旋灯奇談 第四話 隧道
第四話 遂道
朋来家のある裏路地から表通りに出た角に、桝清という屋号の酒屋がある。
店主の平松仁平、通称ジンさんは、四十年前に九州から越してきた生粋の九州男児。太市は美里さんのお使いで酒を調達しに行くうちに、ジンさんと親しくなった。
今回は、そのジンさんの九州時代の思い出である。
時は昭和も四十年に入った頃、日本は高度成長の上昇気流の真っただ中にあった。
一方、ジンの家族が暮らす九州北部の炭坑地帯では、三種の神器に浮かれる巷間から取り残されたように寒風が吹き荒れていた。石炭の需要が国内炭から安価な外国炭に切り替わるなか、次々と炭鉱が閉鎖されていたからである。寂れる一方の町なかで、ジンの両親の営む酒屋、先代の桝清も、いつ閉店しても可笑しくない状態にあった。
ただいつの時代もそうだが、親の苦境をよそに、中学生のジンは、友人たちと遊び呆うけていた。
親からの小遣いは当てにできないので、遊ぶための軍資金は自前での調達が原則である。どうしたかというと、ジンの場合は店の酒を失敬した。当時、枡清では酒の秤り売りに加えて、店内で客が酒を飲むこともできた。これは封を切った酒樽や一升瓶が店の内に置いてあるということで、そこが狙い目。酒を少しずつくすねて溜め、炭住長屋の兄ィたちに売るのだ。もちろん抜いた分は水を補充しておく。
「ま、いけんこつだがね」とは、ジンさんの反省の弁である。
酒屋の息子が直接売り歩くと悪事が露見するので、売りは遊び仲間のヒデに任せた。小柄なジンよりも、大学生といってもいい長身のヒデのほうが、足元を見られない。もちろん分け前は折半。ただ戦後のカストリ焼酎に毛の生えたような安酒では、上がりは高が知れている。少しでも遊びの軍資金を増やすために、店においてある空き瓶を他の店で金に換えることもしょっちゅう。
そんなこんなでかき集めた小金をポケットにねじ込み、目指すは列車で二駅隣の町。そこにこの界隈で唯一の繁華街があった。ただし繁華街とはいっても田舎のソレで、五十メートル走をすればアッという間に通りを突き抜け、外の田んぼに足を突っ込んでしまう、そんな、こじんまりとした商店街である。そこに映画館やパチンコ屋などの遊戯施設、夜には赤線まがいの商売に転じる一杯飲み屋などが、なけなしの小遣いを叩く客を待ちうけていた。
お盆前のその日、ジンは遊びなかまと勇んで隣町に出かけた。
顔ぶれは、電信柱のようにひょろっとした長身のヒデ・秀に、ブロック塀のように分厚い胸板のタケシ・剛士、中背で郵便ポストのように寸胴小太りのタモツ・保。そして当方、小柄で起き上がり小法師のようなジンの四人である。みな半そでの開襟シャツに、黒の学生ズボン、校章の入った学帽という真っ当ないでたちである。なにせ町中に出かけるときは制服と校則で決められていた。今と違って当時の学生は律儀に規則を守ったものなのだ。
今日のお目当ては映画。ただし映画自体は、その日ジンが経験した不思議な出来事とは関係ない。二本立ての一本がゴジラであったということ、チビ助たちの耳障りな嬌声に怒り心頭になったこと、前列のおっさんがタバコをふかしてスクリーンを煙幕越しに見なければならなかったこと。
その不幸な経験だけを記して、話はその映画の上映が終わったところから。
桝席の残る場末の二番館で、いつもなら朝の初回から夜の最終回まで、丸一日館内に居座ることができるのに、お盆の稼ぎ時ということもあって、本日は入れ替えですと有無を言わさず追い出された。ゴジラを二回は見るつもりで朝から足を運んだのに、見事にスカされてしまった。
時刻は正午を回ったところ。街路には息苦しいほどの熱気がこもり、ドブ板の下からは下水の臭いがモワ〜ッと鼻先に纏わりついてくる。
堪らないとばかりに、四人は映画館の斜め向かいにある純喫茶へと逃げ込んだ。映画を見ていた若い兄いたちで混雑する中、一つだけ空いたテーブルを目敏く確保、リーダー格の剛士が、ウエートレスのお姉さんに手を振る。声変わりを済ませた剛士は顔も体格も高校生並みで、「レスカ、四つ!」という背伸びをした口調が不自然に見えない。ところが、そばかすの残るウエートレスは、ツンと澄ました口元を崩さず、氷の融けかけたお冷をテーブルに置くと、つっけんどんに背中を向けてしまった。
映画もそうだが、その辺りからである。今日は付いてないと思い始めたのは……。
その予感は見事に的中、水増ししたような薄い味のレモンスカッシュが出てきた。それでも、この一杯で二時間は粘ると意気込む。
しかし人生で一番新尽代謝の激しい年頃で、体が欲する水分は無制限。お冷の代わりをウエートレスに無視されているうちに、あっという間に、剛士、秀、保の順でグラスが空になってしまった。残るは、ジンのグラスに三分の一だけ。
これでは一時間も持たないと、四人が追加の注文をどうすると額を寄せたのを見計らったように、生意気なウエートレスが足音高く歩みより、「ここ、予約席やけん」とテーブルの上のものを盆に取り下げ始めた。
見ると、後ろに国労の腕章を付けた作業服姿のおっさんが、腕組みをして自分たちを睨みつけている。四人は席替えでもするように席を立たされると、あれよという間にレジに誘導され、またのご来店をと形だけの挨拶で追い出された。
店に入って出るまで、かっきり三十分。喫茶エンジェルという店の看板が白々しく自分たちを見下ろしていた。
「何が天使ばい、こんぼったくりのオカメチンコが!」
激しい口調で毒ずくと、剛士が手にしていた野球の硬式球を、右手から左手へとイラつく調子で打ちつけた。パシッと背筋を伸ばす音が横にいたジンの耳に痛い。
