一章 10
ローレルの一階は主に外部との連絡を目的として使われる部屋と議事録や過去のデータを保管しておく資料保管庫とで構成されていた。
使用頻度が高いとは言い難い部屋ばかりが集まっているので廊下にはしんとした沈黙が落ちている。
そんな廊下に二人分の足音が反響する。
「高階さん!」
「常盤さん……?」
高階由良は豊かな栗色の髪を翻して振り返った。
その目には困惑と歓喜の色が浮かんでいる。
「あの、これ、忘れ物です」
「ああ、ありがとう。これ、大切なものなの」
ペンケースが、だろうか。珍しいなと思ったけど、そんなことは些事だ。
「ねえ」「あの」
私と高階由良の声が被った。お先にどうぞ、と高階由良が言ったので私は口を開く。
「高階さんは、第八特務課のどなたかとお付き合い……あの、男女のと言う意味で、されていますか?」
私は肩で息をしつつそう言った。
高階由良は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして驚く。
彼女の繕わない表情を見るのは初めてで、ちょっと可愛いなと思った。
「えっ、急に?な、なんで?」
「なんでもです」
「え……いや、していないけど……」
「じゃあ、気になっている人は?」
「……それは……異性限定?」
「え、はいもちろん。そもそも第八特務課には男性しかいませんが」
「常盤さんがいるでしょう」
「私が来るより前の話ですよ」
「じゃあ、いないかな」
じゃあって。その条件じゃなかったら私がそれに選ばれてたの?なんで?
「昔どなたかとお付き合いされていたとか」
「ないかな」
「じゃあ……昔誰かを好きだったとか!」
「それもないかな」
ないのか……。
今私が確認しようとしているのは、高階由良が誰との恋愛を進めるシナリオの最中でこんなことになってしまったのかということだった。決して野次馬根性で質問しているのではない。
しかし……ここまでないない尽くしとなると本当にわからなくなってきた。どうしよう。
「じゃあ……」
「ちょっと待って」
高階由良が次なる質問を飛ばそうとする私に待ったをかけた。
「常盤さんの質問が思ったより長くなりそうだから、先に私の質問を聞いて貰って良い?」
「あ、はい」
確かにそれは妙案かもしれなかった。私も質問内容が纏まっていなかったから。
「常盤さんはなんでローレルに入ったの?」
「ええっと……それは……元々公務員になる気で、試験の難易度とか職務内容とかが一番条件に合ってるかなぁと思ったので……」
「じゃあ偶然だったの?」
「偶然って、何が偶然なんですか?」
「え?だって常盤さんは……ん?ちょっと待って」
そう言うと高階由良はスマートフォンを取り出して何やら文章を打ち込んだ。
彼女は数分もせずして画面から目を離すとはあ、と大きく溜息を吐く。
「なるほど……わかった。確かにこれはちょっと早とちりだったかも。ねえ、常盤さん。三保さん、いるでしょう。あの人血のことに詳しいんだけど、彼に血を調べてもらって欲しい」
「はい?」
「良いから」
「でもあの、もうローレルの方で検査してます」
「結果は?」
「まだ、です」
「いつ採ったの?」
「先週の水曜日です」
「微妙だな……。ああ、ここに入る時にも検査したでしょう。それは?」
「異常なしでした」
「血の特異性は?」
「私は血の特異性なんて持ってませんよ」
私がそう言うと高階由良はその美しい顔を盛大に歪めた。
「はあ……わかった。常盤さん、やっぱり私と一緒に来て」
「えっ、いや、だからどこにですか」
「それは……今は言えないけど。怪しいところじゃないから」
「それを信じる人はいないと思いますけど」
そんな言い方では小学生だって騙されてはくれまい。『いかのおすし』の効力さまさまである。
「怪しむ気持ちもわかるけど、貴女のためなの。私はただ、常盤さんを守りたいだけ」
「守るって……何からですか。私は別に守られなければならないような状況にはいません」
「いるの。まだ分かってないだけ」
「それを今、私に信じろと?」
「そう。手遅れになる前に」
やっぱり訳がわからない。
高階由良の言っていることはさっきからずっと、よく分からない。
でも一つ言えることは、高階由良はゲームとかなり性格が異なっているということだった。
『紅が繋ぐ運命』の主人公である高階由良。
シナリオによって性格も生い立ちも何もかもが違う男性陣と恋に落ちる主人公は平たく言えば癖のない、もっと直接的に言うなら没個性気味な性格だった。
もちろん良い人であるのには違いなかったけど、個のキャラクターとしてはどうしても印象が薄い。ゲームの製作側としてはそれが狙いという側面もあっただろうが。
間違ってもこんな、今まで出会った誰より強烈な記憶を残すようなタイプではなかった。
「常盤さん、貴女はローレルになんて入るべきじゃなかった。貴女だけはこんなところに来るべきじゃなかったの。私と一緒に来て。お願いだから」
高階由良は縋るようにそう言った。
でも、私はその声に応える気なんてない。だって……
「私が高階さんに付いていって、そうしたら私はどうなるんですか。私は家族を養うためにローレルに入りました。今仕事がなくなるなんていうのは困ります」
「それは大丈夫。私と同じところに勤めれば良い」
「でも高階さんは今、実家でご両親の介護をしているのでは?」
「あれは嘘……というか方便。私が今いるところは楽し……くはないかもしれないけど生活に困るようなことはないから」
「どこなんですか」
「それは言えない。いくら常盤さんに対してでも」
「じゃあ私も高階さんを信じることはできません」
高階由良は苦しそうに眉根を寄せた。
やっぱり、高階由良はわからない。ずっと喋っていても、彼女について何もわかってこない。
一度ふっと息を吐いた高階由良は目を伏せる。
「……そう。私も少し強引だったかもね。でも、それだけ本気ってことよ」
「いくら高階さんが本気であろうと、私の気持ちは変わりません」
「でも私の本気も変わらない。貴女がどうしてもここを辞めたくないと言うのだったら、私はローレルを潰すわ」
高階由良はさも当然という風にそう言ってのけた。
私は息を詰まらせ、絶句した。
高階由良の言うことはずっとわからないことだらけだったけど、その中でも一等意味不明な発言だ。
『ローレルを潰す』?
