31 カビの子 戦いを放棄する
まだ、リーリスさんの指先に異常が現れてから大した時間は経過していない。
だって、リーリスさんが梅毒に罹ってるって分かったのは、あの市場で買い物した直後だよ!?
まだ一週間もたっていないのに……!
普通、梅毒って第1期から第2期へと進行するまで数週間から下手したら数カ月かかるんだよ!?
この世界の梅毒って普通より進行が速いの?
いや、そんなバカな!! だったら、あのお姉さんに対してだって……
ッ! もしかして……エルフって……こういう病気に凄く弱い種族なの!?
閃いた仮説に、脊髄を氷柱で埋められたような寒気が走る。
そもそも、エルフって皆、美男美女のイメージだし、梅毒エルフなんて聞いた事も無いし……
思わず【鑑定】すると、
【鑑定】
氏名:リーリス・リン
種族:古龍エルフ……龍の因子を持つため魔力が高く、どの種族の異性とも子を成す事が出来るが、性病に非常に弱い。
その光る文字に思わず唇を噛みしめる。龍の因子だの何だの、凄そうな単語が並んでいるけど、そんなことはどうだっていい。
問題は、最後の一文。
――性病に非常に弱い。
そう、非常に、弱いんだ……!
梅毒は、第3期まで進行するのに約10年……だなんて、そんな保証はどこにも無い。
僕は、杖を掴むと、震える身体で先日オズヌさんから貰い、リーリスさんが仕込み始めてくれた894倍のおカビ様の培養液を確認する。薄いオレンジ色で、コポコポと魔蓄石から送られている酸素の他に、ぷつ、ぷつ、と表面に泡が立ち、発酵による独特な香りが漂う。
【鑑定】
名前:アオカビ(ペニシリウム・クリソゲノム)培養液
効果:ペニシリンを大量に含む。ただし、不純物が多く毒性が強い。
どうやら、培養そのものは成功しているみたいだ。
ちょっとだけ、チリチリとヒートアップして焦げ付きそうだった心臓の音が大人しくなる。
「ん~、レイニー、明日は手伝うっスよ、まだ姐さんの言っていた期日までは10日以上有るっスから……今日は、ごはん要らないって姐さんに伝えて欲しいっス~」
リーリスさんの怠そうな声が布団から響く。
「……分かり、マシた……」
そう。
もう、四の五の言っている猶予は無い。
僕は、杖を片手に猛然と階段を下り始めた。
……ずりずり、べちっ!
……ぞりぞり、どたっ!
あっ!
どてっ! べしゃっ! ごちっ!
危ない、と思ったら、最後の三段は、ゴロゴロっと転げ落ちたでござる。
「おや? チビ助、アンタ一人で階段を下るなんて……まだ危ないだろ? あのポンコツはどうしたんだい?」
「エシル姐さん、ゴメンナサイ!!」
そのまま、ゴロゴロ転がってしまった状態からのローリング土下座だ。
エシル姐さんの足元で、額を床に擦りつけて叫ぶ。
「何だい!? 突然?」
「僕、もう、あの勝負は取り消しマス!」
「勝負って、あの、ひと月以内に梅毒の新薬を作るから、ココに置いて欲しいっていうアレかい?」
「ハイ……だから……だから、薬作りを手伝ってくだサイ!」
そこまで一気に言い切って、彼女の反応を待つ。
突然のローリング土下座に戸惑ったような、呆れたようなエシル姐さんの声が降って来た。
「突然何を言ってるんだい? まだ勝負の期日までは結構残っているだろ? ホラ、どいておくれ、そんな所で丸まっていられたら仕事の邪魔だよ。」
エシル姐さんは僕の身体を跨いで反対側へ歩を進めたのだろう。
土下座する僕の視界が、ふわりと一瞬だけ影で覆われた。
その瞬間、頭の上から「アンタがそんな軟弱者だとは思わなかったね。……期待したアタシがバカだったよ」と、ため息と同時に腹立たし気な呟きが落ちて来たから、恐らく軽蔑されたに違いない。
構うもんか!!!
「薬作り、手伝ってくだサイ!!!」
僕はもう一度、叫んだ。
「フン、勝負を捨てるって言うなら、アタシにはもう関係ない話だね」
「僕の身体じゃ、機材を持ち上げたりできないんデス……!」
「それはあのポンコツに頼めって最初に言っておいただろ?」
恐らく、エシル姐さんは土下座する僕に背を向けて話しているのだろう。
どこか声が遠くへ向かって行くような、突き放した響きを持っている。
「だいたい、勝負を捨てるって、どういう意味か分かってんのかい?」
「分かってマス!」
「一人で生きていけるとでも思ってるのかい?」
「……」
これまでの事を考えると、かなり厳しい事は分かり切っている。
本音を言うと、放り出されて3日もあれば死にかける自信がある。
だが、そこは何とかなる……いや、何とかするしかない。
それよりも、何よりも、今、一刻を争うのはリーリスさんの方だ。
「薬作り、手伝ってくだサイ!!!」
僕は馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す。
「フン、そこまでして勝負を捨てる理由はなんだってんだい? 怖気づいて自分から命を捨てるようなヤツを助けちまうなんて、ウチのポンコツは本当に……」
「リーリスさんを助けたいんデスッ!!!」
僕はエシル姐さんの言葉を遮るように叫んだ。
「リーリスさんの『梅毒』……進行が、すごく……すごく、早いんデス……古龍エルフ族は、特に、この病に、弱い、みたい、なん、デス……だから、一日、でも、はやく、薬を、作り、たいん、デス!」
僕はさっきからずっと額を床にこすりつけているから、エシル姐さんが、今どんな顔をしているか分からない。
でも、今すぐにでも、何としてでも、彼女の手を借りないと!
