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一章 21



結局ウィットに富んだ会話など思いつけるわけもなく、高坂流亥との経理課訪問の時間を迎えてしまった。

どうしよう……本当にどうしようかな。経理課までって結構遠いんだよなあ。終始無言は流石に……。


「常盤さん、お待たせしました。行きましょう」

「は、はい!」


神楽・エヴァンズからの質問に対応していた高坂流亥が戻ってきた。

き、来た!頑張れ私!!


高坂流亥と私はオフィスから出る。

彼の腕には二種類の資料が抱えられていて、それは私も同様だった。

水瀬燈真の話によると、今日の経理課への伺候はどうも相手方からの要請によるものらしい。

此度の出動の会計について経理課、特務課間で軋轢が生じかけているのでその折衝を、ということらしかった。


うん、そんなに重要そうな仕事は私に任せるべきじゃないと思う。やっぱり高坂流亥だけで良かったんじゃないかな。しかも経理課って……。


「すみません、常盤さん」

「えっ?」


なんでか高坂流亥から急に謝られた。


「やはり経理課へは僕一人で行くべきでした。あそこは……余り新人向きとは言えないと言うか……少し環境が特殊なので……」


いつもハキハキとした受け答えをする高坂流亥には珍しく、迂遠な言い回しだった。

まあそれも宜なるかなという感じではあるのだ。


これは先輩__間島レイヤから聞き齧った話なのだけど、どうも経理課と特務課は仲が悪いらしい。

そもそも特務課は金食い虫的な誹りを受けることが多く、その誹りの発信源は大抵経理課であると彼は言っていた。

私の前世からの経験として経理課というのは兎角他部署と対立しがちな印象であるが、それはこの世界も例に漏れないらしい。


しかし、高坂流亥が経理課に関して持って回った言い方をするのはきっとそれだけが理由ではない。


「海老名課長ですか?」

「海老名さんをご存知なんですか」

「有名な方ですから」


そう、経理課の抱える一番の問題といえば何を隠そう当の部署の課長本人なのである。

第二経理課課長・海老名功彦といえばその苛烈さは冬の海の波濤の如く、その舌鋒鋭さはグングニルの切れ味の如くと言われローレル全体から畏怖を集める超有名人。

因みに常盤めぐりの元いた第三総務課の課長とは犬猿の仲であった。

というのは余談であるが、かの経理課課長はその言動の峻烈さ故に、またその仕事の手腕故に尊敬されつつも恐れられているのである。


そんな第二経理課課長・海老名(えびな)功彦(なるひこ)から呼び出しを受けたということはその苛烈さの餌食になるということであり、確かに高坂流亥が言葉を濁すだけの状況ではあるのだ。


「海老名さんは……律儀で責任感の強い尊敬できる方なんですが……初対面で素直にそう感じられるかと言われると……」


歯切れが悪い、なんてものじゃないくらい高坂流亥は言葉を選びに選んで出力していた。

高坂流亥にここまで言わせるなんて、海老名功彦はどれだけなんだ。経理課に行った同期の話では「噂も間違いじゃないけど、慣れれば大丈夫」らしいが、本当に大丈夫かな。


「……それに僕とというのは……」


かつん、かつんとローレルの階段に二人分の足音が響き渡っていた。

第八特務課は五階に、第二経理課は二階にオフィスがあるので往復だとそこそこの昇降運動をすることになる。社会人になると否応もなく運動不足に陥るものなので、こういう時に動いておかないと身体は凝り固まっていく一方だ。


高坂流亥は軽くかぶりを振って私から目を逸らした。


「取り敢えず、常盤さんは経理課に着いても何もしなくて良いですから。最低限の挨拶だけしてくれれば、後は僕がどうにかします」

「え、いやそれは……」


確かに私も高坂流亥だけで経理課に行けば良いのではと思ったけれど、元々邪魔にならないように付いていかないのと付いていって何もしないのとでは天地の差があるのではないだろうか。

