一章 31
「___動くな」
私をインプレッサの後部座席に放り込もうとした板倉の動きがピタリと止まる。
いや、強制的に停止させられた。
私は寒気に背筋を震わせる。
私たちの周りには切先鋭い氷柱が幾本も地面から生えていた。
その先端は紛うことなく正確に、板倉とそれを取り巻く男たちの喉元で止まっている。
寒さを必死に訴える身体とは裏腹に、私の心にはどんどんと温かい生気が吹き返した。
「水瀬さん!!」
間島先輩と神楽くん、二人の間にいつのまにやら水瀬さんが立っている。
その後ろでは高坂さんがほっとした顔で立っていて、三保さんも車から顔を覗かせていた。
全員いる。
そんなことで私は本当に本当に、スーパーヒーローでも現れた時のように心から安心して息を吐いた。
「水瀬……燈真……!!」
「動くな。動けば命はないと思え」
「お前ぇ……!!クソッ!!あともう少しだったのに良いとこで来やがって!ふざけんなァ!!」
「常盤さんを解放しろ。動いて良いのはそれだけだ」
「うるせえ!なんで俺がお前なんかの指図に従わなきゃならんのだ!クソォ!!」
「うるさいのはお前だ、喚くな。……別におれの命令に背くのは構わないが、おれが来た以上お前らに勝ち目はない。抵抗しても無駄だ」
「水瀬の次男如きが調子に乗りやがって!大した実績もねえくせに!!」
「おれはお前と口喧嘩をしに来たんじゃない。早く常盤さんを解放しろ。……おれは、水瀬燈真だ。お前たちが敵う相手じゃない。わかるな」
水瀬さんの声は今まで聞いたこともないくらいに暗くて深い。
板倉はそんな水瀬さんの声に恨みの籠った渋面をつくり、私の足元にしゃがみこんだ。
そして次の瞬間、私に自由が訪れる。手足の拘束が解かれたのだ。
縛られた箇所がジンジンと痺れて痛い。
でも、自由だ。やっと第八特務課へ帰れる。
私は痺れた足を慣らしながら、ゆっくりと特務課のみんながいる方へ向かって歩き出す。
しかし四歩目を踏み出したその時に、私の身体は崩れ落ちた。
「ぐぅ、ぁっ…………!!」
私の足元では地面から生えた氷柱が左のふくらはぎを削っていた。
咄嗟に振り返ると板倉が血の入ったケースを握っている。
あれは水瀬さんの氷じゃない。板倉がやったんだ。
「頭狙わなかっただけ感謝しろよ」
板倉の下卑た笑みはこれでもかと恨みの色が滲み出ていた。
「お前ら、特務課のヤツら全員ブチ殺せェ!!」
「間島、神楽、あいつらを全員捕まえろ!一人も逃すな!」
板倉と水瀬さん、二人の声が重なり合う。
地面に這いつくばる私の上を氷柱や土塊、電撃が駆けた。
不味い。このままここに居ると戦闘に巻き込まれる。
今はなんの血も持っていないし早く逃げないと。
でも氷柱に削られたふくらはぎが全く言うことを聞いてくれない。
駄目だ。痛い。脂汗が出て、視界がぼやける。傷を負った場所が熱い。
痛みに意識を奪われて、息さえまともにできない。痛い。苦しい。嫌だ、死にたくない。
「常盤さん!!」
「みな、せ、さん……」
水瀬さんが攻撃の合間を縫って私の元へ近付いてきた。
彼は私に駆け寄ってすぐに氷の障壁を築き上げる。取り敢えずは安全地帯を確保できたと思って良いだろう。
「大丈夫ですか!?」
「あ……は、はい……なん、とか……」
「すぐに治療しに行きましょう。僕に掴まってください」
その声に従って私は水瀬さんの腕に掴まろうとしたが、彼の右腕に大きな傷があるのを見とめて手を引いた。
「水瀬、さんも……けが……が……」
「え?ああ、このくらい大丈夫ですよ。それより早く行きましょう。出血が酷いですよ」
確かに私のふくらはぎの出血は派手なもので見た目にも酷いけれど、水瀬さんの腕の怪我だってなかなかだ。
彼の傷からどくどくと流れ出す血は、腕を伝って指先から地面に滴り落ちていた。
しかし、彼の腕を借りないことには私も動けない。
怪我人に負担を掛けるのは気が引けたけれど、こんな状況では仕方がない。
私はおずおずと手を伸ばして水瀬さんの肩を掴んだ。
水瀬さんは私の身体を支えつつ立ちあがる。
少し視線が高くなって周囲の様子がよく見えるようになった。
間島先輩と神楽くんは相手方と交戦している最中だったが、既に敵は残り一人だった。手際の良いことだ。
相手も決して弱くはないのだと思うが、二人の方が数枚上手なのだろう。
三保さんと高坂さんは既に伸された敵を回収してバンの荷室に乗せていた。仕事が早い。
そして、私の視界の端で車が動くのが見えた。
メタリックシルバーのスバル・インプレッサ。
私をここまで運んできた車。
運転席には板倉の姿が見えた。思えば板倉はずっと戦闘に参加していなかった。
