黒川家の選択
ある九月の日曜日、突然父から電話がかかってきた。最近は電話で話すより、メッセージのやり取りの方が多いにも関わらずだ。珍しいなと思ったら、開口一番本題を切り出す。
「司、お前の部屋の荷物どうする?要らないなら、こっちで処分しても良いか?」
「え、急に何?」
「お前は誠司の家に居るから、この家には戻って来ないよな?」
「ああ、うん。まぁ、そうだね。」
暫くは、そうだろうけどさ。
「もし結衣ちゃんと結婚しても、この家には住まないよな?」
「え、何の話?」
話が飛躍し過ぎてついて行けない。父さん!?勝手に納得して話を進めないで、説明して欲しいんだけど?
「取りに来る荷物があれば、早めに持って帰ってくれ。」
「いや、だから何で?何で、急にそんな事言い出したのさ?」
意味がサッパリ解らない。
「歩君に、ここに住んで貰おうと思ってるからだよ。」
「え?青木が何で?」
「明美と歩君が結婚するからだ。」
結婚という単語が、上手く頭に入って来なくて、暫く固まってしまった。沈黙が落ちる。
「…え?聞いてないよ?」
寝耳に水もいいところだ。
「そりゃそうだろ?父さんもさっき聞いたんだ。」
「え?青木が黒川になるの?」
「違う。歩君は青木のままだけど、明美はこの家で暮らした方が、気が楽だろ?保育園の問題もあるしな。瑠璃を育てるのだって、ここの方が楽だと思って。高い家賃を払う必要もないし。」
「何より、明美と瑠璃が家に居た方が、母さんが喜ぶ。」
「…そうだね。」
本当は父さんもそう思ってるだろうなと、想像に難くない。
「父さんが提案したの?」
「…そうだ。母さんも、賛成してくれたし。」
「青木は何て言ってんの?姉さんは?」
「まだ何も考えて無かったみたいだから、父さんが提案したんだけど、歩君は良いんですか?って乗り気だったな。明美も文句なさそうだったし。」
「…ほぼ、決定事項なんだね?」
「ああ、でも、今すぐって訳じゃないから。向こうのご両親に、許してもらえたらだけど。ただ、準備は早い方が良いと思ってな。」
「…今度、取りに行くね。」
「ああ、頼む。」
そう言って父さんは電話を切った。
という事があったんだと、僕は向かいの席に座る結衣に愚痴をこぼす。行きつけの居酒屋でビールを飲んで、溜息をついた。僕の心を代弁する様に、苦さが口の中で広がる。
「結婚するとは思ってましたけど、予想より大分早いですね。」
結婚するのはまだ先だとは言え、婚約状態に持って行くまでのスピードが早いと、僕も思う。さすが青木だなと、純粋に感心してしまう。
「実の息子を何だと思ってんだって、かなりヘコんだ…。」
「遠くの親戚より、近くの他人って言いますし…。」
「そんなに遠くないよ?」
「司さん、そんなに頻繁には、顔出さないんじゃないですか?」
「最近はチョビ目当てに行ってるけど?」
「その前は?」
「…時々?」
「息子より、娘の方が、役に立つのかも知れませんね?更に男手もあるなら、万々歳ってとこですか。」
彼女はそう言って、ビールを飲む。美味しそうに溜息をついて、目の前の料理に手を伸ばした。今日の店主のおススメのガスパチョだ。残暑が残る今日みたいな日は嬉しいんだけど、料理を楽しむ気分じゃないんだよね。
「…結衣、厳しいね。どっちの味方なのさ?」
共感して欲しくて結衣に話したのに、そんな事を言うものだから、ムッとしてしまう。
「厳しいんじゃ無くて、現実的だと言ってください。丸く収まるなら、良いじゃないですか。」
丸く収まる…。
「そうだよ?そうなんだよ!みんな勝手に決めちゃったんだよ!僕抜きで!」
「…ああ、それで拗ねてるんですか。」
結衣は呆れた顔をしたけれど、僕の愚痴は止まらない。
「僕だって、姉さんや青木の幸せを願ってるけど、僕だけ蚊帳の外は、寂しすぎる!せめて結婚の報告の後の提案にして欲しかったんだ。僕、黒川家の長男なのに…。」
「司さんって、そういうの拘る方なんですね?」
「…一応自覚してるつもり。なのにさ、なんか、邪魔者扱いされてる気分なんだよ。」
「ああ、寂しかったんですね。」
「うん、寂しい…。」
蔑ろにされているような気分で、落ち込んでしまう。僕はビールを飲み干す。
「青木さんからは何て?」
「…ちゃんと報告してもらった。でも、父さんの電話で聞いてたから、微妙な反応になってしまったんだけど…。」
「もしかして、おめでとうも言ってないとかですか?」
「そんな意地悪しないってば!ちゃんと姉さんをよろしくって言ったよ?青木もホッとした顔してたし。」
もちろん、心から幸せになって欲しいとは、思ってるんだ。青木にも、姉さんにも。だけど、思い出すと溜息が出る。
そんな僕を見て、結衣はツンツンと僕を突く。少し俯いていた顔を上げると、彼女の心配そうな瞳が目に入る。
「…私、思ったんですけど。今回の件って、もしかしてお父さんが、浮き足立ってしまっただけなんじゃ…。飛躍した話になってしまったのは、きっと嬉しくて、気持ちが焦ってたんじゃないですか?司さんを邪魔者だなんて、思ってないと思いますよ?」
「…ああ、そうか。僕も順番が逆だったから嫌だっただけだし…。」
何故か結衣の言葉が、ストンと僕の心に入って来る。そして、納得してしまった。一人でいる時は、いくら考えてもモヤモヤしていたのに…。
「…父さん、嬉しかったのかな?」
「結婚の話を聞いたばかりで、司さんに電話してきた時点で、そうじゃないかなって思いますけど…。」
「そっか、なら仕方ないね。」
僕がふっと笑うと、結衣はホッとした顔をした。
「そうですよ。」
「僕の時も、喜んでくれるかな?」
彼女を見詰めて、言ってみる。この意味、分かってくれるかな?
「もちろん、喜んでくれますよ。」
結衣は微笑んだ。…多分、伝わってないね。うん、まぁ、いっか。
その後は、いつもの様に下らない話なんかをして、二人で笑い合った。とにかくめでたい事なのは間違いないと、気持ちを切り替えれれたのは、結衣のお陰かな…。
こんな時、君の存在が、僕の中でとても大きくなっているのが分かるんだ。それは一緒に過ごす時間を積み重ねる度に感じるんだよ。
帰り際に、今回も青木さんに先越された…ポツリと結衣が呟いた。今回もって、何を勝負してたんだろう?もしかして結婚の事かな?お酒が入っていたとは言え、そんな事を言うものだから、僕は期待してしまう。
その呟きが僕の耳に残って離れないんだ…。ねぇ、君は、どう思ってくれてるのかな?僕との未来を考えてくれるかな?
君を家まで送る道すがら、手の温もりを感じながら僕はそんな事を考えてしまった。