一章 36
「私……殺されるかもしれません……」
私は涙声で水瀬さんにそう言った。
「はい?」
「私、このままだとマジで殺されます!どうしましょう!」
水瀬さんは紅茶を傾けつつ私の瞳をじっと見つめる。
私は昨日の帰り道に高階由良に会って、そして今日は開門丁度にローレルに登庁した。
家に一人でいるのが怖すぎたのだ。
だって高階由良には家がバレているし、彼女がいつ私を捕まえに来るかわからなかったから。
当然開門時間丁度に来ても第八特務課には誰もいなかった。
始業時間の三十分前になって漸く水瀬さんがやって来るまで、私はいつか高階由良がひょっこり現れるんじゃないかと気が気じゃなかったのだ。
「殺されたらちゃんと供養してくださいね……葬式は小さいので良いですから……」
「殺されません」
水瀬さんはティーカップを机に置くと同時に私の言葉を一刀両断した。
「ここは現代日本ですよ。歴史的に見ても世界的に見てもここより安全な場所はそうそうありません。殺すだの殺されるだの、そんなもの日常的に起こるわけがないでしょう」
つ、冷たい……。水瀬さんが冷たい……。
取り付く島もないとはこのことだ……。
「でもっ、土曜日はすっごく危なかったですよ!」
「あれは作戦とその延長線上でしたから全く日常ではないです。僕たちだってそう高頻度で出動するわけではないですよ」
さ、さいですか……。
いや、いやいや、違う違う!
私はこんな、言いくるめられに来たんじゃないんだ!
「昨日、高階さんに会ったんです!家の近所でばったり……というか住所を知られてたみたいで!」
「……そういうことは早く言ってください」
今まで片手間感覚で私の話を聞いていた水瀬さんがこちらにちゃんと向き直ってくれた。
もう、最初からちゃんと聞いて欲しいものだ。
「それで、高階さんからは何か言われましたか?」
「はい!やっぱり高階さんは私を狙っているみたいです。昨日も勧誘されましたし。それで、私あの、高階さんを怒らせちゃったみたいで……今までと言っていること自体は変わらないんですが、もう雰囲気が!ガチなんです!」
「ガチって……」
私の語彙力のなさに水瀬さんが呆れていた。ごめんって。
そこは言葉を失うくらい怖かったってことにして欲しい!
「本当に!ガチだったんです!目的のためなら手段を選ばない的なそんな感じでした!ローレルを潰して絶対私を手に入れる、って言ってて……すぐにでも動いてきます、高階さんは。そうやって言ってました。それに、実際やると思います。だから……」
「わかりました」
水瀬さんは軽く頷くと、今まで掛けていた椅子から腰を浮かす。
「早めの対応をするよう本部には伝達しておきます。既に手を打ってあるところも多いですから、余り心配しないでください。___それより、大丈夫でしたか。高階さんに何かされてませんか?」
そう言って水瀬さんは私の瞳を至近距離から覗き込む。
彼の方が背が高いから、私は殆ど直角に首を傾けることになってちょっと辛い。
ていうか、こんなに近いのが問題なんだな、きっと。
ここまで近くなけれ私だって態々ほぼ真上を見上げなくたって良いだろう。
だから、私は一歩下がりつつその質問に答える。
「はい、昨日は何も。危害自体は加えられていません」
「そうですか。それなら良かった。……でも、自宅の住所を知られているというのは問題ですね」
「そうなんですよ!昨日も殆ど待ち伏せされたようなものでしたし、このままだといつ襲われてもおかしくないと思います」
本当に私の家なんてどうやって調べたんだろう。
私が知らない間につけられていたんだろうか。
まあ、別に知り得た手段なんてどうでも良い。
それよりもこれからどうするのか、対策を立てるべきだ。
「私、引っ越しとかした方が良いですか?でも引っ越しもすぐにできるわけじゃありませんし、引っ越した先でもまた同じことが起こったらいたちごっこも良いところですよね」
「そうですね。……常盤さん」
「はい」
「これは、こんなに早く提案することになるとは思っていなかったんですが……」
「はあ」
水瀬さんは私への視線を外すとデスクの上の棚から数組の紙を取り出した。
