08 逃亡奴隷 キンチョウがゆるむ
「まったく! このボロボロなのを一体どうするつもりだいっ!?」
おや?
僕が次に意識を取り戻すと、なにやらリーリスさんと女性の声が言い争っているのが聞こえた。
「い、一応、孤児院に連れて行ったんスけど……もう定員いっぱいだし、傷が酷すぎるって断られちゃったんス~」
「当たり前だろ! 半年前の争乱で今はどこの孤児院だって余裕が無いことくらい、想像つかないのかい!? で、ウチに連れて来たって訳かい!?」
「は、ハイっス……」
いや、言い争っている……というよりも、叱られている?
「だから、アンタはいつも考えが甘いんだよっ! 第一、逃亡奴隷を拾ってくるなんて、持ち主の貴族に喧嘩売ってるようなもんだろ! そのうえ、こんな状態から無事に助かる訳無いだろ!? だったら、そのまま見殺しにしてやるか、トドメでも刺してやるのが親切ってもんだよ!」
「でも、レイニーが……あ、この子、レイニーって名前なんスけど、本人が助けて欲しいって言ってたっス!!」
!?
こ、これは、もしや、僕の今後の所存について議論してるの?
一気に意識が研ぎ澄まされる。
「……で?」
こ、こんなに迫力のある「で?」を耳にしたのは初めてだ。
マンガなら背景に『ズゴゴゴゴ……』とかいう効果音が表示されているに違いない。
全然、姿は見えないんだけど、その気迫だけで、微振動が止まらない。
「それに、ほら、見て欲しいっス、ココ!」
僕が小さくぷるぷるしていると、多分リーリスさんが、僕にかけてある布団をめくる。
急にひやり、とした空気が皮膚に触れて、ビクッと、体を震わせてしまった。
「元奴隷だったみたいで、行く当てもないって言うし! こんなに小っちゃいのにボロボロで可哀想だったんスよ~……」
「バカだね、ホントにこの子は……逃亡奴隷なんて拾って来たら、持ち主の貴族から窃盗の疑いをかけられて殺されても文句は言えないじゃないか!」
「あ、それは大丈夫っス、ほら、見て、この奴隷印、魔力が完全に抜けてるっス。たぶん、破棄されちゃったんだと思うっス。棄てられた奴隷なら連れて来ても大丈夫って、前、姐さんも話してたじゃないっスか」
リーリスさんの声の後ろで、女性の大きなため息が聞こえた。
「だから、俺も兄さんみたいに、困ってる子を助けたいな~って思ったッス! あと、エルズは俺たちみたいな亜人への風当たりがキツイから……」
あ、リーリスさんも亜人ってことは、獣人なのかな?
「だから、俺、あんまりあの町は好きじゃないっス~……えっと……それで、姐さんの薬を飲ませて、俺なりにちゃんと治療したんスよ!」
「……で、治療の結果が、その惨状って訳かい?」
惨状って言われる程、酷いのかな……?
痛み止めのお陰なのか、感覚があんまり無いんだよなぁ……
「にゃははは~……あ~……姐さんの薬は、よく効くのは分かってたんスよ? だから、レイニーのサイズなら半分で良いかな~、と思ったんスけど~……」
「まったく、このチビなら四分の一でも多いに決まってるだろ? 毒消しは飲ませすぎると、毒を下痢として出すからね」
……んん?
「しかも痛み止めは感覚を麻痺させるから、尿意や便意に気づきにくくなるし。だから、アンタの懐をそんなに下痢まみれにされちまうんだよ!」
「いや~、思い知ったっス。にゃはは~」
ちょ。
ま……えっ!?
も、ももも、もしかして、僕、命の恩人の懐の中で、もよおした!?
緊張がゆるむ……どころか、筋も腸も緩んでいただとッ!?
ノォォォォォォっ!!! ご、ごめんなさいいぃぃぃっ!!!
あ、う……確かに。
何か、色々と飲んだ記憶は有るけど、排泄した記憶は無いなあぁぁぁぁ!!
そーだよね! 普通、入れたら、出ていくよね!?
体調の不良とは別の意味で背筋が凍り付く事実が淡々とお二人の口から語られる。
鼻がほとんど麻痺してるから、気づきませんでしたよ!?
ぎゃー!! 恥ずかしすぎて、顔面太陽フレア炸裂じゃぁぁぁ!!!
死んだ!!!
今日、僕はこの世界でも社会的に死んだッ!!!
「……ご、べん、だ……ザイ……!」
思わず、二人の声の方向に向かって謝罪の言葉を口にする。
「ご、ご、めん……げほっ、ごほっ、げはっ!」
僕が途中で会話に加わって来るとは思わなかったのか、リーリスさんと女性の声がぴたりと停止する。
「えっと……レイニー、起きてたんスか?」
リーリスさんの声が、おそるおそる、という感じで降ってくる。
僕は、小さく頷いて、リーリスさんの声に向かって謝罪を繰り返す。
いや、もう、ホント、よりにもよって、命の恩人の懐で、大便を漏らすという、人としてあるまじき行為!!
こういう時に、涙腺が緩んでくれればもっとなんか、こう、同情心が引けそうな感じなんだけど、残念ながら体内の水分は下痢として出て行ってしまったらしく、一向に瞳から液体が溢れてくる気配はない。
まぁ、目のあたりは包帯ぐるぐるだろうから、多少の涙じゃ分からないだろうけど。
ちぇー。体内の水分め!
