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短編大作選

帰り道は、行く道。

 みんなにとっては、帰り道。だけど、私にとっては行く道。行く道なんだ。


 出会ってから、一週間未満の人。あまり親しくない人。


 そんな人と、同居している。だからだ。だから、まったく気が抜けない。



 馴染んでいる職場が、家のようなもの。家が、職場のようなものだ。逆転現象というやつか。


 まだ、1年とちょっとしか勤務していない。でも、正常な息が出来ている。


 だから、そういうことだ。いい意味で、リラックスできている。


 今のスマホが、右手に馴染んできた。そう思ったのも、同じだった。1年とちょっとが、経った時だった。


 でもあの家は、1年経っても馴染まない。そう言いきれる。


 同居初日と今に、まったく違いが見つけられない。それどころか、同居人の怖い顔が、強烈に脳にいる。



 髭をたくわえていて、強面。なのに、腰の低い社長。いつも笑顔でいる、眉毛の可動域が広い絵美さん。


 それらが、脳にいる。心にも、しっかりと染み込んでいる。想像するだけで、優しくなれる。


 例えるなら、熱々トーストに、バターを塗った感じだ。ジュワァと、溶け込んでゆく感じ。それだ。


 会社のクリーム色の外壁。褪せた、エメラルドグリーンのフローリング。不思議な線模様の天井も、馴染んでいる。



 会社内では、口角がいつも上の方にある。口は頻繁に、開きっぱなしになっている。いい感じの、逆三角形で。


 自然と、口を開けて笑っている。そんな感じだ。白い歯が、唇から覗いた数。それは、気分の良さと比例するだろう。


 腰にぶら下げた、時計を見る。もう帰る時間だ。就業時間だ。ついに、今日も終わってしまう。





 終業のチャイムが鳴った。学校と同じメロディー。キンコンカンコン。カンコンキンコン。


 スイッチが、オフになった。キンコンカンコン。このメロディは、一日に何回も響き渡る。


 でも、終わりを意識して聞く、キンコンカンコンのメロディ。それは、元気を吸い取ってくる。ハッキリとした、脱力になってしまう。



 タイムカードを押した。大きめの印字音と、吸い込み具合。それに毎回、軽い怖さを感じる。


 電子声で、『お疲れ様でした』。そう言われた。その優しさで、エネルギーは、補給された。


 時計などに入っている、テスト用電池。それくらい、エネルギーは補給されただろう。あの電池は、予想の倍くらい、活躍してくれるんだ。





 世間一般でいう、帰り道。そして、私にとっての、行く道。その時が来た。


 早歩きのように歩いた。だけど、進みは遅かった。少しでも、遅く向かいたい。そんな気持ちが、出てしまったのだろう。


 早歩きに見せかけた、遅歩き。もう、内側と外側が、ぐちゃぐちゃになっていた。


 自分でも、よく分からない。流れと、流れに抗いたい気持ちの狭間にいる。そんな感じだ。


 空の薄暗さは、心をなだめてくれた。ふかし気味のバイクの走行音が、響く。


 それも、今は良い音。脳を、柔らかくしてくれた。ただ、排気ガスのニオイが、鼻の奥まで来ていた。



 職場の、ゴツゴツした外観。それに、内観。扱っている鉄パイプ。同僚の顔に至るまで。脳に、浮かばせた。


 想像を繰り広げていた。名残惜しい。出来ることなら、しがみついていたい。気持ちは、まだ会社にいた。


 口は、閉じていた。自宅に近づくにつれて、目尻も口角も下がった。毛穴も口も目も、閉じ気味になっていた。



 空は、グレー雲の縄張りになっている。何日か前から、ずっとこうだ。青い空を、しばらく見ていない。


 覚えている、印象的な曇り空。それは、同居を頼まれた、あの日の空だ。


 あの日は、雨は降ってなかった。でも、黒みを帯びた空だった。


 あの日から、今日まで。綺麗な無地の空も、あっただろう。もしかしたら、青もいたのだろう。


 でも、頭にない。完全に、排除している。闇の中にいる人間に、鮮やかさは見えないのかもしれない。


 転写シート。それで、大きく広がる空を、私の心に転写している。自動的に、私に転写されている。そんな、変な感覚があった。



 森ではない。樹海でもない。なのに、肌感も纏う空気も、心も。なんだか、もやっとしている。


 木々に覆われた世界。そういう場所に、向かうときのような。どよどよな感覚だった。


 ゲンゴロウの唐揚げを、食べたくないと思うように。迷路みたいな雑貨屋さんに、入るのを躊躇うように。


 得たいの知れない存在に、気持ちが進まない。怖いと感じてしまう。それは、必然だろう。



