一章 30
耳元でガチャリと金属の鳴る音がする。
視界の端で揺れる漆黒の鉄塊は紛うことなく拳銃であった。
私はかつて特務課の出動を刑事ドラマみたいで格好良いと思ったこともあったけど、まさか本当に刑事ドラマよろしく本物の拳銃を目にすることになるとは。
私は今、板倉に背後から腕で首を絞められている。
彼の右手には拳銃が収まっており、それは私のこめかみに当てられていた。
板倉がちょっと人差し指を動かせば私の脳天は簡単に吹き飛んでしまうだろう。
目の前で行われていた戦闘は、地を揺るがすような大爆発を最後に一旦停戦状態だった。
潮風と土埃が混ざり合う空気が場を満たしている。そんな薄汚れた大気の先に間島レイヤと神楽・エヴァンズの姿が見えた。
良かった、二人はどうやら無事なようだ。
流石第八特務課。彼らが強いということはずっと知っている。ゲームでもこの世界でも、彼らはずっと強かった。
しかしいくら彼らが強いからと言って、この状況までも簡単にどうにかできてしまう、という訳ではない。
黒光りするピストルは板倉の手に収まっており、その引き金はきっと蟻を潰すより容易く引くことができる。
私の命運は今、板倉の手に握られていた。
「……それ、人質のつもりですか?」
「ああ、そうだよ。お前らがこっちの想定以上に暴れてくれたもんだから計画変更だ。勝手に動くんじゃねえぞ。動けば常盤めぐりはお陀仏だ」
間島レイヤの問いに返答した板倉は私の頭を銃身でごつ、と突いた。
金属特有の硬い冷たさが私の頭皮を刺激する。
本物の、銃だ。初めて見たけど、説明されなくたってそれは容易に脅威だと知れた。
その確かな重量、金属の鼻に付く嫌な匂い、コンパクトさに反した存在感。
ずっと平和な日本で暮らしてきた私にとっては全てが異質で、だけれども余りに現実的な恐怖としてそこにいた。
「それ、嘘でしょう。貴方たちに常盤さんを殺せる訳がない。貴方たちの目的は常盤さんの血でしょ?撃って、殺して、それじゃあなんの意味もない」
間島レイヤが硬い声色でそう言った。
そうだ、彼の言う通りだ。銃を突きつけられた恐怖で忘れていたけど、彼らにとって私を殺すメリットは薄い筈なのだ。
板倉個人は殺せるなら殺したいとでも思っていそうだが、彼らの上に立つのが高階由良なのであれば生きたままの私を望む筈。
「……ああ、そうだな。確かにお前の言う通りだよ。こいつを殺したら、俺は上から大目玉喰らうだろうな」
「なら、それで人質は無理があるんじゃないですか?詰めが甘かったですね。そんな単純なハッタリじゃ流石に俺だって……」
「おっと、勘違いすんなよ」
ずばり魂胆を見抜かれた板倉は、それでも余裕のある笑みを崩さなかった。
彼は右手に持っていた拳銃をしまい、ポケットから新たにケースに入った血を取り出す。
「銃は単なるパフォーマンスだよ。常盤めぐりのピンチを態々演出してやっただけだ。でも、こいつが人質ってのは嘘じゃねえ。……俺たちは常盤めぐりの身体さえ手に入れば満足なんだ。生きたままで血が採れるならそれで良い。生きてさえいりゃ良いんだ。例えこいつが植物状態だろうと脳死状態だろうとな」
私はひゅ、と息を吸い込んだ。
板倉の言葉は予想外なもので、でも確かに現実的な考えではあった。
板倉の言う通り植物状態だろうが脳死状態だろうが、脳の働きは失われても人間の生命活動は維持される。
呼吸と循環、それさえあれば血は採れる。
彼らが欲しがっているのは私の身体に流れる血だ。血さえ手に入れば良いのだ。
それが手に入った時、私が既に一個の人間としての機能を失っていたとしても。
そんなことは考えもしていなかった。生きるか死ぬか、その二択はわかり易くて中間の存在を覆い隠してしまっていた。
医療技術の進歩によって生まれた生と死の曖味な領域を。