野球部に籍を置く剛士は、どこへいくにもボールを持参、手に馴染ませるのだといって、暇があればボールを捏ねるか、左右の手の間でキャッチボールをしている。
親分肌でお山の大将然とした剛士のポジションは、もちろん投手だ。しかし大将らしくめんどう見のいい反面、短気で頭に血が上りやすい欠点も持っている。それでいつも失敗するのだが今回もそう。監督からカーブを覚えろと言われ、俺の直球のどこが悪いんですかと喧嘩を売って、夏休みだというのに練習への参加禁止を言い渡されてしまった。
頭から冷や水を浴びせかけられて二週間、今では反省して監督に詫びを入れに行きたいと思っているのだが、そのきっかけが掴めずに落ち込んでいる。見かねた秀とジンが気分転換をさせようと誘ったのが、今日の映画行きである。
ところが映画館に続いて喫茶店までもが無慈悲に自分たちを追いたてた。
怒り心頭、日焼けした顔に血管を浮き立たせた剛士を見て、これはまずいと、ジンは剛士のボールを横から掠め取ると、数軒先のバイク屋に向かって駆け出した。
あっけに取られた剛士が、血相を変えてジンを追う。
詰め寄る剛士に、ジンがふわりとボールを投げて返した。
「あかんとよタケ、いま問題ば起こすっと、野球部に戻れんようなる、冷静にや」
言い含めるジンとは逆に、電信柱に寄りかかってニヤニヤと様子を眺めていた秀が、小ばかにしたように口笛を吹いた。
「頭から湯気が出てるなタケ、それ、まるで火のついたボタ山や」
機械技師の父の関係で、小学生時代を北海道の炭鉱で過ごした秀は、まだ言葉使いが九州に馴染んでいない。その澄ました口ぶりが剛士には気に食わない。
思わず秀にガンを飛ばした剛士だが、派手に茶化されて逆に目が覚めたのか、興奮を落ち着けるように深呼吸をした。
「おっ我に返ったか、残念や、タケが喫茶店のドアを蹴破るの楽しみにしていたのに」
「勝手に言ーよれ、ヒデ、今に天罰ば落ちっと」
剛士が爆発しそうな時、ジンはひたすら宥め、逆に秀は茶化して剛士の気を逸らす。いつものパターンだ。それは宥められる側の剛士も分かっている。
ようやく気が治まってきたのか剛士が辺りを見回した。
「あん、モッチンのやつ、どこば行っとー」
「あそこや、飯屋ん前」
太った保はハンカチで額の汗をぬぐいながら、飯屋のショーケースを覗き込んでいた。
三人が駆け寄ると、振り向きざまに保が「タコ焼き、あらへんなあ」と、情けない声を吐いた。
短い足に泣きほくろ、色白のもち肌にカッパ口。これは大口のことだが、加えて小太りで大汗かきときている。中でも特筆すべきは、鼻先よりも前に出てると評判の額だ。
このデコ頭の保は大阪の出身である。たこ焼き六個を一度に頬張れたというのが口癖で、ジン自身何度もその話を聞かされている。自慢できることがそれしかないのかと皮肉ってやりたいが、どう見ても女子にもてそうにない顔と体を前にすると、哀れを誘われ何も言えなくなってしまう。
その保。たこ焼きの大食いを皆に披露したいといつも吹聴しているのだが、今住んでいる町では、タコ焼きは祭りの出店でしかお目にかかれない。だから保としては繁華街のある町に遠征する今日こそはと、期待をかけていたのだ。それが……。
肩を落とす保の横っ腹をジンが拳で突いた。
「隠し芸ば年末が似合いぞ、次んしとき。それよか腹へったばい」
朝一番の映画を見るために、朝飯は早く済ませてある。そのあと口に入れたものといえば、映画館の中で買ったピーナッツと喫茶店のレスカだけ。そうでなくとも特撮を使ったアップダウンの激しい映画は、緊張と弛緩の繰り返しで、観ているだけでも腹が空く。四人が四人とも熱いまなざしを飯屋のショーケースに向けた。
大盛りチャンポン百十円が売りの店だ。
炎暑の最中に熱々のチャンポンかと眉根を寄せるが、そこは食欲のブラックホール、中学男子。次の瞬間には勢いよく店の暖簾を割っていた。そしてクーラーなどあるはずない当時の飯屋で、先ほど飲んだレスカの水分を全て汗として絞り出したのである。
ところが勘定をする段になって、湯気の出そうな汗が、冷や汗に変わる。
四人で行動する際には、代金を保がまとめて払い、後で清算する方式を取っている。小遣いに不自由していない保以外は、いつも途中で軍資金が尽きてしまうからで、今回でいえば、三人とも喫茶店の代金で自前の金を使い果たしていた。後は保のツケで遊び、ちまちまと各自借金を返済する予定だったのだが……。
金庫番の保が色白の顔を紅潮させている。
保は手持ちの金を、財布と、学生証の入ったパスケースに分けて入れる。そのパスケースに金が入ってなかった。国鉄に乗る時も映画館の窓口でも、財布から金を出していたので、パスケースの中が空なのに気づかなかったらしい。予定では五百円札を二枚入れておいたというのだが……。
慌てて三人がポケットをかき回し、小銭を継ぎ足して、なんとか支払いを済ませる。
ぎりぎりセーフだった。しかし看板の陰で汗の噴き出た額を突き合わせ、四人の手持ちのお金を合計してみると、残りは十円玉と五円玉ばかりで、五十五円。帰りの国鉄の運賃は、一人片道三十円。一人分にしかならない。
秀、剛士、ジン、の三人は目配せを交わすと、保の手に小銭を乗せた。
保だけ電車で帰れというのだ。
自分たちの住む町までは歩いて五時間。中学生の男子にとって、それほどの距離ではない。しかし小太りで短足、おまけに極度の汗かきの保にとっては荷がかち過ぎる。それに一緒に歩いて途中でへばられると、そちらのほうが面倒だ。いつも金を工面してもらっている感謝も込めて、三人は保を電車で帰らせることにしたのだ。
ところが喜んで金を受け取ると思った保が首を振る。
「いややねん、一人で電車に乗るのなんか」
