一章 28
ハイエースバンの助手席に座る高坂流亥はその手に一本の試験管を携えていた。
試験管の中には一匹のコガネムシ。
彼はそれとカーナビとを交互に見遣っていた。
「これ何処だ?」
「大田区ですね。このままだと海沿いに出ると思いますが……」
常盤めぐりと水瀬燈真を除く第八特務課の面々を乗せたバンは、その大きな車体を振り回しながら下道を駆けていた。
高速道路に乗ってしまうと方角の融通が利かないため、早さを犠牲にして下道を選んでいるのだ。
「結構時間経ってますけど、常盤さん大丈夫ですかね?」
「さあ、どうだろうな。少なくとも死んではいないだろ。サラザールもまだ効力切れてないし」
「死ぬとか怖いこと言わないでくださいよ。ただでさえうち、そういうの多いんですから」
「悪い悪い。でも、実際手荒な真似はしないんじゃないか?血が目的なんだったら下手に痛めつけても意味ない」
「そういうもんですか?」
「そういうもんだ」
間島レイヤの言う通り常盤めぐりの捜索を開始してからは結構な時間が経過しており、もう三十分ほどは経っていた。
区を跨いでいるのだからこのくらいは想定の範疇だと言われてしまえばその通りだが、彼らが焦りを覚えるのも無理はない。
「……高坂、本当にこっちで合ってるか?このままだと海に突っ込みそうなんだが……」
「合っていると思います、多分。サラザールの血はそう示しているので……」
今はコガネムシ、もといサラザールの血のみが彼らの手掛かりである。
それが頼りにならないと言うのであれば八方塞がりも良いところになってしまう。
ハンドルを握る三保瑛人は横目でコガネムシを確認しながらアクセルとブレーキを交互に踏んだ。
車は蛇行しながら街並みを抜けて海沿いの道に出る。
コガネムシは未だ海の方向に向かって歩き続けているが、車はそうもいかない。
三保瑛人は仕方がないので東京湾沿いを南下するようハンドルを切った。
大田区の海沿いは完全に埋立地であるので道路も海岸線もいやに直線的だ。
海には幾つかの人工島がポツポツと浮かんでいる。
海が見えるというのに、自然よりも人間の存在こそを強く感じるような場所だ。
「……島に人がいる。車が二台と男が八人。青と白のスカジャンを着ている奴が一番目立つ」
直線的な土地を持つ人工島の上に立っている人影を、神楽・エヴァンズの目が捉えた。
彼の言う通りの状況が島の上では展開されている。
「た、多分そいつだ!そういえばスカジャン着てた!」
「あんな違いのによく見えるなぁ……俺には全然分かんないけど。常盤さんは?見える?」
「いえ、めぐりは見えないです。車の中にいるのかもしれない」
「ああ、そっか。流亥の見た男の特徴とは一致してるんだよね?」
「はい。確かに青と白のスカジャンを着ていました」
「じゃあ三保さん、あそこの島に向かってください」
「はいはい。分かってるよ」
海岸線を下り、小島が鮮明に見えてくる。
車は本土と島とを渡す短い橋に乗って、それから少し進んだ先で止まった。
所々に草が生え、殆どは土の地肌を晒した土地に彼らは脚を下ろす。
「よお、待ってたぜ。第八特務課の皆さん方」
そこで待ち受けていたのは神楽・エヴァンズの見立て通りの状況だった。
白と青のスカジャンを着た男はメタリックシルバーのインプレッサを背に腕を組み、その周りには七人の屈強な男たちが取り巻くようにして立っている。
しかし、常盤めぐりの姿は見えない。
「えー、態々待っててくれたんですか?ありがとうございます。意外とお優しいんですねー」
あはは、と笑いながら先陣を切って男たちの前に立ったのは間島レイヤだった。
襟足長めの金髪が海風に揺れる。
その後ろに神楽・エヴァンズ、高坂流亥と続いて、三保瑛人は車の傍に立ちそこからは少し距離を置いていた。
「まあな。俺たちからお前らに話したいことがあったもんで、仕方なく。……それはお前らも一緒だろ?」
「話が早くて助かりますよ。……常盤さんは何処ですか。彼女を返してください」
間島レイヤの言葉を聞いた板倉は脇に立つ一人の男に目配せをした。
板倉の視線を受けた男は軽く頷いてインプレッサの扉を開ける。
「っ……!常盤さん!」
高坂流亥が思わずと言ったように叫んだ。
車内から男に引き摺られるようにして現れた常盤めぐりは明らかに外傷を負っていたからだ。
しかも高坂流亥と別れた時より更に酷くなっている。