面倒ごとは先輩に丸投げ、というのは余り褒められたことではない。

しかし、出しゃばって行動した結果高坂流亥を困らせる方がよろしくないのだろうか。

私の方が彼より優れた成果を残せる確証などない。寧ろ残せない証拠の方こそ容易に見つけられるくらいだ。

飛び級制度によって弱冠十八、九で大学を卒業している彼と平々凡々極まる私なんて比べるべくもない。


「……わかりました。なるべく高坂さんのお邪魔にならないよう努めます」

「そうしてください」


高坂流亥がゆっくり頷いた。


リノリウムの階段に沈黙が落ちる。やや古びて黄ばんだ床がよく目に入った。それは私が下ばかりを見ているからだ。

……沈黙が!沈黙が重い!経理課までの道のりはまだまだあるのに!

これは……私から何か話を提供しなければ!


「こ、今度台風が来るそうですね!ここら辺まで来てくれますかねー」

「この時期の台風が関東に上陸することはないと思いますよ」

「そ、そうですよね。でも来てくれたら仕事休めるかなーなんて……」

「業務が滞るのは避けたいですね、僕は」

「あ、なるほど……私はあんまりそういう風に考えたことなかったです。流石高坂さんですね。偉い……って言うと何様って感じになりますね……。こういう時なんて言ったら……えーっと……」

「別に偉いで良いですよ。……特に誉められるいわれはない考え方だと思いますが」

「いやいや、普通は__」


これ、ちゃんと会話弾んでる?わっかんないなあ。

まあ確実に当たり障りのない内容ではある。

だって……高坂流亥の趣味とかわかんないんだもん……。

そんなものを知っていたらすぐにでも話題に活用している。

きっと彼の趣味嗜好もゲームの方ではちゃんと設定されていたんだろうな。ちゃんとプロフィール見ておけば良かった……。後悔先に立たず……。


なんて私が内心で嘆いているといつの間にか第二経理課に到着していた。

一応高坂流亥との会話を途切れさせることなくここまで来られた。中身は希薄なものだったけど、大抵の人間関係はそういう虚ろな会話から始まるんだから一歩前進だ、きっと。

そう思わなければやっていけない。


「もう一度言っておきますが、常盤さんは何もしなくて良いですから。海老名さんとは僕が話をつけますので」

「は、はい。お願いします」


高坂流亥は私の返事を聞いた後、第二経理課へと続く扉を開ける。

扉の向こうの経理課は、如何にも経理やってますという風情にごみごみとした空間を形成していた。

堆く積まれた紙の山は第八特務課のそれとは比べものにもならないくらいの量である。

デスクワーク中心のイメージに反して中は意外と賑やかで、訪問してきた私たちが悪目立ちすることはなかった。


高坂流亥は他に目をくれることもなく一直線に課長職のデスクに向かっていってしまう。

待って待って。早いよ。そんなに急がなくたって良いじゃない。


窓際中央の席、そこが経理課課長・海老名功彦のデスクだった。

私たちが近付いていくと、そこにはお堅い経理課の長に相応しい威厳ある男性が__


「海老名さん、ご無沙汰しております」

「あら?あらあらあら?流亥ちゃんじゃないの〜!!」


いなかった。

いや、そこにいるのは確かに経理課の長なのだろうし確かに男性なのだけれども、少々様子がおかしかった。

胸元まで落ちた明るい茶髪は一本一本毛先まで丁寧に巻かれ、流行を意識したメイクは決して派手でなく十分に上品な華やかさを演出している。引き締まったボディラインをタイトなスカートが強調していて美しい。

あたかも女性に対する形容のようだけど、目の前にいる人物の骨格は確かに男性のものだった。


…………???

え?この人が海老名さん……?本当にあんな厳めしい噂の流れていた海老名さん……?


