二章 2
私の初めての出動、そして高階由良の手先襲来事件から四日が経った今日、私の特務課人生は新たなフェーズを迎えていた。
「こっから上野まで行って、それから日比谷線に乗り換える。電車だけで片道三十分くらいかな」
「意外と遠いですね、北千住って」
私は今、間島先輩と共に電車に揺られている。
目的地は私の新住居候補の官舎である。
昨日私が本部に官舎の利用を直談判しに行って、今日部屋が用意できたので内見に行ってこいと言われたのだ。仕事が早い。
内見、とは言うものの私がそこに住むのはほぼほぼ確定事項であるので実際見て覚悟を決めてこいということだろう。
官舎を見に行くのになんで間島先輩も一緒なのかというと、それは彼の現住居も同官舎であるからだ。
そう、私が住む予定の官舎にはなんと間島先輩も住んでいるのである。
東京にある官舎というのは要するに合同宿舎ということで、そこには様々な省庁に所属する職員がごった煮で暮らしている。合同宿舎の合同というのはそういう意味だ。
しかし、幾らごった煮で暮らしていると言っても真に無秩序というわけではない。
各省庁、官舎の利用に関しては縄張りのようなものがあって、同じ省庁の職員は広い自舎内であっても近くに住むことが往々にしてある。ということらしい。
結局私、特務課の人の近くに住むのね。まあ良いけど。水瀬さんとの同居に比べたら百万倍マシだ。
……言っておくが、私が水瀬さんを嫌っているというんじゃあない。
ただ普通に、家族でも恋人でもない人と同居はちょっと厳しいものがある。流石にね。
電車のスピーカーから日本橋ぃ日本橋ぃという間延びした声が聞こえてくる。それと同時にぷしゅーという扉が開く音も聞こえてきた。
その少し後に私の身体はぐいぐいと壁に押し付けられる。
有り体に言えは、今の状況は帰宅ラッシュである。
官舎の内見のために定時退勤をした私たちは帰宅ラッシュど真ん中の時間帯に、しかも東京メトロ銀座線に乗るという苦行強いられているのだ。
まあ今日はまだマシな混み具合だけど……。
「大丈夫?」
「あ、はい。先輩も大丈夫ですか?」
「うん。毎日こんなもんだからね」
私の横で同様に壁に押し付けられている間島先輩がそう言った。
まあ首都圏の帰宅ラッシュなんて大抵すし詰め状態だから先輩も慣れているんだろう。
幾ら慣れていてもきついことに変わりはないけど。
「ねえ、常盤さん」
「はい」
「これから暫くこんな感じが続くと思うけど大丈夫?」
「……?はい。私も東京は五年目ですから満員電車には慣れてますよ」
「ああ、ごめん。そうじゃなくて、これから暫く俺と一緒に帰ることになるけど大丈夫?帰りだけじゃなくて行きもだけど。友達とかと一緒が良いかなーと思って」
あ、そっちか。
先輩が言っているのは、私が高階由良にいつ接触しても良いよう護衛的な役割として一緒に帰るけど、それって嫌じゃない?ということだろう。
私が一番無防備になるのは家に居る時じゃなくて行き帰りの道中だ。
私の『血の特異性』はまだ余り信用ならない。私が単体で高階由良に対抗できるかと聞かれるとそれは否であろう。
だから、私は先輩に頼るしかない。
「大丈夫、というか私からお願いしたいです。高階さんは神出鬼没ですから。ご迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
「うん、わかった」
そう言って間島先輩は柔らかく笑う。
まあ、そもそも私一緒に帰る友達いないし……。
いやいや、でも学生じゃないんだから友達と一緒に帰るのが良いってもんじゃないよ、うん。
友達、かあ。めぐりちゃんは友達多いタイプだったぽいけど。麻生をはじめとして。
私は……多いってわけじゃ……なかったけど……一人、大事な、本当に大事な友達が……。
違う。違った。それは私じゃないんだった。
毎回間違える。私はいつもそうやってこの世界という現実から逃げている。
私は常盤めぐりで、それ以外の何者でもないのだ。
そう心の中で呟いた。
私たちは先輩の言う通りに上野まで行って日比谷線に乗り換え、北千住に到着した。官舎はこの街にある。
実際の建物までは少し距離があるが、それでも歩いて十分もかからない。
官舎に着くと、だだっ広い敷地に七、八階くらいと思しき白色の無機質な棟が四つ立ち並んでいた。
雰囲気は普通の団地と全く変わらない。
私たちは本部に指定された部屋に向かって歩みを進める。
私の住居として提案されたのは第一棟の504号室だった。
「あれ、多分これ俺の部屋の真下だ」
「え、そうなんですか」
真下って。まあ別に良いけど。
「うちって壁とか床とかうっすいからね~。うるさかったらごめん」
「いえ。私もうるさくしないように気を付けます」
間島先輩の言う通り、そして噂に聞く通り、官舎は外見からして非常に古めかしさを漂わせていた。