要らん時には勝手に目から吹き出すうえに、尻の穴からはガンガンあふれて行く癖にィー。
人生ままならねぇな。
はぁ、と女性のため息が聞こえた。
「……リーリス、お湯、沸かしておいで。このまま放っておいたら、このチビ、持たないだろ?」
「姐さん! それって……」
「言っとくけど、ウチで面倒見るのを認めた訳じゃ無いからね! まったく!!」
リーリスさんが「分かってるっス!姐さん、ありがとっス!!」と言いながらどこかへバタバタと駆けて行く音が響いた。
少し遠くから「アチッ!」と声がしたことを考えると、お湯を沸かしに台所へ行ったのだろうか?
リーリスさんとは違う、もっと細い女性と思しき手が僕の身体を持ち上げ、スルスルと包帯やら布を解いて行く。
ただし、左足だけは膝の下部分で、ぎゅっと、きつく足に紐を結び付けた。
そうこうするうちに、リーリスさんが戻って来たのだろう。「準備出来たっス~」という声と一緒にタポン、タポン、と、水が揺れるような音が響いて来た。
僕は、ひょいっと持ち上げられたと思ったら、たぷん、と液体の中に全身を浸けられる。
ほ、ほわぁぁぁぁぁ~~~!!?
な、ナニコレ、ナニコレ!?
ぷちぷち、しゅわしゅわぁ~、と体に触れたお湯が弾ける。
ぬ、ぬくい! そのうえ、気持ちいい!!
緊張と痛みに強張っていた全身から、じゅっわぁ~、と悪いモノが抜けて行くような感覚。
大きな手が首と頭をしっかりと支えてくれているので、お言葉に甘えるように全身をお湯に預ける。
浮力による解放感!
絶妙な力加減で、柔らかな筆のようなものが、全身をゆるゆると撫でてゆく。
ああああぁぁ、脳が吸われて行くようだァァァ……
やっべぇ、よだれ出ちゃうぅ。
「なんだい、あんた、女の子だったのかい?」
こくり。
僕は小さく頷く。
そうなんだよねー。ぼろぼろ過ぎて分からないじゃろ?
声も潰れたよーな、掠れたよーな感じだし、頭皮はところどころハゲてるし、顔も一部腫れ上がってるし、皮膚病っぽいし、萌え要素なんざ皆無ですよ。
ま、日本の頃から、僕の女子力はご臨終していたし、あまり問題は無い。
友人達から良く言われたよな。
「お前の乙女心はつぼみのまま腐った」とか「乙女回路崩壊系女子」とか。
せめて、あの記憶の中のお父さんに似てくれていたら、外見はそれなりに可愛いと思うんだけど……これだけズタボロだからなぁ……
「リーリス、アンタはあっち向いてな」
「あ、ハイっス」
リーリスさんが、姐さんと呼ばれる女性の指示で、素直に回れ右をする音がした。
「全く……まぁ、でも小人族の子どもでよかったね。アンタ、もう少し育ってたら、女の尊厳を奪われてたよ」
「?」
いやいや、それは無いでしょ?
よく見て下さい。この見た目ですよ、姐さん。
欲情する側にだって選択権は有るでしょ?
「……信じてないね? 本当だよ。小人族を無理やり壊すのが良いって下衆も多いのさ」
え? そうなの?
でも、中身はこの性格だよ?
しかも、現状の僕は、ほとんど下痢袋状態。
ココまで来ると、もはや、どこのどんな性癖の方に需要が? と問わざるを得ない惨状である。
僕の態度に業を煮やしたのか、彼女は声色を少し強くして言い張った。
「いいかい! 中身や外見なんざ問題じゃないんだよ?『若い女』ってだけで十分価値があるのさ。
男なんて生き物は、女の孔さえ付いていれば顔なんざ付いてなくても良いって奴が多数派だからね!」
「ぴぃっ!」
何それ怖い。サモトラケのニケ萌え文化なの?!
流石に上級者過ぎじゃありませんかね!?
「顔が付いてなくても良い」は、パワーワードすぎるぜ。
「ねぇ、そうだろ? リーリス」
「ふごっ!」
突然、話題を振られたリーリスさんが、何かを気道に入れてしまったような、激しくむせる音を響かせる。
お姉さん……それ、女性から若い男性に振る話題じゃないデ~ス……
「ごほっ、げほっ、ごほっ……え、ま、えっ!?」
「このポンコツも、このナリで立派な中年オヤジだからね」
「あ、姐さぁ~ん、流石に、俺、もうちょっと大人相手じゃないと無理っスよ~」
え? リーリスさんって中年だったんだ?
口調とか、声の感じでもっと若いイメージだったけど……
「あー、でも、姐さんの言ってる事もあながち間違ってはいないっスねぇ……」
間違っては、いないんだ……
「レイニーだって、傷が治れば、可愛いんスからこれからは気を付けるっスよ」
「……は、ハイ……デス」
二人から、口々にこう言われては、頷くしかなかった。
そっかぁ……
じゃ、全裸ゴキブリ走法は色々と捨てちゃいけない物を捨てたやり方だったんだね。
あそこで見つからなくて良かった。
……本当に良かった。
ほこほこ、と脳天まで温められたお陰で、一気に鼻の通りが良くなる。
ああ、鼻呼吸、幸せの鼻呼吸!
これで、口がカサカサになるのも、喉が痛いのもおサラバよ!
胸に広がるハーブの香り。
「顔にお湯をかけるよ」
姐さんはそう僕に断りを入れてから、何度か、顔も洗ってくれた。
色々痛いトコロがあったはずなのに、このお湯の中では、ほとんど痛みを感じない。
極楽はここにあった。
ああ、このまま、ここで今生を過ごしたい。
「ふん、瞳の方の処理は悪くないね」
「えへへ~。良かったっス」
姐さんのお墨付きを貰って、リーリスさんが嬉しそうな声を上げた。
そのまま僕は、湯舟から引き上げられ、もふもふのタオルで水分を拭きとられる。
「……さ、目を開いてごらん」
その言葉に、僕はゆっくりと瞳を開く。