「流亥ちゃん、本当に久し振りねえ~。元気だった?アタシすっごく寂しかったのよお」

「はい、変わりなくやっています。海老名さんもお元気でしたか?」

「アタシは~、まあ正直最近は落ち込むことも多かったんだけど、流亥ちゃんに会えたから元気出たわあ」

「そうですか。お力になれたのなら嬉しいです」


私は他部署の中央で呆けたまま口を開けていた。

ええ……?海老名さん……?あなたが……?その苛烈さは冬の海の波濤の如く、その舌鋒鋭さはグングニルの切れ味の如くと噂の海老名さん……?


嘘だ。人違いだ。と言えたなら良かったけれども、高坂流亥がはっきりその名を呼んでしまっている。

この状況を整理するに、目の前のフェミニンな男性こそが第二経理課課長・海老名功彦で間違いないのであろう。


……なんでそうなった??


「特務課を呼んだのはアタシだけど、まさか流亥ちゃんが来てくれるとは思わなかったわ~。また弟ちゃんかなと思ってたの」

「水瀬さんは今、出動の件でお忙しいですから。僕では力不足かもしれませんが……」

「何言ってるのお。全然そんなことないわよ~。寧ろ毎回流亥ちゃんが良いわ♡」


ど、どうしよう。いつまで経っても噂から想像していた海老名さんと現実の海老名さんが喧嘩して仕方ない。

だってさ、あんな噂があって経理課課長という肩書きがあったら誰だって威厳溢れる強面男性を想像するじゃない?偏見だというのは重々承知しているけど……。

こんなに美人な方だったなんて……。普通に女性として憧れる。髪巻くの上手い……メイクもこれ、相当高い技術によるものなんじゃないかな……。


私が海老名さんに見惚れていると高坂流亥がこちらに目配せしてきた。

挨拶しろってことね。


「初めまして。私第八特務課に所属しております、常盤めぐりです。先日特務課に転属したばかりですので至らぬ点も多々あるかとは思いますが、何卒宜しくお願いします」

「常盤……めぐり……?」


私がぺこりと頭を下げると海老名さんはこちらに視線を向けて怪訝な顔をした。

今まで高坂流亥に熱視線を送ってばかりいた海老名さんはこの瞬間初めて私を認識したようだった。

恋は盲目、とは言い得て妙である。


海老名さんは私の頭のてっぺんから爪先までを舐めるようにじっくり観察した。しかもそれを三往復くらい繰り返した。


「……初めまして。アタシは第二経理課課長、海老名功彦。単刀直入に聞くけどあんた……流亥ちゃんのなに!?あんたは流亥ちゃんにとってどういう存在なわけ!?」

「えっ!?」


急に何を言い始めたんだ、この人は。

その言い方はまるで私が高坂流亥とごく親しい関係にあるかのような……


「まさかあんた……流亥ちゃんの彼女ってんじゃないでしょうね……!?アタシは認めないからね!あんたみたいなぽっと出の女!」

「いやいやいや、そんなまさか!高坂さんとは普通に同僚です!」

「でもっ……!今まで流亥ちゃんが女の子連れてきたことなんてなかった……っ!こんなのっ……!こんなのあんまりよっ……!!」


海老名さんがさめざめと泣き出してしまった。

ええ……??海老名さんの噂の……『その苛烈さは冬の海の波濤の如く』ってこういう苛烈さだったの??

意外とかギャップとか、そんな生やさしい衝撃を超えている。


でも、まあ、うん。あれだな。

確かに私もずっと好きだった人がいきなり見知らぬ女性を連れて来たらこうもなるかもしれない。

でも違うんだよ。私と高坂流亥はそんな関係性ではないの。

未だたかだか数分の会話を持たせるのにも苦労するような余所余所しい間柄なの。

そんな風に赤裸々に説明するわけにもいかないんだけどね。


「あの……海老名さん、本当に私たちはそんな関係では……」

「海老名さん、一旦落ち着いてください。常盤さんの言う通り僕たちはただの同僚です」


あ、ありがとう高坂流亥……!