「元々、本部も常盤さんの身柄を下手なところに置いておくわけにはいかないと考えていたようです。なるべくローレルか、若しくは赤薔会の目の届くところに居て欲しいと。ただそれは強制できるようなことではないので、上も今までは何も言ってこなかったんです」
なるほど?まあ日本は法治国家だからね。
居住移転の自由が阻害されるようなことがあってはならないだろう。
しかしそれが高階由良の登場によって変わったと。
一方的に監視するだけならそれは基本的人権の侵害になりかねないけど、私にも利があって尚且つ私がそれを望むなら所謂ウィンウィンの関係になることができる。
「ローレルは常盤さんに新たな住居を提供したいと思っている、ということです。正確に言うと提供するのはローレルではなくてうちなんですが」
「うち、ですか?」
「はい。僕の実家が、です」
ああ、水瀬家がってことね。
いや、水瀬さんちって本当に凄いところなんだよ。
富と権力どちらも手にする日本有数の高貴なお家柄なんだから。
水瀬の家系に脈々と流れる血は日本に於いて、『血の特異性』の主要四系統の内、第一系統の源流を成している。
他の三系統の源流となる家々と合わせて総称を『四職』というのだが、『四職』は軒並み莫大な資産と輝くばかりの威光を備えているものなのだ。
要するに水瀬さんは超超超お坊ちゃまというわけ。
だから、彼には下手に逆らってはいけない。
よっぽどのことがない限りはへいこらしておくのが吉である。
まあそうでなくても水瀬さんは私の上司なんだから、普通に丁寧に接すべき人ではあるんだけど。
で、その水瀬家が私に住むところを提供してくれると。ありがたい話だ。
「私としては、このまま今の家に住み続けるのではおちおち夜も寝ていられないのでありがたいです。是非そちらを利用させていただければと思うのですが……」
「わかりました。……実は、ですね。一つ言っておかなければならないことがあって」
「はい」
「その、うちが提供する住居というのはマンションの一室なんですが」
「はい」
マンションかあ。めぐりちゃんは住んだことがないはずだ。
実家は一軒家で、大学社会人とアパート暮らしだったから。
まあ前世の私は長いことマンション住まいだったけど……。
……ああ、いけない。前世のことはもう思い出さないと決めたんだった。
いつも自分の意思薄弱さには呆れる。これは私だけに関わることじゃないんだから、ちゃんとしないと。
「……僕と同じ部屋なんです」
「は?」
ガチャリ、と扉の開く音がした。
この空間には扉が二つある。給湯室へ続く扉とオフィスの出入り口の扉。
私は誰より早く特務課に来ていたが、水瀬さん以外の人影は見かけなかった。
だから必然、開いたのは出入り口の方のドアであろう。
私は水瀬さんの発言をまともに受け取る前に、来訪者を確認した。
三保さんと神楽くんだ。
二人一緒に来たのかな?仲良いんだね。仲良きことは美しきかなですよ、うん。
美しいといえば今日電車の吊り広告で見た箱根湯本の風景は綺麗だったなあ。これぞ日本って感じで。
今は夏だけど、夏の温泉というのも乙だよね。私は結構好きだよ。みんなはどう?あ、普通?そっかあ。
「おはようございます」
「おはよう。二人でなんの話してたんだ?」
やめて三保さん!それを聞かないで!折角現実逃避してたところなのに!
え、ねえ、今水瀬さんとんでもないこと言ったよね?いや、もしかして聞き間違いか?
「ああ……その、まあ常盤さんの今後のことを」
「今後?本部がなんか言ってきたのか?」
「それもありますが、なんというか、状況が状況なので早めに動いた方が良いかなと」
「俺たち、なんかすることある?」
「いや……今のところは……」
「ん、了解。じゃあ、常盤はどうするんだ?このまま何もしないってことはないだろ?」
「それは……取り敢えず常盤さんには住居を移ってもらおうかなと……」
「ふーん。ローレルが融通きくとこなんてあんの?」
「まあ……高円寺のやつとか……」
「お前んちが持ってるとこじゃねえか。ていうか、燈真も今同じとこに住んでるよな?それは流石に嫌だろ。なあ、常盤」
三保さんの問いかけに私はびくりと肩を跳ねさせた。
今、そのタイミングで聞きます?
