一章 2
総務課に戻った常盤めぐりは自身のデスクに腰を下ろす。
はあ、と大きな溜息が漏れた。
課長からの励ましの言葉はとても嬉しかったし気持ちも上向いたけれど、やはり自分の行く末を考えると憂鬱にならざるを得ないのだ。
常盤めぐりが何故わざわざ中央省庁を、そして総合職試験を受けたのかと問われれば、それはひとえに家族のためだった。
めぐりを含めて七人兄弟。そしてめぐりはその長女。
食べ盛り遊び盛りの弟妹が後ろに六人も控えているこの状況で、出世昇給の望みが絶たれるのは非常に不味い。
親の収入だってお世辞にも多いとは言えないのに。
無邪気に将来の夢を語る二番目の弟、最近おしゃれに目覚め始めた三番目の妹。
なにも彼ら彼女らは贅沢をしている訳ではないのだ。決して我儘を言っている訳じゃないし、高望みをしている訳でもない。
そんな兄弟の望みが叶わないのだとしたら、悪いのは他の誰でもなく力不足な常盤めぐりその人なのだった。
はああ、と更に大きな溜息を吐いて常盤めぐりは机に突っ伏した。
家族に苦労をかけないためにローレルに就職したが、このままではまるっきり逆の結果になってしまいそうだ。
じんわりと涙が浮かんでくる。
でも、泣きたくなんてなかった。
これが理不尽な異動である事実は間違いない。それでも常盤めぐりが全く、どこをとっても悪くないなんてこともきっとない。
泣いてしまえばこの異動の責任の全てを他人になすり付けているみたいだった。
瞼を閉じて、ほんの少しだけ深く息を吸い込んだ。
大丈夫。まだ何もかもが終わった訳じゃない。
ここからの頑張りで再び評価される未来だって十二分にある。
だから大丈夫だ。
常盤めぐりは幾分か軽くなった頭を持ち上げた。
ほんの数秒前より視界はクリアになって、頭もすっきりしている。
頑張ろう。もう一度、ここから。
諦めるにはまだ早い。常盤めぐりはまだ四半世紀だって生きていないのだから。
常盤めぐりの指がキーボードの上を跳ねる。
一週間後に異動ということはそれまでに今いる課での仕事を終わらせねばならないということ。
新人に任せられている業務などそう多くはないけど、決して蔑ろにもできない。
そうして仕事を再開して数分もしないうちに、めぐりはある違和感に気が付いた。
卓上のめぐりの右手側、書類の束の上になにやら見慣れない便箋のようなものが置かれている。
黄味がさした暖かな色合いのそれは、めぐりが課長に呼び出されるより前には確実に存在していなかった。
業務連絡だろうか、という考えがすぐに浮かんだ。
付箋ならまだしも便箋というのは珍しかったけれど、特段気にすることでもない。
だから常盤めぐりはなんの気なくその手紙を開いた。
『高階由良を探してください』
短い手紙だった。いや、手紙とすら言えないほど短い一文のメッセージ。
一文を、正確に言うならその中の『高階由良』という文字列を見たその時だった。
常盤めぐりが『私』という前世を思い出したのは。
常盤めぐりの頭の中に存在しないはずの記憶が蘇る。
それはあまりにもはっきりとした別人の記憶だった。
今とは全く違う名前で呼ばれ、今とは全く違う顔で生きていた記憶。
それを前世だと思ったのに決定的な根拠はなかった。
というか別に前世だろうがそうじゃなかろうが、そんなことは今の私にとってさしたる問題ではなかったのだ。
差し当たって一番重要なのは、私が『高階由良』という固有名詞を見聞きしたその状況。
頭の中を駆け巡る膨大な前世の記憶の中に、確かに『高階由良』の名前は存在していた。
でもそれは、家族でも友人でも同僚でも近所の人でも、まして自分の名前でもない。
というかそもそも、生身の人間の名前ですらなかった。
だって『高階由良』は乙女ゲームの主人公の名前なんだから。
乙女ゲーム、つまり主人公を意のままに動かしてイケメンときゃっきゃうふふする恋愛シミュレーションゲームのージャンル。
私が、この場合は前世の私が、自らプレイした乙女ゲームに『紅が繋ぐ運命』というものがあった。
その主人公の女性の名前が『高階由良』だったはず。
つまり……つまり、私はもしかして『紅が繋ぐ運命』の世界に転生してしまった……?
そんなたかが一人の姓名一致だけで早計な、と思われるかもしれないけど思い当たる節はそれだけじゃない。
折角だから私が覚えている限りの『紅が繋ぐ運命』のあらすじをお伝えしよう。
『奇跡の血』の持ち主である高階由良はある日突然血統管理機関・通称ローレルの職員として抜擢される。
右も左もわからない由良が配属されたのは対血液密売買組織を専門とする第八特務課。
そんな第八特務課に所属するのは個性溢れるイケメンたち。
危険な仕事と恋に揺れる由良。これから彼女はどうなってしまうのか___!?
私が今、腰を据えているこの場所はローレルの敷地で間違いないし、記憶が確かなら私の異動先は第八特務課だったはずだ。
これだけの一致があって私の推測が間違いなんて、そんな都合の良いことあるはずがない。
そして何より一番の特徴は、『血の特異性』なんてものが存在しているところだ。
さっきも言ったけど、『血の特異性』を示す血はある種魔法のような力が使える。
魔法ほど万能ではないけれど、物理法則を超えた神の血。
そんなファンタジーなものはゲームの中の設定でもないとありえないのだ。
ゲームタイトル『紅が繋ぐ運命』の『紅』はこの特別な血を指す。
この空想の世界では『血』がこの上なく重要な意味を持っていた。
そんな世界が普通だと、なぜ思っていたのだろう。
なぜ、そんな世界に疑問を抱かなかったのだろう。
ここは間違いなく、ゲームの中の世界だ。
ファンタジーでメルヘンで幻想的なフィクションの世界。
私はそんな世界に転生してしまったのだ。