愛しの高坂流亥の説得があれば海老名さんだって冷静になってくれ__


「流亥ちゃん……やっぱりその女の味方なのね……!もう怒ったわ!愛しさ余って憎さ百倍よ!この恨み、晴らさでおくべきか!」


えー!なんでそうなるの!?


海老名さんはぷりぷりした顔で自身のデスクの引き出しを開けて資料を取り出す。

それを見て高坂流亥がげんなりとでも言うような表情を浮かべたのを私は見逃さなかった。

こ、これから何が始まるんだ……?


「いーい?流亥ちゃんとそこの人。アタシが怒ってるのは二人がアベックだってことだけじゃあないのよ。あなた達第八特務課の会計はいっつも雑なのよ!そのせいでこっちで処理することも増えて毎回出納が合わないの!ただでさえあなた達は特殊な業務が多いんだから、ちゃんと記載してくれないとわかるわけないでしょお?し、か、も!ここ一年は特務課に関する会計だけ毎回毎回期限過ぎてからしか出来上がってこないのよ!!経理は期限厳守なの!そりゃこっちの責任もあるのはわかってるけど、他の部署の担当や別の会計は全部間に合ってるんだからあなた達の責任も少なからずあるんだってことわかってる!?そのくせ特務課は金が入り用だから会計報告の提出書類も多いし!特殊業務だから大変です、時間ありません、なんてお高くとまった言い訳がいつまでも通用すると思わないでよね!」


海老名さんは取り出した資料を手でバシバシ叩きながら口角泡を飛ばす。


う、うわあ。なるほど。確かに噂は何も間違ってないな。確かに苛烈だし舌鋒鋭い。思ってたのと違ったけど……。


隣では高坂流亥がちょっと顔を引き攣らせながら直立不動で海老名さんの声を浴びていた。


「記載は丁寧に!期限は厳守!ずっと言ってるでしょう!?会計は組織全体に関わる業務なのよ。一部署の遅れは全体の遅れなの!これはこっちの事情だから申し訳ないんだけど、最近インボイスが始まっちゃったせいで対応が変わったしその上税率も変わったからもうてんてこ舞いなのよ。そんな中で特務課のいつものミスが続くと今まではギリギリで間に合ってたものが間に合わなくなるの!こっちの努力でどうにかなる領域を超えてるのよ。だからアタシは再三再四もっと丁寧に提出書類を書いてくださいってお願いしてるの!わかる!?」


海老名さんのバシバシ音が一際喧しくなった。

相当お怒りなんだな……。


まあ正直、海老名さんの言っていることは結構筋が通っていた。別に理不尽な理由で怒られているわけじゃないし、感情論が先行しているわけでもない。

私は特務課に所属して一ヶ月も経っていないから経理関係の書類がどうなっているかなんて知りようがないのだけど、海老名さんの言うことが本当なら第八特務課にも大分非があるだろう。


私は手に持った資料をちらっと盗み見た。

叱責の最中に余所見なんて人としてどうなのかと思われるかもしれないが、海老名さんの言うことが本当なのかどうか確認したかったのだ。

私が今持っているのは一つが六月期の、もう一つが七月期の特務課の会計資料であった。


私は前世で所謂普通の中小企業に勤務していた。

特筆すべきところのないどこにでもある企業だったが、強いて特徴を挙げるとすれば多少ブラック気味なことだろうか。

そのせいでなのかは分からないけど、私は全く別の部署だったのにもかかわらず経理部の業務を半ば任されるような形で仕事をしていたことがある。


だからということなのか、私の目は資料から少しの違和感を拾った。


「ちょっとぉ!そこの常盤めぐりとかいう女聞いてるう!?」

「は、はい!すみません!聞いてます!」

「嘘つきなさい!新人だかなんだか知らないけど、特務課にいるからには貴女だって無関係じゃ__」

「海老名さん、常盤さんは特務課に来てまだ半月ほどしか経っていないんです。会計処理も何も知らない状態ですから、何かあるのでしたら僕に言ってください」


こ、高坂流亥……。ちょっとびっくりしてしまった。

今のは高坂流亥が私を庇ってくれたということだよね?

