二章 4
本日は土曜日である。
しかしただの休日ではない。今日は他でもない、大掃除の日だ。
どこを大掃除するのかと訊かれれば、私の新たな住居となる官舎の一室だと即答しよう。
あの、どこもかしこも考え得る限りの汚れで覆われた504号室である。
私は朝も七時になろうかという時間には既に官舎へやってきていた。
隣には眠気を全く隠し切れていない間島先輩が立っている。
「早すぎだよー……。そんなに急がなくたって良いじゃん……」
「すみません……。あの、なんでしたら先輩はお休みになってください。ここは私の部屋になるわけですから、私一人でやりますよ」
そう言うと、先輩はじとっと私を睨み付ける。
「だからさあ、そういうのやめた方が良いよ。全部一人でやろうとするの。誰のためにもならない。それに一、そういう言い方されると、じゃあ休んでくるね!って言えないでしよ。俺が悪者になるじゃん」
そう言った後に先輩はずんずんと玄関から部屋へ上がり込んで、部屋中の窓という窓を開けた。
あれかな、先輩はツンデレってやつなのかもしれない。
別にあんたのためを思って掃除してあげるんじゃないんだからね、自分が後輩を手伝いもしないやつだと思われたくないだけなんだからね!みたいな?
ありがとう先輩……。本当に感謝です。
一人だと体力的にもきついし、何より精神的にモチベーションが上がらない。
ありがとう……。
「で、俺は何したら良い?」
「あ、えっと、先輩にはリビングの掃除をお願いしたくて……」
私はガシャガシャと音を立ててビニール袋を室内に運び入れる。
昨日の帰りに色々と道具を調達してきたのだ。ホームセンターで。
「まずこの電気をカバー外して水拭きして欲しいです。で、この中性洗剤で壁のカビ取って、セスキ炭酸ソーダ?ってやつで黄ばみを落として、フローリングも同じ感じで……」
「うわー、めんどくさ」
「すみません……」
だよねー。私もできるならやりたくない。
昨日一昨日で必死に部屋の掃除の仕方調べたけど、どのサイトにも自分でやるのは大変なんで普段から対策しましょうって書いてあったもん。
「あの……黄ばみはもう落ちなかったらそのままで大丈夫なので、なんとかカビだけでも……」
「おっけー。カビは身体に悪いからね」
私は先輩の言葉にうんうんと頷く。
みんなもカビには気を付けような……。
「常盤さんは?何するの?」
「私は水回りの掃除をしようかと。こっちはつけ置きしておくところも多いので、その間はもしかしたらリビングの方もお手伝いできるかもしれないです」
「良いよ、そんなの。こっちは勝手にやっとくから無理して手伝わなくても」
先輩はどこまでいっても優しいな……!
良い人だ、本当に良い人。
「ありがとうございます。洗剤や道具一式この袋の中にあると思いますが、足りないものがあれば言ってください。ちょっぱやで買いに行ってくるので!」
「ちょっぱやって懐かしいな……それ死語でしょ……」
死語なの!?ちょっぱやの使い勝手良いじゃん!じゃあ今の子はなんて言うんだよ……。
ま、まあ良い。気を取り直して掃除をしよう。
私にジェネレーションギャップを齎して始まった大掃除は非常に困難を極めた。
まず、単純に汚れが強固すぎた。
いくら擦っても、いくら洗剤を吹きかけても、微動だにしない汚れがそこにある。
年月は怖い。付着したばかりならこんなことにはならないのに。
あと、私が掃除に慣れていなかったのも駄目だった。
一回、いわゆる混ぜるな危険の洗剤同士がシンクの中に同時に流れ込みそうになってマジで焦った。あれは本当に死ぬぞ……。
出動で一命を取り留めたのに大掃除で死にましたは嫌すぎる。
それから、隣の部屋の人に怒られた。
土曜日なのにどすどすうるせえぞ!こっちは残業続きで疲れてんだよ!というお叱りが二件あったのだ。
因みに怒られたのは右隣の部屋と真下の部屋の人からだった。本当に申し訳ない。平謝りしておいた。
正式に引っ越したら、ちゃんとお詫びの品を持っていこう……。
そうして午後六時である。
部屋中のカビはなんとか殲滅できたことだろう。カビだけはね。
しかしまだ黄ばみと水垢はたんまり残っている。
はあ……もう無理……。諦めたい……。
「お疲れー。夜ご飯食べに行こー?」
「よ、夜ご飯ですか……」
完全に忘れてた。なんなら私はお昼も食べていない。
先輩は確か一旦自分の部屋に戻って昼食を取っていたと思うけど。
「行きましょう……。もう……燃料切れです……」
「ご飯はちゃんと食べないと駄目だよー?まあ俺もよく抜くけど」
駄目じゃん。ちゃんと食べてくださいよ。
先輩に倒れられたら困る。
「ここら辺ってどんなお店があるんですか?」
「さあ、よくわかんない。俺、牛丼屋さんかカレー屋さんにしか行かないから」
「もっと色んなものを食べてください……。今日は違うとこ行きましょうよ」
「節約してんの、節約」
「今日は私がお金出しますから」
「後輩に奢られるの?俺」
「今日のお礼ですから、奢りというのとは違いますよ」
そうそう。奢りとお礼は違うから。
是非とも美味しい料理を食べてください。
「先輩は何が食べたいですか?」
「うーん……そうだなあ……じゃあステーキで」
「え」
ステーキ、ですか。
……まあやっぱり体力をつけるためにはお肉だよね……。
でも高くない?ちょっと高すぎやしない?
