泥沼に咲く孔雀
8:02の新幹線。仕事だと嘘をついて、三つ目の自動販売機の前で彼の背中を見送った。
土曜日の夜にまた逢えると一週間奮起したけれど、金曜日の仲良し四人の女子会で、全てがどうでも良くなった。
「今時バレない浮気なんて無いわよ? 防犯カメラやSNS、何時何処で誰が見てるか知れないわ」
美容院で染めたクリーム色が艶やかに揺れ、目を逸らす様に見つめた赤いネイルの薬指に光るプラチナリングに向かって、ため息をついた。
「アンタがそれを言っちゃう?」
「ま、ね。私はそこんとこキッチリしてるから、大丈夫♪ あ、この抹茶アイス美味しい」
「あのさ……浮気っていつまで続くモンなの?」
ルイボスティーのグラスを両手で包み込んでいた結婚二年目が、何処か不思議そうな目で私達を見た。
「……そう言われても、ねぇ?」
「あら、私は止めないわよ? 少なくとも女で居続ける限りは、ね。子どもも居ないし、バレても自由ってヤツ~」
何処か誇らしげにスマホを取り出すと、高級ホテルの一室でバスタオルに身を包む男女の写真を見せつけてきた。染めたばかりのクリーム色が男の顔を隠していて、手に持っていたワイングラスと、葉巻がやけに金持ちぶっていて好きになれそうにはなかった。
「え? 誰? 誰?」
「んふー、県議会議員様♪」
それまで夢中になっていたスマホを置き、興味ありげに首を伸ばした彼女の首には、相変わらず人気の無いインディーズバンドのタトゥーが入っていた。
「アンタもこれくらい大物とやりなさいよ」
「……余計なお世話」
カルボナーラのお皿の上にフォークを立て、麺をひたすらに丸め続ける。明日は何時に出ようかな、とか。何着ていこう、とか。そういった事が段々と面倒臭く感じてきた。
「4か月だっけ?」
話題を逸らす様に鞄の肩紐にぶら下がったマタニティーマークを指差すと、彼女は嬉しそうに「そう」と、笑った。
一度の流産を経てようやく授かった小さな命を、そっと愛おしげに撫でては母の顔を向けていた。
「いいわね、順調な人は」
棘の先を罪の無い二人へ向けると、開いた鞄の口からはみ出していた名付け図鑑に「イーッ!」と軽く歯を見せてひと睨み。
「外で煙草吸ってくる」
クリーム色を派手に揺らしながら、彼女は席を立った。彼女の背中は女を色濃く匂わせていたが、どういう訳か羨ましさは微塵も感じられなかった。
「浮気なんて止めなよ。旦那さんが嫌ならちゃんと別れれば良いんだから」
先程頼んだノンカフェインのアイスコーヒーを手に、彼女は心配そうに私を気遣ってくれた。
「要らないなら私がもらおうか?」
「万年平社員だけどいい?」
「それは遠慮しとこうかな」
「こら」
笑いながら右肘を突いてサンドイッチを頬張ると、彼女はすぐにスマホへ目を戻す。ゴテゴテの装飾が着いたスマホケースはとても使い難そうで、悪趣味なドクロが気持ち悪いくらいにひっ付いていた。
「どっこらせ、と」
煙草から戻ってきた彼女が勢い良く席へと腰を落とした。
「……煙草変えた?」
「別に? 臭う?」
「いや、それほどは……」
「まー、ごめんごめん」
上着を脱ぎ、それとなく風向きを気にする彼女だが、それでいて煙草を止めるつもりは無さそうなのが私としてはもどかしくあり、何処か癪な感じがした。
「じゃ、そろそろ私は帰るね」
「またね」
カフェを出ると、誰となく世間の冷たい視線が、私の服を通過して心へ刺さる冷たさを感じた。
いくら着飾ろうが、心が冷たいままなのは何故なのか。満たされるために始めたのに、何故より一層冷えていくのか。歩き続けるうちに、全てがどうでも良くなった。
気晴らしに買い物へ、近所のスーパーに向かった。
ハンバーガーが無性に食べたく見えたので、二つ手に取りレジへと向かった。
アパートへ戻ると、夫は仕事へ出掛けた後だった。常に夜勤なので明日の九時までは戻らない。
七時半には私が家を出るから、酷く言えば顔を合わせない様にするのはとても容易く、とても罪な事だった。
「メール着てた」
仕事のふりをして逢うのを止めようかと考えていると、彼からメールが入った。
──明日、駅まで迎えに行くよ。
彼は大抵そうだった。
私が逢うのを躊躇う時に限って、自分から優しい言葉をかけてくる。まるでエスパーの様に。
とても逢いたい時なんかは全然連絡をくれずに、我慢しきれずにこちらからメール入れちゃうのに、そういう所が彼のずるい所なんだと、ずっと分かりつつ関係を続けてきたのだから、私が悪いだけなんだ……。
