一章 25
ただいまの日時をお知らせしよう。
七月二十七日土曜日十三時二十五分。
つまり、岸根会とサイバーユビキタスコンサルティングとの談合が始まる五分前の時刻である。
ということはつまり、今は出動の真っ最中ということだ。
ああああ、あと五分、あと五分!?
やばいやばい。めっちゃやばい。激ヤバだ。
語彙力なんて彼方に飛んでいってしまっている。
でもヤバいんだもん。ヤバヤバだ。緊張とかそういう域ではない。
だって死ぬかもしれないんだよ!?
一歩間違えば死なんだよ!?
もう無理……心労で死にそう……。
しかし、そんなことを言ってばかりもいられない。
私の隣、灰鼠色のバンの助手席には高坂流亥が乗っていた。
彼は手元にあるタブレット端末を眺め続けている。
三保瑛人は表通りの方でもう一台のバンに乗っているし、水瀬燈真と間島レイヤ、神楽・エヴァンズはちょっと遠くに見える直方体のビルの中だ。
だからこの車には私と高坂流亥だけ。
事前の作戦通り。配置は完璧でなんらのミスもない。
それでも私の心臓はばくばくとけたたましい音を立てている。
私の硬い表情に気付いたのか、高坂流亥はこちらをちらっと見て少し笑みを浮かべた。
「緊張してますか?」
「は、はい……。正直めちゃくちゃ……」
「でしょうね。顔色が酷いですよ」
そう言って高坂流亥はくすくすと笑った。
ちょっと前なら彼が私の前でそんな表情を見せるなんて考えられなかった。
ほんの数日前までは世間話にだって窮するような、そんな間柄だったのに。
「気持ちはわかりますが、緊張のしすぎは良くないですよ。大丈夫ですから、落ち着いてください」
「は、はい!」
私は深呼吸をして心を落ち着けようと試みる。
実際もう出動には出てしまっているのだから、あとはなるようにしかならない。
ここで無闇に緊張しても悪い結果を招くだけだろう。
私は高坂流亥同様に手元のタブレット端末を覗き込む。
実働班が潜入している雑居ビル内に仕掛けた監視カメラの映像を確認しているのだ。
今回談合の舞台となるのはビルの五階にある指定暴力団・岸根会の事務所である。
ビルの出入り口、各階の階段、エレベーター前、五階に至っては殆ど死角なく監視されている。
これ全部、第八特務課が設置したの?なんかそんなようなことを言っていた気がするからそうなんだろうけど……。怖いな……絶対敵に回したくない。バレずにここまでの情報収集ができるなんて。
現在、既に岸根会側の人員は事務所内に集結していた。
しかしサイバーユビキタスコンサルティング側は未だ姿を見せていない。談合まで残り数分もないというのに。
『来たか?』
耳元でざざっという雑音と共に三保瑛人の声が聞こえる。彼とは今、無線を繋いでいる状況だ。
「いえ、まだ姿は見えません。それらしき車もありませんし……」
『そうか。……今拾った音声によると到着が遅れてるらしい。こっちの動きが勘付かれたってわけじゃなさそうだな』
無線を通しての三保瑛人、高坂流亥のやり取りを聞きながら私はタブレットを眺め続ける。
タブレットの画面は三×三の合計九フレームで構成されていてともすると全てを監視するには目玉が足りないのではと思うだろうが、人工物ばかりで作られたビル内は映像であっても静止画と見分けがつかないほど微動だにしない。
だから何か変化があれば、それがいくら些細なことであれ、意外と目に留まるものだ。
「高坂さん、」
私は高坂流亥の袖を引いた。
タブレットの最上段、左端。三階と四階を繋ぐ階段を映した画面に一人の男が闊歩する姿が過ぎる。
高坂流亥は私と同じ画面を確認すると私に向かって小さく頷いた。
「神楽、階段の方向から人が来る。C地点も視界に入ると思うから気を付けて」
神楽・エヴァンズから了解の声はなかった。
それもその筈で、彼は今岸根会事務所に繋がる廊下の隅にいる。声なんて出せる訳がない。
事務所脇に陣取るなんてことをして潜入がバレないのか、と思うかもしれないがどうもそこは『血の特異性』でカバーできるらしい。
他人の視認性に干渉する的なそういう能力らしいが、目の前を通り過ぎても大丈夫ってそんなのあり?なんでもありすぎるでしょ。
私は無線のマイクの位置を調節した。
談合の開始予定時刻から五分は経っている。状況は膠着して動かず、じりじりと焦らされているような心地さえする。
しかし焦ってはいけない。気ばかり急いて逸った真似をするのは下の下の行為。
私は兎に角タブレットを注視し続ける。
「……来ました!今、ロビーを通ってます」
「人数は?」
「四人です。資料と変わりません。二、二です」
「了解」
私が横目でチラッと高坂流亥の手元を覗き込むと、そこには確かに四人組の男の集団が映っていた。
