遡洄
父の友人に「見える人」がいた。三十を過ぎた頃から「見える」ようになったという。「この年になって今更なぜ?」と言う言葉が、その後その人の口癖になったと父は笑っていた。何が見えるのか、それは「人の生の行方、運命の輪の断片」といったものだとその人は言っていたらしい。
「所謂エセ占い師だな」
運命などは自分で切り開くものだという主義の父は占い自体をまがい物だと決めつけていたが、その人の話を聞きたがる人も少なくなかったとも言っていた。
私が生まれたときに「この子はどんな人も経験したことのない数奇な人生を歩むことになるだろう」と神がかった調子で「見える人」が告げたと、父は語ってくれた。父は八十で他界したが、亡くなるころの昔語りの半分はその「エセ占い師」の話であった。
私は大学を卒業してすぐに地元に帰り、公務員となった。それから二十五年ほどの父が他界するまでの間、これ以上ないという平凡な人生を送ってきた。父はそんな私を見て苦笑しながらの言ったものだ。
「拓也という名をおまえに付けたのは、あいつの影響がやはりあったためかな」
大好きな酒も飲めなくなっていた父は、お茶で喉を潤しながらつぶやいた。
「エセ占い師め」
どこかその声に懐かしさも含まれていたのは、二十年前に自分の死を予言しその通りに死んでいった親友への情の表れであったのだろう。その人は関西で起きた大きな地震の被害者となって死んだのだ。
「俺は天災で神に召される。天才だからな。」他界する数ヶ月前に父と酒を飲みながら、その人はそう言って笑っていたという。
「運命などは自分で切り拓くようにと、おまえの名を拓也にしたんだ。」そう語ったときの父のしみじみとした口調は、今でも耳に残っている。
しかし、その後私の人生には切り拓くようなものはあまりなく、ただ妻が早くに他界したために男手ひとつで二人の娘を育てなければならなかったことがいちばんの苦労であった。それでも「数奇な人生」と呼ぶには遠いものであっただろう。
その私も先日還暦を迎えた。長女の家族と次女に、還暦の祝いをしてもらって帰る途中の事であった。郊外のマンションにもどるために電車に乗ろうとしたとき、五年ぶりに知人と出会った。別れた恋人である。
妻を失ってから、再婚を考えたことが一度だけあった。それが5年前のことである。長女は結婚し、下の娘も大学に入学してほっとしていたころに、ボランティア活動を通じて知り合った女性がいた。十歳ほど年下の美しい人であった。真剣に結婚を考えたし、娘達も「お父さんの人生なのだから」と消極的ながら賛成してくれた。ただ、お互いの意地っ張りな性格が災いして結局は別れた。別れたことに、特に次女はそれとなく喜んでいたようなので、本心では反対だったのであろうか。私も娘二人と自分の結婚とを天秤に掛けたような感もあった。意地を張り合って別れたと言うよりも、娘の気持ちを最優先したのが本当のところだったのかも知れない。自分の体の異変にそれとなく気がつき始めたのは、その前後のことであるから、無意識のうちに、伴侶を伴ってはいけない事になる自分の晩年に思いを馳せたのかも知れない。
JR駅で偶然にも出会ったのはその別れた女性であった。十歳年下の彼女はそのとき五十歳だったが、私を見て自分よりも年若く見えたらしい。そのことを彼女はいぶかり怪しんだ。その人自身も実年齢よりはずいぶんと若く見えるのに・・・還暦の私の見た目は三十代にも見えたのだ。出版社で編集者として勤める彼女は、職業上の好奇心も手伝ったのであろう、私の今の連絡先を執拗に尋ねたがあれやこれやとごまかし、電車の時間だからと走り去るようにそばを離れた。そんな私を彼女はなんとも言えないような寂しげな目で見ていた。その表情を見てしまい、私は振り返ったことを後悔した。
それから数ヶ月経ったある日、外出から帰った私を次女のみずきが待っていた。大学院にはかなり距離があるため、アパートで一人暮らしをしていたみずきである。今日のことは想定していたことだから、驚かなかった。生前の父の話の中に今日のことが語られていたのだ。
「あのエセ占い師め」
若い頃に比べてずいぶん縮んでしまったように思える体を丸めるようにして父は語った。
「お前がその人生の数奇さに気がついたとき、みずきが助けてくれるという話だったよ」
私はお茶をすする父を見つめた。
「もちろんみずきとは言わずに、お前の次女がと言う言い方だったがな」
父は分厚いレンズの老眼鏡を外しながらまた繰り返した。
「まだ、みずきは生まれる前だったのにな・・・エセ占い師め」
私は、そのエセ占い師の予言を信じた。
下の娘が県内の最難関高校にチャレンジし、国内最高峰の研究機関を持つ大学に医学を志して進学したときも、娘が研究医の道を選んだときも、父の話にあった占い師の言葉が思い出された。
「拓也の娘の意志を尊重することが拓也の晩年を助けることになる」とその占い師は繰り返し語っていたそうである。
大学院を卒業して研究医となる予定だった娘は、知人のつてでトロントにある研究室に行くことにしていた。
「一緒に行きましょう」
