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一章 35



その日の帰り道、電車を降りて最寄りの駅から自宅に向かう真っ最中の私である。

最寄りといっても徒歩二十分超。

遠すぎるってことはないけど、毎日これだとちょっとキツイ。

しかし家賃等々の経費を削減するためにはこうするしかないのだ……。

時間は全人類に等しいものではあるけれど、お金で買える時間も確かに存在すると実感する。

だって駅近の物件の家賃、えげつない高さなんだもん……。


私はさながら二宮金次郎像の如く、本を片手に歩みを進めていた。

もちろん周囲の安全へは配慮を欠かしていないから安心して欲しい。

因みに今読んでいるのはヘーゲルだ。ヘーゲルの『精神現象学』。

なんか頭良さそうでしょ?言ってることの一割も理解できないけど。

家にあったから読んでみたは良いものの、本当に同じ日本語を操っているのか?というくらいに脳が文章を文章と認識してくれない。

ヘーゲルっていうからトンカツとカレーが合体進化してカツカレーになる、みたいな話かと思ってたのに。


常盤めぐりはこれを理解できてたってこと……?

……私、本当に常盤めぐりとして生きていける……?


いかん、文字がミミズにしか見えなくなってきた。ちょっと休憩しよう。

そう思って私は目頭を揉みつつ顔を上げる。


すると、蜂蜜色が私の目に飛び込んできた。


「常盤さん……?」


驚愕の色を帯びた鈴の音の声。

そこにいるだけで場が華やぐような錯覚にさえ周囲を陥れる、見目麗しい美人。

高階由良だ。


正直言って、最悪のタイミングだった。

高階由良への対策はこれから話し合おう、という段階で出てこられては、こちらに打つ手がない。

いや、もしかしたらそれこそが彼女の狙いなのかもしれなかった。

対応される前に決着を付けてしまおうと、そういうことなのかもしれなかった。


そもそも、ここは私の家の近所だ。

こんな場所で会うなんて、意図されたものでもなければあり得ない。


「常盤さん……!会えて良かった!どうしても話したいことがあって……」

「跡を、つけてきてたんですか?」

「えっ、いや、それは……ち、違う。付けてたんじゃなくて……」

「じゃあなんでこんなところに高階さんが?高階さんのご自宅は山手線の沿線なのでは?」

「そう、だけど……わ、私散歩が趣味というか……」

「その言い訳は流石に苦しいですよ。付けてたんですね?」

「違う!付けてはない。でも、あの、家この近くって聞いたから……」


なお悪いじゃないか。

もしかして、私の自宅の位置がバレているのだろうか。

そうでなくてもここまで近くに来られていては同じだろうが……。


私は鞄の中から試験管を一本取り出した。第一系統の血が入ったものだ。

本来ならローレルの認可した作戦以外で『血の特異性』を使うのは御法度である。

しかし、私の危急の状況を鑑みてローレルが特別に携帯及び使用を許可してくれたのだ。


といっても私の実力でどれだけ高階由良に対抗できるか。

実力勝負に持ち込まれれば分が悪いのはこちらだ。


「何が目的ですか」

「何って……ちょっと、そんなに警戒しなくても。ただ話をしに来ただけだから」

「それを私が信じられると思いますか?」

「私としては信じてくれないと困る。ねえ、常盤さん。土曜日、出動があったでしょう」


やっぱり、その話か。まあ、それ以外の話をされても困るが。

高階由良がどう出てくるか。油断は絶対にできない。


「作戦自体は上手くいったんでしょう?おめでとう」

「……ありがとうございます」

「でも、それだけじゃ終わらなかったていうのも聞いた。……ねえ、だから言ったでしょう?常盤さん、貴女は私のところに来るべきなの。私と一緒に来れば守ってあげられる」


安全?高階由良にとっての安全なんて、要するに血が採れるという範囲での安全でしかないじゃない。

私が死ななければ良い、そういうことなんでしょ?