まあ指揮を取る立場の人間は無理に戦いに身を投じる必要などないのだろうけど、それならそれで最後まで全体の責任を負うべきだろう。
旗色が悪くなったから自分だけ脱出します、なんていうのは将の風上にも置けない。
彼を逃すのは駄目だ。
今いる敵方で一番権力を持っているのは間違いなく板倉だろう。ということはつまり、敵の情報を一番握っているのも板倉なはずだ。
「水瀬さん、すみません」
「は?え、ちょっ、いてっ」
私は水瀬さんの腕を思いっきり引っ張って自分の身体に引きつけた。
水瀬さんの腕から流れる血と私のふくらはぎから流れる血が混ざり合う。
瞬間、がっしゃーんと金属がひしゃげる音がした。
というか、これは私がやったのだけど。
遠方に走り去ろうとする板倉のインプレッサの進行方向に、私が第一系統の『血の特異性』で氷の壁を作ってやったのだ。
私の作り出せる氷なんて高さーメートルちょいくらいのものなので、ぶつかってもどうせ死にはしない。せいぜいバンパーがちょっと壊れるくらいの損害で済むはず。
それにこの平坦な人工島では車が横転するってこともないだろう。
直接ではないものの、人に向けて『血の特異性』を使ったのはこれが初めてだった。
だから、ちょっと、いくら相手が悪人とはいえ緊張した。
「先輩!神楽くん!残りのやつがあっちに!」
「了解!神楽、こっちは俺がどうにかするから車の方行って!」
「わかりました」
二人は二手に別れる。
残り一人の敵は間島先輩の言葉通りに彼の手によって倒された。
神楽くんも板倉の車に追いついたらしく見える。
良かった。多分、これで全員だ。
そう認識して、私は水瀬さんの身体に掴まりつつもずるずると地面に滑り落ちる。
腰が抜けたというか、足に力が入らないというか、とにかく立っていられなかった。
危機が完全に過ぎ去ったのだという安堵感と、ふくらはぎの痛みとの両方が私を襲っていた。
「常盤さん!大丈夫ですか!?常盤さん!!っ……高坂!」
近くに居るはずの水瀬さんの声が遠くに聴こえた。
水中にいるみたいだ。身体は重いのに意識は謎の浮遊感がある。
視界がぼやけて思考をするのが億劫になった。
目に映る三原色を混ぜこぜにした色彩の集合体も、耳に入る曖昧な周波数の塊も、今の私にはとにかく安寧を乱す邪魔なものとしか思えなかった。
このまま意識を手放してしまえば、きっと楽になれる。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
「高坂!常盤さんが倒れた!」
「わかりました。僕が代わります。……常盤さん、聞こえますか?」
高坂さんの声が耳の近くで聴こえる。
私は閉じていた目をほんの少しだけ開けて彼の姿を確認しようとした。
「意識はある……。呼吸も正常ですし、心拍もこれなら大丈夫だと思います。血を使っても?」
「ああ。高坂の判断に任せる」
「わかりました」
霞がかった視界の中で高坂さんが『血の特異性』を使うのが見えた。
本当にぼんやりとしか見えなかったので何をしているのかは分からなかったけど、確実にふくらはぎの痛みが引いていくのは分かる。
痛みがなくなるだけでかなり気分はマシなものになった。
ふくらはぎ以外にも感覚を巡らせられるようになって、意識も少しクリアになる。
「高坂さん……ありがとうございます……。そうだ、水瀬さんの腕が……」
「動かないでください。今は身体にも神経にも負荷が掛かってるから、急に動くと危ない」
「は、はい……。ごめんなさい」
高坂さんが非常に真剣にそう言ったので私は慌てて身を硬くする。
心配してくれているということなんだろうけど、ここまで怖い高坂さんを見るのは久し振りだった。
「水瀬さん、多分これで全員です」
「わかった。車の中は?」
「三保さんが調べてくれてます」
「神楽!そっち終わったら常盤さん運ぶの手伝って!」
「わかった」
「車ん中は異常なしだったぞ。あと、赤薔会も準備してくれてるって」
「了解です。三保さん、あっちの車寄せといてくれませんか?」
「了解了解」
私が絶対安静を言い渡されている中、第八特務課の面々はてきぱきと仕事をこなしていく。
未だ少々ぼんやりとした意識の中で、私はそんな彼らを見つめていた。
みんな、満身創痍といった感じだった。まあ、実質出動が二個立て続けに起こったみたいなものだから然もありなんだ。
水瀬さんは見るからに大怪我で、間島先輩も神楽くんも所々傷がある。
凄いなあ、と思った。だって第八特務課のみんなはこういうことをずっと仕事としてやっている訳でしょ?