 同居人は、何を考えているか分からない。表情は、凪だ。なんか、怖い感じの人だ。


 美しい坊主。毎日、早朝から、バリカンの音を響かせる。でも、無口すぎる。そして、ひとりが好きそう。


 宇宙の奥まった星にいる、宇宙人みたいな。そんな、イメージがある。


 掴もうとしても、掴めない砂漠の砂。そう言ってもいい。



 好きだから、同居しているわけではない。苦手だから、同居した。そう言った方が、近いだろう。


 心に引っ掛かるものがあり、断れなかった。『いいえ』と、どうしても、言えなかった。満ち満ちの苦手なら、断れただろうに。


 歩いている。右足と左足を、交互に出して。そうすれば、進む。どんどん、近づいてゆく。当たり前を、脳が拒んでいる。



 同居を頼んできたとき、彼はふわふわしていた。空を見上げたりしていた。その空も、今のようなグレーの空だった。


 自分の靴の、爪先を見てみたり。背中をこちらに見せながら、頼んできたりした。


 不器用なモンスター。そんな言葉が、ピッタリだったんだ。つたなく歩く今の私も同じ、不器用モンスターか。


 どこか、寂しい雰囲気を羽織っていた。雰囲気は透明。だが、うっすら灰色のセロハンを、羽織って見えた。


 私と同じ成分を、彼から感じてしまった。不器用な自分が苦手。だから、余計に苦手なのかもしれない。



 近づいている。怖さが漂っている、あの家は、あと少しか。


 世間一般でいう無駄。だけど、私にとっては意味のある行動。そんな、その場足踏みを、何度もやった。今もやっている。





 帰り道に、暖色の光が見えた。まばゆく、何の暗色もない光。それは、女子高生だった。


 実際に、光っていた訳ではない。そう思う。オーラのような。脳や意識が美しく、作り上げたもの。だけど、確信のようなものはあった。


 よくある高校の制服。下は短いスカート。上には、薄いピンクのニットを着ていた。



 私の前を、牛歩くらいのスピードで行く。ゆっくり、ゆっくり。のっそり、のっそり。


 ダルそうだが、私より足元は安定していた。イマドキの、女子高生というところか。



 後ろを歩く。おどおどしながら。抜かしたいけど、抜かせない。微妙なスピードと位置。


 足の指に、ぎゅっと力を入れる。そして、絶妙な位置を探って、保つ。それしか、できない。


 女子高生から離れても、近づいても不審者。意識が、ビンビン溢れてしまっている。挙動不審の極みだ。


 ストーカーの雰囲気を、醸し出してしまっている。でも、帰る家に向かっているだけだ。


 彼女はヒロイン。そして、私は脇役風。だから、仕方ない。そうだ、仕方ないのだ。



 先程、脇道から曲がってきた女子高生。あとから、加わってきた可愛い女子。その後ろを、ただ歩いているだけだ。


 幽霊に似た、感覚があった。個人的見解だが、私の存在感がこの世界で、最高に薄れてきたと思う。もう少ししたら、半透明になるかもしれない。



 何かが、アスファルトに落ちたていた。濃ピンクだったから、目に入った。細かい灰色のゴツゴツに、長方形がポツンとあった。


 スマホだ。落ちる瞬間は見えていない。でもきっと、前の女子高生のものだろう。ピンク色が、好きそうな雰囲気だから。


 スマホの傷の具合を、黙視検査した。そして、右手の指の三点で拾い上げた。慎重に、ゆっくりゆっくりと。



 誰かの所有物の、指紋になりたくない。だから、現場保存的なものを、プライベートでも、ついしてしまう。


 右手三点。そこからすぐに、萌え袖にした左手で、包みあげた。


 殻の脆い卵を持つとき。そんな、絶妙な力加減で持って、走った。


 空は暗めだったが、夕日が出ていた。青春ドラマみたいなこと。そんなのは、一度もしてこなかった。


 だから、夕日に向かって走る。それを今、初めてした。きっとそうだ。たぶんそう。


 陸上の100m走の、走り終わった直後。流すように走るやつ。そんな、走りで近づいていった。



「しゅみ、すみません。落としましたか?」

「あっ、スマホないです。それです。ありがとうございます」

「どうぞ、どうぞ」

「よかった。本当にありがとうございます。これがないと、ぽっかりなんです」

「そう、そうなんですか」


 いきなり言葉をかんだ。そして、主語を忘れた。落としましたよ。それだけで、スマホだと伝わる世の中に、良い震えが来た。


 彼女は、スマホを落とした。それを、私が拾った。そして私は、スマホという主語を、落としてしまった。


 それを、彼女が察して、拾ってくれた。ウィンウィンだ。ウィンウィンの関係だ。ウィンウィンの関係なのか?


