一章 1
ゲームオーバー。
つまり何らかの理由でゲームが一時終了を迎えること。
こと高階由良に限って言えば、その理由は攻略対象を一人も落とせなかったからに尽きる。
ヒロイン・高階由良は五人の攻略対象を誰一人として落とすことができなかった。
さっきから私がヒロインだの攻略対象だのとおよそ生身の人間に適用すべきでない名称で彼ら彼女らを呼んでいるのは、実は聞いて驚け見て笑えな理由がある。
私はゲームの世界へと転生していたのだ。
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『血の特異性』なるものがこの世界を支配していた。
『血の特異性』
読んで字の如く、特別な血のこと。
特別な力を宿した血のこと。
ある血は人を癒す力を持ち、ある血は形を変えて物体を創造する。
人智を超えた、神なる血。
血は遺伝する。だから血を縛るのは個人ではなく、家だった。
『血の特異性』を発現した家は軒並み絶大な権力を持ち、その権力を保ち続けるために政略的な婚姻を繰り返す。
それ故に統制は一般人民にさえ及んだ。
人々は血によって分類され、管理される。
細分化された血液型は十や二十ではきかないほど。
血の統制を司る国家機関も当然の如く存在する。
血統管理機関、通称『ローレル』。
国民の血統情報の一切を記録管理し、国の決定に従い行政を担当する。
霞が関一丁目、虎ノ門駅に程近い立地のそれは歴とした中央省庁の一部であった。
そこに勤める者は即ち国家公務員ということであり、この不況の時代に於いて安定を象徴する職の一つであることは間違いがない。
そして私は___敢えて、常盤めぐりはと言っておこう。
常盤めぐりはその『ローレル』に勤めていた。
大家族の長女として生を受けた常盤めぐりは年長者故に家族を養わんと勉学に励んだ末、ローレルの採用試験を突破し見事に国家公務員の職を勝ち取った。
しかも、彼女が通過したのは総合職試験。所謂ところのキャリア官僚としての採用だった訳である。
受かってしまえばエリート街道まっしぐら、将来の国を支えるのは我々だと自負しても何のお咎めも喰らわないだろう出世コース。
常盤めぐりは幼い頃からの人生設計通り、順風満帆な社会人生活をスタートさせたのだ。
と思った矢先の出来事だった。
「わ、私が転属……ですか……?」
三方が磨りガラスに囲まれた小会議室で、常盤めぐりとその上司が対峙している。
上司によって机に差し出されたB5のコピー用紙には確かに『異動辞令』の文字が踊っていた。
圧縮すればメモ用紙一枚でも事足りるだろう内容しか、その紙には記載されていない。
受令者である常盤めぐりの名前、発令者であるローレル長官の名前、それから日付と異動先。
そうだ、異動先。
私は何処へ行かされるんだ。そう思って常盤めぐりはコピー用紙を睨みつける。
「常盤には第八特務課に転属してもらうことになった。急なことで申し訳ないが、早速来週からの異動となる」
はあ?と凡そ上司に向けて発するべきでない唸り声は、音になる前に無理矢理手で押さえ込む。
一時の感情で上司に無礼を働くのは余りにも浅慮だ。
『左遷』の二文字が頭の中で点滅する。
まさかそんな。まだローレルに入って三ヶ月程度だというのに。
しかしそうでないのなら、一体この辞令は他に何を意味しているというのか。
「……異動理由など、お聞かせ願えますか?」
「すまないが、俺もそれは知らないんだ。強いて言うなら上からの命令だとしか」
目の前の上司は常盤めぐりが所属する総務課の長、つまり課長だ。
彼が理由を知らないということはないだろう。そんなことは有り得るはずがない。
上司は自分を気遣って真実を言わないのだと、常盤めぐりは断定した。
「……私が何か、してしまったでしょうか」
「いや、それは違う。常盤に過失があって異動になるんじゃない」
「お気遣いはありがたいですが、私も自分の過ちを認めることくらい……」
新人が三ヶ月目にして異動命令を下されるなど、ドロップアウトを宣告されているようなものだ。
キャリア官僚として相応の出世が望めるとは到底思えない。
常盤めぐりは自分が出世欲に取り憑かれた人間だとは思わないけれど、今までの努力が水泡に帰すのを惜しまないほど鷹揚な人間だともまた、思わなかった。
自分がどんな間違いを犯してこんな仕打ちを受けるのか、常盤めぐりにはそれを知る権利があるはずだった。
「私に落ち度があったのでしたら、どうか教えていただけませんか。異動に異議を唱えたいのではないんです。ただ……」
「常盤」
上司は嗜めるような声色で常盤めぐりの名を呼ぶ。
めぐりは、仕方のないことだけれども冷静さを欠いていた。
半ば身を乗り出すような格好で上司に詰め寄っている。
「気持ちはわかるが一旦落ち着いてくれ。この異動に関して、俺は何ら関与していないし情報も持っていない。上からの命令を伝達しただけだ」
常盤めぐりは浮かしかけていた腰をゆっくりと座面に下ろした。
