一章 11
三保瑛人が出張から帰ってきたのはその三日後だった。
私の印象だと彼はオフィスと研究室を半々の割合で行き来しているのだが、今日は運良くオフィスにいる日だった。
今日は珍しく、始業の三十分前にも関わらず第八特務課が勢揃いしていた。
水瀬燈真、神楽・エヴァンズは殆ど毎日同時刻には出勤しているからわかるが、他の三人がこの時間にいるのは非常に珍しい。
高坂流亥は毎日寸分の狂いもなく始業の十五分前に出勤するような人だったし、間島レイヤは遅いも早いも極端なタイプ。三保瑛人は先述の通りそもそもオフィスにいる確率自体が半々なので、今の状況は奇跡と言っても過言ではないのである。
そしてその状況は私にとって願ったり叶ったりのものでもある。
先日の高階由良の発言を私は本日実行しようとしていた。
三保瑛人に血を調べてもらえ、というあれ。
正直、三保瑛人とは異動日以来碌に喋っていないので緊張どころの話ではないが、背に腹はかえられない。
三保瑛人のデスクは課長職のための一際大きなデスクからもう一つ手前の、よく日が当たる場所にあった。
その場所にめがけて私はゆっくり歩を進める。
「三保さん、あの、少しよろしいですか」
美顔ローラーで手の筋肉を解しながら、難しい顔で資料を眺めていた三保瑛人が振り向く。
「ああ、良いよ。どうした?」
「私の血を差し上げます」
「は?急になんだ」
「先々週、三保さんは私の血を欲しがっていましたよね。ですから、差し上げます」
「……色々と察するところはあるが、ちゃんと一から説明してくれ」
「わかりました。先日高階由良さんがここにいらっしゃったのはご存知ですよね」
「知ってるよ」
「私、その時に高階さんから言われたんです。三保さんに血を調べてもらえと。ですから、私の血を差し上げます。その代わりその血をしっかり調べて欲しいんです」
三保瑛人は大して驚いた様子もなくふむ、と顎に手を当てて思案し始めた。
思ったよりあっさりな反応に私は肩透かしを喰らう。端的すぎる説明だという自覚はあったから、もう少し内容に突っ込まれるかと思っていたのだが。
三保瑛人は顎に当てていた手を外し、何故かデスクでキーボードを叩く水瀬燈真の方を振り仰いだ。
「良いよな?」
「……まあ、良いでしょう。どうせ明日には本部の結果も出ますし」
「常盤、ちょっと待ってろ」
「え、はい。え?」
「あ、やっぱり待たなくて良いや。こっちにあった」
「は?はあ……」
今度は私が驚く番だった。
いや、どういうことだ。私の知らないうちに何が行われているんだ?
「先週の……水曜だったか。常盤、本部行って血採っただろ?検査のために。あの血の一部を俺に横流ししてくれたやつがいてな」
「人聞きの悪いことを言わないでください。正式……とは言い難いですが、半田さんにも許可を貰ってます」
私はぎょっとしてとんでもないことを言い出した水瀬燈真を見た。その水瀬燈真は申し訳なさそうに目を逸らす。
いや逸らすなよ。職権濫用ですよあなた。駄目じゃないですか。
「で、本部での検査と同時に俺の方でも調べといた。京都の設備も使ってるから、ある意味本部のやつより正確だぞ」
そう言って三保瑛人は私にホチキス留めされた紙の束を差し出した。私はそれを受け取って眺める。
紙には折れ線グラフとか円グラフとか、心電図みたいな波形のあれとかプラスとかマイナスとか色々書かれていた。しかし見方が全くわからん。
「これは……どういう?」
「だから、常盤の血液検査の結果」
「いや、それはわかってます。どうやって読むんですか、これ」
「ああ、ちょっと貸してみろ」
私は三保瑛人に資料を返す。こんなの読めるわけないんだから最初からそうして欲しかった。
「こっちが生化学検査の方。TP、アルブミン、A/G比とか、まあ色々。全部基準値の範囲だな。健康そのものって感じ」
「はあ、それは良かったです」
「で、こっちが血液学検査の方な。上の方はまあどうでも良くて、このケンプフェル値ってやつ見てみろ」
けんぷふぇるち?……あー……なんかめぐりちゃんの微かな記憶で、高校時代にそんな単語を学んだような……。
「Aが散の状態で、Gはちょっと低いな。これだけだと普通だけど、どうもY、W辺りが正常値からちょっと外れてる」
「はあ……」
何を言ってるんだこの人は。全くわからん。私の頭でもわかるように説明して欲しい。
「つまり、どういうことですか?」
「つまり、常盤は『奇跡の血』ってことだよ」
は?『奇跡の血』?