いや、確かに私は余所見をしていたから悪いのは完全にこっちなんだけど……。


「ふーん……。じゃあ流亥ちゃん、何を直せば状況が改善するのか言ってご覧なさい。アタシは別にあんた達を嬲りたいのでも謝って欲しいのでもないのよ。ただうちの課の仕事が円滑に進むようにしたいだけ。今日特務課を呼んだのはアタシがあんた達に当たりたかったからじゃなくて、業務内容の改善をしてもらうためよ。今、何を改めたら良いのかが分からないならもう少しアタシとお話ししなきゃいけないわね?」


高坂流亥がぐっと言葉に詰まるのがわかった。

うん、確かに今の海老名さんは怖い。下手なことを言ったら殺されそうだ。心が。

これぞ経理課課長といった風格で海老名さんは椅子に腰掛けた。そして悠然と足を組む。


高坂流亥、大丈夫かな。

彼は確かに優秀だけど、それと同時にやっぱりただの少年という側面もある。

普段の彼なら難なく対処できるようなことでも一回り二回りではきかない年齢差の人相手にこんな追い詰められた状況で、ではいつもの通りにともいかなくなる。


「そ、れは……」


高坂流亥は腕に持っていた資料をがさりと持ち替え、それをめくるために紙の端を指で摘み上げようとしていた。

でもその行為は上手くいかない。

指が乾燥しているのか、それとも手の震えのせいか。


そんなの、どちらでも良かった。

高坂流亥は今、困っているのだ。どうしたら良いのか、きっとわかっていない。

自分が何をしたら良いのか、どうやって答えるのが正解なのか。


でも私は、正解かもしれないものを持っていた。

私は彼を助けることができるし、私を庇ってくれた彼を助けたいと思った。


「海老名さん、すみません。私から少し宜しいでしょうか」


私は右手を軽く挙げて二人の会話に割り込んだ。

海老名さんも高坂流亥も驚きの感情を瞳に湛えて私を見る。


「こちらの会計書類を拝見させていただいたのですが、現時点でこの資料には我々が改善すべき点が二つと経理課にご相談したい点が一つあります。それを話させていただいても?」

「あんたが?……まあ良いわよ」

「ありがとうございます。まず我々が改善すべき点の一つは経費の項目選択ですね。この資料を見るに同一機材の使用が時によって別の項目で申請されていることがままあります。そこはこちらで基準を確認して統一したものをご用意します。そして二つ目が、稟議書との対応ですね。どうも稟議書の修正を経理書類に反映できていないことが多いように見受けられます。こちらも提出前に十分確認をさせていただきたいと思います」