上司は本当に何も知らないようだった。
誤魔化そうという気配は微塵もなく、真摯にめぐりに向き合っているように見える。
だが、上司の言うことが真実だとするならこれはおかしな人事異動だ。
常盤めぐり本人の過失如何に関わらず、課長クラスの人間に異動理由が伝達されないなどありえて良い話ではない。
「俺は今伝えた以上のものは知らない。だが正直、これは俺にとっても納得いかない人事だ。……俺なりに考えてみたんだが常盤にそれらしい落ち度なんてないし、そもそもそんなものがあったら上も言ってきてると思う。だから俺が思うに、」
そこまで言うと上司は明確に言葉を区切って逡巡の様子を見せた。
チラチラと会議室の外を見遣っては顔を顰める。
「長官が一枚噛んでるんじゃないかな、と。人事課の判断にしては雑すぎるからな」
殆ど吐息と聞き分けがつかない課長の声は、それでも確かに常盤めぐりの耳朶に響いた。
そんなこと、言って良いんだろうか。
ローレルの長官は各界に太いパイプを持つ、単に一官公庁の長という肩書きに留まらない影響力を持つ方だと聞いたことがあるのだが。
万一今の課長の発言が本部の人間の耳に入れば彼もまた私と同様、不可解な異動の憂き目に遭いかねない。
「課長の仰っていることが事実だったとして、人事課の采配であろうと長官の思惑であろうと、結局何も変わりません。私の行動が招いた結果です」
もしかしたら、常盤めぐりの言動に瑕疵があったのかもしれない。
人間は往々にして自身を客観視するのが苦手な生き物であるから。
知らぬうちに誰かの逆鱗に触れていた、そんなこともあり得る話だ。
「あー……うん。俺の言い方が悪かったな。伝えたかったのはそういうことじゃないんだ。ただ俺は、というか俺たち総務課は常盤のことを自慢の後輩だと思ってるんだよ。仕事は真面目にやってくれるし人当たりも良い。うちの自慢のルーキーだ」
課長は徐に異動辞令の上に手を乗せる。
「こんな紙切れ一枚で飛ばされるなんて冗談じゃない。そんな軽々しく扱われて良い人材じゃないんだ、常盤は。少なくとも総務課は全員そう思ってる。だから……だからだな、」
課長の眉間には見たこともないくらいの皺が寄っている。
温厚というよりは陽気という形容の似合う課長がこんなに難しい顔をしているのは初めて見た。
常盤めぐりは驚きに目を見張る。
「俺が本部に直談判しに行く!!!」
「えええっ!?!?」
いや課長、あなたは何を言ってるんだ。
常盤めぐり本人ですら直接乗り込もうという発想には至らなかったというのに。
「いやいやいやいや、落ち着いてください課長!一旦冷静になって!」
「俺は冷静だ!!!」
「どこがですか!本部に直接って、怒られちゃいますよ!」
「俺は怒られようが一向に構わん!寧ろ減給でも停職でも良い!」
「良くない!全然良くないです課長!」
会議室を今にも飛び出しかねない課長の腕を、常盤めぐりは必死に引き留める。
止める方と止められる方、普通位置が逆ではないのか?とめぐりは思った。
しかしまあ、我を忘れた課長の馬力は凄まじいものがあり、めぐりが引き留められる時間などそう多くはない。
腕に溜まった乳酸が許容量を超えようとしたその時、会議室の扉の向こう側に人影が現れた。
そしてその人影は尋常ならざる課長の姿を目に止めると会議室の扉を開く。
「……これは一体どういう状況で……」
「助けてください!課長を止めてください___!」
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「「すみませんでした」」
落ち着きを取り戻した課長と常盤めぐりが第三の人物に頭を下げる。
常盤めぐりには救世主とも見紛うその人物は苦笑という他にない笑みを浮かべた。
「いえ、お役に立てたなら何よりですが……。何故あんな状況に……?」
「そ、それはだな……まあ後輩可愛さ余っての行動で……」
「それにしたって、本部に直訴は思い余りすぎですよ。課長まで異動みたいなことになったらどうしてたんですか……」
申し訳なさそうに頭を掻く課長を常盤めぐりは恨みがましく見る。
本部へ無礼を働いた結果総務課から二人も異動なんてことになったら目も当てられない。
めぐりだって課長の気持ちが嬉しくないなんてことはないが……。
「ああ、なるほど。常盤さんの異動の件で、ということですか。それなら僕が止めに来たのはある種運命なのかもしれませんね」
第三の人物は得心がいったという表情で頷いて見せた。
何故彼がめぐりの異動の話を知っているのだろう。
たかが一部署の新人の異動如きがそう耳目を集める噂になるとも思えないのだが。
課長はめぐりの疑問を知ってか知らずか口を開く。
「いや本当恥ずかしいところを……。常盤、一足先に俺から紹介しておく。こいつは水瀬燈真。常盤が異動することになっている第八特務課の課長だ」
よりにもよって第八特務課の課長か、とか特務課の課長ならめぐりの異動を知っているのも納得だ、とか思うべきことは色々あった。