そのうち二人は中肉中背の冴えない印象だったが、残りの二人は神楽・エヴァンズにも負けないほどの立派な体格をしている。
前者は所謂ブレーンで後者はボディーガードのような役割をしているのだろう。
このビルのエレベーターは狭い。
そもそもこの雑居ビル自体が他の建物の隙間を無理やり埋めるように建てられているのだから仕方ないが、一度に四人はエレベーターのキャパシティに収まらない。
そのうち二人が大柄だというなら尚更。
だから、彼らは二手に分かれた。
ブレーンの二人はエレベーターで、ボディーガードの二人は階段で。
迂闊な選択だと思った。折角ボディーガードを付けているのにそれと分かれてはなんの意味もない。
彼らは私たちを、ローレルの存在を警戒していないと結論付けるのに大した時間は掛からなかった。
この談合を嗅ぎつかれているとは思っていないのだろう。
そういった情報を高坂流亥は逐一無線で報告する。私が補足するまでもなく過不足のない完璧な報告であった。
私は息を詰めて手に視線を落とし続ける。
この後、作戦は滞りなく進んだ。
岸根会、サイバーユビキタスコンサルティング両者が五階の事務所に集まり、予定より少し遅れて談合が開始された。
サイバーユビキタスコンサルティング側の持ち込んだアタッシュケースの中身が開示され、それが血液であることを確認する。音声によって、それを秘密裏に売買しようとしているのだということも裏付けを取る。
十分に言い逃れできないだけの証拠を集めてから、実働班は動き出した。
水瀬燈真と間島レイヤは屋上で待機をしていた。既に五階にいる神楽・エヴァンズと合流した後、事務所内に突入する機会を窺う。
私たち待機班も、実働班が突入すると同時にビルへと向かう予定だ。事務所内の人々の捕縛、連行の補助のために。
直接の交戦はないだろうと見込まれているものの、何が起こるかはわからない。
私は腰に巻き付けたウエストポーチを軽く撫でる。ウエストポーチといってもただの収納用のものではない。
血液の入った試験管が何本も挿さった特注のものである。
第一系統が二本、ハーディング、ザイファート、トゥルナゴル等々三保瑛人から手渡されたものが一本ずつの計九本。
大丈夫、ちゃんと入ってる。蓋の素早い開け方だってずっと練習してきたし、第一系統の氷も屈めば全身隠れられるくらいの大きさまで作れるようになった。
だから、きっと大丈夫。
私は手同士を絡み合わせ、組み合わせた。
無線から『一四ニニ』との水瀬燈真の声が聞こえてくる。これは突入の時刻だ。
私は腕時計を確認する。朝に皆んなで合わせたものだ。あと四十秒。
無線から三保瑛人のカウントダウンが聞こえてくる。
私と高坂流亥はタブレットを車の適当なところに置いて顔を見合わせた。
彼は車のドアに手を掛ける。
三保瑛人の声で、ゼロという言葉が紡がれた。
高坂流亥に続いて私も車外に出る。車からビルまでは十五メートルほどの距離があった。
だから、私たちは少し駆け足で建物の方向に向かおうとした。
そう、向かおうと、したのだ。
向かおうという意思はあった。少なくとも、私の脚は間違いなくビルの方向に駆け出していた。
でも、現実として私の身体はその方向に進んでいなかった。
「高坂さ___ん゛んんーーっ!!?」
車から降りた殆ど直後に、私は後ろから羽交い締めにされた。
高坂流亥の名前を呼びかけて、その途中に口の中へ何かしらのものを突っ込まれる。
舌が押さえつけられて、気道の入り口が塞がれて、声が全く出てくれない。
それでも私の絶叫を聞いて、高坂流亥は私を振り返った。
「と、常盤さん!?」
高坂流亥が私の状況に目を見張る。
私は二人の男に囲まれていた。
一人は私を後ろから拘束して、もう一人は私と高坂流亥を隔てるように間に立っている。
目の前の男の手には血の入った透明なケースが握られていた。
明らかに尋常ではない様子を見てとって、高坂流亥はウエストポーチから一本の試験管を取り出して臨戦態勢に入る。
私の目の前に立つ男はそれを見てニヤリと笑った。
「おっと、高坂少年。俺に歯向かうのはやめといた方が良いぜ?ていうか、お前じゃ俺には敵わない」「誰だ。なんで僕の名前を知ってる」
「そりゃ有名人だからじゃないですか、高坂流亥くん?あの高坂の跡継ぎなんだろ?戦闘じゃこれっぽちの役にも立たない高坂の、跡継ぎなんだろ?」
「黙れ。お前は誰だ。岸根会か。それともユビキタスの……」
「ああ、違う違う。そういうんじゃないよ、俺たちは。血液売買なんて興味ねえ。俺たちが興味あるのはこいつの、常盤めぐりの血だけだ」
そう言って、目の前の男は私を視姦するように見た。
ぞわりと栗立つような不快感が私の身体を駆ける。
私の血が、目的?つまり『奇跡の血』を欲しがっているということか?