保が大阪の町なかから九州の田舎町に越してきたのは、二カ月ほど前の梅雨時のことだ。季節同様の湿った事情が保の家にあったかららしいが、それを保は口にしない。そして慣れない田舎町でようやく出来た友だちが、ジンたち三人だった。
剛士が保のデコを軽く指で弾いた。それが一緒に帰ろうぜというサインだ。
四人は二十五キロの道のりを歩いて帰ることにした。
しかし時刻は、まだ昼日なかの一時である。
日差しの強さに顔をしかめたヒデが、お盆前のこの時期、夜の八時近くまで空に明かりが残る。だからもう少し日が傾くまで待ってから歩き始めようと提案した。もっともな意見だが、案に反して剛士はさっさと帰ろうと腕を振る。今日はゲンが悪いというのだ。秀も剛士も意地っ張りでは引けを取らない。
また一揉めと思えた時、ジンが「忘れてた!」と派手に手を叩いた。
どげんしたと振り向く秀と剛士に、ジンがバットを振るしぐさをした。
それで思い出したのだろう、秀と剛士、それに保までが声を揃えた。
「ナイターや!」
完璧に忘れていた。今日は七時からテレビで巨人対阪神の野球中継がある。映画を朝の回から見に来たのは、野球放送の始まる時間までに家に帰るためだ。
家に帰って水を浴びて晩飯をかっ込み、剛士に至ってはテレビのある叔父の家まで走らなければならない。その時間も考えれば、少しでも早く歩き始めた方がいい。
四人は「ナイターや!」と声を合わせると、商店街の外に顔を向けた。
なお現役野球部員の剛士は巨人ファン、元野球部員の秀は西鉄ファン、大阪出身の保は当然のごとく熱烈なる阪神ファン、そしてジンは風呂屋の下駄箱の一番が命、つまり王選手をこよなく愛する野球少年なのであった。
狭い商店街の通りを抜けると、その先は民家数軒を置いて、田んぼ田んぼの世界に様変わりする。頭を垂れ始めた稲穂が、熱風に煽られ陽炎のように揺らいでいる。
頭上は真夏の蒼空。ぎらつく陽の光を全身に浴びて、四人は盆地の中を東西に延びる田舎道を歩き出した。直ぐに道はアスファルトから土に変わる。時間は暑さが一番厳しい午後の二時前、焼けてしらっ茶けた地面が靴底を炙り、太陽の照り返しが目に突き刺さる。
田んぼの脇道から県道へ。轍の残る道の前方に、衝立のような岩山が、ギザギザの稜線を東から西にはみ出させている。その通称鋸山と呼ばれる岩山を左に回りこんで、一時間ほど歩いた先に自分たちの暮らす町はある。
しかし、まっこと暑い。湧き上がる入道雲が日差しを遮ってくれればと思うが、いかんせん雲の湧く方向が東にずれている。めんどうと思いつつ学則を守って学帽を被ってきて正解だった。幸い、さしたる荷物はない。秀が水泳の時に使うナイロン製の防水袋を肩に下げ、保がへしゃげたナップサックを背負っているだけで、剛士とジンは手ぶらだ。
保がナップサックから水筒を取り出し、麦茶を回す。
秀がドロップもあるぜと、防水袋を揺すった。この場合のドロップとは、タバコである。しかしさすがに頭がふらつくほどの強烈な日差しの下で、たばこを吸う気にはなれない。とにかく今は、ひたすら歩くだけだ。ナイターというゴール目指し競歩のようにせっせと足を動かすヒデとタケシを、小太りの保とチビのジンが、早足で追いかける。
ちなみにジンの名は仁平で、本来はニヘイと読むのだが、掛け値なしのチビなので、仁丹に引っ掛けて、みなジンペイ、もしくはジンと呼んでいる。仁丹とは鼻くそサイズの小さな丸薬のことだ。
歩き始めて三十分、飽きずに野球の話を続ける剛士と秀の後ろで、保の顎が上がり始めた。見るとシャツもズボンも汗でぐっしょり。気負い込んで皆と一緒に帰ると宣言したものの、体が追いつかず後悔しているようだ。
しかし今さら引き返すこともできない。
さらに十分。保の息が本当に荒くなってきた。見兼ねてジンが、靴の紐を直すのを口実に、秀と剛士の足を止めた。実際、緩んだ紐を調整する必要があったのだ。夏前に買ってもらった月星の運動靴は、秋の新学期が始まってから下ろすことにしていた。それを今回町へ出るに当たって足慣らしも兼ねて履いてきたのだが、新品のために靴紐の結び目が落ち着かない、歩くうちに直ぐに緩んでしまう。
立ち止まったことで、秀と剛士も保の息が上がっていることに気づいた。
こういう時、肉体派の剛士は厳しい。
「自分で一緒に付いてくる言うたと、へばってん置いてくけんな」
剛士は近所の風呂屋の焚き場の手伝いをして、地道に小遣いを稼いでいる。裏稼業に精を出す秀やジン、親からたっぷり小遣いを貰っている保とは気位が違う。直ぐにカッとなる欠点はあっても、自分にも厳しく人にも厳しい努力家だ。
「まあええやろう、車でも止めて、ヒッチハイクで帰ればいいさ」
そう言って保の背を押す秀は、融通無碍、人に優しく自分にも優しいタイプだ。
「賛成。ほんこつ神様は不公平やっち。同じ中二で、こげ足の長さば違うとよ」
翻ってジンは、あえて言えば追従言い訳型か。
そのジンを剛士が兄貴のような口ぶりで諫めた。
「自分ば甘やかすと、そこで成長が止まるばい、大鵬かて、若いとき山仕事で苦労したのが生きとる、若い時は頑張るしかなかと」
巨人大鵬卵焼きの時代である。剛士は巨人だけでなく大鵬も応援している。
「それ王貞治の生き方やな、俺は絶対長島型。人生はひらめき、才能が一番や」
対する秀は才能重視型。野球、それも同じ投手をやっている剛士と秀を比べれば、ゴツゴツとした怒り肩の剛士より、上背があってすらりとした秀のほうが絶対に投手に向いている。今で言えば秀はダルビッシュの体型だ。実際秀の長い腕が鞭のようにしなると、ハッとするほど鋭いボールが走る。それが残念ながら、秀の練習嫌いと飽きっぽさは筋金入りで、肘を痛めたのを口実に、さっさと野球部を退めて、今は従兄から貰ったギターとやらに填まっている。