「離せ、今すぐ。常盤さんを離せ!」
「おーおー、高坂少年じゃねえか。ついさっきぶりだなぁ?やっぱお前、威勢だけは一丁前なんだな。大した戦力になりもしねえのに」
「……うるさい。常盤さんを離せと言ってる。早くしろ」
「最近の若者はせっかちでいけねえな。……俺たちがお前らの要求を無条件で呑むわけがないだろ」
両者の間に緊迫した空気が流れる。
それを感じながら男たちに拘束されている常盤めぐりは、場違いにも一人でほっとしていた。
だって、みんな本当に来てくれた。良かった。本当に良かった。とても嬉しい。
みんなが来てくれたんだったらもう大丈夫だ。きっとどうにかなる。だってみんな強いから。
「常盤めぐりを解放したとして、俺らになんのメリットがあるんだ?俺らは常盤めぐりの身体が欲しい。それを手放すに足るだけのメリットを、お前らは提示できるのかって話だよ」
「損得とか考えてる場合ですかねぇ。俺たちは特務課ですよ?ローレルの第八特務課。抵抗するのはお勧めしません。しても良いですが、その場合は最悪死んでも文句言えませんよ」
そう言って間島レイヤは不敵に笑った。
しかし板倉の方も全く怯んではいない。
「それはハッタリだろ。お前らは殺しなんてできない。公務員サマだもんなあ?」
「まあ表向きは、そうですね。でも俺たちは警察じゃないんで。いくらでもやりようはありますよ」
「へえ、言うなあ。でも、虚勢は滑稽だぜ?お前らに脅かされるほど俺たちも純粋じゃねえよ。……こっちの要求はただ一つだ。サラザールの血を渡せ」
板倉が一層声を低くしてそう言った。
そのサラザールの血を右手に持った三保瑛人はやっぱりな、と心中で呟く。
板倉たちは常盤めぐりの生き血を欲している。
それならば彼女が生きている限り永遠にその姿を求め続けるサラザールの血の存在は、邪魔で邪魔で仕方がないことだろう。
「良いですよ。じゃあ常盤さんとサラザールの血、交換ってことで」
「わざと言ってんだろ。それじゃ何の意味もねえだろうが。御託は良いからさっさと渡せ」
「嫌ですよ。それはこっちにメリットが無さすぎる」
「そうだそうだ!この血、手に入れるの大変だったんだからな?態々古瀧さんと治則さんに掛け合って……大枚も叩いて……。マジで大変だったんだからな!?絶対渡すもんか!」
「ちょっと三保さんは黙っといて貰えます?」
後方から幼稚に憤慨する三保瑛人を間島レイヤがしらっと見つめる。
二人の言っていることは結果として同じなのかもしれないが余りにも質に差がありすぎた。
そんな特務課側の様子を見て、板倉は苛々したように地団駄を踏む。
「渡せっつってんだろ。そっちで勝手に盛り上がってんじゃねえよ」
「あー……盛り上がってた件に関しては素直にすんませんなんですけど、結局サラザールは渡せないですよ。全く交渉になってませんからね」
「そりゃそうだろうな。まあ正直ハナから交渉なんてする気、なかったけど。お互いサラザールが手に入ろうがなんだろうが、常盤めぐりが居なきゃ意味ねえからな。交渉なんてしようがない。最初から、実力行使になることは分かってたさ。……準備しろ」
板倉は周囲を固める男たちに向かって指示を出した。
その言葉を受けた男たちは各々の懐から血の入ったケースと、それから黒光りする物体を取り出す。
「……あっちの人たち銃持ってるように見えるんだけど、俺の幻覚?」
「いや、あれは間違いなく銃です。スミス&ウェッソンだと思います」
「えっ神楽、ブランドまで分かるの?」
「うちにも同じのがあったので……」
「うわ、カルチャーショックだ」
「あれはそこまで威力のない型です」
「でも当たったら死ぬよね?」
「即死の可能性は低いです」
「そっちの方が嫌じゃない?」
神楽・エヴァンズの言う通り、相対する男たちの手には南中する太陽の光を受けて煌めく拳銃が握られていた。
おもちゃではない。本物の銃だ。
第八特務課は確かに血液密売買組織という犯罪集団と対峙する部署ではあるが、火器の使用は許可されていない。
『血の特異性』だけでどうにかしろ、というのが上の思考であるようだ。
しかし第八特務課に火器の使用の制限があるからといって相手方もそうであるわけではない。
寧ろ血液の密売買という犯罪を犯している人々にとって銃刀法の違反などというのはさしたる抵抗などないものであるので、特務課の出動では銃砲刀剣の類を見かけることは少なくない。