しばらくメールの画面の彼と睨めっこをした。
行くか行かないか、たった二つの可能性ですら、私にとっては『宇宙の果てがあるのか無いのか』の二択以上に難しくて、答えを出したくない問題となっていた。
それだけ深い泥沼に身動きを取られてしまっている事に、私は気が付かないふりをしてきたのだろう。自分の身体が何処まで泥沼に浸かっているのか、もう戻れないのか、戻りたくないのか。
いつだって、その泥沼は私に優しかった。
「…………」
頭を切り換える為に、買ったばかりの100円ハンバーガーを口にした。
カルボナーラを食べたばかりなのにやけに美味しく感じられ、気が付けば二つとも食べてしまっていた。
そしてすぐに現実へと戻されて、吐いた。
完全に吐き終えた後を見て、私は200円を損した気がした。
そして直ぐにカフェで見せられたワイングラスと葉巻の画像を思い出し、住む世界が違うんだと諦めるしか無い自分に気が付いた。
泥沼から辛うじて口を出してるだけの自分。もう自力では助からないのかも知れないと思うと、背中がゾワッと不気味な湿り気を帯び始めた。後悔。それがヤツの名前だろう。
「……やってる事は同じなのに」
うがいをして、再びメールの画面と向き合った。不平を漏らしても変わることは無い。私の惨めさも、だ。
先程まで優しい彼の手招きが、たった今死神の誘いにしか見えなくなっていた。
覚悟はしていなかった。しているつもりだけだった。既に手の平も後悔に侵されて、どんなに拭っても乾くことが無い。
次なる覚悟を決めてトイレへ向かう為には、買って長らく放置されていたアレを先に探さなくてはならない。箱が潰れたソイツを引き抜くと、しばしば立ち尽くして己の愚かさを悟った。
──私はそこんとこキッチリしてるから、大丈夫♪
今、目の前に彼女が居たら、間違いなくはっ倒していた。
因果応報なんて言葉は聞きたくない。誰の口からも話されたくない。
震える手でトイレのドアノブを開け、覚悟が定まらないまま袋を開けた。
結果如何では夫と別れる事になる。顔立ちが全然違うから、嘘をついても二、三年も掛からずすぐにバレるだろう。最悪のシナリオだ。
なるべく思考を止め、ただ結果が出て来る小窓をジッと、見続けた。陰性だった。
一度シャワーを浴び、背中が乾くと今度は冷たい思考が頭をもたげてきた。
メール画面の彼に冷めた視線を向け、彼が何者かを確かめろと囁くのだった。
我が身の犠牲を厭わない天使か、冷酷なる死神か、己の進退を他人に委ねろと、喚いて仕方ないのだ。
──できてしまいました。
送信メールボタンは簡単に押せてしまった。独裁者が核を発射するよりも容易く。
ビールを片手に、録画しておいた邦画を観始める。目の前には鳴らないスマホが一つ。映画が終わり、いつの間にかうたた寝をして、夜中に目が覚めても、ついには朝日が昇った後も、彼からメールが来ることは無かった。
どうやら彼は人の子だったらしい。当たり前の話だけど。
「で?」
「それっきり」
染め変えた栗色の髪をかき上げて、彼女は不思議そうな顔をした。
「そっちは?」
「県議会議員様との密会がバレちゃってさ……やだね、口の軽い従業員ってさ。二度と行かないわよあんなホテル」
「旦那さんとは?」
白湯を握りしめ、そっと膨らんできたお腹を擦りながら心配そうな目を向ける彼女。
「勿論別れたわよ。慰謝料取られて、もう散々」
「自業自得……」
「アンタには言われたく無いわよ! もう一人だから次からは好きに恋愛してやるわ、国会議員でも引っかけてやろうじゃないのよ」
彼女はイライラしながら席を立つと、金色のバッグを肩にかけて二千円を置いた。
「煙草吸ってそのまま帰るわ。妊婦に悪いしね」
「じゃあね」
「また」
栗色を揺らしながら、足音高く彼女が去って行く。
彼女の後ろ姿は泥沼の浸かったクジャクの様で、見るに耐えない命の終わりを感じさせた。
「旦那さん、日勤にシフト変えてもらったんだって?」
「うん。段々と疎遠染みていた事、夫も感じていたみたい。ゴメンって言われた」
「良かったじゃない」
「結果的には、ね……」
もう底まで沈んで姿の見えないクジャクを思いながら、もしかしたら自分もあちら側だったのかと思うと、やるせない気分にさせてくれるのだった。