って、あの『奇跡の血』?は???
皆さんには混乱中の私に代わって再度『紅が繋ぐ運命』のあらすじでも読んで頂こうかな。
『奇跡の血』の持ち主である高階由良はある日突然血統管理機関・通称ローレルの職員として抜擢される。
右も左もわからない由良が配属されたのは対血液密売買組織を専門とする第八特務課。
そんな第八特務課に所属するのは個性溢れるイケメンたち。
危険な仕事と恋に揺れる由良。これから彼女はどうなってしまうのか__!?
「はあ!?」
「ちょっと見分けつきにくいんだけどな。でも確実に『奇跡の血』だ」
「いや、いやいやいやいや。私、血の特異性なんて持ってないですよ!生まれてこの方さん……二十年ちょいくらい、なんの検査でも引っかかってなかったのに!」
「だから、見分けがつきにくいって言っただろ。定期検診くらいの検査じゃ見逃されるんだよ」
「そっ、そんなの……だって、そんな、『奇跡の血』が後から判明するなんて聞いたことないです。見逃されるって言ってもこんな二十年以上も……」
「まあ確かに、とんでもなく珍しいパターンだな。検査を受けてこなかった場合を除いて、『奇跡の血』が後に判明する例は世界でも数件ってところだ。十五年前にドイツで一人、その前なんて一九八四年.....四十年以上前だからな。日本だと初めてだろうな」
あんぐりと開いた口が閉じそうにもない。三保瑛人は冗談を言っている風でもないし、今が夢か現かなんて頬をつねるまでもなく明らかだった。
私が、『奇跡の血』?はあ????
『奇跡の血』なんていったら百万人に一人の確率でしか現れず、その血は国によって保護され血を保持する身柄も国の庇護のもとに置かれ一生遊んで暮らせると言われるあの!?私一生遊んで暮らせるの!?
「ま、待ってください。私が『奇跡の血』であるとすると確かに色々辻褄が合いますが……。え、そういうことなんですか?」
「多分、常盤の考えてることは大方当たってると思うぞ」
確かに、私が『奇跡の血』であるなら色々と合点のいくことが多いのだ。
その最たる例が私の異動だろう。
高階由良は『奇跡の血』の保持者である。その特性故に乙女ゲームの主人公となっているのだから、これはある意味彼女のアイデンティティとも言える。
私はそんな『奇跡の血』を持つ主人公・高階由良の代わりにこの第八特務課に異動を命じられた。多分これは先日高階由良本人が言っていた通りに真実であろう。
私は当初何故私が代わりにならねばならないのか、私が代わりになり得るのかと思っていたが、私自身に『奇跡の血』が流れているというのなら納得である。
しかしそうなるとローレルは私の『奇跡の血』を私より先に認知していたことになる。
別にそれ自体は良い。でもそれを私に伝えないというのはどういう了見なのか。そして、伝えないままにして私を異動させるというのはもっとおかしい。
「まあ色々言いたいことはあるだろうけどな、一旦こっちの話を聞いてくれるか?」
「あっ、はい」
「常盤は『奇跡の血』を持っていることが判明したわけだが、その血を扱うための教育は受けてきていない。そうだな?」
「は、はい。そうですね。『奇跡の血』もそうですが『血の特異性』に関しても高校教育レベルのことしか……」
「まあ普通はそんなもんだ。だが常盤が第八特務課に所属している以上、そのままでは困る。……間島」
「げっ、俺ですか」
三保瑛人の声に、我関せずとそ知らぬ顔をしてコーヒーを傾けていた間島レイヤがこちらを振り返る。
「お前が常盤の教育係だろ」
「そうですけど。俺、『奇跡の血』のことなんて分かりませんよ」
「何年ここにいるんだ、お前は。新人にそのくらい説明できないでどうする」
「えー……分かりましたよ。細かいところは補足お願いします」
間島レイヤはマグカップ片手にこちらへ近付いてきた。コーヒー特有の香ばしい豆の香りが強く感じられる。
「いや~常盤さん『奇跡の血』だったんだ。びっくり」
「そうですね……私もびっくりです」
「まあでも、うちに来たのに『血の特異性』がありませんって方がびっくりだけどね。常盤さん、この前教えたうちの……第八特務課の主要な業務、覚えてる?」
