お茶と思い出3
「私の癌も厄介だけど、私こそが、緑川家の癌なのよね…。」
入院中、ベッドに横たわりながら、母はポツリとそんな事を呟いたのだという。
「そんな事ありません!」
吉田さんはギョッとして、必死に否定したそうだ。
「ふふふ、気を使わないで。でもね、癌があるからこそ、他の細胞が一生懸命になるんじゃないかって思ってるのよ。武は良い子に育ってくれたわ。私の自慢の息子だし…。」
「そうですね。本当にご立派になられました。」
「愁も立派になったわ…。いつまでも子供だと思っていたのに…。」
「ええ、そうですね。私も歳を取る筈です。」
「ふふふ、お互い歳を取ったわねぇ。でも、まだまだあなたは若いけど。」
「私は、孫までいる、お婆ちゃんですよ?」
「あら、私よりは若いわ。」
「…ひ孫の顔は、見られないかしら…。」
「…そんな事…。」
ないと否定したかったけれど、嘘をつくのは躊躇われたと言う。正直にものを言うのが、奥様が私を気に入られている理由なのだからと彼女は語った。
「私はね、この家と心中する覚悟で、嫁に来たのよ。私にはその程度の価値しかないから…。」
いつになく弱気な言葉を、窓の外をぼんやりと見やりながら母さんは呟いたと言う。弱気な母さんなんて、俺は殆ど見た事ない。
「誰がどう見ても、ご立派な奥様ですよ。」
「ありがとう。でも、今ね、先の時間がないと思うと、時々ふっと考えるの。…誰かの為じゃなく、もっと自分の人生を生きれば良かったのかしら?って。でも、不思議と後悔は無いのよ。私は私なりに生きたもの…。」
「これから、ご自分の為にも生きてみられては?」
「少ししかない時間で?」
「だからこそです。癌も自分の一部だと思って、旅のお供にしてみては?」
「あなたは面白い人ね。癌でさえ愛せるなんて…。癌みたいな私でも、好きって言ってくれたのは、あなたぐらいよ?だけど、お供はあなたが良いわ。もう少しだけ、付き合ってくれる?」
「もちろんです。最後まで、お供しますよ。」
病室で、そんなやり取りをしたのだと、涙ながらに吉田さんは俺に語ってくれた。自慢の息子だなんて、面と向かって言われた事はない。…当たり前か。母さんは手放しで、人をなかなか褒める人ではなかったのだから。
奥様は、あなたの前では強くありたかったのですと、吉田さんはふっと微笑む。それが彼女の矜持だったのだと。
ああ、俺は、母さんの事をどれだけ知っていたんだろう。近くにいた筈なのに…。
三煎目のお茶が入った汲み出しを見詰め、口を付けた。二煎目、三煎目とお湯の温度を上げていくのが、コツなのだそうだ。今も一煎目のお茶が一番好きなのは変わらないけれど、二煎目のお茶も、三煎目のお茶もそれぞれ味が違って美味しいと思える様になった。それはきっと、苦味を楽しめる大人になったからなのだろう。
「人生で言うと、俺は何煎目のお茶だろうか…。」
「せいぜい、二煎目ぐらいじゃないですか?」
ニヤリと笑って、吉田さんは俺を見詰めた。…相変わらず手厳しい。
「…まだまだ、だよなぁ…。」
「そりゃ、そうでしょう。」
「出がらしになるまで、頑張らないとね。」
先は長いですねと彼女は笑う。涙はもう見えない。
「知ってます?緑茶の出がらしの葉っぱも、食べられるんですよ?」
「そうなの?」
「そうですよ。佃煮にも出来ますしね。」
最後の最後まで、無駄はないんだな…。そんな人間になれたら良いのになぁ…。
「心を鈍感にしたい時は肉を食べる。逆に研ぎ澄ませたい時には、魚や野菜を食べる。いつ聞いたんだったか…。」
食後のほうじ茶を飲みながら、気が付けば、そんな事を呟いていた。
「ああ、飼い犬のシロが、死んでしまった日だったか…。泣き疲れて、塞ぎ込んだ俺に母さんが言ったんだ。夕飯の時だった。俺の好きなハンバーグも、その日は食べる気にならなくて…。 」
母が淹れてくれた緑茶を飲みながら、聞いた話だったっけ?その時背中を撫でてくれた、母の手の温かさをぼんやりと思い出していた。
「前から言ってたよ、武は。俺が失恋した時とかにもさ。」