いつものように二人が才能と努力のどちらが重要かで言い合う。
それを耳タコで聞きながら、ジンがぼやくことしきり。
「ええよな、二人は努力と才能ば信じられる体やけん」
「ごっつ、ほんまやで」
心底頷く保が、前方にうねうねと伸びる道を見やって、情けない声を吐いた。
「これ一本道やろ、迷わへんよって、みな先に行ってんか、もうわて限界や」
よくぞ言ってくれたとばかりに、ジンが続ける。
「ウサギ組ば先に行っち、カメ組ん二人は、ナイター諦め、ゆっくり行くけん」
しゃがみこんでしまったジンと保に、先に手を差し伸べたのは剛士だった。妹と弟四人の世話をしている手前、こういう足手まといの扱いには慣れている。
「そげん言わんとよ、こっちもペースば落すけん、一緒に行っとや」
剛士がジンを引き起こすと、隣では秀が面倒そうに保の腕を引っ張った。
秀と剛士が意識してゆっくり歩くようになったおかげで、ジンと保も足並みを合わせることができるようになった。しかしだからといって肌を焼く真夏の暑さが変わるものではない。なにせ、お盆前、一年で一番暑い時期だ。
自分たちが歩こうとしている道は、盆地の中に突き出た鋸山をぐるりと迂回するルートである。その鋸山がなかなか近づいてこない。
あっというま保の水筒がカラになった。飲んだ麦茶が汗となって吹き出し、顔や腕に塩が浮く。傾き始めた真夏の陽光が四人を炙り上げる。日中の日射しよりも横から照りつける西日のほうが、体に当たる面積が増えるぶん暑く感じる。半そでのシャツからはみ出た腕の皮が、ヒリヒリと引き攣るように痛む。そしてこの頃には、四人が四人、ヒッチハイクという言葉を念仏のように唱え始めていた。
ところが、その車が通らない。気配もない。
山向こうを縦断する新道ができて、車の流れが変わったのだ。
ようやく後ろからオート三輪が近づいてきた。四人一斉にバンザイでもするように手を振るが、車を運転していたランニング姿のオヤジは、スピードを緩めることなく砂ぼこりと咽る排ガスを四人に浴びせかけて走り去った。
歩き始めて一時間半、風が止まり空気が体にまとわりつくようになってきた。
湧き立つ入道雲が壁となって天空に聳える。夕立の前には湿気が立つが、気配としては正にそれ。遠雷が先ほどから何度も耳をくすぐっては消える。濡れるのは嫌だが、湿気を掻き分け歩くよりは、よほど益しだ。早く降れ降れと念じながら、疲れが溜まって重くなった足を動かす。
小さな橋を渡る。水は流れているが、選炭場の排水で汚れた、それも炭住の汚水混じりの黒い水で、顔を洗う気も起きない。
期待に反して夕立はその片鱗も見せず、四人は汗を搾りきった状態で鋸山の麓に到達、四人とも山裾の木陰にヘナヘナと座り込んだ。
息を整えつつ背後の鋸山を振り仰ぐ。尾根筋に剥き出しの岩壁が波打つ様は本当にノコギリそっくりで、濃い緑を突き破るようにして東西に続いている。県道はこの後鋸山の裾野に沿って西に大きくU字を描きながら、山の向こう側へと回りこむ。
ここで行程の半分だが、体力気力とも九割は使い果たした気がする。
唯一時計を持っている保の手元を覗き込むと、時刻は四時半。
このままではナイターに間に合わない。それに喉の渇きがひどい。
額にボールを押し当て考え込んでいた剛士が、何か思いついたらしく、ボールを指先に乗せてクルッと回した。鋸山の絶壁の付け根には、大正時代に作られた隧道、トンネルがある。見捨てられた廃道だが、今も通り抜けは可能で、実際、夏休み前に、剛士のいとこが自転車で通ったばかりだ。隧道を抜ければ鋸山を真横に突っ切ることになり、大幅に歩く時間と距離を短縮できる。なにより山の中とトンネルを通るのだから、西日を浴びなくて済む。
四人が座っている右手に、草蒸した林道が林を割るように延びている。カシやシイの鬱蒼とした木々に囲まれた、もののけかムジナでも出てきそうな山道だ。
四人は顔を見合わせた。
西日に焼かれ喉の渇きに耐えながら後三時間歩くか、それとも気味は悪いが涼しい山道と隧道を通って、楽して家に帰りつくか。
考える間でもないとばかりに立ち上がった剛士の手首を、秀が掴んだ。
「タケ、隧道は結構長いって聞いたぞ、懐中電灯もないのに無理だろう」
もっともな指摘である。チャランポランなようでいて、案外、秀は熟慮慎重派だ。
剛士がいかにも残念そうに、林の向こうの岩壁を見やった。
その剛士に懐中電灯が差し出された。保である。手にしているのは自転車に取り付ける四角い電灯で、見れば伝家の宝刀ナショナル製。さすがは大阪人。
感心したように覗きこむ三人に、保が頭をかいた。都会から越してきた保にとって、田舎町の夜は闇が深い。先月、風呂屋の帰り道でヘビを踏みつけてからというもの、帰りが遅くなりそうな時は、必ず懐中電灯を持って出るようにしているのだとか。
「決まりや」と手を打つ剛士に、今度は秀も異存はないのか勢い良く立ち上がった。
隧道まで一キロという標識を頼りに、四人は山道に足を踏み入れた。
軽い上り道だが、木立で日差しが遮られ、嘘のように涼しい。
夜店の射的で一等を仕留めたような気分の四人は、鼻歌を歌いながら二十分ほどで切り立った屏風岩の付け根に到達した。
そこに幌付トラックほどの大きさのトンネルが、口を開けていた。入り口の前には、人の出入りを拒むように丸太を組んだ柵が置かれ、「入洞禁止」と赤いペンキで書かれた板が縛り付けてある。警告の板はともかく、コンクリでがっちりと固めたトンネルだ。隧道という言葉から想像していたものよりも遥かに立派なトンネルに、四人は胸を撫で下ろした。内心、手掘りの炭坑のような穴だと嫌だなと思っていたのだ。