「えっと……他部署で扱いきれない仕事の下請けとか、血液密売買組織の取り締まりとかですか?」
「そう、よく覚えてたね。偉い偉い。前者はどっちかというとサブの仕事かな。まあ他部署の下請けがメインになっちゃたまんないからね。メインは後者。第八特務課は対血液密売組織を専門とする部署なんだ。国内での取引もそうだし、密輸出入を取り締まるのもうちの仕事」
それは私も良く知っていた。
私がここに来てこの方は他部署の下請けと思われるデスクワークしかしていなかったものの、本来の第八特務課は潜入捜査だの諜報活動だのといった警察紛いの危険な仕事をしているのである。
『紅が繋ぐ運命』はそうした特殊な舞台設定を活かしたシナリオが多かったから、私だって『血の特異性』に関して本当に何も知らないということはない。
そもそも血液の密売買というのは犯罪である。
表向きの規制の理由は感染症対策だったり無理な売血の抑制だったりするが、その真の目的は血の流出を防ぐためだろう。
『血の特異性』は国や機関によって厳重に管理されている。物理法則を超えた力を持つ『血の特異性』が簡単に民間人の手に渡ってしまえば、どう悪用されるかわかったものではないからだ。
勿論単にそれだけではなくて、『血の特異性』を独占することによってそれに付随する利権をも専有しようという意識が働いているのは言うまでもない。
そして血液の密貿易も重大な犯罪である。
その強大な力ゆえ、『血の特異性』は立派な国の軍事力ともなり得る。その国の持つ『血の特異性』の強さこそが戦争遂行能力に直結すると、そう言っても過言ではないくらいには。
輸血等の関係で血液の国家間での取引自体が完全に遮断されている訳ではない。ローレルの発行する許可証さえあれば貿易は可能。しかし、個人での国境を越えた血液の移動は一律に厳禁だ。
「血液の密売買なんて後ろ暗いことをやってる連中は、往々にして暴力団なんかと結び付いてることも多い。それにどこで手に入れてるのか知らないけど、平気で『血の特異性』も使ってくる。そんな奴らの取り締まりにはもちろん危険が付き物だ。だからこっちも自衛や対抗の手段として『血の特異性』を使う。俺たちの場合は合法に、だけどね。だから第八特務課に入ってくる人が『血の特異性』を持たないなんていうのは、ローレルがまともに機能してるんだったら有り得ないんだよ」
そこまで言い終えると間島レイヤはコーヒーを一口含んだ。
うん、なるほど。そこはやはりゲームと同じだ。変わられたら困る。
ということは、である。ということはもちろん、私だけでなくこの第八特務課に所属する全員が『血の特異性』を持っているということにもなるのだ。
「だから、常盤さんが『奇跡の血』だっていうのはびっくりだけど同時に納得でもあるわけ。じゃあ次に……常盤さんは『奇跡の血』について何か知ってることある?」
「そうですね……うーん……物凄く貴重ってことと拡張性が高いこと、遺伝性が極めて低いことくらいですかね……」
「ああ、十分十分。それだけ知ってたら俺も説明しやすいかな。常盤さんの言う通り、『奇跡の血』は遺伝性が低い。ほぼゼロだね。だから『奇跡の血』は婚姻統制によって意図的に数を増やすことができなくて、結果的に他のどんな血より希少になる」
ローレルや国は厳密な婚姻統制を敷いて『血の特異性』を守っている。守って、そしてその血の安定供給を実現している。
この自由が謳われる現代、ローレルや国が婚姻統制を敷いているのはあくまで元々『血の特異性』が発現している家や人間の間だけだ。一般民にまで及べば、それは多分憲法違反になる。
しかし遺伝に縛られない『奇跡の血』だけはそんな一般民の間にこそ誕生する可能性が高く、それが故にイレギュラーも多くなる。
例えば私のように成人するまでその存在が見逃されることもあるわけだ。
「それに、『奇跡の血』は万能だからね。使い勝手が良い。『奇跡の血』そのものに何か特別な力があるわけじゃないけど、他の血と混ぜるとその能力を拡張させることができる。……三保さん、ここからは専門家にお任せしても?」