海老名さんの目が怖い。化粧で綺麗に調えられた顔は普通の人より表情が判りにくいように思われた。

そうでなくても彼の纏う雰囲気は他を圧倒するだけの力がある。

私はごくりと唾を飲んだ。


「……まあ、良いでしょ。悪かったわね、怖がらせて。アタシはそれが仕事だから。あ、忘れてたけどちゃんと提出期限も守ってよ。そこ、一番大事だから」

「はい」


ふっと威圧する雰囲気を緩めた海老名さんに私もほっと息をつく。

こ、怖過ぎでしょ。マジで死ぬかと思ったよ。心が。

でもまあ、こういうことができる人じゃないと課長にはなれないということなのかも。

……水瀬燈真ってできるのかな。それに総務課の課長も。あんまりそういう風には見えないけど。


「後あんた、アタシ達に相談したいことがあるって言ったわね?何かしら」

「あ、それに関しては特務課担当の方とお話しさせていただきたいのですが……」

「わかったわ。……相田くん!ちょっとこっち来てくれる?」


海老名さんが一人の壮年期の男性を呼び止めた。いかにも経理です、みたいなお堅い印象の人だ。

相田さんと仰るらしいその人は小走りでこちらへ近付いてきた。


「こちら特務課担当の責任者の相田くん」

「……相田です。よろしくお願いします」

「第八特務課、常盤めぐりと申します。よろしくお願いします」

「相田くん、この常盤さんが貴方に話したいことがあるそうよ」

「え、ぼ、僕にですか……?」

「すみません。どうしてもご相談したいことがありまして。今お時間よろしいでしょうか?」

「はい……今、は……そんなに忙しくないので……」

「ありがとうございます!では少しこちらの方でお話を……」


そう言って私は海老名さんから距離をとって相田さんを手招きした。

海老名さんには余り会話内容を聞かれたくなかったのだ。

海老名さんから少し離れた場所で私と相田さんは資料を見つめ、会話する。

十分ほどは経っただろうか、取り敢えず相田さんとの話は一段落したので私は海老名さんの元へ戻る。


「すみません、お待たせしてしまって」

「良いわよ。相談はちゃんとできたの?」

「はい。お手間を取らせてしまい申し訳ございませんでした。ありがとうございます」


海老名さんと高坂流亥は何やらを話し合って私を待っていた。


「じゃ、アタシからは以上よ。取り敢えず、七月分は直してきてよね」

「はい。承知しました」

「相田さんと相談させていただいたことも、また固まり次第報告いたします」

「了解。任せたからね、ちゃんとやってよお?」

「はい!」


海老名さんに礼をして私と高坂流亥は経理課オフィスを後にした。


一旦廊下に出ると、高坂流亥はずんずんと先に歩いていってしまう。その足取りはあくせくしているような感じで、私は完全に置いていかれてしまった。


「こ、高坂さん」


私は半ば走るような速度で高坂流亥に近付く。

なんだか、少し様子がおかしかった。

彼は確かに厳しいし贔屓目など使わないタイプの人ではあるけれど、決して心無い冷酷な人間というわけではなかった。こんな、歩調すら合わせてくれないような人では__


「……すみませんでした」

「わっ」


早足で歩いていた高坂流亥がいきなりその足を止める。私はそんな急の変化に対応できず思いっきり彼の背に衝突してしまった。

痛い……鼻が凹んだらどうしよう。常盤めぐりに謝っても謝りきれない。


「すみませんでした」


高坂流亥はこちらを振り返って、衝突の反動でよろめく私の腕をぐっと掴んで支えた。


「すみませんでした、本当に」

「いや、そんなに謝っていただかなくても。何か急ぎの用事ですか?それとも海老名さんからの仕事、そんなに大変なんですか?」

「違います。そうではなくて、」


私は真正面から真っ直ぐに高坂流亥を見つめる格好になった。彼の手が私の腕を掴んでいるのだから当たり前の構図だが。

そこから見える高坂流亥の表情は、なんだかとても寂しそうに見えた。

彼は少しの逡巡の後、慎重に口を開く。


「……相田さんとは、何を?相談というのは何についてのことだったんでしょうか」

「ああ……えっと高坂さん、これから私が話すことは海老名さんには内緒にしてくれませんか?」

「は?はあ、わかりました」

「ありがとうございます!あの、私この資料を見て色々マニュアルと合わないなーと思うことが多かったんですけど、相田さんに確認したところどうもエクセル処理が変わったみたいで」

「……そうなんですか?」

「特務課担当の方って最近変わったんですよね?どうも引き継ぎの時に前任者の方のエクセルが一部破損してしまったみたいでして。それで以前のマニュアルとずれが出てしまったんじゃないかなと。経理はエクセル命ですからね。相田さんと話して、会計処理は新しい方の形式に合わせることにしました。折角だから業務の効率化を図ろうという話にもなったのでこれから他にも色々と変更が出てくると思うんですが、経理関係のマニュアルってどなたが担当していらっしゃるんでしょうか?」