嬉しいことは他にもあった。トンネルの右手に小さな沢が流れ落ちていた。
四人は競って沢に降りると、汗とほこりで汚れた顔を洗い、流れに頭を突っ込んで喉を潤す。保にいたっては、シャツを脱いで洗い始める始末だ。
ひとしきり水と戯れる。
先にトンネルの入り口に戻って紫煙を燻らせていた秀が、濡れた丸刈りの頭をブリブリと振りながら戻ってきた剛士に、ドロップ缶を勧める。剛士が相撲取りのように手刀を切って、缶からタバコを一本抜き取る。ピースだ。
大人びた手つきでタバコをくわえた剛士に、ヒデがライターを差し出した。
「ぎゃん凄ごか、ジッポウとな」
近所にジッポウのライターできざっぽくタバコに火を付ける高校生がいて、それ以来、誰が最初にジッポウを手に入れるかが、男子中学生の競争の的になっていた。なにせまだ百円ライターもない、タバコの火といえばマッチが当たり前の時代である。秀がこれ見よがしに、ライターに火を着けては、カシャンと蓋を閉める。
その音を背中越しに聞きながら、ジンは一人トンネルの脇にしゃがんで地面を覗き込んでいた。トンネルのひさしの下、乾いた地面に、小さな円錐形の穴が散っている。ウスバカゲロウの幼虫の巣、餌のアリを捕まえるためのトラップで、通称をアリ地獄。家の縁側の下にあるやつよりも二まわりは大きい。
「ジン、何やっとっと、秀が一服つけてくれとるばい」
「身長だけならジンは小学生、モクはまだ早いのさ」
嫌味たらしく秀が笑う横で、剛士がゴジラの真似をして、豪快に煙草の煙を口から吐き出す。呼ばれて腰を上げたジンが、保の姿が見えないことに気付いて言った。
「あれ、モッチンは?」
保は絶壁の窪みに置かれた石碑の前でションベンを垂れていた。
濡れたシャツを着て体が冷えたらしい。
「おーいモッチン、ピース、ピースやで」
秀が指に挟んだタバコを掲げて呼び掛けると、保が残念そうに首を振った。
「わい、喘息やったことがあるさかい、モクは、あかんねん」
「軟弱たい、都会育ちは」
手厳しい剛士に、すかさずジンが「大阪は空気ば悪か、だけんや」と助け舟を出す。
保が戻ってくるや剛士が「行こばい!」と、気合の入った号令をかけた。
入洞禁止の柵を乗り越えトンネルの中へ。泥の上にくっきりと二本の細い跡が残っている。自転車の車輪の跡だ。靴跡がないということは、剛士のいとこは自転車に乗ったままトンネルの中を走ったということだ。懐中電灯の明かりを奥に向けると、コンクリで固めてあるのは入り口だけで、ほんの数メートル先からトンネルの壁面は荒削りの岩に変わる。そのゴツゴツとした岩肌がゴジラの肌を思い起こさせる。
「剛士んいとこ、こげなとこを一人で抜けたとな……」
感心してため息を漏らすジンに、剛士がフンと鼻を鳴らした。
「あいつは神経が鈍いだけのごたる。戦時中なら武勲ば立てられたっち、じっちゃんが残念がっとるとー」
「壁を眺めてても仕方ない、早く抜けようぜ」
秀の催促に剛士は「おう」と大人ばりの太い声を返すと、無造作に第一歩を踏み出した。先頭が懐中電灯を持った剛士、その後ろに保、ジン、秀の順である。
どん尻の秀も、時々ジッポウに火を付け、足元や壁を確かめる。
暗いことを除けば、トンネルの中は、浅く泥が堆積してるだけなので、林道などよりも歩きやすい。どこまでも剥きだしの岩肌が続いている。振り返ると、すでにかまぼこ型の入り口の半分は、右の壁で隠れていた。トンネルがカーブしているのだ。
全長が四百メートルと聞いたが、出口の明かりは見えない。トンネルが途中で塞がっている不安は捨て切れないが、自転車の轍に励まされるように歩を進める。
剛士が足を止めた。水の流れた跡だ。大蛇が這ったような溝と、自転車の細い轍に沿って、動物の足跡が残されていた。ここまで動物の足跡は見ていない。ということは、足跡の主はトンネルの反対側から入ってきたということになる。
「これ、タヌキや」と、ジンが自信ありげに断定する。
「どこで分かる」と聞く秀に、ジンが腰を落として地面を示した。
「タヌキはイヌん仲間や、それに、ほらそこん糞ば……」
足跡の右手に犬のソレとそっくりのものが転がっている。乾いた糞ではない。
「トンネルに住みついてるのかな」
「外は暑か、涼みに入ってきたんやなかと」
「出くわしたらどないしょ」
不安気な保に、「タヌキよか、こっちたい」と、剛士がトンネルの壁際に懐中電灯を向けた。壁面が濡れ、下に水たまりができている。
「水没ばしとると、先に進めん」
「でも行くしかない、今から引き返しても、絶対ナイターには間に合わん」
言ってライターの炎で前方を探る秀に、剛士も奥歯を噛み締めるように頷く。そしてズボンのポケットに捻じ込んであるボールを手の平で押さえた。
すでに振り返っても、トンネルの入り口の明りは見えない。
いつしか、四人は前後の幅を狭めて歩いていた。土が湿っているのか靴の裏が泥を噛んで歩きにくい。
「ワッ」と、保が声を上げた。
「なんした」
「水や、首筋に落ちてきよった」
「アホ、そげんこつで、でかい声をだすな」
怒って保の背中を小突く剛士を、後ろの秀が引っ張った。
「ここを」という秀に、剛士が懐中電灯の明かりを寄せる。濡れた泥に真新しい靴跡が残っていた。形は運動靴。サイズの違う靴跡が混じっていることからして、複数の人間が通ったようだ。靴跡に滲み出てくる水が、生き物のように見えて気味が悪い。
「反対側からトンネルば入ったやつが、おると」
「靴のサイズからすれば、同じ中学生くらいだぜ」
突然「ヒッ」と、保がしゃくりあげるような声を上げて、右足を浮かせた。
「ちゃう、ちゃうで、これ、わいの足跡や!」