「まあ、良いだろう。『奇跡の血』っていうのは簡単に言えば希釈剤みたいなもんだ。『奇跡の血』そのものに特殊な傾向がなくてプレーンだからこそ、他の『血の特異性』と混ぜた時その血の能力に染まる。希釈、とは言ったがその能力の質は落とさずにな。そして『奇跡の血』が他のどんな血より重宝される理由がもう一つある。それは『血の特異性』をどんな人間にでも扱えるようにしたことだ」
難しい話になってきた、と私は身構える。いやここまででも結構難しかったし、ノリで来てしまったことは否めないが……。
「『血の特異性』は基本的にその血を生み出した人間にしか使えない。要は自分の血以外を使えないってことだ。同じ種類の『血の特異性』を持っていたとしてもな。だが、『奇跡の血』を混ぜたものは違う。『奇跡の血』を混ぜた血は誰にでも扱うことができるようになる。もちろん様々な制約はあるが、それでも『血の特異性』の自由度が飛躍的に高まったんだ。『奇跡の血』の存在によってそれまでの個人主義が崩壊を迎えてローレルの管理体制も安定したし、軍事動員もしやすくなったしな。まあ一長一短の側面がないわけじゃないが……」
三保瑛人が長々と説明を続けてくれているが、私の集中力はもう限界だった。
しかも内容がどんどん専門性を増しているせいで、そもそも耳がそれを日本語だと受け取ってくれないのだ。
あーもう無理だ。ごめん三保瑛人。私は理解を放棄します。
だって『紅が繋ぐ運命』はあくまで乙女ゲームだったから、そんなに細かい設定まで語られていなかったんだもの。
SFものなら良いけど、乙女ゲームでこんなガチの設定出されても困るからね。
私は神妙な顔でふむふむと頷きつつ三保瑛人の話を聞き流していた。
「……ということだ。わかったか?」
「はいもうばっちりです!」
「本当だろうな……?」
「はい!『奇跡の血』がめっちゃ珍しくてめっちゃ便利でだからめっちゃ凄いということは理解できました!」
「ふはっ」
私がヤケクソになってそう言うと間島レイヤが盛大に吹き出した。
ちょっと、笑わないでよ。端的な良いまとめだったでしょう?
今の内容をこの一瞬で全部理解できる方がおかしいんだから、私の要点把握能力をめてほしいくらいだ。
「あはは、いや、何も間違ってないね、確かに」
「でしょう?」
「間違ってはいないが、それは本当に理解できてるのか……?」
「良いじゃないですか。習うより慣れろですよ。これから使っていくうちに理解できますって」
「まあそれもそうだな。俺もさっき言ったことを今すぐに覚えて理解しろとは思わないし」
あ、良かった。なんか怒られなさそうだ。
……いや、さっきから視界の右端で高坂流亥が私を射殺さんばかりに見つめているから良くはないかもしれない。確かに会話全部筒抜けだもんな。こんな投げやり極まる会話をしていたら、彼なら絶対怒る。
逸らないでくれ、高坂流亥。殺さないで。話せばわかるから。
「ということで、常盤さん」
「はい」
「習うより慣れろ、今日からこれをモットーに頑張っていこう!」
「と言いますと?」
「常盤さんが『血の特異性』を使えるように、今日から特訓していこう!ってこと」
「えっ」
間島レイヤが満面の笑みでそう言った。
あ、うん。まあ自然な成り行きだよね。
なんで間島レイヤと三保瑛人、二人がかりで私に諸々の説明をしたのかと問われれば、それは多分私を第八特務課の戦力として使えるようにするためだろうから。
でもね、それって結構私からしたら未知の領域なんだ。『血の特異性』って名前こそお堅いけど、本質的には魔法とそう変わらんと思うんだ。そんなの私に使えるのかなって、正直思うんだけれど。
「……今日からですか?」
「うん。本当は本部の結果が出る明日からの予定だったんだけど、前倒しだね。……そういうことですよね?」
「そうだな」
間島レイヤの問いかけに、三保瑛人が美顔ローラーをかちゃかちゃと鳴らしつつ返答した。
元々予定されてたのね。まあ第八特務課に入ってくる人間が『血の特異性』持ちでないはずはないとの予測の上だろうが。
別に私は特訓がどうしても嫌だと言いたいわけじゃないのだ。
ただ、ついさっき自分が『奇跡の血』であると認識したばかりですぐに特訓へと切り替えられるほど、私は柔軟な思考をするタイプの人間ではなかったのである。