努はそんな事を言う。ああ、そんな事あったなぁ…。
「これは母さんの持論だって言っただろ?知らず知らずのうちに、影響を受けていたんだなって再確認してさ…。だから、俺にも、母さんの魂の一部がある様な気がして…。」
なのに、気付いてさえいなかったんだ。考えた事すらなかった。
「吉田さんと話して、俺は、母さんの何を見ていたのかって、自分が情けなかったんだ。」
ため息をついて、下を向く。本当に、まだまだだなぁと思う。
「近いからこそ、見えない事もあるし、見たくないものもある。」
稔が、真っすぐに俺を見詰めて言った。
「人間なんて、多面的なものなのにさ…。俺は、俺の見たい部分しか見てなかったんだな…。こんな人だと決めつけて…。馬鹿みたいだ…。」
また、ため息が出る。下を向くのを止められない。
「武、大切なものはきっとココにある。」
努が、俺の胸をとんと叩いた。思わず顔を上げると、いつになく真剣な表情の彼が見えた。
「それを教えたのは、きっとお母さんだよ。」
稔も席を立って、俺の隣に来るとヨイショと座った。
「だから、お前は、そのままで良い。だって、自慢の息子だったんだろ?」
努は、大丈夫だといつもの様にニヤリと笑う。変わらないいつもの顔が、支えてくれる。思わず膝をつきそうになってしまいそうな、弱い心を。
これからも頑張るから…。母さんが自慢の息子だって、胸を張っていられる様に。
「支えてくれる人がいる、俺は幸せ者だな。」
「野郎ばっかだけどな。」
努はハハハと笑う。
「武は、再婚を考えたりしないのか?誰か、支えてくれる人がいても良いと思うけど。」
稔が首を傾げる。
「そう言えば、とっくに再婚していたっておかしく無いのに…。」
司君はそう呟いた。
「俺が結婚したいって思えるのは、一人だけだよ。今も、昔も…。」
美穂だけだ。
「武は一途だよな…。」
稔が苦笑いして、俺の背中を叩いた。
「美穂の中には、ずっと誠司がいる。死んでしまった人間には、どうしたって勝てないし…。」
ああ、また弱音を吐いてしまう。飲み過ぎただろうか…。
「その想いごと、包み込んでやったら良いんだよ。美穂ちゃんが望めばだけど。」
以前は若く未熟で、傷つくのが嫌で放り出してしまった思いも、今ならば受け止められるだろうか。大人になったと言える、今ならば…。
「前よりは成長してるよな?俺。」
「してるさ。もう立派なおっさんだ!俺も、お前も!」
自分の腹をポンと叩いで、努は笑う。
「おっさん!本当だ…。いつの間にか、おっさんだな!」
「孫ができたんだから、おじいちゃんだな!」
稔までそんな事を言って笑った。
「…おじいちゃん!実感が無いから、心が納得しない!」
「今は納得しなくても、そのうちデレデレになるんじゃない?」
稔は、俺が瑠璃ちゃんを膝に乗せてた時の様子を可笑しそうに話した。いやいや、お前も相当デレデレだったじゃないか。でも、そうかも…。
「…そうかな?」
「そうだよ。きっと玩具とか服とか必要以上に買い与えて、嫌がられるタイプだな!」
努はニヤニヤ笑う。
「え!嫌がられるの!?プレゼントなのに!?」
「ちゃんと、莉子ちゃんに聞いたほうがいいぞ?要らないものを貰っても困るだろ?」
「ああ、確かに。じゃあ、そうする!」
気を付けようと心に誓って、ほうじ茶を飲み干した。ほうじ茶も美味しい。
お茶には色々な思い出がある。母さんや吉田さんが淹れてくれたお茶も、祖父母との思い出も。今日もそんな思い出の一部になるんだろう。みんなの笑顔を見て、そんな事を考えた。
ありがとう…。みんな。
いつもお読み頂きありがとうございます。
幸せホルモンと言われるセロトニンを増やす為には、肉やチーズに多く含まれる、トリプトファンという成分を摂取すると良いそうです。だから、緑川さんのお母さんの持論も、あながち間違っていないのかも知れません。(笑)
思ったより長くなってしまったのですが、次回は司と結衣の話に戻ります。
ではまた☆あなたが楽しんでくれています様に♪