いや、自分から聞いておいて何を言うんだって話かもしれないが……。
しかし、先輩が完全にステーキを求める顔になっていたので私は諦めた。
まあ、ステーキくらいね……私の安全な住居を確保できることに比べたら安いもんよ……。
そうして私たちはチェーン店のステーキ屋さんに来た。
あれだ、突然とか不意にステーキが出てくる名前のやつ。
なんだチェーン店ね、と私は安堵の息を吐く。
こう、シェフが目の前で焼いてくれる系ステーキ屋さんを思い浮かべていたので一安心だ。
私は普通サイズのステーキを頼んだが、先輩は私の二倍の量のやつを頼んでいた。
先輩、意外と食べるね。
「明日はどういう予定?」
「明日は私、荷物の運搬の方もやらないといけないので今日よりは開始の時間遅くなると思います」
「わかった。明日も今日とやること同じだよね?」
「はい。午前中はそうですね」
「じゃあ早めに始めとくよ」
「えっ、そんなそんな。先輩はゆっくり寝ててください」
「午後には荷物来るんでしょ?終わらなかったら駄目じゃん」
「それは……まあそうですね」
「うん、でしょ?だから早めに始めとくね。まあ寝過ごす可能性もあるけど」
「その時は全然大丈夫ですよ。ありがとうございます」
私たちはステーキが届くとそれを黙々と食べ進める。
話すことがない、というより食べるのに集中しすぎていたせいだ。
空腹と疲労を癒すのはやっぱり肉なんだな。
ある程度食べ終えたところで、先輩が私を見つめているのに気が付いた。
私はもぐもぐと添え物のブロッコリーを咀嚼しながら見つめ返す。なんだろう。
「そのジャージ何用?今日のために買ったの?」
「ああ、これ高校の時のですよ。うちの高校、指定のジャージなかったので市販のやつですけど」
「そうなんだ。指定ないのって珍しいね。どこの高校だったの?」
「名前言ってもわかんないと思いますよ。千葉市の真ん中らへんにある学校です。普通の公立高校って感じのところですよ」
「めぐりちゃん千葉なの?」
「そうですよー。千葉です千葉。ディズニーしかない千葉です。東京の植民地の千葉です」
「もうちょっと千葉に誇りを持ちなよ」
「うわ、それは東京人の余裕があるから言えるんですよ。千葉には東京ディズニーランドと東京ディズニーシーと東京ドイツ村しかないんですから。東京の侵略を甘んじて受け入れているんですから」
「千葉自虐凄いな。ていうか俺、東京出身じゃないよ」
「え、そうなんですか?」
「うん」
知らんかった。そうだっけ?
