聖女の騎士
炎と黒煙をあげて燃え盛る大聖堂。
その中を邪魔な鎧を脱ぎ捨て、ひたすらに駆ける一人の騎士がいた。
肺に入り込む煙で呼吸は乱れ、皮膚は熱で爛れ、全身の至る所にある切り傷は、どこが痛いのかさえも分からない程に男の感覚を狂わせる。
気を抜けば意識を失う状態でありながら、男はあらん限りの声を腹の底からふり絞って叫んだ。
「聖女様!」
この大聖堂にいるはずの、主人の名を。
いくつかの焼け焦げた死体を目にしていても、男は全てを捧げた主人が生きていると確信していた。
不意に崩れ落ちる炎を纏った柱を避けた拍子に、足がからまり二度、三度と転がる男。
熱を帯びた石床に手を置いて立ち上がろうとする時、男の視線は手首にあるバングルを捉える。
まだ若く未熟だった頃、聖女と呼ばれる少女に忠誠を誓った際に貰い受けた、蒼い石が嵌め込まれたバングル。
微かな光を灯す蒼い石を見た男の脳裏には、聖女との出会いが昨日のことのように映し出されていた。
————————
アルオンが生を享けたのは、王国でも有数の騎士の家だった。
十五歳で士官学校を優秀な成績で卒業すると、王からは騎士の位を授かる。
誉れ高い騎士団の団長を務める父や、部隊長として頭角を現す兄。
だが同じ道を歩くと信じていたアルオンが配属されたのは、聖女を護衛する部隊だった。
聖女とは人では持ち得ぬ不思議な力を持った巫女であり、王国でも極めて重要な存在である。その護衛ともなれば誰もが羨む役職だが、戦場で功績をあげる父と兄に憧れていたアルオンは不満だった。
聖女は大聖堂と呼ばれる建物から外に出ることがない。厳密に言えば大聖堂の聖域と呼ばれる場所から出ると、力と命を失うとされている籠の中の鳥。そんな護衛など門兵と変わりないと考えていたのだ。
配属が決まると配置換えを父に直談判したアルオンだったが相手にされず、兄には「お前は与えられた任の重さを何も分かっていない」と嗜められた。
不満を募らせていたアルオンを出迎えたのは、王都にありながらも、どこか異質な空気を醸す無機質な巨大な建物。
——牢獄。
アルオンの頭をよぎったのはそんな言葉だった。
神職者であろう法衣を纏った老人の案内のもと建物に入ると、何度も曲がる長い廊下を過ぎた先にある、少し開けた庭園へと足を踏み入れた。
四方を高い壁に囲まれ、日の光は真昼の数時間しか射し込まないであろう庭園は湿っぽく、陰湿さを増幅させる植物が所狭しと生えている。
その片隅に二人の騎士を携えた小さな少女がいた。
アルオンよりも少し幼く、白い布を帯で縛った衣服に細く華奢な体。肩まで伸びた金髪は整えられてはおらず、一目見ただけでは誰も聖女とは思わない姿であった。
「あら、この人が新しい騎士様なのかしら?」
老人が頷き少女の青い眼が向けられると、慌ててアルオンは右拳を左手で包み、頭を下げて膝を折った。
「本日付けで聖女様の護衛の任に就いたアルオンと言います。身命を賭してお護りいたしますので、よろしくお願いします」
決まり文句を放ったアルオンの耳に届いたのは、小さくも無邪気な笑い声だった。
「よろしくね、アルオン様。でもここでは肩の力を抜いて下さい」
「はっ」
アルオンが顔を上げると、目の前の少女は笑みを顔いっぱいに溢れさせていた。
その無垢な笑顔にアルオンの心に内にあった不満は霧散してしまう。
聖女を……この小さな少女を護る使命感が芽生えた瞬間だった。
護衛の仕事が一ヶ月も経つと、アルオンは聖女の立場を理解していた。庭園と聖女が暮らす一室。そして聖女以外が立ち入ることの許されない奥の神殿。