私だったら尻尾を巻いて逃げ出している。もし一人だったら。
でも、今は一人じゃないから。私も、これからここでみんなと頑張っていきたい。
今度はちゃんと戦力になれるようにしたい。
「流亥」
「あ、神楽。僕、向こうで準備してくるから常盤さん運んで。丁寧にね」
「わかった」
そうして私の身体は神楽くんの元に預けられる。
高坂さんは次の仕事に取り掛かるため他のみんなの元へ合流していった。
「大丈夫か?どこか痛むところは?」
「痛みは……大丈夫。ただちょっと怠くて……」
「そうか、わかった」
そう言うや否や、神楽くんは私の身体をひょいと持ち上げた。
赤ん坊でも持ち上げるみたいに軽々と。
いや、え?運ぶって、本当に運ぶの?
肩を貸してくれるとか、そういう感じかと思ってたんだけど。
しかも私のこの持ち上げられ方はあれだ、お姫様抱っこってやつだ。
なんの拷問だよ。
「ちょちょちょ、ちょっと待って。歩ける。私歩けるから」
「遠慮しなくて良い」
「遠慮じゃないよ、全然。これは、ちょっと、その、マジで恥ずかしい……」
「ああ……ごめん。でも、流亥に動くなって言われてるだろ?」
確かに。
私が本当に歩いて行ったら多分高坂さんは激おこだろう。さっきもちょっと動いただけで怖かったし。
でもさ、もっとこう、別の持ち上げ方があったんじゃないのかな。おぶるとか、担ぐとか。
私が言葉に詰まったのを見て、神楽くんは是認と判断したのかそのまま歩き始めてしまった。
今ので身体の怠さなんて一気に吹き飛んだ。
恥ずいっす……マジで恥ずかしい……。見ないで!
でも、高いところはちょっと楽しいな。
馬鹿だから高いところが好きなんだ、私は。
私は昔からタワーの展望台のガラス張りの床ではしゃぎ回って飛び跳ねるようなやつだった。公園に行けばジャングルジムのてっぺんに居座り続けるような子どもでもあった。
なんて懐かしい回想は良い。
私は二台並べて駐車してあるバンの片方に乗っけられた。
助手席をリクライニングして後部座席と繋げた場所に座らされる。
各々の仕事を終えた第八特務課の面々が集まってきた。
「うわ、燈真派手にやったな」
「ありゃ、本当だ。じゃあ水瀬さん先が良いですね」
「悪いな」
「水瀬さん、こっちでお願いします」
そう言って高坂さんは水瀬さんの腕の我の治療を始めた。
さっきは意識が混濁していてよく分からなかったのだけど、今は高坂さんの『血の特異性』の性質がよく分かる。
高坂家は希少系統の一つをその血に宿す家である。
彼の、高坂の血の能力は端的に言うと怪我が治せるってやつだ。
詳しくは良く分からないのだけど本人の適性が高く、かつ医学の正確な知識があれば外傷だけじゃなく病気も治せるらしい。凄い。
これは間島先輩から聞いた話なんだけど、高坂さんはその『血の特異性』に対して超スーパーウルトラ高い適性があるらしい。凄すぎる。
高坂さんは執拗に板倉から戦闘力のなさを貶されていたけど、そりゃこんな法外とも言うべき力があったら当たり前だ。
これで戦闘もバリバリいけます!とかだったら世の中の不平等を嘆くね、私は。
「常盤さん、大丈夫だった?」
反対の車の運転席に腰掛けた間島先輩が私にそう尋ねる。
彼の金髪はあちらこちらに跳ねていて、激しい戦闘の残滓が窺えた。
「はい。怪我は高坂さんに治して頂きましたから」
「うん。まあ、それはそうなんだけど、こいつらに何かされなかった?」
こいつら、と言いつつ間島先輩はバンの荷室を見遣った。
そこには厳重に拘束された板倉たちが転がされていて、多分全員意識はない。