しかし、である。
少なくない、というのは言葉通りに少ないとは言えないということなだけであって、彼らがそれに慣れていることを示すわけではないのだ。
それどころか、日本にある『血の特異性』と現代兵器は相性が悪く苦手意識が拭えない状況なのである。
間島レイヤ、神楽・エヴァンズ、高坂流亥の三人はウエストポーチから試験管を抜いて構える。
三保瑛人はサラザールの血を手にしたまま車の中に引っ込んだ。
「なんでも良い、とにかくサラザールの血を回収しろ。殺しても良い。回収できなきゃ結局クビ飛ぶのはこっちなんだからよ」
「間島ー、絶対車に当てさせるなよ!任せた!」
「えー……俺そういうの専門じゃないんすけど……」
「間島さん、来ます」
「りょうか……うわっ」
高坂流亥の言葉に間島レイヤが返事をしようとした瞬間、びゅんと氷の弾丸が発射される。
間一髪のところで間島レイヤが氷壁を生み出したから良かったものの、その速度は本物の銃と大差ない。
「あっぶねー!死ぬ死ぬ!マジでなんでこういう時に限って水瀬さんいないかなぁ!」
「最後にもう一度訊いとこうか?サラザールの血を渡せ!そしたら命は助けてやるよ」
「先制攻撃しといてそれ言う?そっちこそ常盤さんを返しなよ。お縄に付きたくないんだったらな!」
「はっ……そんなもん脅しになんねえよ。やれ!」
板倉の掛け声を合図にして一斉に『血の特異性』による攻撃が飛び交う。
飛び交う、と表現するにしては特務課側は防戦一方の気があったが。
氷、電撃、土塊、爆発。遠慮のない轟音が鳴り響く。
戦闘が開始されると同時に、常盤めぐりは板倉の手によってインプレッサの中に押し戻された。
流れ弾でも当たって死なれたら困るということだろうか。
依然手足を拘束されたままのめぐりに抵抗の手段がある筈もなく、彼女の身体はリアシートの上で跳ねる。
「流亥、小田使ってる?」
「はい。今のところは異常ありません」
「了解。神楽、一人ずつで良い。徐々に前線を上げるから矢嶋でも神楽のでも良いけど無力化して。無理はしなくて良い。長期戦になるのはキツイけど、水瀬さんが来るまで時間稼ぎってのもアリだし」
間島レイヤが氷壁で敵方の攻撃を防ぎつつそう言った。
本来であれば彼は攻撃に専念するべき適性を持っているが、通常防御を担当する水瀬燈真が不在のためその役割を担っているのである。
特務課は三人、相手方は七人。
頭数で言えば二倍以上の戦力差があるのだから、防御に手が抜けないのは当然の話だった。
しかも高坂流亥は後方支援の適性が高い分攻撃方面に於いてはからきしであり、神楽・エヴァンズもレンジャーと言うべき適性の方向なため攻撃の決め手に欠ける。
ここから戦況を覆すには少し思い切った行動に出ねばならない。
「……いえ、間島先輩、水瀬さんが来るまでに片を付けましょう。一気に上げてください」
「おっ、神楽やる気じゃん。でも、それ俺が超キツイんだよなー。まあ、良いけど。流亥、どう?」
「シュミットとローズの血が使われていると思います。それ以外は大丈夫です」
「シュミットとローズね、了解。流亥は車に入ってて」
「えっ、でもまだ……」
「今から一気に上げるから、流亥は危ない」
「……わかりました。気を付けてください」
「はーい。了解。行くよ、神楽」
「はい」
高坂流亥が車に入ったのを見届けて、二人は敵方に向かって踏み出した。
間島レイヤは攻撃と防御を巧みに使い分けながら、神楽・エヴァンズは持ち前の腕力と自身の『血の特異性』を組み合わせながら、一人ずつ着実に敵を無力化していく。
第八特務課は日本に二つしか存在しない、恒常的に『血の特異性』を戦闘に於いて利用することを許可された集団である。
要するに彼らは『血の特異性』を用いて戦うという点にいてプロと呼んで差し支えない人々なわけだ。
正式な軍隊のない日本の中では数少ない『戦闘のプロ』なのである。
彼ら個人の力量はこの中でも頭抜けていた。
単純な数という戦力差を二人は徐々に、しかし確実に詰めていく。
そんな戦闘を、ハイエースの車中で三保瑛人と高坂流亥がやきもきしながら見守っている。
三保瑛人は研究職の役割で第八特務課に所属しているため『血の特異性』を満足に使えず、高坂流亥は戦闘に全く向かない適性、ということでこの荒れ狂う戦闘を応援する選択肢しか二人には残されていなかった。