それが少女に許された世界だった。
護衛の騎士は五人いたが、アルオンを除けば年老いた者達。
彼らにとっては名誉職以外のものでは無く、聖女との関わりには一線を引いていた。
特に今代の聖女は歴代の聖女に比べて力が無いのも一つの要因かもしれない。
未来を知ることの出来る聖女。
聖女は王国でただ一人の存在であり、その役目は死を持って次の聖女へと引き継がれる。
三代前の聖女は二ヶ月先の未来を知り、何度も王国を守ってきた。
だが今代の聖女が見る未来は僅か二時間。
たとえ未来を知ることが出来るにしても二時間では価値は薄く、王国としても保護をしているだけに過ぎない。
聖女は短命である。
命の力と引き換えに未来を知り、常人の数倍の早さで老いていく。事実、三代前の聖女はその強大な力と引き換えに、若干二十四歳で老婆のような姿でこの世を去ったとされている。
聖女の死後、幼い少女達が神殿に集められるとその中の一人に聖痕が浮かび上がり、次の聖女として務めるのが慣わし。
アルオンの護衛する少女もニ年前に神殿に集められ、聖痕が現れたことで聖女となっていた。
力の弱い聖女だが、一日に何度も王国からは未来予知を聞きに遣いの者が来る。疑問を感じたアルオンが同じ護衛の老騎士に尋ねたことがあった。
「聖女様は力が弱いと聞いてましたが、これだけ遣いがくるのはやはり重宝されているんですね」
「あぁ、アレか? アレは未来が知りたくて来てるんじゃない。どうせ聖女は大したことは言わないからな」
「じゃあなんでこんなに頻繁に来るんですか?」
その質問に老騎士はチラリと周りを見て、押し殺す声で話し始めた。
「王国のお偉さん方はとっとと聖女に死んで欲しいんだよ。力を使えば聖女の命は短くなる。さっさと死んで次の優秀な聖女に変わって欲しいのさ。それでなくとも聖女が力を使うには聖痕が刻まれてから半年後という制約がある。暗殺計画もあったが、何せ神の気まぐれで生まれる聖女だ。不用意な行動で次代の聖女が現れなかったら目も当てられんからな」
「——そんな!」
アルオンはいきり立ったが、その後の言葉を飲み込んだ。
残念ながら今代の聖女が役目を果たしているとは言えない。王国の利を考えるならば世代交代を画策するのは間違っていると言えなかった。
アルオンは頭と感情が相反するなか、肉が食い込むほど拳を握り歯噛みする。
歳が近いこともあり、聖女ともっとも親しくしているのはアルオンだった。情を持ってしまった彼は、自分の無力さを感じてしまう。
力を使うなとも言えず、王国の遣いを返すことも出来ない。
だが老騎士との会話は、彼女に仕える覚悟を深く刻み込んだのだった。
ある日、大聖堂に曲者が入り込む。
狙いは聖女の命。
アルオンの働きにより事なきを得たが、聖女は心に傷を負った。
その晩、庭園で膝を抱えて座る聖女を見つけたアルオンは、その隣に腰を下ろす。
物音に体をピクリと反応させた少女は、俯いたままアルオンが聞いたことのない、か細い声を発した。
「……アルオン様。私、どうして聖女に選ばれたのかな? きっと他に適任者がいたと思うの」
弱音を吐いたことのない聖女の言葉に、アルオンは胸が熱くなるのを感じていた。
少女が自分の立ち位置を把握していると知ってしまったから。聖女が自分と同じように無力さを感じながら、それでもいつも明るく振る舞っていたと知ってしまったから。
いっそこのまま少女を連れて出ていきたい衝動を押さえ込み、アルオンは無理に優しい声を出そうと小さく咳払いをした。
「世の中に意味のない運命なんてないと……そう思います。聖女様が聖女様であることはきっと意味があるんです」
