戦争において命令を断りうるか レヴィナス『全体性と無限』序文読解
親族をホロコーストによって失うという、戦争の生んだ悲劇を経験したユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906‐95)は、おそらく哲学史において、もっとも「ことば」にこだわり抜いた者の一人であろう。彼にとってことばとは、まさに序文のあり方そのものである。
「ことばの本質とは、序言や註釈で述べられた文言を絶えず解体し、語られたことをとり消すことにあるからである。つまり、語られたことは、避けがたく儀礼的なものとなる表現に満足してしまうものなのであるけれども、それではよく理解されないままにとどまってしまうことがらを、儀礼ぬきに語りなおしつづけることに、ことばの本質はある。序文のことばは、まさにことばの本質を示しているのである」(レヴィナス『全体性と無限(上)』熊野純彦訳、岩波書店、2005年、34頁)
ことばには「語られたこと」と「語ること」の二つの側面がある。「語られたこと」はたとえば、書かれたものとして「避けがたく儀礼的なものとな」りがちだが、それをたえず、「儀礼ぬきに語りなおしつづけること」、つまりは他者の面前に立って実際に「語ること」、そしてそれをつうじて自らを護ること、それこそがことばにとって肝要である、と彼は言う。
そんな彼の序文を、ここでは戦争と平和をテーマに紐解いてゆこう。
ユダヤ人大虐殺という事件の生きた証人として、二十世紀の、ひいては歴史全体の大きな問題と立ち向かったレヴィナスの哲学的大著『全体性と無限』は次の一文からはじまる。
「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか」(同上、13頁)
このように問うのは、私たちが当たり前のこととして守るべきであり、そして守ってきた道徳が、戦争によって無力と化すことがありうるからである。
「戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠的なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剥ぎとられ、かくて無条件的な命法すら暫定的に無効となるのである」(同上、13頁)
つまり戦争によって道徳は冷笑の対象となりかねないのである。
「戦争によって道徳は嗤うべきものとなってしまう」(同上、13頁)
その戦争をレヴィナスは次のように描写する。
「戦争においては、現実を覆っていたことばとイメージが現実によって引き裂かれてしまい、現実がその裸形の冷酷さにおいて迫ってくることになる」(同上、14頁)
つまり道徳だけでなく、ことばやイメージすらも引き裂き、現実をむき出しにするのが戦争なのである。
したがって戦争によって引き裂かれるのは、道徳だけではない。私たち自身のあり方も引き裂かれる。そのあり方をレヴィナスはすぐれて暴力的であると言う。
「とはいえ暴力は、傷つけ無化することにあるのではない。むしろ、人格の連続性を中断させ、そこにじぶんを見出すことがもはや不可能であるような役割を演じさせることにある」(同上、14頁)
私たちは誰も戦争の導入する秩序から距離を取ることができない。戦争は友や家族、恋人との絆を断ち切るばかりか、自分自身との関係すらも断ち切らせる。そのような役割を演じさせるところに暴力がある。いわば戦争によって私たちは暴力に暴力を振るわされるのである。
「戦争はある秩序を創設し、それに対してだれも距離をとることができない。だからなにものも外部的ではありえない」(同上、15頁)
この戦争は全体性によって支配されているとレヴィナスは言う。
「戦争において存在が示すことになる様相を劃定するのが、全体性という概念である」(同上、15頁)
レヴィナスはこの全体性を西欧哲学にとって本質的なものと見る。
「西欧哲学はこの全体性という概念によって支配されている」(同上、15頁)
なぜ、戦争は全体性に支配されていると言えるのか。そして、西欧哲学もまたそれに支配されていると言えるのか。
それは全体の部分である個体が、自らの意味や存在理由を全体から借り受けるからである。そして、それらを与える全体の力によって個体が行為を命令されるからである。
「西欧哲学にあって、諸個体はさまざまな力のにない手に還元される。その力が、知らず知らずのうちに個体に命令を下すのである。個体は、だからその意味を全体性から借り受けていることになる(つまり、個体の意味はこの全体性の外部では不可視である)」(同上、15頁)
これはたとえば、日本の戦時下、兵士が「お国の為」と言って自らの命を犠牲にしたことにも見受けられる。
このような全体性は未来すらも包摂し、ひとつの歴史を築き上げる。そして全体の未来のために、現在を生きる私たちが犠牲となるのが戦争なのである。
「それぞれに唯一のものである現在が、未来のために絶えず犠牲にされ、未来は現在の唯一性から客観的な意味をとり出すために呼び出される。究極的な意味だけが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ自身へと変換するからである」(同上、15頁)
ここで言われる「究極的な意味」とは、ある意味では、歴史の終焉であり、ふつうその末端に平和が位置することになる。そしてその平和を目指す意識のみが、道徳を保持することができるのである。
「道徳的意識は、戦争の明証性が平和への確信によって乗り越えられる場合にかぎって、冷笑するような政治の視線に耐えることができる。そうした確信は〔戦争に対して平和を対立させる〕ただの反定立のたわむれによって獲得されるものではない」(同上、16頁)
ただし、ここで、平和への確信が「ただの反定立のたわむれによって獲得されるものではない」と言われているように、レヴィナスは単純に戦争の対義語として平和を位置づけるのではない。