医療医学という観点で見れば、植物状態も脳死状態も完全なる死とは認められないだろう。
脳の機能が停止していても、生命維持ができているのだから。
そういう意味では確かに、私の身体が高階由良の側の手に渡ったとしてもずっと生きてはいられる。
だけど、そんなの、まともな考えじゃない。
生きてさえいれば良い。死ななければそれで良い。
家族や友人、恋人がそうやって愛する人間に囁くのは良い。そこにはちゃんと、相手への思い遣りがある。
だけれどもそれを見ず知らずの人間が、自分の悪業を成し遂げる為に弄するのは最低だ。
許されてはならない、悪逆非道な行いだ。
「なあ、そういうことだ。わかったろ?さ、サラザールの血を渡してもらおうか。早くした方が良いぞ?こっちには矢嶋本家の血があるんだからな」
「……っ!?常盤さん、息しないで!」
間島レイヤが焦ったように叫ぶ。
しかし、そんなのは土台無理な要求である。
息をしなければ板倉の行動如何にかかわらず、私は死んでしまう。
そう思っていると私の目線の高さまで血の入ったケースが持ち上げられた。さっき板倉の取り出したあれだ。
「お前まだ特務課に入って日が浅いんだったな。じゃあ、あいつらの代わりに俺が教えてやるよ」
板倉が私の耳元で囁いた。
「これは矢嶋の『血の特異性』だ。吸い込めば忽ち意識が吹っ飛ぶスグレモノだぜ。良くあるだろ?誘拐犯がクロロホルムで相手の意識を奪うやつ。あれとおんなじ事ができるって訳だな。しかもこれ、矢嶋本家の血だからなあ。長時間吸い続ければ重度の意識障害くらいにはなるだろ」
板倉は恐ろしいことをさらりと言ってのけた。
私は慌てて息を止める。
そんな……息を止めたは良いものの、肺活量には限界がある。人間が永遠に無呼吸で生きていけるわけがない。
でも、これを吸い込んだら一巻の終わりだ。
私、死ぬの?嫌だ、それは嫌だ。絶対に嫌だ。
でも、私は一度死んでいるのに?なんで嫌なんだろう、死ぬことが。
もう、私は一度死んでいるじゃない。死ぬことが案外呆気ないものなんだってことを知っているじゃない。
確かに、死ぬのは苦しい。死ぬのは辛い。死に慣れることはない。
人間は苦しんで死ぬのだ。苦しみの末に死ぬのだ。死ぬ前にも地獄のような苦しみを味わって、死んだ後には地獄に行くのだ。
それでも、一度死んだ私には確実に死という選択肢が現実としてある。
死んだ後は私の感知するところではないから、私が何をしなければならないということもない。
それはそれで魅力的だと、前世の私はそう思っていた。
でも、でもだ。今の私は死にたくない。
それは常盤めぐりのためというのも少しあった。
この身体は私のものじゃなくて常盤めぐりのもので、私の裁量で勝手に生死を選べるようなものじゃない。
しかし、それが全てでもない。
寧ろ、最近の私は常盤めぐりを蔑ろにしがちだった。
私は私として生きてしまいがちだった。
今は確かに常盤めぐりの人生であるのに。
それは全て私が悪いのだ。私が常盤めぐりを忘れているのが。
でも、だって、仕方ないじゃないか。
今、本当に生きるのが楽しいんだから。一日一日が楽しくて楽しくて仕方がないんだから。
私は、第八特務課で過ごす時間が楽しくてしょうがない。
「早く渡せよ。もうそろそろ常盤めぐりの息も限界だろ。まあ、お前らも常盤めぐりの血だけが欲しいってんなら話は別だけどよ」
「そんな訳ないだろ。……分かった。サラザールの血はあげるよ。だから矢嶋の血を使うのを止めろ」
「ようやくか。最初からそうしとけば良かったんだよ。どうせお前らの情報は俺たちに筒抜けなんだしな」
板倉は愉快そうに笑いながら私の口元から手を外した。
私は思い切り息を吸い込む。
間島レイヤの選択は間違っていない。