途切れ途切れの吐息に、鼻をすする音。
少女の肩は震えていた。
「……でも、私」
アルオンは少女の肩に伸ばした手を空中で止め、手を握りしめると、スッと立ち上がり膝をついて頭を下げた。
「私は聖女護衛の騎士。私にとって聖女様はただ一人。たとえ何が起ころうともあなたを身命を賭してお護りすることをここに誓います。だから……聖女でいることを悔いないでくれませんか?」
アルオンの朗々とした口調に少女はくしゃくしゃになった顔を上げる。
「ふふっ。それじゃアルオン様は私の騎士様なのね?」
「ええ、そうです」
そこには涙に濡れながらもいつもの笑顔が戻っていた。
「アルオン様、ちょっと待っていて下さいね」
少女は立ち上がるとそそくさと自分の一室に走りだす。やがて聖女は小走りで戻ってくると、膝をついたままのアルオンの前で小さな胸を逸らした。
「アルオン様。いえ、私の騎士、アルオン。あなたは私に忠誠を誓いますか?」
まるで叙爵の真似事のような言葉に、アルオンは真剣な表情を返して右拳を左手で包み込んだ。
「はい。我が剣は聖女様の為に」
「分かりました。アルオン、あなたを聖女の騎士と認めましょう」
少女はアルオンの左手を手に取ると、銀のバングルを手首に少しづつ滑り込ませる。
「聖女様……これは?」
アルオンの疑問に少女は胸元のネックレスを取り出すことで答えた。
バングルに嵌め込まれた蒼い石とネックレスに嵌め込まれた蒼い石は、お互いが共鳴するように鈍い光を放つ。
「ふふっ。これは聖女として家を出るときに両親から貰ったものなんです。我が家の家宝なんですよ」
「そんな大事なものを——」
「アルオンに貰って欲しいんです。でも、あれですよ。売ったりしちゃダメですからね」
「売ったりなんかしません。これは……私の忠誠の証となるでしょう」
愛おしそうにバングルに触ると、堪えきれない涙がアルオンの頬を伝う。
まるで神からの祝福のような月明かりが、二人を照らしていた。
大聖堂は平穏のまま月日は流れる。
聖女はアルオンにいつも通り外の世界の話をせがんでいた。
王国の情勢や普段の生活。
普通に暮らしている者なら誰でも知っている話を、目を輝かせながら聞いていた。
「ねぇ、アルオン。本当にそんな甘い食べ物がありますの?」
「ありますよ。最近王都で流行ってるお菓子ですが、とっても甘くて美味しいんです。じゃあ、今度こっそり持って来ますか?」
「——約束ですよ!」
今にも頬が落ちそうな緩んだ顔の聖女が小指を突き出すと、アルオンはニコリと笑って小指を絡ませる。
王国で子供達が約束を交わす際の行為に、アルオンは口元を緩ませた。
護衛の任について三年。
目の前で笑う聖女は華奢な体はそのままに、顔つきは少女から大人へと変わっていた。
毎日顔を合わせているとはいえ、アルオンは確かに彼女の成長を目の当たりにしている。このままいけばあと十年もすれば老婆になってしまうと心配するほどに。
さらに二年が過ぎ二十歳を迎えたアルオンは、騎士団長である父から騎士団本部に呼び出されていた。
「アルオン。お前が護衛の任について五年になるか。実は隣国の動きに変化があってな、近々戦争になるやもしれん。そこでお前があたっている護衛の任を解いて騎士団の部隊長に推す声が上がっていてな。一応お前の心情を聞いておこうとこの機会を作った」
隣国が交戦的な王に代替わりしたことはアルオンも知っている。王国でも戦争の気運が高まり、ピリピリとした空気が張り詰めていた。
「騎士団長、私は聖女様に仕える身です。ありがたい話ですが、お断りいたします」