だけれども、水瀬燈真というかの名前。
その名前を聞いた瞬間、常盤めぐりの頭に霧がかったような不思議な感覚が訪れた。
どこかで聞いたような……でも、はっきりとはしない。そんな奇妙な感覚。
「第八特務課の水瀬燈真です。初めまして」
水瀬燈真が常盤めぐりに向かって手を差し出した。
握手を求められている。
そう認識するまでにかなりのタイムラグがあって、水瀬燈真はほのかな笑みを崩した。
「常盤さん?」
「あ…………はい。すみません。あの、この度第八特務課に転属になりました、常盤めぐりです。よろしくお願いします」
めぐりは慌てて水瀬燈真の手を握り返した。
なんだろう、今の不思議な感覚は。
単にデジャヴというのではないような、どこか懐かしさを覚えるような。
常盤めぐりはその感覚の正体を突き止めようと水瀬燈真の顔を盗み見る。
「常盤ー、いくら水瀬がイケメンだからって見惚れてんなよ」
「へ?は、え、なんのことですか?」
「誤魔化さなくて良いから。どう見ても熱視線送ってただろ」
「送ってませんよ!」
めぐりの盗み見はその努力も虚しく課長に筒抜けだったらしい。
しかしその視線の理由は見惚れていたなんてロマンチックなものでは決してないのだ。
不意に訪れた違和感は、見過ごすにしては余りにしこりが大きすぎた。
……いやまあ、確かに水瀬燈真が所謂イケメンであるというのにはめぐりも同意せざるを得ないが。
癖一つないサラサラの黒髪にすっと通った鼻梁。余りに均整のとれた顔立ちで線の細めな印象を受けるけれど、その襟ぐりから覗く首筋や肘まで捲り上げられた袖から見える腕はしっかり筋張っている。
芸能人ですと言われても余裕で信じられるほどの外見だ。
しかし、だからと言って常盤めぐりが水瀬燈真に見惚れていたなんていうのは事実無根の妄言に過ぎないのである。
「常盤の気持ちもわかるけどな……。そこまであからさまだと俺も傷付くかな、流石に」
「見惚れてたという前提で話を進めないでもらって良いですか?」
「照れんな照れんな」
「課長がここまで話の通じない人だとは思いませんでしたよ!」
やれやれと息を吐く課長とそれに憤慨する常盤めぐり。
そんな構図を傍から見ていた水瀬燈真は何を思ったか急に笑い声を上げた。
「総務課は噂通り仲が良いんですね。羨ましい限りです。そんな総務課から常盤さんを奪う形になるのは非常に心苦しいのですが……」
「いや、水瀬が気に病むようなことじゃないだろ。全部上が決めたことなんだから」
「そう言っていただけるとこちらもありがたいですが、やはり一度総務課の方と話すべきかとも思っていましたので。今日はお二人に会えてある意味運が良かったです」
常盤めぐりははあ、と息を吐いた。
優しいというか真面目というか、馬鹿丁寧というか。
課長の言う通り、めぐりの異動に水瀬燈真が責任を負うべきところなんて一つもない。
ましてこちらの総務課と水瀬の特務課は業務内容が違いすぎて、今回のようなイレギュラーでもないと碌な関わりもないのに。
わざわざ厄介ごとに首を突っ込むような真似をするなんて、奇特な人間もいたものだとめぐりは思った。
そんな奇特な人間なればこそ、と言うことだろうか。
水瀬燈真はとても若い。課長職に就くにしては若すぎる。どれだけ高く見積もっても三十代前半が良いところだ。
見目麗しさに実年齢が隠されている、というのでもないはず。
こうした細かな気遣いが若年ながらにして彼を課長たらしめているのだろうか。
いや、まあ水瀬燈真の場合は『家』の影響も大きいのだろうが……。
「常盤は総務課自慢の新人だからな。特務課でもきっと大活躍間違いなしだ。可愛がってやってくれよ?……常盤も、それで良いか?」
「え?」
めぐりは、まさか自分に会話を振られると思っておらず間抜けた声を出した。
「これは一般的な異動とは違うからな。不当だ、納得できないって言うんだったら俺にだって打てる手はある。直談判ほど直接的じゃないにしても、な」
課長は、常盤めぐりを気遣ってくれているのだ。
それは態々確認するまでもなく明らかで、その声色や眼差しや態度から否が応でも伝わってくる。
良い先輩を持ったものだ、と衒うことなくそう思えた。
「いえ、課長のお気遣いは非常に嬉しいですが、大丈夫です!私は総務課期待の新人ですからね。どこへ行っても活躍してみせますよ!」
本心でない、ということはなかった。
でも不安が払い切れないのもまた事実で、多少の空元気が含まれているのはきっと課長にも見透かされていただろう。
それでもめぐりは課長の期待に応えたかった。信頼に背くようなことはしたくなかった。
ここで課長の提案に乗ってしまえるような常盤めぐりは、決して総務課自慢のルーキーなんかではない。
「よく言った!流石常盤だ!……常盤ならできるよ。誰より、俺が一番信じてる」
「はい!私、頑張ります!」
小さな会議室に二人の明るくて、どこか寂しそうな声がこだましている。
そんな様子を見つめてふっと微笑んだ水瀬燈真にきっと二人は気が付いていなかった。