二章 5
翌日の朝、私たちは出勤するために一階のエントランスに集合することとなっていた。
先輩は私の護衛を担ってくれるから、出勤帰宅を共にすることは決定事項だ。
しかし正直、今日朝から先輩と顔を合わせるのは気不味い。昨日のことがあるから。
先輩が詐欺に遭っているかもしれない。
まだ、かもしれないという段階だけど、もし違うのだとしたら昨日先輩があそこまで焦るのはおかしいじゃないか。
私に箝口を強いる理由なんて他に何があると言うのか。
そうなのだとしたら、先輩がそんな危険な目に遭っているのだとしたら、私は彼を助けたい。
だって、みんなは私を助けてくれた。
その恩は絶対に返さなければいけない。
「おはよう」
突然、私の背後から声が降ってきた。
私はそれに思わず身体を強張らせる。
先輩だ。先輩の声だ。
「お、おはようございます」
「ごめん、ちょっと遅れた。行こっか」
私の後ろから階段を降りてやってきた先輩は、そのまま止まることなく屋外へ出て行ってしまう。
多分、ただ時間がないから焦っているというのとは違った。彼は意図して私の目を見ないように努めている。
私は先に歩いて行ってしまった先輩を少し駆け足で追いかけて、彼の半歩後ろで歩を緩める。
先輩は私よりかなり上背があるから、ちょっと焦らないとすぐに置いていかれてしまう。
私は横目で先輩の顔色を伺った。
しかし、後ろにいる私からではその顔はよく見えない。
……昨日のことを聞かれるのは、多分先輩は嫌だろうな。
誰にも話すなって言うのは先輩自身にも話すなってことだと思う。二度と、一切その話を口に出すなと言うことだろう。
それはわかってる。
でも、もし先輩がそのことで困っているんだとしたら、私は……。
余計なお世話。それもわかってる。
でも、それをしないで先輩が居なくなってしまったら?私はそれこそ耐えられない。
それとも、私はそんな理由にかこつけて先輩の領域に土足で踏み込もうとしているだけなのだろうか。
私のこれは単なる野次馬根性でしかないのだろうか。
そうなのかもしれない。
そもそも私の気持ちなんて関係なく、先輩に利のある行動を取れなければ私の行動なんて迷惑でしかない。
首を突っ込むだけ突っ込んで何もできませんでした、では意味がない。
駅に着いた私たちはホームのちょうど中央で電車が来るのを待っていた。
先輩はスマートフォンを片手で操作して、私はそんな先輩を眺めている。
「……なに?」
「え?」
先輩が徐に携帯機器の画面から顔を上げた。
「さっきから凄い視線を感じるんだけど。あんまりジロジロ見られるの好きじゃない」
「す、すみません……」
私は慌てて先輩から視線を外した。次の焦点は電光掲示板に定まる。電車が来るまで、後三分。
私は先輩からそっぽを向いたような格好のままで立つことになった。
隣り合って列車を待つ私たちだけど、こうまで視線が交わっていないと側から見れば他人だと思われるだろうか。
私は今、先輩に不利益を齎す存在でしかない。
いきなり近くに引っ越してきて、引っ越しの手伝いをさせられ、朝晩と送り迎えをさせられている。
しかもそんな相手に自分の秘め事を握られていて、いつ言いふらされるともしれない。
私は先輩にとって邪魔な存在でしかないことだろう。
私は正直、高階由良に文句を言いたい。
彼女がいなければ先輩に掛けている迷惑なんて一つも存在し得なかったんだよ。引っ越しも送り迎えも、全部高階由良対策なんだから。
引っ越しがなければ先輩の秘密を知ることもなかったわけだし、私が先輩に嫌われることもなかった。
……はあ。世の中はままならないものだ。
自分が好きだと思う相手に好かれるのは難しい。より強くそう思う相手にこそ、一層。
だけど、努力はすべきだ。相手に好かれたいなら、努力をすべきだ。
私の瞳は電光掲示板の上を滑っている。
電車が来るまで、後一分。
「あの、先輩」
私は視線を戻すかどうか迷って、結局戻すことにした。
だから、私の目はしっかり先輩を捉えている。
先輩はジロジロ見られるのは好きじゃない、と言ったのだ。
別に普通に見る分には構わないはず。
先輩は視線だけをこちらに寄越す。
その目は変なことを言うなよ、とでも言わんばかりに鋭く光っていた。
大丈夫、私は先輩との約束は破らない。先輩のお願いを無碍にするようなことはしない。
「先輩、私は先輩のことが好きです」
私たちの前に並んでいた女子高校生がばっとこちらを振り返った。
今の、聞こえちゃったのか。まあ私と先輩の距離と、私と女子高生の距離はそう変わらないからな。
「だから、私は先輩の嫌がるようなことはしたくないと思ってます。今は、ちょっと状況的に先輩の負担になってしまうことも多いんですが……。でも、これからはちゃんと迷惑掛けないように努めます、善処します!あの、だから、要するに……私は何も言いません!それで、先輩は何かあったら私に言ってください!私にできることはなんでもします!」
先輩はスマートフォンから視線だけでなくて、顔も上げてくれた。
こんなに必死に喋ったのに上げてくれなかったらどうしようかと思っていたので安心だ。
持ち上がった先輩の表情は余り明瞭なものじゃなかった。
喜んでいるでもなく、嫌がっているでもなく、微妙な顔をしている。
その中で強いて一番濃く現れている感情を挙げるとすれば、それは困惑だろう。
「……なんか、色々ごめん」
「はい?」
先輩が謝罪の言葉を口にした。
なんで?謝られるとは思ってなかった。想定解の中に全く入っていなかった。
「まず、俺は常盤さんの気持ちには応えられないからごめん。好きって言われても、今は俺、彼女とかいらない」
「そっ、そういう好きじゃないですよ!勝手に振らないでください!」
「知ってるよ。だけど、その言い回しは本当に誤解を招くから」
まあ、そうだね。実際前列の女子高生にはそんな誤解を与えてしまっているし。
でも、勝手に振るのは酷い。これで私の告白失敗カウンターが一つ貯まってしまったじゃないか。酷すぎる仕打ちだ。
「あと、気を遣わせてごめん。常盤さんを迷惑とは思ってない。めんどくさいなーとは思ってるけど、それは常盤さんにって言うより由良ちゃんに対して思ってる」
先輩……!もう先輩大好き!
良かった!高脂由良対策の観点で先輩に負担をかけているのは粉れもない事実だったから、それを気にしていないと言ってくれるのは本当にありがたい。
「で、最後に昨日のことだけど……。俺もちょっと感情的になりすぎた。ごめん」
「いえ、あの、私も勝手に触っちゃってすみません」
「良いよ。別にわざとじゃないのは分かってる。でも、絶対に言わないでよ。それ破ったら普通に常盤さんのこと嫌いになるからね」
「はい!!言いません!絶対!言いそうになったら舌噛み切ります!」
「常盤さんって感情の振り切れ方が極端なタイプ?」
そうかもしれない。いやでも、正直比較対象がいないから極端かそうでないかはよくわからないけど。
ああ、良かった!これで先輩と仲直りできたんじゃない!?喧嘩してたわけじゃないけど……。
これから通勤帰宅と一緒なのに気まずいのは嫌だからね。
それに、先輩とは仲良くなりたい。
仲良くなって……それで、そうだな、先輩には私のお葬式に来て欲しいな……。お葬式に来て、できるならちょっと泣いて欲しいな。あいつは良い奴だった……って。
そういう関係性になれたら良いな。そうなれたら、私は嬉しい。