アイロンとハンカチ
土曜日の朝、前の晩から泊っていた私は、着替えに置いておいたスカートを持って、司さんの所へ行った。少し遅めの朝食を食べ終わり、彼も私も身支度をしていた時のことだ。
「司さん、スカートに皺が付いたので、アイロン貸してください。」
「アイロン無いよ。」
当たり前の様に言われてしまう。
「…無い?」
意外で、私は思わず聞き返してしまった。
「うん、無い。」
「え、じゃあ、今までどうしてたんですか?シャツは?」
「クリーニング。」
「ハンカチは?」
「タオルハンカチだとアイロン要らないし。意外と何とかなるもんだよ?無くったって。」
男の一人暮らしだとそんなもんなんだろうか。
「…買いましょう!」
「え〜、要らないんじゃない?」
「要ります!」
そう?と私の主張に気圧される様に、目をパチクリさせて彼は返事をした。
「あー、そう言えば、叔父さんの使ってたのがあったかも?」
ちょっと待ってて、見てくるからと物置きになっているらしい場所に彼は行ってしまう。ついて行くと、あ…あった!とクローゼットの中から彼の声が聞こえた。
彼が持ってきたのは、割と新しそうなコードレスのスチームアイロンだった。整理した時に使わないと思って、私に言われるまで忘れていたそうだ。アイロン台は年季の入ったものだったので、処分したらしく無いらしい。
「良いの、あるじゃないですか。使わないと勿体無いですよ。」
「でも、下手なんだよね。アイロンかけるの。」
皺を無くしたいのに、余計に皺になるんだと彼は話した。
「コツさえ覚えれば簡単ですよ?」
「そう?」
「アイロン台だけ買いに行きませんか?」
「…えっと、何処に売ってるの?」
え、そこから?彼は本当に分からないみたいで、首を傾げている。本当に興味無いんだな…。
「ホームセンターにあると思いますよ?ネットでも買えるけど、明日使いたいから今から行きましょうよ。」
今日のところはスカートは諦めて、パンツスタイルにしておいた。
「うん、車出すね。」
ホームセンターではアイロン台の他に、私用のハンガーも買っておこうと司さんは言ってくれて、嬉しくなる。
帰って来てから、スカートに早速アイロンをかけているのだけれど、彼の視線が気になる。だって、ジッと見てるんだもの。そんなに珍しい光景ではないと思うのだけれど。
室内はクーラーが効いているとは言え、夏のアイロンがけは大変だ。汗が噴き出してくる。
「ついでに、アイロンかけるものあります?」
「ん〜、あ、ちょっと待って。」
そう言って寝室に消えたかと思ったら、パタパタとスリッパの音を響かせて彼が戻ってきた。
「これなんだけど。」
と手渡されたのは、洗濯はしてあるものの、アイロンはかけられてないハンカチだった。枚数は5枚ほど。
「普通のハンカチも、持ってるんじゃないですか。」
「うん、人に貰ったの。アイロンかけないから、一度しか使ってないけど。」
私は何故だか、ピンと来てしまった。
「…貰った相手って女性ですか?」
「…え、えっと。」
彼の目が泳ぐのを私は見逃さない。
「へぇ…、私には言えない人なんですか…。」
ピリッとした空気を感じ取って、彼は慌てる。
「違う!違うよ?お礼とかでだよ?」
営業で回った取引先の、女性社員さんから貰ったりするのだそうだ。差し入れを持って行ったりするからなのだと。
「…ふ〜ん。お礼ねぇ…。」
私は、有名ブランドのロゴが刺繍されたハンカチを、しげしげと見詰める。本当に純粋なお礼なのだろうか…。モヤモヤとした気分を抱えながら、ハンカチを広げた。ハンカチにアイロンを押し付けて、黙ってアイロンをかけ続ける。
「…あの。結衣…さん?」
「……。」
でもまぁ、もしその女性達が司さんに好意を持って渡したとしても、私にアイロンをかけられているとは思っていないだろう。そう思うと少し気分が晴れた。
シワが取れて、綺麗になったハンカチを見ていると、モヤモヤまで伸ばされて綺麗になってしまった様な気分になる。
「はい、どうぞ。」
私は司さんに笑顔で、綺麗に折り畳まれたハンカチを手渡した。
「…あ、ありがとう。」
彼がそれを受け取りながら、私の様子を伺っているのがよく分かる。大丈夫、今ここに居るのは私なのだから。
「ハンカチの事聞かれたら、ちゃんと彼女にアイロンかけてもらったって言います。」
いつもと違う、畏まった口調で彼は言う。その言葉に気を良くして、自分の頬が緩むのが分かった。
「可愛い、彼女にアイロンかけてもらったって言ってくださいね。」
「はい。」
神妙に答えるのが可愛くて、思わず声を出して笑ってしまった。司さんはホッとした様な顔をする。
今日何食べたいですか?と聞くと、ラーメン屋に、冷やし中華のポスターが貼ってあったと彼は言う。
「冷やし中華ですか、良いですね。」
「外出すると暑いけど、今日はコレがあるから。」
そう言ってさっきアイロンをかけたばかりのハンカチをポケットから取り出して、得意そうに見せてくれる。
私は吹き出しそうになりながら、司さんが喜んでくれるなら、またアイロンをかけてあげたくなったのだった。