 渡してから、数十秒経った。でも、彼女が可愛すぎて、止まっていた。スマホを渡した、手の形でずっと。


 バレーボールレシーブみたいな。そんな手のままで、ずっといた。思考が停止してしまったのだろう。



「あれですか?」

「はい?」

「これからって、時間ありますか?」

「まあ」

「じゃあ、どうですか?」

「えっと、なんですか?」


 反応に困る。目線は、彼女の薄いピンクのニットの、第一ボタンにあった。


 お礼は、ほぼ確定だ。スロットマシンで、7が2つ揃っているのと、同じだ。


 一番左に『お』。真ん中に[礼]という漢字の左側の『ネ』。


 そして、一番右で『し』と『乚』が、同量で回っている。そんなリーチだ。



「家、来ない?」

「家ですか?」

「うん。お礼がしたいんだけど」

「いいんですか?」

「もちろん。家で手料理を、ごちそうするから」

「料理できるんですか。ぜひ」

「ああ、あたしのママなんだけどね」

「ああ」


 彼女の笑顔で、安心感が生まれてきた。居場所ができた気がした。あの家への帰りが、遅くできる。


 行く道という名の、帰り道を遅らせることができる。その考えが、頭の大半を占めていた。


 辺りの空は今、グレーに限りなく近い。何の鮮やかさもない。


 なのに進む先が、電器屋さんの照明売り場のように、まばゆく見えた。



「何が好き?」

「食べ物ですか?」

「うん。できたら、その料理を作ってあげたくて」

「あなたのママが、ですか?」

「そう、ママが」

「好きなのは、唐揚げです」

「うんうん、作れる作れる。大丈夫大丈夫」


 私は車道側を、歩いている。彼女は、私の左前を、やや振り返りながら、歩いていた。


 先程とは違い、やや早歩きで彼女は行く。牛歩ではなく、人歩だ。私に、気を遣ってのことだろう。


 視線も笑顔も、ずっと続いていた。ずっと、続けてくれていた。ずっとこちらを見ながら、話してくれていた。





 知らない住宅街。先ほどまで、黒く見えていた山肌は、消えた。民家の外壁たちに、ガードされたのだ。


 ソワソワする。不安が、ちらほらいる。だけど、ワクワクの成分も含んでいた。


 無果汁の市販のかき氷シロップ。それみたいなものではない。しっかり、ワクワクが入っている。


 香料と着色料。それで、ワクワクの成分に近づけたもの。


 そのようなことは、決してない。あの家と、あの男性とは、まったく違う。



「もう少しだからね」

「はい。立派な住宅ばかりですね」

「うん。息苦しいかもしれないけど、好きなんだ」

「なんか、いいですよね」

「あたしは、こっちの方が落ち着くんだ」

「はあ。そうなんですね」


 迷路に、迷い込んだ感じ。あの人と住む家の、ぽつり感が懐かしい。


 でも、そこに帰りたい気持ちは、出てこない。あそこは、酸素が薄いから。



 宇宙空間を知らないから、分からない。でも、あの家は宇宙と、同等だと思う。



 歩きながら、キョロキョロした。真っ直ぐ歩きながら。首と上半身だけを、動かして。


 首を動かして、ようやく馬の通常時の視野に近づけた。そんな感じだ。空間把握が、不安を消す一番の手段だから。


 あの人の顔が、浮かんできてしまった。突然、パッと出てきた。なんでだ。馬だ。馬のせいだ。


 あの人がちょっと、馬に似ていたから。思い出したくないのに、出てきてしまった。


 花火のように、現れた。でも、花火のようには消えず、残っていた。なぜだろう。



 慌てて、大好きなキャラクターを思い浮かべた。名前は、ポプチャノだ。


 特定のアニマルとかではない。何にも、モチーフにしてない。


 面長ではなく、横長の顔。だから、馬は徐々に、薄れてくれるだろう。


 ずっと笑顔の女子高生が、ここにいる。それを見て、こちらも笑顔になった。暗いのに、明るさを強く感じていた。



「ここだよ。ここのデザイナーズマンションだよ」

「ここですか?」

「うん。あまり、好きじゃない感じ?」

「いや、圧倒されただけで」

「オシャレでしょ?」

「はい。好きです」


 パンケーキだった。パステルカラーのパンケーキが、いくつも重なっている。そんな感じ。もちろん、分厚いタイプのパンケーキだ。


 美味しそう。その第一印象を消して、建物として見た。そして、会話を続けた。


 今の私は、スゴい。内側のテンションが、スゴい。ヘンゼルとグレーテル本人。それよりも、テンションが上がっているだろう。


 お菓子の家は食べられる。でも、こっちのパンケーキは、食べられない。それでも、テンションが上がったのだから、相当だ。


 照明もすごい。複数角度から、照らされている感じ。立体感が、半端ない。


 パンケーキが、くっきりはっきり、暗闇に浮かび上がる。ファンタジー感が、満ちに満ちていた。



「入って入って」

「失礼します」

「かわいくない?」

「はい。オシャレですね」

「でしょでしょ」

「ケーキとかスイーツが、たくさんで可愛いです」

「嬉しい」


 ショートケーキの置物。マカロン模様の壁紙。カラフルなのに、カラダのすべてが、疲れそうな予感がしなかった。