多分ね、三保さんは同じ建物に住んでいるのは嫌だろうって意味で聞いたんだと思うんだよ。
幾らマンションとはいえね、上司と同じというのは嫌といえば嫌だ。
でも今はそんなの比じゃないことで悩んでるんだ、私は!
「そう、ですね……。同じ部屋というのは、ちょっと……」
「「部屋?」」
三保さんと神楽くんが同時に同じ単語を口にした。
ここで水瀬さんも言ってくれれば良かったのにね。
そしたら私の聞き間違いだった説がかなり有力になったのに。
水瀬さん、今からでも遅くないよ!『部屋ってどういうことですか?』って聞こう!
「……僕が決めたんじゃありませんから。本部と、それから赤薔会が決めたことですから。僕は知りません」
「燈真……お前……!」
三保さんの表情がみるみる内に険しくなっていく。
あ、これはまずいやつだと思った。
「燈真!お前には人として最低限の常識ってもんがないのか!」
「だから、僕が決めたんじゃないですよ。あと、三保さんに常識を説かれるのは心外です」
「うるせえ!お前は昔から責任逃れの言い訳だけ上手くなりやがって!」
「あー、はいはい。兄費じゃないんだから嫌な怒り方しないでくださいよ」
三保さんがここまで怒ってるのも初めて見たけど、水瀬さんがちょっと子供っぽいところも初めて見た。
人間、色んな側面があるものだよね……。日々是発見ですね。
私は一歩下がって二人の言い合いから逃げる。
神楽くんは二人の間でおろおろしていたけど。
ごめんね、神楽くん。ちょっと私は巻き込まれたくないかも。
「一緒の部屋だあ?それは常盤にとってデメリットがデカすぎるだろ。なあ、神楽」
「まあ……それは俺もそう思います、けど……」
「もう部屋空いてないんですよ。それにあそこ、無駄に部屋広いんで大丈夫って判断されたんじゃないですか」
「正気かお前。どこにも大丈夫な要素ないだろ」
「だから、おれが……僕が判断したんじゃないんですって。僕だってどうかと思いますよ。いくら目的があるとはいえ」
「じゃあ断ってこいよ」
「それは僕に怒られてこいって言ってるんですか?」
あああ……これ、ガチの喧嘩じゃない?しかも原因私だし。
ごめんって......。私がつべこべ言わず本部の提案に乗っておけば良かったんだよね、ごめん。
いや、そう簡単に呑める提案じゃなかったのは事実なんだけど。
本部も色々な思惑があってそう指定してきているのはわかるから。
……いや、私が態々水瀬さんと一緒の部屋で暮らさなきゃいけない思惑なんて、一体どんな思惑だよと聞いてみたいが。
私がどうやって二人の仲裁に入ろうかと頭を悩ませていたその時、特務課に新たな来訪者がやってきた。
「おっはようございまーす。……あれ、なんか空気重くないっすか?」
扉から顔をひょっこり覗かせているのは間島先輩だ。
彼は今日も今日とて金髪にスーツとアンマッチな格好をしている。もちろん、それが彼に似合っていないなんてことはないのだけど。
神楽くんがそんな間島先輩をじっと見つめている。
「……官舎」
そして神楽くんはぽつりと呟いた。
かんしゃ?なんで急に?いや、いつだって感謝の心を忘れないのは偉いけど。
「そうか!その手があるか!神楽、お前天才か!?」
「天才……そうかもしれません」
三保さんの囃し立てる言葉に神楽くんは神妙な顔で頷いた。君の辞書に謙遜という文字はないの?