「そうか……分かった。この話は無かったことにする。下がっていい」
アルオンの即答に騎士団長は目を伏せて小さく呟いた。
短い話が終わり、軽く頭を下げて部屋を出ようとするアルオンの背に言葉がかけられる。
「アルオン……立派になったな」
それは父から息子への言葉だった。
アルオンは振り向き、深くお辞儀をすると「ありがとう、父さん」と小さく呟いて部屋を出るのであった。
「断ったのか?」
部屋の外にいたのはアルオンの兄だった。
久々に会う兄の顔には無数の傷があり、過酷な戦いの場を潜り抜けてきたことを物語っていた。
「不思議だね、あれだけ憧れてたのにさ」
「そうだったな。懐かしい思い出だ」
歯をむき出しに笑う兄は懐かしむようにグッとアルオンを引き寄せると、抱きつくように肩を叩いた。
「戦争になれば俺もお前も生き残るか分からない。だから今言っておく。お前がどれだけ聖女様と信頼を作り守っていたかは聞いている。まったくアルは俺の自慢の弟だよ」
「兄さん……」
今まで兄に叱られたことはあっても褒められたことなど無かった。
アルオンは兄の肩に顔を埋めた。
泣きそうになる顔を兄に見せたくなかったから。
しばらく抱き合った兄弟は顔を見合わせて笑うと、それぞれの道へと進むのであった。
隣国から宣戦布告が宣言されると両国の戦争が始まる。
少しでも有利な展開を築くために、聖女の元には日に何度も王国の遣いの者が来ていた。
「聖女様、大丈夫ですか?」
よろめく体を支えながらアルオンは聖女に声をかける。
聖女が力を使うことが出来るのは二時間に一回。
予知した時間を過ぎなければ力を使うことが出来なかった。
精度をより上げるために現状を聞き、予知を繰り返していた聖女は僅かな仮眠以外、休むことなく力を使い続けていた。
「アルオン、ありがとう。でもこれが私の役目なの」
無理してはにかむ聖女だったが、その体に力がないことは支えているアルオンが一番分かっていた。
なんとか聖女の体調を理由に掛け合ったものの、許された休息は僅か半日。
戦争時とはいえ束の間の一時だった。
休息の時間に部外者が庭園に入ることを禁じ、中には聖女とアルオンの二人だけ。
眠りにつく聖女の乱れた髪を、アルオンは慈しむように優しくかきあげた。
「あなたが聖女でなければ、どれだけ良かっただろう」
アルオンは心に仕舞っていた言葉をボソリと呟く。
普通の少女と出会い、恋をして結婚する。
家に帰ればとびきりの笑顔で出迎える妻と楽しく食事する。子供は二人、いや三人は欲しい。
そんな妄想をしながら、ふと聖女の名前も知らないことに笑ってしまう。
以前名前を聞いたことがあったが「私は聖女になった時に名前を失いました」とかわされてしまっていた。
「……んっ。んーっ」
吐息を漏らした聖女はゆっくりと目を開けると、アルオンを見て恥ずかしそうに微笑んだ。
「もしかしてずっと私の寝顔を見てましたか?」
「えぇ、聖女の名に相応しい寝顔でしたよ」
「もう、馬鹿!」
気休めとはいえ熟睡した聖女は少し元気を取り戻し、怒ったように頬を膨らませた。
アルオンが謝ると、「もう!」と言いつつも聖女の顔が穏やかになる。
「……少し夢を見ました」
「夢、ですか?」
「はい。とても幸せで……恥ずかしい夢です」
すでに三十歳半ばにも見える聖女は、少女のように口元を押さえて恥ずかしがると、夢の話を続けた。
「私は聖女じゃなくて普通の暮らしの中、騎士団に勤めるあなたに似た騎士に一目惚れするの。そしたらあなたが声をかけてきて、『結婚してください』なんて言うのよ。心臓が止まるかと思っちゃったわ」
