口紅
桜が葉桜になった頃、寒さは和らいだとは言いつつも、朝晩はまだ冷え込む。スプリングコートが手放せない。
朝、会社に出勤して、いつもの様に掃除をしていたら、莉子が出勤してきた。おはようと挨拶を交わす。莉子が私の顔をジッと見た。
「口紅変えた?」
さすが莉子、細かい所までよく見ている。
大体、男性と言うのは、女性の髪型や服装の変化などには気付きにくい。口紅の色など、殆ど気付かないと言っても過言では無い。
化粧は自分の為にするものだと思う。戦う為の鎧の化粧もあれば、自分を鼓舞する為だったりもする。
「うん。ドラッグストアでつい、買っちゃったんだよね。うたい文句に惹かれて。」
「ああ、CMやってるやつでしょ?“キスしたくなる唇に”だっけ?」
「そう、そう。」
「ふ〜ん、して欲しいんだねぇ。」
ニヤニヤ笑いながら、莉子が私の唇を見詰めた。
「いつもしてくれるけどさ。」
本当はもっとして欲しい、その先まで。そんな事を思っているだなんて、黒川さんには言えないな。
「今日はデート?」
「うん。一緒にご飯食べに行く。」
「早く食べてくれると良いのにね。」
「…何の事?」
「…見てたら分かる。まだだって。」
莉子は超能力者じゃないだろうか?マジマジと顔を見詰めてしまう。
「…そうだけど、私の心を読んでるの?」
「まさか。分かりやすいだけ。」
莉子はクスクスと笑う。
どうしよう、黒川さんには考えてる事読まれてないよね?…大丈夫。彼はそんなに鋭くない…筈、多分。
彼といつものカフェで待ち合わせて、食事に行く。今日は、こじんまりとしたイタリアンレストランだった。緑川さんに、美味しいと教えてもらったらしい。席数もそれ程多くないから、予約しないと名物の前菜の盛り合わせが、食べられないのだとか。
前菜が一口サイズで、沢山お皿の上に乗っていて、見た目も綺麗で美味しかった。メインも美味しいけれど、前菜が美味しいって素敵だと思う。このパテ最高。
「コレも美味しい、さっきのも美味しい。」
そんな事を呟いていたら、ワインを持ちながら、黒川さんが目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「結衣は美味しそうに食べるよね。」
「だって、美味しいんですもん。」
「連れて来たかいがある。いつも居酒屋とかラーメンとかに、なってしまってたから。」
「居酒屋大好きですよ?ラーメンも。」
「そうだけど、物足りなくないかなって思ってた。」
そんなこと考えてたんだ。
「そんな事ありません。あのお店飽きないですし。黒川さんが通いたくなるのも分かるなぁって。」
「居酒屋の雰囲気が好きなんだよね。でも、こういうお店もたまには良いね。」
「たまにで、良いですからね。」
「じゃあ、たまに連れて来る事にする。」
彼はまた、目を細めて笑う。デザートの盛り合わせはジェラートとティラミスという、珍しくもない組み合わせなのに、すごく美味しくて大満足だった。食後のコーヒーを飲み終わった後、私は席を立つ。
「化粧直してきます。」
「女の人は大変だなぁ。」
「礼儀です。」
「すっぴんでも可愛いのに。」
「そう言って良い気にさせといて、実際すっぴんで行ったら、なんで今日は化粧してないのって言う、男っていうのは身勝手な生き物だって莉子が言ってました。」
「…ごめんなさい。」
彼の目が泳ぐ。身に覚えでもあったのだろうか。
「やっぱり。」
「どっちも見たいかなぁと。」
「正直でよろしい。」
私は化粧室に行って顔を確認する。崩れてないから大丈夫かな。口紅を直すだけで良さそうだ。
今、この口紅をひいているのは、礼儀なんかじゃない。あなたに綺麗だって思ってもらうため。あなたにキスをしてもらう為だけにしているのだから。
あなたの前じゃなければ、ここまで気を使わない。ご飯を食べたから、後は帰るだけ。でもそんな少しの時間だって、綺麗でいたいから。
いつもの様に別れ際にキスをする。今日は、いつもより少し長くて激しかった。
「…口紅、付いてしまいましたね。」
私はハンカチで彼の唇を拭く。
「あ、落ちちゃった?ゴメンね。」
「もう落ちても良いんです。」
もう、口紅の役目は終わったのだから。
「おやすみ、結衣。」
「おやすみなさい。黒川さん。」
またねと笑顔で手を振る、あなたの背中を見送る。キスが長かった分、離れるのが寂しい。
あんなに激しいキスをするクセに平気な顔で、またねと言うあなたが憎らしく感じてしまう。あなたは平気なんだろうか?私はこんなにも離れたくないと思っているのに…。
悔しいなぁ、自分ばかりが好きみたいで。はぁ、と溜息をつく。
部屋に入ってしばらくしたところで、机に置いたスマホが震えた。
今度の土曜日か、日曜日はデートしないかと彼からメッセージが届いた。何も予定は無かったので、どっちでもいいですよと返信する。じゃあ土曜日に、何処か行こうと返信が来た。
会いたいと思ってくれてるんだと、嬉しくなる。別れたすぐ後にメッセージが来たという事は、彼も離れたくないと思ってくれていたんだろうかと、自惚れてしまう。
でも、この口紅、役に立ったな。“キスしたくなる唇に”か。うたい文句は本当だったなと、ふっと笑った。