しかし、三保さんは何をそんなにはしゃいでいるんだろう。
神楽くんが感謝して三保さんがはしゃぐ?複雑怪奇なこともあったもんだなあ。
そう思っていると三保さんが私を振り向いた。なんだなんだ。
「常盤、官舎に住むってのはどうだ?」
「かんしゃに住む……」
かんしゃ?あ、官舎か。なるほど。
官舎ってあれね、社宅みたいなやつね。
ああ、確かにそれはありだな。
官舎って省庁が提供してくれるから家賃は安いはずだし、高階由良だって容易に侵入できはしないだろう。
官舎はその特徴ゆえに、メリットがある代わりにデメリットもそれなりの大きさになると思うけど……。
例えば……
「え、常盤さんがあそこに住むんですか?やめといた方が良いですよ、絶対。マジでボロいっすよ。女の子が一人で住むようなとこじゃないですって」
そう。そうなのだ。
官舎って都心に格安で住める代わりに設備が非常に古めかしい、言葉を選ばずに言えばめっちゃぼろっちいのである。
常盤めぐりもローレルに入職するにあたって、割安な官舎への居住を検討したっぽいのだけど、余りの設備の酷さに断念したみたいだ。
でも、でもね。今の私の状況を考えてみてよ。
今の自宅に住み続ければ高階由良にいつ襲われるかわからない。本部の提案に乗れば水瀬さんと謎の同居。
多少ポロくても官舎に住んだ方が絶対マシだ。
マシどころじゃない。天国だ。ヘブンだ。エリュシオンだ。
「私官舎に住みます!住みたいです!」
「えー、本当やめといた方が良いって。多少高くても普通のとこの方が良いよ」
間島先輩は苦い顔をしていた。
どんだけボロいんだ、官舎ってやつは。
しかし、私の意思も固いのだ。
正直これ以上に良い案が思い浮かばないんだよね。
官舎だったら本部も納得してくれそうだし。
「いや、常盤。取り敢えず官舎いっとけ。次に住むとこが見つかるまででも良い」
「はい!ありがとうございます!」
「燈真もそれで良いな?」
水瀬さんは小さくあー……と呟きつつ私たちから目を逸らした。
「……それを本部が呑むかはわかりませんからね。それに官舎の方だって空いてるかどうか……」
「そうですね。じゃあ、私が本部に行って聞いてきます!」
「は?今からですか?」
「はい!善は急げです!」
水瀬さんは嘘だろ、という顔をしていた。そりゃそうだ。
しかし火のついてしまった私は誰にも止められない。
ドントストップミーナウだ。止めてくれるな、私を。
その後、私は本部に突撃した。
魔境とも呼ばれる本部だけど、今の私にはそんなの関係ない。
アポもなんも取ってないけど、そんなのも関係ない。
結果を言ってしまおう。
本部は私の官舎への転居を認めてくれた。
かなり私が押し切った形だったのだけど、それでも一応、渋々、認めてくれた。
本部も流石に、水瀬さんとの同居はちょっと無理があると思っていたらしい。じゃあ最初からそんな提案しないで欲しかった。
因みに官舎は仮住まいという立ち位置らしい。要するに、まともな住居が見つかったらすぐそっちに移れよということだろう。
最終的に私は非常に理想的な形で引っ越しをすることになった。
やった。やっぱり行動を起こせば変わるんだなって。
で、大体私の理想通りにことが運んだわけだけど、その後私はめっちゃ怒られた。
いきなりアポ無しで本部に突撃して騒げば然もありなんであろう。反省はしてる。
しかし私の命と貞操と、それから礼儀を天秤にかけた時に何が大事かなんて、ねえ?
いや、反省はしてるんだよ、本当に。
こうして、というのは余りに強引な締め方だろうか。
私は前世を思い出して、第八特務課に異動になって、高階由良に襲われてと多忙極まる約一ヶ月を過ごしてきたわけだけども。
今の私にあるものは、この世界を愛する気持ちと未来に対する希望だ。
愛だの希望だの、一度死んだ身である私が口にするには余りに美しすぎる言葉だった。
だけど、私は決めたのだ。私は前世のことなど忘れて生きるのだと。
だから良いのだ。私が愛を、希望を叫んだとしても。
だが、最後に一つ言っておこう。
いくら愛しているからといって、急に同居は勘弁だ。それは話が違う。
こんなのが最後では全く締まらないのだけれども、安心して欲しい。
これはあくまで一つの区切りが終わっただけだから。
 