しかし、本当に応援だけをして無為徒食に時間を過ごしていたというわけでもない。
「水瀬さん、今どこにいらっしゃるんでしょうか」
「さあな……赤薔会はそこそこ遠いからな。……電話でも掛けてみるか。出てくれるかは分からんが」
「そうですね。そうしましょう」
三保瑛人はスマートフォンを取り出して水瀬燈真の連絡先に電話を掛ける。
『……もしもし』
「お、マジか。出てくれるとは思わなかった」
『ご挨拶だな。瑛人はおれのことをなんだと思ってるんだよ』
「水瀬さん、今どちらにいらっしゃいますか?」
『こ、高坂……居たのか……。今は……品川区と大田区の境くらいだ』
「結構近いな。……よし、高坂。あっちに高台が見えるだろ。あそこで燈真待っとけ。道案内してやれよ」
「僕がですか?」
『別に良いですよ。カーナビもありますし』
「そうですね。それに僕がここを離れるのは……」
「大丈夫だよ。どうせ燈真が来ないと戦局は変わらん。それに、変に道に迷われると困るしな?」
三保瑛人は高坂流亥をじっと見つめた。
その視線には単に命令と言うだけではない何かしらの感情が宿っている。
しかし高坂流亥にはその感情がなんなのか、判別が付かない。
それでも、三保瑛人は尊敬すべき先輩だ。
彼は飄々としているように見えてその実、誰よりも他人のことを理解している。
だったら、自分が彼に逆らう必要などないではないか、と高坂流亥は結論付けた。
「わかりました。水瀬さん、さっき送った住所の近くの高台に僕が居ますからなるべく早く来てください」
『……はあ。分かった。高坂、気を付けて来るんだぞ』
「承知しました」
「燈真、絶対来いよ。お前が居ないと間島も神楽もキツそうだ」
『分かってますよ』
三保瑛人はもう一度早く来い、と念押ししてから通話を切った。
「じゃあ、僕行ってきます」
「おう。念のため繁町使っとけ」
「分かりました」
高坂流亥は一本の試験管の蓋を開けつつ車を降りる。
その姿が『血の特異性』によって虚空へ溶けるのを見送ってから、三保瑛人は未だ荒れる戦場に目をやった。
激しさを増す戦闘は遠目からでは正確な情報を掴めない。
だけれども戦況は徐々に特務課の側に傾いている、ということは見てとれた。
そんな特務課相手に一人、また一人と戦力が減っていくのを眺めながら、インプレッサに背を預ける板倉はぽつりと呟いた。
「チッ……流石第八特務課サマだなあ。この人数差で押し切れねえのかよ。寧ろこっちが押されてんじゃねえのか?」
実際、七人いた人員は三人減って半分近くになっている。
無力化された三人は地面に転がっており、死にはしていないだろうと思われるが少なくともこの後の戦闘へ復帰することは見込め無さそうだった。
残りの四人が伸されるのも時間の問題だろう、と考えた板倉はもたれかかっていたインプレッサのドアを開けた。
そこには、当然だが常盤めぐりが転がっている。
全身の自由を奪われた常盤めぐりは、それでもなんとかその状態を抜け出そうと身を捩りくねらせていた。
「……おい、常盤めぐり。下手な動きすんじゃねえぞ。死期を早めたくないんならな」
板倉はそんな常盤めぐりの身体を掴んで、再び外へと連れ出した。
噛まされていた猿轡も解かれ、常盤めぐりにほんの少しの自由が与えられる。
「はあ……はあ……み、みんなは……っ。みんなはどうなって……」
「ああ?特務課の奴らは無事なんじゃねえの?代わりにこっちがボロボロだよ、ったく」
土煙による天然の煙幕と『血の特異性』による轟音とが相まって一目で戦況を把握するのはなかなか困難だったが、板倉の不機嫌な様子から察するに彼の言葉に嘘はないだろうと思われる。
しかし未だ決着がついていないなら何故自分が外に連れ出されたのか、と常盤めぐりは疑問に思った。
ぐあっ、という野本い悲鳴と共に煙幕の中から一人の男が飛び出してきた。
その男はそのまま地面に倒れ伏し、ぐたりとして動かない。
常盤めぐりにその男との面識はなかった。つまり、彼は板倉の仲間ということであろう。
本来ならそれは常盤めぐりにとって喜ぶべき一幕だ。
しかし、彼女には一つ思い当たることがあった。
常盤めぐりは慌てて顔を跳ね上げ、板倉を睨む。
もしかして、この男は私を___。
常盤めぐりが板倉の真意を聞き出そうとした瞬間に煙幕の向こうで一際大きな爆発音が鳴り響いた。