まあ私が出身をちゃんと知ってるのは神楽くんしか居ないもんな……。
多分水瀬さんは東京だろうけど、それも確定じゃないし。
それに神楽くんもアメリカの何処とか聞いたことないな。
私はみんなについて知らなさすぎる……。
「先輩は何処ご出身なんですか?」
「あー……んー……京都?」
「へー、京都なんですか。なんか良いですね」
「なんかって何?」
「なんか、こう、歴史を感じて良いなって」
「感想浅いなー」
「いや、いやいや、私にはとっておきの京都話がありますよ!」
「……ふーん。なに?」
「千葉県船橋市にはとある都市伝説がありましてですね……。千葉県では中学に京都へ修学旅行に行くのが鉄板なんですが……なんと船橋市の学校は京都への修学旅行出禁を食らってるらしく……。それによって船橋市民は京都への愛憎を募らせているとかいないとか……」
「なにそれ」
先輩は思わずと言ったように破顔した。
いや、これ嘘じゃないんだよ。本当に船橋だけ京都行けないんだって。
私は千葉市民だからよく知らんけど。
先輩はその後も暫く私の京都話で笑っていた。
そんなにお気に召しただろうか。ありがとう船橋市。
先輩の笑いが止むのを待って、私は伝票を確認する。
もうそろそろ席を立つ時間だと思ったからだ。
「いくら?」
先輩は私からひょいと伝票を奪っていった。
しかし私はそれを取り戻そうと先輩の手を追いかける。
「先輩が金額を確認する必要はないですよ。私が払うんで」
「いや、やっぱ良いよ。高いの頼んじゃったし。お礼だろうとなんだろうと、後輩に払わせるのは気分良くないし?」
「えー!そんな!」
「これ税込?」
「多分税抜です。あ、じゃあ税率分は先輩が払ってください。それで手を打ちましょう」
「それ計算めんどくさいでしょ。良いって」
「えー!!!じゃあ、じゃあ半分こ!半分こにしましょう!ちょうど折半で!」
「あー……まあそれなら良い塩梅かなあ。じゃあ折半ってことで」
「よし!ありがとうございます!」
「なんで俺、お礼言われてるんだろ」
確かに。まあ払わせてくれてありがとうってことだよ、うん。
ということで、私と先輩は会計を折半することになった。
先輩の方が注文あたりの単価が高かったので、一応ちょっとだけお礼にはなるだろう。
ステーキ美味しかったなあ。がっつりお肉を食べたのは久しぶりだ。たまの肉はいいね。
そんなこんなで一日目の清掃を一段落した私たちは二日目も同様に頑張った。
中性洗剤をかけてはブラシで磨き……セスキをかけてはヘラで擦り……。
腕の筋肉だけは出動よりも余程酷使したであろう。
先輩と私は満身創痍で二日目を駆け抜けた。
そして……
「終わったー!!」
私は快哉の声をあげた。
室内を見渡してみると、カビは綺麗さっぱりなくなり、壁の白色が鮮やかに映え、水回りの銀はピカピカと光っている。
そりゃあまだ完璧とは言い難いけれど、十分暮らせるくらいにはなった!
これでようやっと荷物が運び込める!
「先輩ありがとうございます!一人だったら絶対終わってませんでした……」
「うん、そうだね。次は自分から人を頼った方が良いよ」
「あ、はい……。すみませんでした……」
「うん、よろしい。はー、後は荷物運ばないとねー……。じゃ、行こっか」
「はい」
私の運び込まねばならない荷物はそう多くない。
というのも私のベッドは分解できるタイプのやつだからだ。
あと、マットレスも薄めのやつだし。
やっぱり一番嵩張るのは寝具だからね。
で、私の荷物だけど、実は半分以上先輩の部屋に置いてある。
置く場所に困って、取り敢えず置かせていただいていたのだ。
さっさと荷物を運び出さないと先輩まで今日の寝床に困ってしまうので、私たちはちょっぱやで___なるべく早く運搬をした。
荷物も九割方は運び終えただろうという頃、私は先輩の部屋で次なる荷物を探していた。
ちゃんと部屋に上がる許可は取っているので悪しからず。別に無断じゃないから。
やっぱりもう殆ど運び終わってるかな。
もしかしたら全部終わってるかも___と思ったところで、部屋の奥まったところに一つの段ボール箱を見つける。
こんな奥の方に置いてあったのか、気が付かなかった。
多分これで最後だな、と思って持ち上げようとすると、これが意外と重い。私の力では持ち上がらないほどに。
おかしいな。こんな重いの、持ってきたっけ?
何を入れたんだろう、食器とか?