 受け入れてよかった。今年、初めてそう思った。断れない性格は、マイナスにしか導かれない。


 いつもそう。これまではそう。でも、今日は違いそうだ。プラスに、導かれている感じがする。



「親が所有する、デザイナーズなんだけどね。部屋、まだ空いてるけど、住む?」

「遠慮しておきます」

「返事がはやいね」

「広すぎますから。狭い方が好きで」

「安くしてあげるのに」

「やっぱり、落ち着かないと思うので」


 断れる自分がいた。それに、自分でも驚いた。これまでと、違う私だ。


 屋内なのに、クネクネしている。何度、角を曲がっただろう。もう、右に左に、左に右に。相当、曲がった気がする。


 家族で唯一旅行した、北の方のテーマパーク。そこの、日本最大級の迷路に似ている。カラダが、そう呟いていた。


 複雑すぎて、ひとりでは帰れなそうだ。出入口に、帰って来られなそうだ。


 老舗ホテルで、売店に行って、部屋に戻ろうとした。その時は、部屋に帰れなくて。


 一緒に来ていた友達に、電話したっけ。そんな、頼りない私だから。





「この家には、慣れた?」

「はい。少し時間が経ったので」

「それは、よかった。」

「何か、私も料理お手伝いできたらなって、思うんですけど」


「お礼なんだから、別にいいのに」

「そうですか」

「敬語が抜けてないし、気を遣いすぎるタイプでしょ?」

「はい、まあ」

「やっぱり」


 心臓から脳にかけて、ブルッとなった。図星だった。


 お礼されるために、家にお邪魔することになった。断れない性格の私なんだ。


 でも、いつもとは違う。好きで、ここに来たんだ。今回は、断りたいと、少しも思わなかった。



「あの。あなたのお母さんに、挨拶したいんですけど」

「今はいいじゃん。今、料理作ってるから」

「あっ。そうですよね」

「それより、あたしの情報、何にも言ってなかったよね」

「はい、そうでしたね」


「あたしは、結城優悠。生まれは、埼玉なんだけど。色々と引っ越してきたから、どこが故郷か、分からないの」

「そうなんですか。私は、田仲ふわりです。栃木県を行ったり来たり」

「へぇー、栃木なんだ。私、ラーメンが大好物で。特に佐野ラーメンが、好きなんだよね」

「私も好きです」

「あたしたち、相性がいいんじゃない?」

「はい」


 彼女の方から、名前を名乗ってくれた。出身地を喋ってくれた。好きな食べ物を語ってくれた。


 だから、心から乗り出せた。心を開いてくれる人には、心を開ける。


 誰かがしてくれれば、それを返せる。そんな、単純な人間なのだ。私なんて、簡単な人間なんだ。



「ここが、あたしの住んでいる部屋」

「扉が、大きいですね」

「そうかな。あたしは、慣れちゃってるから」

「大きいですよ」

「今開けるから、ちょっと待ってて。かなり重いんだよね」

「わかりました」


「よいしょっ。はい、入って入って」

「ああ、たくさんの照明が、綺麗ですね。あたたかな感じで」

「うん。間接照明ね。デザイナーズだからね」

「デザイナーズですね」



 ゾウも入れそうな、大きな扉。隠れ家レストランを、彷彿とさせる光。うっすらと輝く、照明たちがいた。


 場違い感がある。でも、それとは裏腹に、進む。気持ちと足が、ずかずかと。


 言い方は悪い。そして、浅い知識しかない。でも、なんかブラックホールに吸い込まれる。それに、似ている気がする。



 天井と床の間にあるのは、ほぼ空気のみ。もて余している。色んなものを、もて余している。それしか言えない。


 無駄という言葉が、腑に落ちる。そんな、部屋の通路を行く。室内だが、ずっと土足世界だ。


 ここには、緊張と和みが共存している。ただ、最近では一番の柔らかい心になっていた。和みが、強めだ。






「スープ、おいしいです」

「よかった」

「落ち着きます」

「ねえねえ?」

「はい、何でしょうか?」


「住まない?」

「はい?」

「だから、ここのデザイナーズに、住まないかってこと」

「あっ、住む話ですか」

「そうだよ」

「まだ、決められないというか」

「そうか、そうだよね。うんうん」


 心に、ザラつきがみられた。彼女の言葉に、強さと少しのイラつきを感じたから。何かが、心に貼り付いたみたい。


 5歩くらい、後ずさりした。実際にではない。心の中の、私の駒がだ。ゴールにいる彼女から、少し離れた感じだ。



 沈みすぎるソファ。その上で、持っていたマグカップのスープを、もう一度口に含んだ。


 喉元まで上がってきた動揺を、流し込んだ。温かい、琥珀色のスープで。


 あっという間に、飲み干した。マグカップは、空になっていた。



 正直言うと、住みたい。住んで、毎日の苦しさから、抜け出したい。


 今の家の居心地が、最悪だから。地獄から天国に行きたいのは、本能だ。


 彼女の話によると、今の半分の家賃だ。そんな家賃で、住まわせてくれるみたいだ。


 今は、同居人と折半。その金額の半分でいい。それで、夢のデザイナーズに住める。メリットしかない。



 口角は、上がっていた。空のマグカップを、テーブルに置いた。ソファの座面より低い、ガラステーブルに。


 "カラン"