私がそう捲し立てると高坂流亥は難しい顔をしたまま固まってしまった。


……やっぱり不味かったかな。

いや、私もどうかなとは思ったんだよね。

エクセルの破損って普通に結構重大なミスだし、本来なら相田さんはそれを海老名さんに報告して特務課にも相談すべきだったと思うんだけど。

でもねえ、それだと確実に相田さんが怒られるんだよね。当たり前だけどさ。

人間誰だって怒られるのは嫌なものだし、内々に処理できるならそれが一番良いかなあと。

……まあ内々に処理してそれが上手くいかなかった場合更に迷惑をかけてしまうことになるんだけど……。


「はあ……」


高坂流亥の口から盛大な溜息がれた。彼は何かしらの感情を堪えるように目を伏せている。


お、怒って……る?怒ってるよね!そりゃそうか!本当にごめん!

私は慌てて謝罪をするために口を開く。


「高坂さん、すみませ……」

「すみませんでした」


しかし私に先んじて謝罪の言葉を口にしたのは高坂流亥の方だった。

えっ?いや、ええ?なんでこの状況で高坂流亥が謝るんだろうか?今のは私が謝るべきところで……


「僕……何もできませんでした。海老名さんからの質疑には答えられないし、問題の原因にも気付けないし……。あれだけ大口を叩いておいて……」


高坂流亥は眉間に皺を寄せて苦虫を噛み漬したような顔をしていた。その手に持った紙の束は握り締められてぐしゃりと形を崩している。


『常盤さんは何もしなくて良いですから』


そう言えば、高坂流亥はそんなようなことを言っていた。海老名さんのあまりの衝撃に、そんな指示などすっかり忘れてしまっていたが。

しかし彼の中ではそうでなかったということなのだろう。高坂流亥は本当に全てを一人でどうにかするつもりだったし、本当に少しも私を頼る気はなかった。


「常盤さんは海老名さんと会うのも初めてだし、僕がちゃんとしなきゃと思っていたんですけど……結局最後まで何もできずじまいになってしまって……本当、情けない」


その高坂流亥の言葉を聞いて私はあんぐりと口を開けてしまった。

彼は多分足元を見つめているから気付いていないだろうけど、とても人に見せられないような顔をしている。早く閉じないと。

しかし、開いた口が塞がらないというのとは違うけど、意思に反して私の口腔の入り口はなかなか閉じてくれない。


だって、しょうがないじゃないか。

今の高坂流亥の発言に、私がどうして驚かずにいられるというのか。

いやそもそも高坂流亥が私に謝罪をしたという時点で相当びっくりだったんだけども、今のはそれを優に上回ってきた。


な、情けないだと……高坂流亥が自分を情けないと言ったのか……?しかもなんだ?高坂流亥は私のために自分一人で海老名さんと……。


い、良い人かよ……。

いや、紛うことなく高坂流亥は良い人なんだろうけど。そうじゃなければ乙女ゲームの攻略対象キャラにならないだろうけど。

それでも、私を警戒しての言動と思っていたものがこちらを慮ってのことだったというのにはびっくりだ。

『常盤さんは何もしなくて良いですから』というあの台詞は仕事の邪魔をしてくれるなと、そういう意味だとばかり思っていた。


「だから、すみませんでした。それと、ありがとうございます。僕一人だったら何も解決しないまま特務課に帰ることになっていました。常盤さんのお陰で解決策も見出せそうです。本当にありがとうございます」


高坂流亥は伏せていた瞳をこちらに持ち上げて軽く礼をした。

幸いその時には私のはしたなく開けられていた口もしっかり閉まっていてほっと一安心である。


なんて、ほっとしている場合ではない。

高坂流亥がお礼を言っただと……!?