ローレルは国家機構の一部で歴とした国の政務機関の一つなのだけど、それを潰すって正気の沙汰の発言とは思えない。
そんなことをすれば法に抵触すること確実だろう。そもそも何をもって『潰した』ことになるのかもよくわからない。
「そんなこと、できるわけがありません」
「できる。やってできないことはないのよ」
「そんな精神論を話しているんじゃないです。ローレルは官公庁ですよ。国を敵に回す気ですか?」
「もしかして心配してくれてる?」
「まさか。呆れているんです」
「そう」
高階由良はくすくすと、嬉しそうに喉を鳴らした。
何が嬉しいのか知らないけど、こんな状況で笑えるなんて本当に狂気的としか思えなかった。
だってここはそのローレルの中なんだよ?敵地で宣戦布告なんて聞いたことがない。
本当に、この人は誰なんだ。私はそう思った。
彼女は私の知っている高階由良じゃない。ゲームの中の、いきなり慣れない環境に放り込まれてそれでも直向きに努力を重ねるような純粋無垢な『高階由良』では絶対になかった。
なんで変わっちゃったかな、と私は嘆息する。
私は高階由良に多くを望み過ぎていたのだろうか。この世界の正解の全てを彼女に委ねていたから、だからそのしっぺ返しだとでも言うのだろうか。
ゲームのままでいてくれたら楽だったのに。更に悩みが増えるなんてことにはならなかったのに。
でも、それが余りに都合の良い考えであることに私は気が付いていた。
吐き気を催すほどに、自分勝手で身勝手で自分本位な考えであることは分かっていた。
ある時は攻略対象たちがゲームそのままの性格で居すぎるが故にその存在の真実性を訝ったり、ある時は主人公がゲームと大いにかけ離れた印象であるが故に不満を垂れたりするなんて。失礼極まりない態度である。
それが生身の人間に対してのものであるならば。
彼らは確かに人間なのだ。自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の足でここまで歩いてきた、紛うことなき人間なのだ。
それを心から信じられていないのは私だけ。この世界で私だけが、人間としての彼らを信じていない。
信じようとしても前世の記憶が邪魔をする。ちょっと古めの型の、決して高画質とは言い難い液晶に映し出された彼らの姿が邪魔をする。
前世の記憶なんて思い出さなければ良かった。そんなもの、この世界に来てからただの一度も役に立ったことなんてない。
それなのに一丁前に邪魔だけはしてくる。前世の記憶を思い出さなければ常盤めぐりだって真っ当に生きていられたはずなのに。
「じゃあ、私もう行くから。忙しいのは本当なの」
「……待ってください」
引き留めの言葉が出たのは無意識だった。
「なに?ああ、まだ質問したいことあった?」
質問。そういえばそんなものを応酬している最中だった。
何も考えていなかった。というかあんな状況で冷静に質問を考えるなんて土台無理な話だ。
質問、というのは存外頭を使うものだ。物事をある程度理解していないと質問なんて湧いてくることもない。
私の今の状況を端的に表すなら、あれだ。高校生あたりでよく耳にした言葉。『わからないところがわからない』ってやつ。正にそれだった。
「私は、どうしたら良いんでしょうか」
高階由良は少しの瞠目の後、嫣然と微笑んだ。
「私と一緒に来れば良いと思う」
「そういう……ことじゃ……」
「……ごめんね。今のは意地悪だった。私も常盤さんを困らせるのは本意じゃないの。そうだな、常盤さんはまず自分のことをよく知るべきだと思う。私のおすすめは三保さんに血のことを聞いてみることかな」
「……そうすれば大丈夫になりますか」
「大丈夫って……。そう、だね。きっと大丈夫になるはずよ」
私は自然と高階由良の言葉を信じていた。
私は未だ彼女を主人公だと崇めていたし、その言葉こそが私の正解だと思ったからだった。