「嫌です。私は貴女のところには行かない」

「なんで?私、結構強いのよ?あんなところにいるよりよっぽど良いじゃない」

「ローレルを……第八特務課を貶すのはやめてください。私は第八特務課が好きなんです。貴女にはわからないかもしれないけど」


あそこを自ら辞めた高階由良には到底わからないだろうが、私にとっては本当に大好きでかけがえのない場所なのだ。

それを奪われるなんてたまったものじゃない。


「まあ……特務課が好きだっていうのは別に常盤さんの感性だから良いけど……。あんなところに居たって常盤さんが危ないだけでしょ?メリットとかデメリットとかそういう話ですらない。死ぬかもしれないのよ」

「それは高階さんのせいじゃないですか!」

「は?」


高階由良は眉間に皺を寄せて睨むような形でこちらを見た。

そんな風に睨まれたって、私は怯まない。大丈夫。


「高階さんがあんなことしたんでしょう。態々作戦のどさくさを狙って、私を攫って。みんなまで危険に巻き込んで!」

「……なんで私がやったと思うの?」

「板倉が言ってました。貴女からの指示でやったことだって。良い加減にしてください。私の血が欲しいからってそんな……。私は貴女のところになんて絶対に行きません!」

「いた……くら……」


高階由良は私の言葉など耳に入っていないかのようにそう口にした。

眉間の皺はどんどん濃く、深くなっていくのに彼女の口角は少しずつ持ち上がる。


「ああ……もう、勝手なこと言ってくれたわね!!」


高階由良は苛立ちを隠そうともせずに地団駄を踏んだ。


勝手なこと……ということは、もしかして板倉が高階由良の名を口にしたのは彼の独断だったということ?

まあそうか。意図的に話す内容ではないし、あの時の板倉は少し冷静さを欠いていたような気がする。

彼は頭に血が昇りやすい性格をしていたから。


「ふっ……なるほど、そういうこと?ああ……確かに私の詰めが甘かったかもね……。……もう……計画が台無しじゃない……!」


高階由良はぶつぶつと口の中で恨み言を並べ立てていた。

要するに、高階由良は誘拐が自分の犯行をだということを隠して信用させ、私を自陣に引き込もうとしていたということか?

私をそのまま攫えればそれでよし、そうでなくてもローレルの危険性を訴えて仲間に引き込めば良いと。

そういえば私を連れていく先も二箇所設定されていたはずだ。

用意周到。余りに抜かりがない、考えられた作戦だ。

しかし、指示だけで現場を完全にコントロールするのは難しい。

どれだけ綿密な作戦を立てていたとしてもイレギュラーは必ず発生するものである。

特に人の感情は予測するのが難しい。


「……常盤さん」


一頻りの苛立ちが済んだらしい高階由良は怒りに燃える爛々とした瞳で私を見据える。

その瞳は、誰より警戒の心を持たなければならない私にさえも美しいという感情を与えた。

こちらを焼き尽くさんばかりの光が、彼女の瞳には宿っている。


「もう、良いわ。わかった。勧誘なんて生ぬるいことはもうやめる。……私はローレルを潰す。それで、貴女を私のものにする。あんな場所、私が完膚なきまでに叩きのめしてあげるわ」


高階由良は腕を振るってそう言い切った。

彼女の感情の発露は何より激しくて、何より強烈だ。

高階由良は本気なのだ、とそう思った。


高階由良は一息大きく空気を吐くと、私に向かって歩き出す。

私は反射的に身を固くした。しかし、本当はいつ攻撃されても良いように、構えるでもなんでもすべきだった。

でも、高階由良の鬼気迫る表情は私の理性を簡単に奪う。

彼女の、無駄な装飾などない美しい顔はそこに宿る感情を何倍にも増幅させて見せるから。


高階由良は私の目の前に立って、それから私の耳元に口を寄せた。


「……すぐに迎えに行くから。じゃあ、またね」


そう言って高階由良は立ち去っていった。

耳に残る彼女の声の余韻は私の脳を甘く揺らす。


高階由良はいつだって私に甘美な残滓を齎すけれど、それは毎回不快感と背中合わせだ。

ただ、今日の私に残ったのは不快感というより恐怖だった。

私はすぐ近くのブロック塀に手を付いて、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。


どうしよう。私、高階由良に殺される。

いや、きっと現実的に考えたら殺されはしないのだと思う。

だって彼女は私の血を欲しがっているから。

でも、そう思わざるを得ないくらいの恐怖を、高階由良は私に植え付けた。


やっぱり前世のことなんて忘れるに限る、と私は思った。

高階由良は決して乙女ゲームのヒロインなんて肩書きに収まるような人間ではない。

彼女はもっと、大きな何かだ。


例えるなら、そう、物語の最後に戦う敵のような。

ラスボスのようなものだ。



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