いや別に高坂流亥がお礼も言えないような不躾な人間と言いたいのではない。展開が急すぎるが故に驚いているのだ。

つい数十分前までのつんけんした態度から一転してこれ、ではいくら予測がついていても驚くだろう、普通。


海老名さんのことと言い高坂流亥のことと言い、今日はちょっと衝撃の展開が多すぎる。

私は高坂流亥の発言によって物の見事に固まっていた。


ここでお礼を言われるようなことなんてしてませんよ、と返すのは流石に失礼だろうと思った。

失礼というか、そんなことを言うのは悪手でしかないように思われる。


彼が私に礼を言ったのはその生真面目な性故だろう。

高坂流亥は『紅が繋ぐ運命』での描写からして息苦しいまでに真面目だった。その印象はこちらの世界に足を踏み入れても全く変わることはなかった。

正しいものは正しいのだと、間違いは間違いなのだと、彼の中で揺るがない何かがあって彼はそれに忠実だった。重苦しいまでに忠実だった。

だから、高坂流亥にとってこの状況で私に礼を言うことは限りなく正しいことなのだろう。

私がそれを否定する必要はない。

それに、ここで社交辞令のような返事をするのは高坂流亥に対して自分から壁をつくりに行っているようなものだと思った。


「お役に立てたのでしたら幸いです。でも、まさか高坂さんにお礼を言われるとは思ってませんでした」

「それはどういう……」

「私、高坂さんに嫌われているかもな〜と思っていたので」


私はなるべく冗談めかしてそう言った。

嫌味に聞こえてしまってはいけないし、本音だと思われるのも避けたかった。

しかしそんな私の想いに反して高坂流亥の顔は霞がかかったようにすっと曇る。


「すみません、やっぱりそう思われてますよね。でもその……嫌っているというのとは少し違って……」


高坂流亥は言葉を探り探り選んでいた。自分の言いたいことと私への配慮、その良い塩梅が見つからないのだろう。


高坂流亥は排他的な傾向の強い人物である。

というのは私が『紅が繋ぐ運命』をプレイしていた時感じた彼の一番とも言える特徴だ。

真面目だとか、飛び級をした天才だとか、勿論それらも高坂流亥を構成する重要な要素ではあるけれど、私にとってはその排他性こそが彼を彼たらしめるものだと思った。

猫のような警戒心の高さは相手への攻撃という形になって現れる。いうまでもなくそれは実体を伴うものではないけど。言葉とか、雰囲気とか、そういうもので現れる。


しかし、それと同じくらい彼は正しいのである。

いくら相手を警戒していようと、いくら相手が自分の領域を侵犯する輩であろうと、その相手の言動が正しければ認めもするし称賛しもする。


『紅が繋ぐ運命』の高坂流亥はそういう人だと、私は確かに知っていた。


「僕は……常盤さんを嫌っているんじゃなくて……なんと言ったら良いのか……」

「要するに、高坂さんは『お前を第八特務課の一員とは認めん!』って私に対して思っていたってことですね」

「えっ、いや、そんなことは、」

「今の今まで私、何もできていなかったですから。デスクワークでも『血の特異性』の方でも何も。だから、私も自分で自分に何ができるんだろうってずっと思っていたんです。それが、まさかこんなところでお役に立てるとは!どうですか?高坂さんから見て、ちょっとは私、第八特務課の仲間になれましたか?」


高坂流亥は私の腕から手を離す。

その目は然もびっくりと言ったように見開かれて、そのまま零れ落ちてしまいそうなくらいだった。


「……はい、常盤さんはもう十分僕たちの仲間だと思いますよ」

「本当ですか?良かった~!じゃあ、この調子で土曜日も面目躍如たる活躍を……」

「常盤さん、」


高坂流亥は私の言葉を遮るように声を発した。

私はそれにきょとんと首を傾げる。


「少し、僕の仕事を手伝って貰っても良いですか?」

「はい!もちろんです!」

「では、僕に付いてきてください」


そう言って高坂流亥はやっぱり少し駆け足気味に歩き出した。


彼が怒っているのではないということはわかったけど、何やらまだ抱えるものがあるようだった。

こうやって唐突に行動するのは高坂流亥には珍しいことだと、私が特務課に来てからの短い期間でもよく分かる。

だから私は黙って彼の後を追った。



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