なんでこいつがそんなことを知っているんだ。
私は自分が『奇跡の血』であるということなんてまだ誰にも話していないのに。常盤めぐりの家族や友適にも。
「……どこで彼女のことを知った?」
「さあ、どこだろうな」
「指示者がいるのか?それともお前たちの独断か……」
「あのさ、高坂流亥。俺たちはお前のお喋りに付き合う気はねえから。お前はともかく他の奴らに合流されたら困る」
そう言って男はビルを見遣った。
この男はどこまでこちらの情報を把握しているのか。
その深浅のほどはわからないけれど、あまり大胆なハッタリは通用しないだろうと思われた。
高坂流亥も苦々しい表情をする。
「じゃ、こいつは貰ってくから。第八特務課の皆さんにヨロシクな」
「待て!そう簡単に逃すわけが……!」
「だーかーら、お前じゃ俺には勝てねえって。お前が使えるのなんて、精々古瀧と須磨と小田くらいだろ?それでどうやって俺に抵抗するつもりだ?身の程を弁えろよ」
男の言葉が終わると同時に、氷の弾丸が高坂流亥の頬すれすれを物凄い速さで通り過ぎる。
男が『血の特異性』を使ったのだ。
第一系統の『血の特異性』。それで生み出した氷を弾丸の如く発射したのだ。
あれが直接身体に当たれば、死にはしないまでも後にまで尾を引く重傷を負うことだろう。
ゾッとした。あれはお遊びなんかじゃない。
自分の身を守るためとか、誰かを助けるためとか、そんなものでもない。
ただただ人を傷付け、殺めるためだけの『血の特異性』。
高坂流亥の表情が険しい。
眉間には深く皺が刻まれているし、歯もギリギリと音がしそうなほどに食いしばられている。
きっと男の言ったことは当たっていた。
高坂流亥じゃ、この男には勝てない。
それは仕方のないことだった。
高坂流亥の適性は全くといって良いほど攻撃に向かないから。
その代わりサポートの方面では無類の適性を誇る。それが高坂流亥だ。
だから、そんな自罰的な表情をしないで欲しかった。そんな風に苦しそうな顔をしないで欲しかった。
目の前の男は私を羽交い締めにしている男を振り返って、行けと指示をした。
後ろの男は無言で頷くと私の身体を無理やりに持ち上げる。
今だ。今しかない。このままだと私は連れ去られて、何をされるかは知らないが、二度と元には戻れない。
咄嗟だった。深いことを考えていたわけじゃなかった。
私は男の手によって完全に宙に浮いた身体を揺すった。全力で揺すった。
この後に体力が残らなくたって良い。とにかく今、こいつの手から一瞬でも離れられるならそれで。
目論見通り、男は不安定な重心を支えきれなくなって私の身体を取り落とす。
ーメートルと半分はあろう高さから落ちたものだから、流石に痛かったけど大丈夫だ。身体は動く。
私はウエストポーチから試験管を取り出して___
「ん゛ん゛ん゛っっ!!」
「てめえふざけんなよ!余計な真似してんじゃねえ!」
私の手はお喋りな方の男に踏み付けられた。
当たり前だが、遠慮なんて全くない怒りに任せた動きだった。
手とアスファルトが擦れて痛い。
「おい。そのポーチ外せ。置いてきゃ良い。クソッ。最初から外しとくんだった」
「常盤さん!」
「おいおい高坂少年。勝手に動くなよ?首が飛んでも文句言えねえぜ?」
お喋り男は私の手を更にグリグリと踏み付ける。
痛かった。本当に痛かったけど、痛みなんかに気を取られている場合じゃなかった。
寡黙な方の男によって私のウエストポーチが取り外される。
それは良い。寧ろ好都合だ。最善じゃないけど次善の策ぐらいは成功している。
私はウエストポーチの中の試験管が一本空になっていることを目視で確認した。
良かった。ちゃんと使えている。
私は高坂流亥の目を見つめた。
お願いだ。気付いてくれ。後は君に全て掛かっている。
そう念じていると高坂流亥も私を見た。
ごめん、とでも言いたげな瞳だった。
沈痛で悄然たる面持ちは見ているこちらまで苦しくなるほどで、私はこんな状況にもかかわらず少し安心する。
高坂流亥は真面目な人だ。
つい最近、真面目なだけではないちょっと変わった一面も発見したけれどやっぱり本質的に、どうしようもなく、彼は真面目なのだった。
そんな彼であればこそ、私は彼を信じられる。
大丈夫。私はやれるだけのことはやった。
高坂流亥もきっと私を助けようと全力を尽くしてくれる筈。
だから、きっと私は大丈夫だ。戻ってこられる。そう信じている。
そんな想いを込めて、私は高坂流亥に微笑んだ。
彼が私の笑みに気付いたかどうかはわからなかった。
それを確認する前に私は男たちの手によって連れ去られてしまったから。