 ガラスと陶器が、最小限の音でぶつかる。ずっと心は、揺らいでいた。ぐらりぐらりと。


 女子高生は、横でゆったりしている。スープを、口いっぱいに頬張って。余裕を、溢れさせていた。



 反抗は今まで、ほぼしたことがない。先生にも、家族にも。もちろん、友達にも。


 でも、今はするときだ。同居人の男性に、意見をする。意思を伝える。


 他の場所に、住みたいと。デザイナーズに、住みたいと。


 ここに、決めることにする。やっと、苦しさから解放される。心なしか、ソファにもう一段階、深く沈んだ気がする。



 迷いは、マグカップに残る僅かなスープの水分。それほどしかなかった。少し経ったら、蒸発してしまう。そのくらい、ごく少量。


 ガラステーブルに映る、私の顔。少しボヤけている、私の顔。それは、いつもと違い、清々しさをまとっていた。







 彼女のお母さんの、料理を食べ終えた。生姜や香辛料の香りが、鼻に抜ける。唐揚げの余韻は、あちらこちらにいた。


 ソファで、何もせず沈む。そんな時間が、あの人への苦手意識を、蒸発させてくれた。お腹は、満足感で膨れていた。


 アニメの世界では、いっぱい食べさせられて、太らされる。そして、最終的に、怪物に食われる。そんなのもある。


 でもここは、身ひとつの人間が、自力では飛べない世界。だから、太らせても、ニンマリ眺める程度だろう。



「今日は、帰りますね」


 そう口にした。だが、反応はなかった。静寂に近い、時間が流れた。


 しかし、急に女子高生の顔が険しくなった。私の身体は、電流が流れるが如く、ビクッと小さく跳ねた。


 天使から悪魔になる。その瞬間を、見てしまった。怪物に、見えなくもない。


 ただ、丸飲みできるほど、口が大きくなる。そんな、想像はまったくできなかった。



「ごめんなさい。帰れませんよ」

「えっ、どうしてですか?」

「このマンションのオバケさんに、指示されてるの」

「ど、どんな」

「新しい美女が、欲しいって」


「どういう、あれですか?」

「接客みたいなやつかな」

「接客ですか」

「幽霊相手の、キャバクラだと思ってくればいいから」

「キャバクラですか」



 感情は、軽く波打つ程度。抑えていた。でも、今年初めて、眉間が仕事した。そう思う。


 あの男性に、同居を持ちかけられた時。そんな時でも、眉間は微動だけだったのに。


 口もあんぐりだった。ミニトマトを口に向かって、放られる。今、そうなったとしたら、スポッと入ってしまう。それくらいの、口になっていた。


 妄想でごまかす。何かを何かに例えて、ストレスを逃がす。いつもやっていることだけど、今の心には通用しない。



 目の前に、広がっている光景。そこに、薄い幕を張る。そしてスクリーンにして、妄想を流す。それが、いつもの現実逃避法。


 でも、そのせいでたまに、光景に妄想が混じる。そんなことはあった。でもこれは、純な現実だ。女子高生は、現実の悪女だ。



 女子高生は、魔女に変わっても美しかった。言葉が、行き交うことはなく。女子高生の、湿気た笑い声しかなかった。


 スマホを落としたのも、故意でわざと。その事実に、ため息しか出ない。


 あのとき、落とされたスマホ。それと今の私は、同じ心境だろう。何も希望がない感じ。


 ソファに、とりもちは仕掛けられていない。なのに、ソファからしばらく、立ち上がれなかった。


 初めて、あの家が恋しくなってきた。でも、あの家のイメージが、何も浮かんで来ない。


 壁の色も、家具の配置も。広さも、家の形も。でも、帰りたくなった。


 まぶたが重い。急に、重くなってきた。脳が、クラクラする感じ。


 視界は、この世のものではないくらい、ぐるぐるしていた。この世に、戻って来られない。そんな、予感がした。







 暗闇にいた。心も視覚も暗い。硬くて冷たい床。そこから、起き上がり座る。


 不安という漢字が、脳にデカデカとへばりついている。どんな空間か、分からない世界。キョロキョロの極みまで来た。


 光った。一点が丸く、強い光を放った。そして、すぐ消えた。


 また目映く光り、消えた。それが、繰り返される。


 しつこいくらいに、繰り返している。はやく、次の展開に進んでほしい。そんな気持ちで、いっぱいだった。



 脳が揺れた。先程より、ふわふわしていた。そこに、低い地鳴りのような音が入る。身構えた。歯を食い縛り、目に力を注いで。


 幽霊登場の前触れ。そんな雰囲気に、包まれていた。ほっぺをつねる。まったく痛くない。これは、夢かもしれない。


 ただ幽霊なら、麻痺させることなんて、簡単に出来そう。魔法使いより、能力が発揮できそうだ。


 我慢の限界が、近づいた。そんな時。仄かな光と共に、幽霊がぬるっと現れた。


「はっ」


 声を出していた。吐く声ではなく、吸う声で。スマホの音声検索も、反応しないような、かなり小さな声量で。


 そして、顔の前を塞いで来た。アップになった幽霊の顔は、笑っていた。思い切り、不気味な感じで。



「何歳?」

「ひ、秘密です」

「交際人数は、何人?」

「秘密です」