私は中身を確認しようと箱の蓋を持ち上げる。
中に入っていたのは私の知らないものだった。私が持ってきたんじゃない、これは。
私はばっと蓋を閉じた。
これ、元から先輩の部屋にあったやつだ。やっちゃった。
後ろから扉の開く音が聞こえる。先輩だ。
私は慌てて立ち上がった。
「後どのくらいあるー?」
「えっ、あっ、もうないかなーって……」
先輩が扉を開けてリビングに現れた。
彼は不自然に突っ立った私を見て少し訝しむ顔をする。
「どうしたの?」
「あ、いや……その……この段ボールって……」
「あ……」
私が先ほどの段ボールに目配せすると先輩は驚愕の表情を浮かべて、それから素早い動きで私を箱から遠ざけた。
掴まれた私の腕が痛みを訴える。それほどに彼の力は強かった。
「ごめん。これは俺のやつ。紛らわしかったね、ごめん。しまう場所なくて」
先輩はそう早口に並べ立てた。
きっと先輩はこの箱の中身を私に見られたくなかったんだろう。
ここまでわかりやすければ容易にそうと分かる。
だったら私にはすべきことがあった。彼に対して言うべきことが。
「すみません、先輩。私さっきそれにちょっと触っちゃって……」
「中、見たの?」
私の腕を掴んだままの先輩の指が更に食い込んだ。
問いかける彼の目は暗くて冷たくて、触れれば切れそうなほどに鋭い。
「すみません……見覚えのない段ボールだったので中身を確認しようと……」
先輩の瞳が目一杯に見開かれた。
今にも零れ落ちそうなその瞳には驚きと怒りと後悔と、それから色んな感情が刹那の間に過ぎ去っていく。
その感情の奔流を抑えるかのように先輩はゆっくり目を閉じた。
はあ、と小さな溜息が漏れた後に彼はもう一度私を見る。
先ほどとは打って変わって、その瞳にはなんの感情も宿っていない。石膏でできた彫像のように無機質だ。
「……ごめん。俺が置いといたのが悪いね。……ねえ、一つお願いがあるんだけど」
先輩は私の腕を掴んだ手に一層力を込めた。
これはきっと意図的だ。さっきまでは違ったとしても、今のは確実に意図的だった。
「中身の話は誰にもしないで。わかった?」
先輩は綺麗な笑顔をする。出会った時からずっとそう思っていた。
彼に似合う、明るい笑顔だ。
でも、この笑顔は違う。相手を威圧して脅迫するためのものだった。
逆らってはいけない、と思った。そういう感情が湧いて出た。
そもそも中身のことなんて、誰にも話す気はなかった。
勝手に見て勝手に言いふらすなんて、そんなのはまともな人間のやることじゃない。
だからそんな脅すような真似をしなくたって、私は言わないつもりだった。
だけど、私を頷かせたのは逆らってはいけないという恐怖からくるものだった。
私の首肯を見た間島先輩は半ば引き摺るようなかたちで私の腕を引く。
そしてそのまま放り出すように私を部屋の外へ連れ出した。
「じゃ、また明日」
バタンと先輩の部屋の扉が閉まる。
心なしかそれは少し乱暴な閉め方だった。
私は一歩後ろへ退いた。
幅の狭い廊下だったから、それだけで私の身体はすぐ鉄柵にぶつかる。
背中に感じるのは心許ない鉄の棒の感触だ。酸化し赤黒く変色して腐敗したそれは、今にも崩れてしまいそうで怖い。
私は茫然と先輩の部屋の扉を見つめる。
あの段ボールの中に入っていたものは水だった。二リットルのペットボトルに入った水。
それと先輩の腕に着いた数珠と似た色合いの、ペンダントや指輪などのアクセサリー。
それらが大量に入っていた。あの一瞬では数え切れないほどの多さだった。
水のペットボトルにはラベルが巻かれていて、そこには『湧聖水』という文字が踊っていた。
清らかさを全面に押し出すような青と白のラベルだった。
あれは……。
私には、一つ思い浮かぶ単語があった。
水と指輪とペンダント。別にそれぞれは誰の家にあったっておかしくない。普遍的なものだ。
でも同じ種類のものが、しかも大量に一人の家に置いてあるなんてことはそうそうない。
そうそうないというか、そんな状況があり得るとすればそれは大抵原因が共通しているはずだ。
霊感商法。それか、マルチ商法でも良い。
そういう怪しげな詐欺紛いのことに巻き込まれでもしていなければ、あんなものが大量に置いてあるわけがない。
私は鉄格子を後ろ手で掴んでずるずるとしゃがみ込んだ。
どうしよう。先輩が変な詐欺に巻き込まれている?
さっき先輩から箱の中身のことは誰にも話すなと言われたけど、それって警察にも?ネズミ講とかって警察に相談してどうにかなるんだっけ。いや、警察に相談する前に先輩を説得すべきだろうか。
私は余りの衝撃に上手く頭が回らないでいた。
だって、こんなことが身近で起こるなんて考えてなかった。
どうしよう。どうしたら良い?
私が少し俯くとジャージに白い染みができているのが目に入った。大方掃除中に洗剤でも飛んだのだろう。
ああ、そうだ。私は引越しの真っ最中なんだった。
早く荷解きしないと今日寝るところがない。
私はよろめく足取りで自分の部屋に向かって歩き始めた。