保の足元を照らす。保の履いている運動靴は、保がガニ股歩きのために、かかとの外側が斜めに磨り減っている。だから誰にでも分かる特徴のある靴跡が残る。いま保が付けた足跡と、先に残っていた足跡が同じことは、一目瞭然だった。
慌てて三人が、残された足跡に自分の靴を合わせる。
ゾッとするような沈黙が、その場を包んだ。
互いの顔色を窺うような気配の後、剛士がトンネルの奥に向かって声を張り上げた。
「おーい、誰かおるとーっ!」
トンネルの壁に跳ね返りながら声が闇の中へと消えていく。トンネルのどちらに向かって叫んでも響き方は同じ。耳を澄ませても返事は返ってこない。
「戻るたい」
剛士は踵を返すと、元来た方向に歩き出した。
「どうすんだよ、出口はあっちだろう」
しつこく靴跡を確かめている秀に、剛士が声を苛立せた。
「こげな時は一旦引き返すのがよか、間違いの元ば見つけ出すんや。じゃけんと……」
そこから先を、剛士は口にしなかった。
「ボクも、そうおもーと」
ジンが手を挙げ、行こうよと秀の袖を引いた。
しかし元来た方向に歩き出し、すぐに四人は首を傾げた。口には出さなかったが、足元の歩く感覚が、斜面を下っているように感じるのだ。
暗闇のなかで顔を見合わせ、誰からともなく、もう一度逆向きに歩き出す。そして歩数でいえば三十歩くらい。また歩く感覚が坂を下っているような感覚に変わった。
微かだが重心が足先にかかる。間違いない、これは下り坂だ。
慌てて引き返す。しかしまた下りに。まるでシーソーの上を行ったりきたりしているようだ。どちらに進んでも下りに戻ってしまう。ひたすら下り続けるシーソーなどというものがあるだろうか。足を止めたのは秀だった。
「まずいぜタケ。こりゃあ絶対、タヌキに化かされてる」
口にはしなかったが、他の三人もそれは思っていた。一本道のトンネルで、どちらの方向に進んでも下りなんてことがあるはずない。
ジンの脳裏に、トンネルの入り口で見たアリ地獄の光景が蘇ってきた。あの時、ちょうどすり鉢型の穴の中で、落ちたアリが這い上がろうともがいていた。剛士に呼ばれたので最後は見届けなかったが、あのアリは、いずれ穴の底に滑り落ち、アリ地獄の主のウスバカゲロウの幼虫に食べられてしまうのだ。そのもがくアリの姿が、不吉な予感を伴って頭の中を掠める。
四人は足を止めると思い切り叫んだ。
「オーイ!」
何度叫んでも返事は返ってこない、自分たちの声だけがトンネルの壁に反響、やがて残響が闇に呑みこまれるようにして消える。天井から落ちる水滴が、不安を増幅させるように頭や背中を濡らす。保が頭を抱えた。
「閉じ込められたんや、化け物タヌキが出てきて、頭から齧られる」
涙混じりの声で叫ぶ保の横では、秀が胸元のザリオを引き出し、祈りの言葉を唱える。
情けない二人を剛士が怒鳴りつけた。
「タモツ、めそめそすんな。秀、神頼みばして、おまん努力という言葉を知らんと」
「何やとタケ、これが努力でどうにかなる状態か、こうなりゃ神頼みしかないだろう」
けんか腰に向き合う二人に、慌ててジンが割って入った。
「タケヤンも、ヒデも、とにかく落ち着くとー、冷静にや」
上ずりそうになる声を懸命に抑えて意見するジンに、保が泣きそうな声をぶつける。
「金玉十畳敷きのタヌキや。わい、タヌキの金玉に押しつぶされるの、いやや」
「モッチン、ちょっと黙るとよ、ボクん考えば聞いて。こげな方法はどう、腹ば括くって、どっちか一方に決めて歩くと。迷うけん、行ったり来たりするんや、ばってん、一つん方向に進めば、一本道のトンネル、良ければ出口、悪うても元ん入り口に戻れるはずやろ」
「途中で化け物タヌキに頭かじられて、血だるまや!」
「ええ加減にせえ!」
剛士が保の頭を拳固でゴツンと叩いた。
「あー、叩いたな。利子無しで三千円も貸したってるのに。それにトンネル抜けよう言うたのはタケやんやろ。責任とってんか、責任やで、責任!」
ヒステリックに喚く保のシャツを、ジンが諌めるように引っ張った。
「モッチン、そん責任ば言葉、口にせんとや。さっきモッチン、石碑にションベン掛けてたやろ。あのバチが当たったんかもや」
「なるほど、絶対にそれやな」
秀が責任を追及するように保の耳を引っ張った。
「そうか、なら大ダヌキが顔ば見せっと、保を生贄んごつ突き出し、俺たちばトンネルの牢獄から出してもらおうたい」
冷たく言い放つ剛士に「そない殺生な」と、保が泣きつく。
「なら、いままでの借金、帳消しにするか」
「それも殺生や、化けて出るで」
「お前の幽霊なんざ、いっちょん怖ない」
「幽霊ぎょうさん雇うて、夜な夜な出たる」
「好きにすると、おい秀、どっちば進もう」
緊張した時はまず喋ること。喋れば不安は自ずと体から抜けて行く。
冗談混じりにやりあって、なんとかまとわりつく恐怖感を振り払った四人は、しばし心を落ち着けるべく呼吸を整えた。最初に口を開いたのはジンだった。
「ボールを」と、ジンが剛士に野球のボールを要求する。訝るりつつボールを手渡す剛士に、ジンが説明。地面にボールを置き、転がる方向に進むのはどうか。もし野球の神様が自分たちにナイターを見せてやろうと考えているなら、出口に導いてくれるはずだ。
この野球の神様というのがいい。いかにも自分たちの神様という気がする。
みな異存はなかった。直ぐに泥を均した地面にボールを置く。
四人が息を殺して見守るなか、ボールはゆっくりと右に転がった。これで進む方向は決定。後は化けものダヌキと野球の神様の勝負だ。
今度は余程のことでも起こらない限り、前に突き進む覚悟だ。
先頭は変わらず剛士、その後ろにジンと保が横並びで続き、しんがりは秀。