 幽霊は、私と少し距離を取った。そして、首のストレッチを始めた。手を結んだり、開いたりもしていた。


 筋肉も鼓膜も、関節も鈍くなっていた。幽霊の仕業か。


 ただ、恋愛的質問に、敏感になっていた。個人情報は、うちに秘めていた方が、身のためだ。


「好きな幽霊のタイプは?」

「よ、よく分かりません」

「ちょっと、ちょっと」

「はい」

「いい加減にして。何か答えてよ」


 幽霊が、眉毛をつり上げる。そして、拳を掲げた。そのまま、すべるように、こちらに迫ってきた。


 喉を閉じて、声を抑える。そして、目をギュッと閉じて、時を待った。意識が、スッと消えてゆくのが、しっかり分かった。







 気が付いたら、明るくなっていた。朝だろうか。日が昇っている。窓がある。両手両足も動く。


 白いベッドに、寝かされていた。白雪姫か。そう、心の中で突っ込んでいた。その直後、白雪姫に対する無知を恥じた。


 ベッド以外に、何もない。シンプルな部屋。あの、デザイナーズではない。真逆と言っても、いいだろう。


 デザイナーズの雰囲気は、全くなかった。オシャレ感は、何もない。ダサさが、やや漏れていた。


 土壁だ。それに、木目を活かした天井。柾目ではなく、板目だ。顔に見えるような、懐かしい模様。実家が、やや懐かしくなった。



 恐怖がないことに、恐怖を覚えた。少し前まで、恐怖していたから。


 対人よりも、対オバケの方が楽だろう。少し前までは、そう思っていた。


 でも、全然そんなことない。夢か現実か分からない、あの体験で実感した。どんな状態にあっても、恐怖は恐怖だ。


 肌には、血もアレルギー反応も何もない。寧ろ、弾力や張りを強く感じた。


 安心感も、逃げようという気持ちもない。狭くなくて、非日常感もない。



 今は、休日の午前中のような、脳に近かった。あの日の次の日になったのなら、今日は土曜日だ。


 スズメが鳴く、穏やかな土曜日の朝だ。間違いなく、休日の午前中だ。


 ワンコインのストレッチパンツの、ポケットを手で探る。しかし、内側の縫い目をなぞるだけだった。


 目当てのものには、当たらなかった。薄くて四角くて、硬いもの。それは、存在しなかった。


 スマホは、取り上げられたらしい。時計は、ベルト通しに付けたものがあった。残っていて、ホッとした。



 カラビナで、付けるタイプの時計。あって良かった。時間が、安心を組み立ててくれるから。


 『10:13』という表示。意外に、時間は経過していた。意識がなかった約半日。その、詳細が知りたい。



 オバケに、囁かれてはいない。撫でられてもいない。オバケによる被害は何もない。


 両手を前に出すオバケは、見ていない。だが、すべるように迫ってくる、物体は見た。


 でもあれは、夢かもしれない。それか、妄想力が強すぎただけか。


 オバケを、五感のどれでも、感じていない。そういうことに、しておきたい。



 オバケの存在自体を、疑っている。私の友達のお父さんが芸能人、みたいな。嘘を言ってくる同級生がいた。


 結局、そんな人いなかった。それ、みたいなことだ。


 オバケをいないことにしたい。そんな気持ちが、強かった。かなりかなり、強かった。





『バカじゃないの?』

『あっ、はい。はいはい』


 何か、聞こえてくる。その声が、どんどん大きくなってきた。


『あんたが、怖がってんじゃないよ』

『ごめんなさい。本当に、ごめんなさい』


 なんだか騒がしい。特に、女性の声が大きい。ふたりいる。それは、確定だ。


 大きな声と、小さな声がしている。その中の小さな声は、きっと同居人だ。男性の方が、同居人だ。



 同居人とした会話。それは、ほぼなかった。ほぼ、会話はしてきていない。


 同居を提案された。あの時がピークだった。でも、覚えている。あの、特徴的な声は、絶対にそうだ。


 よく知らないが、ウーハー。車の低音スピーカー。そんな感じだ。鼓膜から脳にかけて、揺さぶってくるような。


 そんな声だから、覚えたくなくても、覚えてしまう。同居人が、助けに来てくれた。その事実に、素直な喜びが滲んできた。



 ベッドから降りて、扉に歩いていった。扉の中心あたりには、穴があった。


 穴といっても、スコープみたいなもの。鉛筆くらいの直径だ。それを覗くと、少し遠くに、あの顔があった。


 優しい顔をしていた。力が抜けて、怖さが、まろやかになっていた。


 いつもの同居人にはない、明るさ。それを、感じられた。


 4、50代の女性もいた。きっと、母親だろう。母親に同居人が、すごく怒られている。


 それが、同居人の人間らしさを、引き出していた。可愛ささえ、感じられた。



「あの娘さんを、守れって言ったよね?」

「ママ、あのね」

「危なかったんだよ。あの女子高生が、あの娘さんを狙ってるの、知ってたんだから」


 脳が、変になった。白を通り越して、透明になり始めた。よく分からない脳だ。


 たまたま、私に話しかけた。そうではなく、決まっていた。同居人も、女子高生もそうだった。そういうことになる。


 