「結婚ですか」
まるで先程の妄想を言い当てられているようで、アルオンは顔が赤らむのを感じてしまう。
「うん。でね、結婚して子供も出来て幸せに暮らす……そんな平凡だけど幸せな夢。って、私はすっかりオバチャンになっちゃったけどね」
「聖女様」
アルオンの目には穏やかでとても幸せそうな聖女の顔が、出会ったばかりの幼い少女と重なる。
抱きしめようとしたアルオンを邪魔したのは、時間を知らせる強いノックの音だった。
「時間ね。夢の時間は終わり。聖女として頑張らないと」
再び予知をするために神殿に入る聖女を、アルオンはただ呆然と見送っていた。
同じ夢を幸せと言った聖女。
どれだけ心が満たされただろう。
彼女の髪をかき上げた手に、えもいわれぬ愛しさが募っていた。
遣いの者が言うには戦線は押され、隣国の手は王都に迫るほどになっているらしい。
いくら聖女の予知があるとはいえ、それは限定的。
戦況など目まぐるしく移り変わる。
神殿から出た聖女は予知を遣いの者に伝え、アルオンに歩み寄った。
「ねぇ、アルオン。昔あなたがくれたお菓子がどうしても食べたいの。どうにかして持ってきてくれないかしら?」
「今ですか?」
「ふふっ、そう、今」
唐突におねだりを始めた聖女は悪戯っぽく笑うと、アルオンに向けて両手を合わせる。
「アルオンも私に付き合ってずいぶんとここにいるでしょ? ちょっとした気晴らしついでに買ってきて欲しいの」
「まったく聖女様は」
アルオンは庭園の入り口に目をやる。
そこには年老いた護衛騎士が二人立っていた。
「分かりました。他に欲しいものは?」
「そうね。東にある町のお菓子も美味しいって言ってたでしょ?」
「行ったら一日で帰ってこれません。それは我慢して下さい。あのお菓子だけでも往復で三時間はかかっちゃうんですからね!」
半ば呆れてアルオンが庭園を出ようとすると、突然手を回される。
顔を向ければ聖女が後ろから抱きついていた。
「アルオン……」
「どうしました聖女様? あっ、お菓子を諦めてくれました?」
冗談めかしたアルオンだったが、聖女は回した手にギュッと力を込めた。
「アルオン……。チャコ。私の名前はチャコ」
「チャコ……ですか」
聖女の手の力が弱まるとアルオンは振り返り、聖女の頭をポンと撫でた。
「それでは聖女チャコ様のためにお菓子を持ってくるとしましょう。行ってきます」
「……うん。いってらっしゃい」
聖女の笑顔に見送りに、アルオンは心を癒やされながら外へと足を向かわせた。
大聖堂を出た王都は異様な空気に包まれていた。
肉眼でも遠くに砂塵が上がっているのが見える。
戦場はすぐそばまで歩み寄っているのだ。
傷ついた兵士たちが走り回り、王都で暮らす人々は逃げまどう。
そんな混乱の中だ。ようやくたどり着いた目的の店は閉まっていた。それでもアルオンは投げ出されていたお菓子を拾いあげてお金を店に置き、喜ぶ聖女の顔を思い浮かべて満足そうに口元を綻ばせた。
しかし帰ろうとしたアルオンの目に映ったのは、大聖堂の方向から立ち上る黒い煙だった。
「なっ……、どうして」
頭が混乱する。
駆け出すが大聖堂は王都の離れ。
どれだけ全力で走ったところで一時間はかかりそうな距離だ。
アルオンは邪魔な鎧を脱ぎ捨て、大聖堂を目指した。
近づくにつれ、隣国の者と思われる兵士の姿が見え始める。
黒煙の元は大聖堂。
狙われたのは聖女だった。
「どけぇー!」
アルオンは剣を片手に敵兵を斬って走り抜ける。
致命傷とはいかないまでも何度も敵の刃を浴び、それでも駆け続けた。