とにかく迷わず信じた方向に進もう。そう心を決めて小石を蹴散らしガンガン歩き出した剛士の後を、残りの三人が追いかける。ただそうやって歩き出しはしたものの、すぐに行く手に暗雲が漂う。斜面の傾きが酷くなってきたのだ。いくら化かされているとしても、尋常な傾きではない。
先頭をいく剛士が、握り締めたボールに向かって何事か呟く。野球の神様にお願いしている。なりふり構わず残りの三人も神様に願いを告げる。しかし縋る声は魔物の口のごときトンネルの闇に融け、気が付けば、トンネルは両腕を広げたほどの幅に狭まり、両側にずらりと松の丸太が立ち並ぶようになっていた。これはどう見ても坑道だ。
明治の時代から石炭を掘り続けている九州北部の炭坑地帯では、廃坑になった坑道が地下に網の目のように張り巡らされている。間違って、その坑道にでも入り込んだのだろうか。それとも野球の神様よりタヌキのほうが一枚上手なのか。信心が揺らぎ足が止まる。
逡巡する四人が、やはり元来た方向に引き返そうと後ろを振り向いたとき、斜面の下から奇妙な音が聞こえてきた。
石をうがつような音だ。
気味は悪いが、四人は手を繋いで、音のする方向に足を向けた。
トンネルの傾きは、もうほとんど滑り台。足を開いて踏ん張っていないとズルズルと滑ってしまう。人のうめき声に、滑車を回すような音。物を引きずる音に、何かを打ち据える音、雑多な音が入り混じって坑道の下から這い上がってくる。
横穴の先に赤い灯が見えた。
魅入られたように足を踏み入れた四人の前に、巨大な地底の空洞が現れた。
野球の球場ほどもある広場を階段状の絶壁が取り囲んでいる。上はと見れば、切り立つ岩壁は最後紡錘形に狭まり、天蓋となって地の底の空間を塞いでいる。
なにもかもが薄赤く色づいて見えるのは、かしこに置かれた篝火のせいだ。
その赤い炎に照らされて蠢めく者たちがいた。無数の裸同然の人が、壁面の黒い岩に張り付いている。縞状に連なる黒い岩は石炭か。それをツルハシではなく、手で剥ぎ取ろうとしている。指先が白いのは、爪が剥がれ皮が破れて骨がむき出しになっているからで、痛むのだろう顔を歪め、呻き声を漏らしながら、もぎ取った石炭を脇に積み上げている。
坑夫を打つ鞭の音が、地の底の空洞に響き渡る。
鞭を振るうのは頭に二本の角を生やした鬼、いや尻から細長い尾をしなるように伸ばした姿は、鬼というよりも小悪魔だ。
監視役の小悪魔が、鞭を打つ。その肌をひりつかせる音に追われて、坑夫たちが剥ぎ取った石炭を米俵ほどもある袋に詰め、担ぎ、絶壁に張り出す狭い道を地の底の広場に向かって下って行く。体型からして男も女も、腰の曲がった年寄りも、若者の姿もある。
働かされている人たちの骨と皮だけの体に異様に腹が膨らんだ姿は、歴史の教科書で見た亡者そのもの。顔付きはまるで幽鬼だ。
さらに異様な光景が目に留まる。
絶壁の途中、踊り場に積み上げられた石炭を亡者たちが取り囲んでいるのだが、その亡者たちが、小悪魔の鞭の動きに合わせて、一斉に目の前の石炭を頬張り、上を向いて呑みこもうとしている。喉が詰まって苦しいのか胸を掻きむしる者もいる。亡者のはちきれんばかりに膨れた腹の中身は、むりやり食べさせられた石炭なのだ。
凄絶な光景に唖然としつつ気付いた。下の段のテラスにいる亡者ほど体が黒い。最下層の広場にいる亡者などは、石炭さながらの漆黒の肌を篝火に曝している。石炭を食べさせられているうちに、体が黒く変色してしまったのだろう。黒い肌に膨らんだ腹、そこから痩せこけた手足が伸びる様は、まるで立って歩く黒いアリだ。
地の底の広場に目を移す。
プールほどの広さの祭壇を囲んで、ギリシャの古代遺跡にでもありそうな巨大な石の円柱が立ち並んでいる。その祭壇中央の玉座に、額にヤギのような角を生やした巨人がいた。茨を冠した太い杖を尖った爪のある手で掴み立て、玉座の後ろに丸太のような尾を波打たせている。巨大な鬼、いや鬼ではない、小悪魔の王、魔王サタンだ。血の滴るような赤い目は、ゴジラの目と瓜二つ。口から青白い炎の息を吐いているところまで、そっくりだ。
黒アリと化した亡者が、祭壇の前、サタンの足元に引き出されてきた。
物憂げに首を揺らしていたサタンの動きが止まる。
サタンが動いた。尖った爪の先で亡者を摘み上げると、赤い目で一瞥、無造作に後ろの鉄枠に放り込んだ。直後、枠の中に鉄柱が打ち下ろされ、ガンと頭の奥に響く音が辺りを揺るがしたかと思うと、鉄枠の側面から黒い丸太がガラガラと転がり出た。その二メートルほどの丸太の先に、人の頭が……。
鉄枠は、亡者を丸太に加工するプレス機なのだ。
列をなす亡者の黒アリを、サタンはヒヨコのオスとメスを選別するような手早さで仕分けする。半分はプレス機に放り込まれて黒い丸太に。選に漏れた亡者は、もう一度、テラスにある石炭の餌場に引き立てられていく。
四人が四人、ワッと声を上げた。
小悪魔の一人が、棒状にプレスされた亡者の頭に火を付けたのだ。
赤い炎が亡者の顔を包む。
その時、理解した。地下の空洞に並ぶ篝火、松明は、亡者の体を整形して作ったローソクなのだ。石炭を食べさせて作った黒いロウソクに火を付け、篝火として利用している。目を凝らせば、赤々と燃える松明の中に、もがき苦しむ亡者の顔が覗く。頭がロウソクの芯で、燃えるのは石炭と化した胴体や手足。体が燃え尽きるその時まで、亡者は炎獄の炎に炙られる。ここは地獄、いやサタンがいるから煉獄だ。
地の底の空洞にこもった異様な音は、生きながら焼かれる亡者のうめき声だった。
「祭壇の後ろ」と、ヒデが小声で指さす。そこに真っ黒なローソクの束が所狭しと積み上げられていた。あまりの光景に声もない。
と、呆然と立ち尽くす四人を、小悪魔の打ち鳴らす銅鑼の音が揺さぶる。