 扉にピタッと張り付いて、聞いていた。セミが、木の幹に張り付くみたいに。セミよりも、セミらしい。そう思う。


 扉に押し当てた胸が、ドクドクと鼓動する。それが、しっかりと分かった。それを聞いて、鼓動はさらに速くなっていった。


「だって、人見知りだから」

「あの娘さんは、私たちゴースト探偵の、大切なお客様なんだから」

「そうだよね。お世話になっている人の、娘さんだからね」


 ゴースト探偵。そんな言葉、妄想や夢の中でも、出てきたことがない。でも、イメージは不思議とできていた。



「まだ、目が覚めてないみたいだから。そっとしておいて、あげようね」

「そうだね」

「恐怖があっただろうから」

「うん」

「メンタルのケアは、私がやるからね」

「お願いします」


「何のために、一緒に住んでって言ったと思ってるの?」

「二人暮らしとか、急に出来ないし。ママも、住んでくれれば」

「仕事で、色々あるし。それに、そんなことしてたら、もっと怪しまれるでしょ」


 マザーコンプレックス。略してマザコン。その色が、濃く出始めた。怖さがどんどん、まろやかになってゆく。


 コーヒーで例えるなら、マザコンはミルク。ブラックコーヒーに、シュガー&ミルクを加えた感じだ。



「近くに部屋、借りておいてよかったね」

「全部、私の指示だからね」

「デザイナーズからすぐのところに、避難場所確保しておいてよかったね」

「あっ、話を逸らそうとしたでしょ?」

「ん?」

「説教から、逃れようとしたでしょ?」

「バレたか」


「オバケのことは、あの娘さんに、伝えておいて欲しかったよ」

「ごめん」

「かなり詳しく言わなければ、伝えていいキマリなんだから」


「『ほーら』を連発する歌を、大音量で流したり。トーストを、毎朝食べたりしたし」

「ホラー的なやつに巻き込まれそうかもよ、って素直に言えばいいのよ。トーストから『そうか、ゴーストか』ってなるか!」


 怖かった。ずっと、同居人が怖かった。あの行動が、さらに同居人を遠ざけたんだ。


 ずっとずっと、曲がリピートされていた。『ほーら』の歌声が、同居直後からずっといる。脳の片隅に、常時いる。


 普通のリピートなら良かった。なのに『ほーら』の部分だけを、うまく繋ぎ合わせた、変なヤツだった。


 『ほーら』しかないやつ。それを長い間、聞かせ続けられていたんだ。それは、家に帰りたくなくなる。



 トーストの出来上がりの音。チーンという音。それが、毎朝5時ちょっと過ぎに鳴っていた。それも、苦痛だった。


 ゴースト関係の、何かに狙われている。それを伝えるための、トースト。


 理由が分かって、ホッとした。ホッとしたと同時に、同居人の脳を疑った。男性の不器用さに、若干熱が上がった気がする。



「僕は女子高生が怖いって、何回も言ったし。マンションより、団地がいいって言ったりしたよ」

「そんなのじゃ、意識に植え付けられてないのよ」

「そうか」

「そうだよ。それで、女子高生に近づかないようにしようとか。マンションに行くのやめようとか。なんないのよ」

「そうだよね。そうだよね」