卒業を控えて、マンションを訪ねてきた娘の言葉に私は黙ってうなずいた。
トロントでは住まいを探すときに親子ではなく、「兄妹」という関係にして二人住まいのアパートメントに住むことにした。娘は私によく似ていたので、肉親であること自体は疑われることはなかった。ただし、親子だと言うには見た目の年があまりに近く無理があったのである。そのうえ欧米人にとって東洋人の年齢は実際以上に若く見えるらしい。兄妹としてごく自然に私たちはカナダ暮らしを始めた。
アメリカではなくカナダを選んだのも正解だった。医学部を併設する有名大学のほとんどは州立であり、付属する研究室も、どこに行ってもそれほど差があるものではなかった。娘が研究者として地味に生活を送るには絶好の場所だったと言える。
私と娘は数年おきに転居した。娘は研究室も二度ほど移ることにした。申し訳ない気持ちで娘に自分の道を歩むようにも勧めたこともあるが一蹴された。
「お父さんの体を研究することが私のライフワークなのよ」
確かにその言葉にはこの上ない説得力があった。
しかし生活の全てを娘に頼ることはしたくなかった。日本語教師をはじめとして、あれこれと短期のアルバイトを続けていたが、向こうの新聞社でカナダと日本の文化比較を中心とした小文を発表する機会があり、それ以降は自分の生活費をなんとか売文によって稼げるようになった。誰にも顔を合わせる必要もなく、文章を編集社にメールで送り、幾ばくかの原稿料を振り込んでもらう生活は、私には理想的であった。
その人に会ったのは3月の事だった。最高気温が2度という寒い1日だったことも覚えている。彼女は私の著作「カナダ紀行」を手にして、このところ私が毎朝通っているカフェに現れたのだ。
「こちらにいらっしゃることは、娘さんに伺いました」とその人は言った。
「以前勤めていた出版社の知人にこの本の著者の居場所を調べてもらい、詳細が不明だったので娘さんの大学に連絡しました。拓也さん、どうしてもお会いしたかったのです」
私はどういう対応をしようかと内心うろたえていたが、彼女が私の名前を呼んだことで決意した。駅前で最後に別れてから15年も経っていて、彼女も六十代のはずであった。以前勤めていたと言ったのは、定年を迎えて退職したということであろう。それでも彼女は若々しく美しかった。ただ、私の方の外見は75歳には見えない。誰がどう見ても三十代の年齢と思われるに違いない。
「拓也は父の名前ですね」
えっという風に彼女は目を見開いた。
「父のお知り合いの方ですか」
しばらく黙って私を見つめていた彼女は、やがて深く息を吐き出すと拓也の消息をあれこれ尋ね始めた。すべてを理解した上での彼女の気遣いであったのだろう。一度否定した以上、私が拓也本人であると決して認めないことは、交際していたときの経験ですぐに分かったのではないかと思った。私はつじつまが合うように、そして何とか真実に近くなるように誠実に彼女の質問に答え続けた。
最後に彼女は尋ねた。
「もし拓也さんが・・」
そう言ったまま言葉が途切れた彼女の様子をうかがうために、うつむき加減で話していた私は視線を挙げた。そして、悲しみに満ちた彼女の顔を見てしまい胸が締め付けられる思いがした。彼女はまっすぐに私を見据えると、言葉を押し出した。
「もし拓也さんが、あの・・・普通に晩年を過ごす人だったら・・」
その言葉の意味を問うことはしなかった。それを聞くことははるばる尋ねてきた彼女を裏切ることになる。そこまで不誠実であってはならないと思った。
「私と、ともに人生を過ごしてくれることもあったかしら」
私はその瞬間、胸が張り裂けそうな悲しみに耐えなくてはならなかった。平生を装って言葉を続けること語尾が震えないことに気力の限りを振り絞る必要があった。
「ええ、父は」そこで私はそらしそうになる視線を無理矢理に彼女にとどめた。
「あなたとの生活を望んでいましたよ」
静かに涙を流し続ける彼女を、私もやはり悲しみにうちひしがれて見つめ続けた。決して泣くことだけはできなかった。涙を流したのは彼女を飛行場行きのバス停で見送ってきびすを返したときだった。
それから二十年になる。私の数奇な運命は、まだまだ続くのだろうか。今や十代半ばの少年となった私は、このまま若返って子供から幼児になっていき・・・そしてどうなる?誰に尋ねてもわからない事柄であった。私の体を研究しているみずきにもそれは同じ事であった。ただ自分のことはもういいとは思っている。気がかりなのはこの次女である。今年五十九になるはずの娘はどう見てもまだ四十前にしか見えなかった。しかし、根っからのオプチミストである次女は、被験体が複数になったと喜んでいるのであった。
数奇な運命が悲惨なのか否か、すべてはその人の心次第なのだと私は思い知ることとなった。幕末に活躍した高杉晋作の和歌にもこうあった。
「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは 心なりけり」
まあどうにかなるだろう。次女の口癖はいつの間にか私の口癖にもなっていたのであった。