塗装は割れて剥がれ、基礎のコンクリートは黒ずみ、鉄柵は赤褐色に錆びている。
お手本のような昭和の団地だ。
私の手元にある資料によるとこの官舎は築二十九年らしいから本当に昭和の建築物ってわけじゃないと思うが。
灰色のコンクリートの階段を登って504号室の目の前まで来た私たちは、早速扉を開けて中に入ってみた。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します……」
本部から渡されていた鍵を差して中に入ると、そこは普通の部屋だった。
明るい木目調のフローリングに白の壁。五畳半の1K。風呂トイレは別。シンクと、ガスコンロが一口。
設備は本当に普通だ。風呂トイレが別なのには驚いたが。
確かに設備は普通だ。普通なのだけど……。
「……これ、このままだと住めないですよね……」
「まあね。ちゃんと掃除しないと。なんか、官舎って管理雑なんだよね。格安で住まわせてもらってるのに文句言えないけどさあ」
そう、なんとこの部屋めーーーっちゃ汚いのである。
設備はね、普通なんだけど。その表面が超汚い。
これ前の人、退去する時ちゃんと原状回復した??凡そそうとは思えないくらい酷いんだけど……。
フローリングは所々剥がれているし壁面のクロスはほとんど一面黄ばんでいる。しかもどちらも至る所にカビが生えていた。
リビングも酷いけどもっと酷いのは水回りだ。
コンロの周りは焦げと油汚れがこびり付き、水道のある場所には水垢とカビ。
考えうる限りの汚れという汚れが付きまくっていた。
「こういうのって退去時に原状回復するんじゃないんですか……?それか大家さん側が修復するとか……」
「ま、普通はそうだよね。でもこれ経年劣化でどうしようもないのが多すぎるんじゃないかな」
「ああ……築二十九年ですしね……。いや、でもこのまま住むのは……」
「それは嫌だよね~。一旦掃除した方が良いと思うよ」
言われなくてもする。絶対する。
このまま住むのは流石に嫌だ。衛生上悪すぎるよ、こんなの。
……どうしよう。想像以上だ。
設備が酷いとか汚いとかよく言われている官舎だけど、ここまでとは……。
人間として最低限度の健康的、文化的な生活が送れるのか?これで。
いや、まあ設備そのものは思ったより悪くはないか……。
確認した感じエアコンや給湯器は問題なく使えそうだし、キッチンも意外と広い。室内に洗濯機置き場もあるでしょ?なんでか独立洗面台もあるし。
うん、やっぱり設備自体はそんなに悪くない。
そこに汚れがトッピングされているのが問題なのであって。
落ちるのか、この汚れたちは……?
まあフローリングの剥がれとかクロスの黄ばみとかは家具の配置で誤魔化すのでも良いけど、せめてカビくらいはどうにかしたい……。
カビは本当、健康に関わるもの……。胞子は怖いよ……。
しかし、どうしたものかな。
私はなるべく早くここに引っ越しをしたいのだ。
だって今の家に帰るの怖すぎるから。
いつ高階由良が襲ってくるかわかったもんじゃないし。
引越しの前に立ちはだかるのは向こうでの荷造りと運搬、こちらでの荷解きだけだと思っていたんだけどな……。そこに大掃除が加わるのか……。
ローレル側も私にはなるべく早く転居してほしいそうで、引っ越し費用やその他の手配諸々請け負ってくれるらしい。ありがてえ。
だから、今の私は結構日取りに自由が効くのだ。多少無理のある日程でも融通をきかせられる。
「先輩、ここの管理って財務省でしたっけ?ちょっと清掃に関して相談したいことが……」
「あー、管轄は財務省だけど管理人さんは外部の人だよ。電話番号紙に書いてあるんじゃない?」
「わかりました。ありがとうございます」
よし。やることは決まった。
荷造りして掃除する。そうしないと引っ越しできない。すぐやろう。
今日は水曜日で木、金は普通に仕事だ。
木、金の夜で荷造りを済ませて土日で掃除運搬荷解き。完璧だ。
……ちょっと、いやかなりきついけど大丈夫。
私はやればできるやつだ、きっと。
私は壁のカビを見つめながら一人決意を固めていた。
絶対今週中に引っ越してやるぜ……!と。
「いつ掃除する?俺、最近暇だからいつでも良いよ~」
「え?」
無言で壁を見つめていた私に向かって間島先輩がにこにこと話しかけてくる。
え?どゆこと?今の先輩の口ぶりだと、あたかも私と彼が共同でこの部屋を掃除するみたいだけど……。
いや、この人多分そういう意味で言ってるな。
「いや、あの、掃除は私一人でやりますよ。先輩のお手を煩わせるわけには……」
「え、これ全部一人でどうにかするつもり?」
「は、はい。そのつもりでしたけど……」
そんな理解不能な生命体を見たみたいな顔しないでくれ。
私は真面目に考えたんだよ。