 何もしてないけど、よろけた。よろけて扉から離れた。そして、尻もちをついた。


 "ズンッ"


 小さい音で、抑えられた。最小限の衝撃しかなかった。ただ、扉の向こうの空気が、少し変わったように思えた。


「あれっ、部屋の中で音がしたんじゃない?」

「うん。起きたみたいだね」

「事情は、お母さんが説明しておくから」

「ありがとう」


「娘さん? 聞こえる?」

「あっ、はい。聞こえます」

「入ってもいい?」

「えっ、あっ。はい、どうぞ」

「事情は、これからゆっくり説明するからね」

「あっ、はい」







 太陽が、控えめに胸を張る。そんな、空の下。


 歩く私の隣に、男性がいる。同居中の男性だ。


 二人で帰ることを、提案してきたのは、男性からだ。素直に、一緒に歩いて帰ることにした。


「ありがとうございました」

「お守りする。それが仕事なので」

「今日は、過ごしやすい気候ですね」

「まあ、はい。そうですね」

「少し、暑い気もしますけどね」

「そうですかね」



 午前中を、ゆったり過ごす。そんな過去は、今までなかった。


 鳥が鳴き、車が通りすぎる。風は、そよそよと、背中を撫でる。心は、軽くなっていた。


 手首足首に、常に重りを付け、本気出すときに、一気に外した。そんな感覚。


 そんな感覚に、少し似ているかもしれない。したことがないから、想像ではあるが。



 素直な感情が、本気を出してくれる気がする。今は、そんな気がする。


 自然の音しかない。無言でも、何も怖くない。隠れた優しさが、隣にいるから。



 午前中に、例の道を行く。見慣れた道。何回も、通ってきた道。


 だけど、初めての明るさだ。太陽から来る、明るさだけではない。色んな明るさがいる。そういうことだ。



「すみませんでした」

「何がですか?」

「恐怖を、与えてしまっていたので」

「10パーセント程は、悪い人ではないと思っていましたから」

「ありがとうございます。優しいですね」


「90パーセント、悪い人だと思っていたってことですよ」

「はい。それでも、少ない方ですよ」

「そうですかね」


 ずっと、行く道だったこの道。帰り道なのに、行く道だった。


 家へ向かう道は、覚悟を決める道だった。だけど、今は違う。ガラリと変わった。



 男性と二人きりでいる。しかも、ずっと苦手だった男性と。少し前まで、怖いと思っていた男性と。


 でも、呼吸ができている。なんか、優しくなれている。普通を、普通にできている。


 気持ちは、180度転換した。たくさん話さないと、何も分からない。人のことなんて。


 みんなそうだ。人間は、みんなそうだ。人間というのは、そういうものだ。


「僕、作ります。カレー」

「作れるんですか?」

「ルーがあれば」

「じゃあ、お願いします」

「あっ、はい」

「あの。出来れば、甘めのやつで」

「分かりました。甘口ですね」


 家に向かう道。それが今日、初めて、帰り道になった。

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