たしかに、歴史的には、戦争の終結としての平和が歴史の末端に位置することで、つまりは平和が終末論に位置づけられることで、道徳もそのための存在として意味あるものとなる。
「歴史的にいえば、道徳が政治に対立し、賢慮のはたらきや美の基準を乗り越えて、無条件的で普遍的なものであることを主張するにいたるのは、メシア的な平和についての終末論が、戦争をめぐる存在論の上位に置かれる場合であろう」(同上、16頁)
しかしレヴィナスは平和をそのような終末論には位置づけない。なぜなら、全体性は、過去と現在の延長線上に位置する未来をも包摂し、そこから究極的な意味を借り受け、その内部の個体に命令を下すからである。それでは、真の平和は実現されない。
だからレヴィナスは歴史の”かなた”、つまりは過去と現在の延長線上を外れたところに平和を位置づける。
「終末論は全体性のうちに目的論的な体系を導入するものではないし、歴史が向かう方向を教えようとするものでもない。終末論が存在との関係をとりむすぶのは、”全体性のかなた”、あるいは歴史の”かなた”においてであり、過去と現在のかなたで存在との関係をむすぶのではない」(同上、17頁)
ゆえに、終末論は全体性に抗する外部性として提示される。
「終末論とは、”全体性に対してつねに外部的な一箇の余剰”との関係である」(同上、17頁)
しかし、そのような「かなた」など、幻想か、ないしは信じるしかないものではないだろうか。そのようなものを哲学的な語りのうちにもたらすことなどできるのだろうか。レヴィナスはこれに対し肯定的に答える。というのも、その「かなた」は、全体性にとって外部的でありながら、現実にはその内部の個体にも影響を及ぼしているからである。
「全体性と客観的な経験とのこの「かなた」を、にもかかわらず、純粋に否定的なしかたで記述することはできない。この「かなた」は、全体性と歴史の”内部”、経験の”内部”にも映し出されているからである」(同上、17‐18頁)
その具体的な影響とは、「責任」のことである。
「終末論的なものによって、諸存在はむしろその十全な責任を目ざめさせられ、諸存在は責任へと召還されるのである」(同上、18頁)
ここに言う責任とは、裁かれうるという責任である。とはいえ、それは端に最後の審判を意味するのではない。
「最後の審判が問題なのではない。時間のすべての瞬間にぞくする裁きが問題なのであり、そこでは生者が裁かれる」(同上、18頁)
なぜここで、裁きが問題となるのか。それは他ならない裁きこそが、全体性の内にある存在の同一性を保証するからである。裁かれるためには、その存在が同一性を持っていなければならない。裁かれる存在の人格がまとまりに欠いていては裁くことができない。だから、終末論的な平和は、全体性の外にありながらも、責任というかたちで、その内に影響を及ぼしているのである。
「裁きにかんする終末論的な観念には(ヘーゲルがあやまって最後の審判を合理化するものとみなした歴史の裁きとは反対に)、諸存在が一箇の同一性を有していることが含まれている。その同一性は永遠に「先だち」、歴史の成就に先だっている」(18頁)
ここで同一性の保証される存在は、もはや全体の力によって受けた命令をつうじてその存在理由を獲得するのではない。つまり、諸個体は全体性を起点に存在するのではなく、純粋に自己を起点にして存在するのである。
「時がめぐりおえるまえ、つまり時間がなお存在しているあいだは、諸存在はたしかにたがいに関係のうちにあるけれども、その関係は自己を起点としているのであって、全体性を起点としているのではない」(同上、18頁)
ナチス党員として、ユダヤ人に銃口を向けるとき、そこには全体の一部としての自分がいる。しかし、そこに普遍的な道徳的意識、すなわち、「本当にこのままユダヤ人を殺していいのか」という問いが芽生える可能性があるとしたら、それは終末論的な平和への確信をつうじて達成されるのである。
終末論によって裁かれるべき、純粋な自己を起点とした存在は、自ら語ることで、裁きに対し弁明することができる。
「歴史をあふれ出してゆく存在という観念によって、存在のうちに巻きこまれていると同時に人称的でもある”存在者”が可能となる。その存在者は、みずからの訴訟で抗弁すべく呼び出されており、したがってすでに成年に達している。それは、けれども他方まさに成年であるがゆえに、歴史の匿名的なことばに対してたんに口先で同意を与えるのではなく、ことばを語ることのできる”存在者”なのである」(同上、18‐19頁)
この、弁明する可能性に、レヴィナスは平和を見るのである。
「平和は、このようにことばを語ることができる能力として生起する」(同上、19頁)
したがって、平和を可能にするのは終末論以外にないのである。
「平和にかんしていうなら、可能なものは終末論以外に存在しない」(同上、20頁)
以上で、『全体性と無限』序文の戦争と平和に関する箇所を読み解いたことになる。ここまで読んでわかるように、レヴィナスの模索した平和の可能性は未曾有のものであり、それは世界全体で同時に実現する恒久平和のようなものではなく、私としての平和であることだ。
戦争という、国民全体が総動員される出来事において、私は外部的でありうるだろうか。つまりは、普遍的な道徳にしたがって、ときに命令を断ることができるだろうか。そのような問いに対し、レヴィナスは終末論を説く。つまり、決して、私の視線には現れないような、絶対的な外部性との関係によって、責任へと目覚めさせられた私において、命令を断る可能性が兆すのである。
後にわかることなのだが、レヴィナスはこの終末論を具体的に他者との関係にあてがうことになる。この件に関しては後の論述に譲ることにして、ここでひとまず稿を閉じる。