「無理だと思うよ。時間かけるなら絶対無理ではないけど、今はその時間がないじゃん」
「いやあ、全部を完璧に綺麗にするわけじゃないですし……」
「どういう予定で引っ越しするの?」
「今週中には終わらせたいなあと。木金で荷造りして土日で掃除と運搬って感じで……」
「そのカツカツなスケジュールでよくいけると思ったね。しかも一人で」
……いちいち仰る通りです。自分の分も弁えずすみませんでした……。
いや、だって……。……駄目だ。反論の要素が全く見当たらない。
「……あの、やはり先輩に掃除のお手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか……」
「はい、良いよ。じゃあ今週の土日ね」
「よろしくお願いします……」
うん……まあ冷静に考えたら、どうみてもこの汚れを一人でどうにかするのは無理があるよね……。
いやあ、あんまり先輩を頼るという発想がなかったんだよ。
だって自分の家のことだし。なんか半分くらい仕事要素入ってるけど。
間島先輩は私の返事を聞いて、それから満足そうに頷いた。
彼は徐に窓に近付いて開ける。それは立て付けが悪いのかすんなりとは開かなかったけど、開いた後には涼しい風を取り入れてくれた。
「本当にここで良いの?」
先輩はサッシに手を掛けながら私にそう問うた。
私はなるべく綺麗な床を歩こうと、足を置く地面を慎重に選びつつ窓に近付く。
「はい」
「こんな汚いのに?あれでしょ?ローレルか赤薔会か、めぐりちゃんの家賃も引越し代も全部持ってくれるんでしょ?じゃあ別のとこの方が良いと思うけどなあ」
まあ、確かに。
でも多分ローレルと赤薔会の意向として、私にはなるべくどちらかの組織の息のかかった場所に住んでほしいっぽいし。
ただ引越せば良いってもんでもないから難しい。
「他の候補が水瀬さんのお家で同居しか、今のところないんです。私も流石に同居は遠慮したいなあって感じなので……。すみません、なるべく邪魔にならないよう努めます」
「あー、いやごめん。別に邪魔とか思ってないよ。ただ、ちょっと我儘言ったらローレルも別のとこ用意してくれそうな気がするから、無理してここじゃなくても良いよって言いたかっただけで。水瀬だけじゃなくて他の四職とかどうせなんか持ってるでしょ」
「そうですかね。まあローレルからしてもここは仮住まいの認識だそうなので、私も他が見つかればすぐ移動することになりそうなんですけど」
「なるほど。じゃあまあ、俺が口出すことじゃないか。住めなくはないからね、ここ」
先輩が窓の外を眺めているのが視界の端に映る。
私は逆に室内の汚れを注視していた。
「先輩はなんで官舎に住んでるんですか?」
「え、急になに?」
「いや先輩、ここに結構不満ありそうな感じだったので引越さないのかなーって。すみません、余計なお世話で」
「ああ、そういうことか。そりゃ安いからだよ。それ以外ない。正直この汚さにはうんざりしてるけど、耐えられないほどじゃないし」
安い、か。まあそうね。
都心の地下鉄沿線にこの安さで住めるのは魅力的だよね。
機能性も悪くはないし、衛生環境に目を瞑れば好物件ではある。
その衛生環境が壊滅的なんだけど。
それに、お金は大事だ。うん。
この先が見えない時代に於いて貯蓄に気を遣うのは当然のことである。
「やっぱり安さは大事ですよね……。公務員の給料ってそんなに高くないですし……」
「だよね~。もうちょっと多くしてくれても良いのに」
「本当ですよ。自分から入っといて言うことじゃないですけど」
「あはは。まあ、俺は___」
先輩は何かを言いかけてすぐに口を噤んだ。それと同時に愛想笑いを多分に含んだ笑顔も消える。
彼の瞳はずっと遠くの空中を見つめていた。
空は殆どを夕暮れの赤が占領していて私はなんとなく、興奮色だなと思った。
その夕空が、少し濁ったガラスに隔てられる。
先輩が窓を閉めたのだ。
「ごめん、なんでもない。もう帰ろうか。送ってくよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
先輩は窓の鍵を閉めつつ私に笑いかけた。
あの鍵はクレセント錠と言っただろうか。そのレバーを操るための手が付いた彼の腕には、カフェオレみたいなマーブル模様の数珠が揺れている。
あんな数珠、間島先輩は着けていただろうか。
いや、確かに着けていた。黒い紐で貫かれた数珠は仕事をする中で時折ちらちらと、彼の袖口から存在をのぞかせていた。
でも、私が違和感を拭えないのはそこじゃない。ゲームで、彼はそんなものを着けていなかった。
間島レイヤの立ち姿を描写した絵。その絵では彼の右手首にそんなものはなかったはずだ。
私は頭にもたげた違和感を、すぐさま跳ね除けた。
だって私には、前世でのことなんて関係がなかったからだ。
 