あのままだと私は窒息か矢嶋の血か、原因に違いはあれど確実に死んでいた。だから、彼は絶対に悪くない。
でもその選択肢を選んでしまえば、私はきっと第八特務課に戻ることもできない。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
死んで彼らと一緒に居られないことと、高階由良の手に落ちて彼らと一緒に居られないことは結局どちらも私にとって受け入れ難いものだった。
もしかしたら、これは天罰なのかもしれなかった。
私はずっと前世の記憶を思い出して以来、彼らに対して懐疑的だったから。
彼らは本当に現実を生きる人間なのか、自分たちの意思で動く人間なのか、ゲームのキャラクターというだけでない血の通った人間なのかということに。
そんなの、本当に失礼でしかない疑問だった。
彼らはゲームと、『紅が繋ぐ運命』と確かに同じところがあって、でもそれと同じくらい確実に、私というゲームには存在しない人間に対して真摯に接してくれていた。
だからこそ、私は今の第八特務課で過ごす時間が楽しかったのだし、だからこそ私は第八特務課のことをこんなに好きになったのだ。
そんなの、私が一番分かっていたのに。
それでも今の今まで疑っていた。
だから、神様は怒ったのだ。
こんなにも私を温かく迎え入れてくれた場所を疑い続けていたから、神様は怒ったのだ。
確かに、全部私が悪い。
でも、どうか、やり直させてほしい。
私は今の居場所を失うなんて耐えられない。
もう一人ぼっちになんてなりたくない。
だから___
「これがサラザールの血だよ。……どうやって渡したら良い?」
間島レイヤが車に居た三保瑛人からサラザールの血の入った試験管を受け取り、板倉に見えるように掲げてみせた。
「本当に虫なのかよ。……まあ良い。お前、もうちょっとこっち来てそれを地面に置け。そしたらすぐ離れろよ。その後で俺らが取りに行く」
「……わかった」
間島レイヤは、先輩は、板倉の指示通りに動く。
板倉は存外慎重な男だった。
念には念を入れたその指示はそれ以上の策の弄しようがない。
先輩が地面に置いたサラザールの血を板倉の仲間が回収する。
回収した男が板倉の元に駆け寄って、中身の確認を促した。
その試験管の中身は勿論私の目にも映る。
間違いなく、サラザールの血だ。
虹色の光を反射するコガネムシが、しっかりとガラスに保護されてそこに居た。
板倉は自身の目でそれを確認すると同時に、私にも真贋の判定を求める。
ここで私が嘘を吐いてもどうしようもない。
私は小さく首を縦に振った。
……これで、終わりだ。
前世の死に際なんて記憶にも残っていないのに、今は死ぬわけじゃないが走馬灯のようなものが見える。
初対面は始ど全員がゲームそのままの印象だった。
水瀬さんは頼れる上司で、間島先輩はチャラチャラした雰囲気で、流亥くんはつっけんどんで、三保さんは血液マニアで、神楽くんはオタクだった。
別にその印象は今だって通用するものだけど、でも彼らにあるのがそれだけじゃないことも知っている。
ゲームのキャラクターとして与えられた記号的な役割以上のものを、私は知っている。
みんな意外と優しかったし、面白かったし、ちゃんとしていつつもちょっと変だった。
私は彼らが好きだ。
ここがゲームの世界とか、彼らがゲームのキャラクターとか、そんなのは最初からどうでも良かったのだ。
私はもっと最初から、この世界とちゃんと向き合うべきだった。
自分の生きる世界としてちゃんと向き合うべきだったのだ。
気付くのが、ちょっと遅かった。だから仕方ない。
これは自分の行動が招いた結果だ。
板倉はサラザールの血を車の中にしまいこませ、自身の手で後部座席のドアを開けて私を放り込もうとする。
ちょうど、そんな時だった。
「___動くな」