アルオンが着いた時、すでに大聖堂は炎に巻かていた。
熱気に包まれたその場所に敵兵の姿はない。
アルオンが突入しようとすると、大聖堂の入り口からあちこちに火傷を負った人間が這うように飛び出してきた。
聖女を護衛しているはずの老騎士だった。
「聖女様はどうした!」
「あの場所から出れば死ぬ聖女を連れて来るわけないだろ! あいつは大聖堂と共に死ぬ運命だ!」
掴み上げるアルオンだったが、老騎士は悪びれもせずそう吐き捨てた。
聖域を出た聖女は力と命を同時に失う。
分かっていても感情の抑えられないアルオンは老騎士を殴り飛ばすと、際にあった水を頭から被って大聖堂の中に身を投じた。
肺に入り込む煙で呼吸は乱れ、皮膚は熱で爛れ、全身の至る所にある切り傷は、もはやどこが痛いのかさえも分からない程にアルオンの感覚を狂わせていた。
気を抜けば意識を失う状態で、アルオンは有らん限りの声を腹の底から振り絞った。
「聖女様——チャコ!」
この大聖堂にいるはずの、自身の愛しき人。
いくつかの焼け焦げた死体を目にしながら、それでも前へと駆けていく。
不意に崩れ落ちる炎を纏った柱を避けた拍子に、足がからまり二度、三度と転がる。
熱を帯びた石床に手を置いて立ち上がろうとする時、アルオンの視線は手首にあるバングルを捉えていた。
微かな光を灯す蒼い石は未だに聖女が生きていると教えてくれている気がした。
——どうして気づかなかった?
彼女はこの未来を見ていたのではないだろうか?
聖女の言動がアルオンの頭をよぎる。
大聖堂への襲撃を予知し、突然お菓子が欲しいと言って自分を逃そうとしたのではないのか?
最後と分かっていたから名前を告げたのではなかったのか?
辻褄の合う考えをアルオンは何度も否定していた。
私は聖女の騎士だ。
どうして一緒に——最期まで一緒にいてくれと言ってくれない。
聖女の——チャコのいない世界にどれだけの価値があるんだ!
ようやくたどり着いた庭園は、時が止まったように静かだった。
まだ火の回りは少なく、パチパチと植物の燃える音だけが壁に反響して返ってくる。
体の自由もままならないアルオンは、足を引きずりながら神殿の扉へと手をかける。
未だ入ったことのない聖域。石造りの無機質な祭壇の前に一糸まとわぬ姿の聖女がいた。
安堵したアルオンは気が抜けようにその場に崩れ落ちた。
ゆっくりとアルオンに近づく聖女。
頬はこけ、あばらの浮き出た聖女の姿は、明らかに老いていた。
膝をおり、アルオンの頭を乗せると優しく頬に手を当てる。
「アルオン、また来ちゃったのね。どうして逃げてくれないの?」
「聖女……様……。私……は……」
「うん。あなたは聖女の騎士。だからあなたには生きて欲しいの。こんなお婆ちゃんじゃなく、あなたが仕えてくれた私を胸に生きて欲しいの。だから……もう、ここには来ちゃダメだよ」
聖女の頬を伝う涙がアルオンの顔にポタリと落ちる。
アルオンの掠れかけた視界には、出会って間もない少女の姿が見えていた。
「聖……女…………さ……」
聖女の顔に伸ばされた手が、糸の切れた人形のように床に落ちる。
聖女は愛しい男の頭を抱きしめていた。だが時間は少ない。聖女は立ち上がると祭壇へと向かう。
「アルオン、もう何度も繰り返す力がないの。お願いだから……」
聖女が手を広げると祭壇は青い光を発し始めた。
聖女には不思議な力がある。
だがそれは未来を予知する力などではなかった。
聖女は再び過去への扉を開き始める。
愛した人が自分を見捨てて生き延びてくれることを祈って。