「えっと……まあ、何もされてないってことはないですけど、大したことは」
「そう?それなら良かった。一応全員無事だね。色々ギリギリすぎて厳しいかと思ってたけど」
「燈真、めちゃくちゃ良いタイミングで来たよな。良く間に合ったなあ」
「あれは待ち伏せてたんですよ。相手が油断するまで待ってたんです」
そうだったんだ。全然気が付かなかった。
凄いなあ、みんなそんなに色々考えながら動いてるんだ。
私、大丈夫かな。そんなに凄いみんなの中でこれからやっていけるんだろうか。
「水瀬さんもそうっすけど、常盤さんがサラザールの血残してくれなかったらハナから打つ手がなかったんで、そういう意味でもギリギリだったなーと」
「確かにそうだな。あれは常盤のファインプレーだ。よく思い付いたな」
「いえ、あれはあの時使える血がサラザールしかなかったので。ある程度思い描いた通りになってくれて良かったです。というより寧ろ、こちらがありがとうございます。三保さんがサラザールを用意してくださっていなかったらと思うと……」
何かが少しでも違えば、きっと私は今ここに居ることはできなかっただろう。
私だけじゃない。
他のみんなだって何かが違えばここに居ることはない。
そのくらいギリギリの綱渡りをしたのだ。
そうなった原因は紛うことなく私だ。
私の身体に流れる『奇跡の血』が原因だ。
それはもちろん、一番悪いのは板倉たちで、高階由良だ。
でもその原因が何処にあるかと言われたら、それも間違いなく私なのだ。
「偶には三保さんの暴走が役に立つこともあるんですねえ」
「暴走とはなんだ、暴走とは。俺は常に最善にして最良の行動を取り続ける男だぞ」
「三保さん、帰ったら古瀧さんからお話があるとのことでしたよ」
「マジかよ……」
……私が『奇跡の血』というだけで狙われるのだったら、今後も第八特務課に迷惑を掛けてしまう可能性が高い。
だったら、私はもしかして、ここから居なくなった方が良い?
板倉たちは倒した。だけれども、今回のことは裏で高階由良が糸を引いている。それならば私は再び狙われる。
そうであるなら、私は特務課にとって不利益を齎す存在だ。不利益を齎し、迷惑を掛けるだけの存在だ。
この場合の不利益というのは、迷惑というのは、仕事に関わることであり、命に関わること。
私の掛ける迷惑は、下手をしたら誰かの命を奪ってしまうものだ。
死が絶対的な悪だとは思っていない。
死ぬことが誰にとっても漏れなく絶対忌避すべきものだと思っているわけではない。
でも、私はみんなに生きて欲しい。
生きることは素晴らしいことだ。生きることでしか得られないものが、この世の中には間違いなくある。
生きたいという、死にたくないという人間の根源的な欲求を、私は彼らから奪いたくない。
私は……私は特務課が好きだ。だからずっとここに居たい。
でも私の存在が特務課にとって不利益を齎すものならば、居ない方が良いし私も望んで居なくなりたいと思う。
しかし今ここですぐに居なくなることを決断できるほど、私は強くなかった。
こんな……自分が好きだと思える、楽しいと思える居場所を見つけて、そこからすぐに離れる決断をできるほど私は潔い人間ではなかった。
許されるならみんなとずっと一緒に居たい。
それが幾ら虫の良い願いでも、そう思わずにはいられない。
私はもたれていたシートから少し背を浮かした。
隣に座っていた神楽くんが私を支えるように手を添える。
彼は私を運んで、そのままの流れでそこに座っていた。
私は神楽くんにありがとうと囁きつつ、みんなの方に向き直る。
「あの、私、皆さんのことが好きです」