愁の決意
結局、私は彼に何も言えないまま、ずるずると怖い事を先延ばしにしていた。しっかりしているなんて言われるけれど、そんな事はない。本当は傷つく事を怖れる、ただの意気地無しなのに…。
いい加減、今日こそは言わないとと思いながら、出社する。いつもの様に掃除をしている結衣に挨拶をした。
「手伝う事ある?」
「観葉植物の水やりがまだだから、お願いして良い?」
うん、と返事をして、土の乾燥具合を確かめる。土に指で触れると、結構乾いていた。
「エアコンつけてると、乾燥しやすいのかな?」
ジョウロで水をやりながら、結衣に話しかける。
「そうかもね。過ごしやすくはなってきたけど、昼間は暑いから…。」
何でもない様なやり取り。それは、ある話題を避ける様に…。
「…ねぇ、言った?」
チラホラ出社してきた同僚が、近くにいない事を確認しながら、結衣が遠慮がちに口を開いた。何をかなんて、分かってる。
結衣は心配そうな視線を、チラチラ私に送っている。ああ、心配させている…。そう思うと自分が情けなかった。
「…まだ。」
思わず溜息が漏れた。
「…そう。」
それ以上は何も言わない結衣に、私は甘えている。本当は言いたい事があるはずなのに…。
馬鹿な私は、そうやって心配をかけているんだな…。問題を先送りにしても、事態が好転する訳でもないだろうに…。だけど、時間が過ぎて行くほど、言い出しにくくなってしまっている。本当に馬鹿だ…。
落ち込む気持ちを押さえ込む様に、PCを立ち上げる。仕事に集中しよう、そうすれば考えなくて済むから…。
「莉子。」
不意に掛けられた声に、驚く。振り返ると愁がいて…。会社では名前で呼ばれた事はないのに、どうしたのか。結衣も驚いた顔をしていた。
「ちょっといい?」
出勤して来た同僚の視線を気にながら、彼の背中を追いかける。迷い無く会議室のドアを開ける愁は、私を中へと誘う。
真剣な顔で私を見詰める彼から、目をそらす。何か、悪い事が起こりそうで、怖くて怖くて仕方なかった。腕に爪を立て、痛みで感情を誤魔化す。
「…莉子、ごめん。」
彼は私の手を取って、項垂れた。意味が分からず、混乱してしまう。
「…愁、どうしたの?」
「妊娠してるんだろ?俺の子。」
思わず息を飲む。何故、愁が知っているのか…。昨日までは、確かに知らなかった筈だ。だって、一緒に居たのだから…。
「…どうして、知ってるの?」
「…さっき、黒川から聞いたんだ。青木が、君と白石さんが産婦人科の病院から出て来る所を、見かけたらしい。」
「…そうだったんだ。」
見られていたとは思わなかったので、理由を聞いて納得してしまった。
「莉子、ごめん。不安にさせて。結婚相手が俺では不安?大した男じゃないけど、君の事を好きな事だけは、誰にも負けないって思ってる。」
彼は捨てられた子犬みたいな瞳で、私を見詰めていた。
「…結婚、考えてくれてたの?」
「当たり前だろ?初めて親に会ったのは偶然だけど、その後は俺の意志だよ。」
「だけど、ハッキリ言われた事は無かったから、不安だったの…。」
「…やっぱり、俺のせいだったんだな…。」
ごめんと愁は私を抱き締めた。ファンデーションが付かないだろうかと、ハラハラしてしまう。まだ、朝なのに…。
「…まだ、返事聞いてない。」
ポツリと彼が呟く。
「俺と、結婚してくれる?」
「うん。」
ほっとしたのか、私を抱き締めていた彼の腕の力が抜けたのが分かった。愁も不安だったのかな?
「本当は指輪もキチンと用意して、カッコ良く決めたかったのに…。」
苦笑いして、彼はカッコ悪いプロポーズになってしまったと言う。そんな様子が、可愛くて思わず笑ってしまった。
「私の前でまで、完璧じゃなくて良いんだよ。」
私は、あなたの全てを見たいし、知りたいのだから。
それぞれの部署に戻る道すがら、二人で並んで歩いていた。もう誰に見られても、気にしなくて良いのかなんて、そんな事をぼんやり考えていた。
「ファンデーション、シャツにちょっと付いちゃったね。」
「ん、気にしなくていい。勲章だから。」
「何それ。」
また、笑ってしまう。
「それよりも、お父さんって怖い?」
「…怖いかも。」
「…覚悟して行きます。」
まだ、二人で乗り越えなければならない事が、沢山ある。両親への挨拶もその一つだろう。
だけど、あなたと一緒なら、怖くない。