「……り、リーリズざんを……じ、死なせたり……は、」
思わず声が湿り気を帯びてしまった。
でも、エシル姐さんみたいなサバサバしたタイプの女性に、同情を引くような真似は逆効果になるに違いない。
僕は、痙攣しかかっている横隔膜に喝を入れる。
「したくないんデスッ!!!」
喉が割れんばかりに叫んだ僕に、ふ、と優しい声色が降りて来た。
「ほら、チビ助。顔をあげな。……あーあ、涙は女の武器だよ。こんなに安売りするもんじゃないね」
「……っ……うぅ」
エシル姐さんは、僕の眼鏡をやさしく外すと、崩壊した涙腺から溢れた涙をキレイな白いハンカチでふき取る。
えぇい! こんなものが武器になるとおっしゃるならば、僕は武器商人だ!
持ってけ、ドロボー、大安売り!
これで、エシル姐さんの助けが借りられるなら安いものよ! とばかりに、眼球から透明な弾丸を連続発射。
「……ヒック、ぐしゅっ……」
エシル姐さんは、困った子供のワガママを仕方なく叶える聖母のような笑顔で「やれやれ」とつぶやいた。
「アタシに手伝って欲しいって事は、途中までは出来ているってことだろ? その新薬とやらは?」
こくり。
「そういう事なら、ほら……リーリスに助けられたアンタが、今度はあのポンコツを救うんだろ? だったら、使える物は何でも使いな。アンタが、今、アタシに頼みたいことは何だい?」
エシル姐さんは、仏様が溺れた子犬を助ける時のような瞳で僕を見つめる。
あ、ありがとうございますッ!!!
「……ぐすっ、リーリスさんの部屋の隅に……ひっく、新薬のペニシリンを作るための……培養液が、ありマス……」
「ほう? それで?」
「それを一回、ろ過して、その液体にミーブ油を注ぎ入れ、混ぜマス。しばらくしたら、油に有害な成分が移るので、油を捨て、下の水溶液のみを取り出しマス」
エシル姐さんも、しゃがみ込んで僕の話に真剣に耳をすませる。
「そして、その水溶液に活性炭……あの、リポキロを作るのに必要な炭と同じものを入れマス。そこから、先は、リポキロの作り方と同じデス」
「ふむ、ちょっと待ってな」
エシル姐さんは、僕たちが培養していた壺をリーリスさんの部屋から一階の作業スペースへと降ろす。
同時に、僕たちが準備していた材料も一緒に作業スペースへ移動だ。
「ほう? これが、新薬『ペニシリン』とやらの材料かい?」
「ハイ……」
それだけ確認すると、エシル姐さんは、手際よく僕たちのアオカビ培養液から抗生物質の単離作業を進める。
「氷の魔蓄石が無いみたいだけど……これは高いからね。まぁ、今回はサービスさ」
エシル姐さんが愛用のミトンに青白い石を握ってミーブ油を冷やして油を取り去る。
そうして、全ての行程を終え、出来上がった液体が白い壺の中に注ぎ入れられる。
「……これが、梅毒の薬、ペニシリンって訳かい?」
「ちょっと、待って下サイ……」
あああ、両手が勝手に微振動してしまう。
震えて白くなった自分の手のひらを思わず見つめてしまう。
【鑑定】
名前:レイニー
称号:魂の壊れた者
状態:ステイタス異常「不安障害・パニック発作(小)」
ぶっ!!
ちょ!? えっ!?
思わず鼻水噴き出しちゃったじゃん!!
じ、自分の不安な気持ちを、『ステイタス異常』っていわれると何か逆に落ち着いてしまうのは何故だろうね!?
あ、名前も『№021』から『レイニー』に変わってる。
それに『魂が壊れた者』なんていう称号まで貰っちゃってるよ。
魂が壊れていたって僕は僕だし、こんなに簡単に人なんて、……ステイタスなんて、変わるんだ! と思ったら、ちょっとだけ気が楽になった。
リーリスさんの状態異常だって、薬さえあれば、きっと、すぐに治せる……はずだ!
薬さえ、できて、いれば……!