」
「はは……ありがとうございます……」
遠慮するよ!無理だろ、遠慮しないの。
こんな高級店に連れてこられると思ってなかったもん……。普通のチェーン焼肉店かなって思ってたもん……。
こんな……肉一枚でお札一枚飛んでいきそうな店だとは思わなかったんだもん……。
これ一人で五人分払うの!?もう……私の一ヶ月分の給料飛んでくんじゃないかな!?
よし、私は鶏のせせりでも食べていよう。
ダイエットだ、ダイエット。高タンパク低脂質なせせりが一番だ……。
私は鶏せせりと白米を同時に口に運ぶ。
美味しい……十分美味しいよ……。シャトーブリアンとかザブトンとかじゃなくても十分美味しい……。
目の前でじゅう、と肉の焼ける音がする。
水瀬さんがトングを持って生肉を網の上に運んでいた。
あ、まずい。上司に肉を焼かせるとは、部下の風上にも置けない。
「すみません。私がやります」
「良いですよ。別に肉くらい自分で焼くので」
「いえいえ。私お肉焼くの得意なんですよ~。ミディアム、ウェルダン、レア自由自在ですよ!」
「はあ。じゃあ、お願いします。おれ……僕はちゃんと火通したやつが好きです」
「了解です!」
私は手始めに牛タンを網に乗せた。
あれだよ?薄くて丸い牛タンじゃなくて、めっちゃ分厚いやつね。あんなの写真の中だけだと思ってたよ……。
「僕、ヒレも食べたいです」
「わかりました!」
「ヒレは焼きすぎてないほうが好きです」
「了解です!」
水瀬さんからの要求がどんどんと上乗せされていく。
ヒレかあ。焼肉でヒレはあんまり食べたことないかも。ヒレカツとかなら食べたことあるけど。
ちょっとだけ……食べてみたい……。
いや、いかんいかん。
これは水瀬さんのやつで……しかもこんな高いやつを食べちゃ駄目だ……。
ヒレ肉に良い焼き色が付いてきた。
水瀬さんはあんまり焼きすぎてない方が良いと言っていたし、ちょうど良いくらいなんじゃないか?
私は肉をさっと引き上げる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「いえいえ」
私はテーブルの上を見渡した。
おっとハラミが不足している。これは早急に焼かねば……って、タンが良い焼け具合だ。ひっくり返さないと……。
あんまり奉行っぷりを発揮してもあれだけど、いつでも食べたい肉が網に乗ってる状態を作るのは大事である。と、私は経験則で知っていた。だから、自然と身体が動く。
みんなに楽しんでもらえたらそれが一番だもんね。
「常盤さん」
「はい」
水瀬さんから声を掛けられた。
申し訳ない、今は肉から手が離せないんだけど飲み物でも不足していただろうか。
「こっち向いてください」
「へ?……むぐっ」
水瀬さんの言葉に反射的に彼の方を向くと、私の口に何かしらが突っ込まれた。
私はそれが危険物でないことを舌で確認した後に咀嚼する。すると、肉汁がじゅわあと染み出して口の中で広がった。
お、おおお、美味しい……!なん、すご……美味い、美味すぎる……!
「それがヒレですよ。美味しいですか?」
私はこくこくと首を縦に振った。
お肉がまだ口の中に残っていたから声が出せなかったのだ。
「常盤さん、さっきからせせり以外食べてないじゃないですか。遠慮せず好きなだけ食べてくださいって言いましたよね?」
「……す、すみません……」
私はヒレを飲み込んでから謝罪の言葉を口にした。
「肉、嫌いですか?」
「まさか!大好きです!!!」
「じゃあ、いっぱい食べてください。どうせお金は父が払うんで、大丈夫ですよ」
それ全然大丈夫じゃないよ。もっと食べ辛くなったよ。
え、これ水瀬さんのお父様が払うの!?
いや、えー???水瀬さんのお父様って、水瀬の御当主?そりゃお金なんて腐るほど持っているだろうけど……そういう問題じゃない。
えー……でも食べないっていうのも失礼だよね……。
「私少食なので、本当にそこまで……」
私がどうにか少量の焼肉で済ませようと言葉を重ねると、その瞬間に私のご飯の上へ目掛けて肉が置かれた。
その手は反対側の座席から伸びて来ていて、手の主は神楽くんだった。
「めぐりは……俺と食べに行った時もどんぶり三杯平らげてたので、食べるのが好きなんだと思います。いっぱい食べさせてあげましょう」
私の喉がひょ、と鳴った。
おいおいおいおい、神楽くん???何言ってんだ君???
どんぶり三杯って……あれか!星宇くんのコラボメニューの……。
あれと一緒にしないでよ!!!こっちは一食推定うん十万よ!?
あんな……せいぜい五千円くらいのやつと一緒にしないで!五千円も高いけど!奢ってくれてありがとうだけど!
「な、ほら、いっぱい食べよう、めぐり。何が好きだ?」
「わた……しは……えと……」
神楽くん、善意でしか行動していない。
それが故に一番厄介だよ!くそう!
私はばっと水瀬さんの方を見た。あんまり食べすぎても困るよね?ね?
「好きなだけどうぞ。三皿でも四皿でも」
水瀬さん……!!
ねえ、水瀬さんの目が冷たいんだけど!こいつ三杯は食べ過ぎだろって顔に書いてあるんだけど!
私これから大食いキャラとして生きていくの!?いやだ!
「ち、違うんです水瀬さん!私はそんな大食らいでは……!」
「たくさん食べる女性は魅力的だと思いますよ、ええ」
限度があるけどな、みたいな顔してる!!水瀬さんが!
違うんだって!いっぱい食べるのはストレス発散の時だけなの!普段からいっぱい食べてる訳じゃないの!!
信じてくれえ……。
「めぐり?なんの肉が良い?」
「もう……神楽くん嫌い!」
「なんでだ……!?」
「嘘!嫌いじゃない!」
「どっちだ……!?」
嫌いじゃないけど、あの発言は最悪だ。タイミングも内容も最悪。
私がとんでも大食い女だと思われたじゃん……!
水瀬さんのあの冷たい目見た!?
最近そんなのばっかだ……。
私は最近水瀬さんにずっと呆れられている気がする……。
水瀬さん……嫌いにならないでね……私のこと……。
結局、私はハラミと牛タンをちょっとずつ摘んで、それで焼肉を終えたのだった。