「臭う、臭うぞ、異教徒の臭いだ。異教徒が我らの煉獄に入り込んでいる!」
小悪魔たちの充血した真っ赤な目が、四人のいる岩の割れ目に注がれた。
やばい、そう思って慌てて身を翻したのが悪かった、足が踵から滑った。
濡れた泥まみれの靴は踏ん張りが利かない。
四人は一塊となって垂直に近い急斜面を滑り落ち、最後岩に体を打ち付け悶絶しているところを、小悪魔たちに取り押さえられてしまった。
小悪魔たちの喝采と打ち鳴らす鞭の音が、煉獄の赤い闇に充満する。
「異教徒だ。炙れ、燃やせ、切り刻め、永劫の責め苦を負わせるのだ!」
小悪魔たちが口々に叫びながら、縛り上げた四人をサタンの前に引き摺り出した。
間近で見上げるサタンは、社殿の中の大仏、もとい、パルテノン神殿のゼウス像さながらの巨躯である。のしかかられるような威圧感に、体毛の一本一本が毛穴の奥で縮こまる。
汚らわしいものでも見るように鼻梁にシワを寄せ、憤怒の形相で睨みつける魔王に、執事らしき綾絹をまとった小悪魔が、恭しく辞儀をして申したてる。
「魔王さま、この鼻も捻じ曲がるほどの酷い臭いは、異教徒そのもの。聖なる煉獄を汚しに来たに違いありません。慣例では一寸刻みに切り刻み、煮えたぎる泥油の中にに投げ込むことになっております」
「御意、許可する」
割れるような魔王の声が閉ざされた地の底の空間を揺さぶる。
異教徒四人への裁定が下り、小悪魔たちが小躍りしながら、「油で揚げろ、カラッと揚げろ!」と、歓声を上げて四人を担ぎ上げる。目差すは祭殿左の油釜。
その時点で、保は失神、ジンは茫然自失、さすがの剛士も口をパクパクするだけで声が出ない。そんな三人を押しのけ、秀が掠れた声を張り上げた。
「お聞き下さいサタン様、ぼくはイエス様を信じております。ぼくはキリスト教の信者、クリスチャンです。この三人とは違います」
秀が必死の形相で胸元から十字のロザリオを引き出し、頭上に掲げる。
「これです、これが証拠です」
「やろう、秀、自分だけ助かろうってか」
声を振り絞る剛士を、小悪魔が遠慮会釈なく殴りつけた。
「洗礼名は!」という骨の髄まで凍りそうな魔王の声に、秀が「フィリポ・ワタナベ」と、蒼ざめた顔で申し立てる。
尖った指の爪で自身の顎を一掻きすると、サタンが重石の効いた声を轟かせた。
「過歴を調べた後、改めて裁定を申し渡す」
小悪魔たちが秀の体から縄を取り払う横で、魔王が不機嫌そうに茨の杖を床に打ちつけた。
「ええい、酷い臭いじゃ。早くその異教徒を油釜に放り込め!」
ジン、剛士、保の三人は、荒縄で二重三重に縛り上げられ、大釜に張り出す足場の上へと引きたてられた。三人の前にフックをつけたロープが引き下ろされる。クレーンで宙吊りにして、煮えたぎる泥油に浸け下ろそうというのだ。吊り上げられた三人の足元では、黒い油がプクリプクリと、ねっとりとした泡を弾けさせている。その煮えたぎる泥油を、釜番の小悪魔が櫓のように長い鉄べラを使って掻き混ぜる。ひと混ぜする度に、泥油の中から白いものが浮いて出る。砕けた骨に、眼窟の二つ並んだ丸い骨、しゃれこうべだ。
巻き上げ機を回す小悪魔たちがヤジを飛ばす。
「足先からゆっくり揚げてやるからな。煉獄の釜湯を楽しみな。半日もあれば、お前さんらの体も肉もドロドロに溶けて、哀れすっきり骨だけよ」
悲鳴を上げようにも声が出ない、もがこうにも縄が体に食い込み動けない。おまけに熱気で顔を炙られ、喉が詰まって息ができない。すでに保とジンは呆けたように目も虚ろ、体力のある剛士だけが、瀕死のカエルのように手足をくねらせていた。
その三人が絶体絶命の窮地に陥っている頃、秀は小悪魔たちに腕を掴まれ、祭壇の地下にある聴聞所への階段を下っていた。
途中の踊り場に大樽が所狭しと積み上げられている。側面に垂れた黒い染みからして中身は泥油。そこは油釜の焚き場の真下にあたり、上では今まさにジンたちの吊り下げられた釜の焚口に、小悪魔たちが石炭を放り込んでいた。
上の釜場で飛び交う「イヒッ、イヒッ」という小悪魔たちの耳触りな笑い声が、足を止めた秀の耳にも届く。
小悪魔が早く行けとばかりに秀の背を押した。
釜の横では、いかにも性悪そうな小悪魔たちが、巻き揚げ機のハンドルを回す手を止め、ロープを揺さぶっていた。振動で三人を縛り上げたロープの繊維がピンピンと撥ねるように解れる。その縒りの戻りに合わせて、三人の体がずれ下がり、三人の靴が泡立つ油膜のすぐ上へ。焼き鏝を当てたような熱さと靴の焦げる臭いで、気を失っていたジンと保も意識を取り戻した。慌てて足を持ち上げるが、足を上げると反動で尻が下がる。
「アヂーッ!」
じたばたとあがく異教徒をいたぶるように、小悪魔の一人が鉄ベラを油の表面に打ち付けた。滾った油の飛沫が、もがく三人にも飛び散る。
油釜の上に響き渡る、三人の絶叫に、小悪魔たちが足を踏み鳴らして、やんやの喝采。
との時、下の焚き場で「イイイッー!」という小悪魔の叫び声が上がった。ガラスを擦るような不快な悲鳴に続いて、祭壇脇の階段口から黒い煙が噴き上がってきた。
その煙が巻くように釜を包むと同時に、三人を吊り下げたロープがガクンと揺れる。
「ア、ア、あかん、もうダメや!」
もうこれまでと剛士たちが目を固く閉じた瞬間、ロープが大きく横に揺れ、三人はドスンと固いものの上に体を打ち付けていた。釜に張り出す足場の上に落ちたのだ。尻からの着地で、尾底骨から脳天に痛みが突き抜ける。
奥歯を噛み締め痛みを堪える三人に、「大丈夫か」と煙をかき分け秀が顔を出した。
縄を解く秀に、剛士が食ってかかる。
「この、野郎、一人、だけ……、助か……」
罵りたいが熱気で喉が焼けて声が掠れる。
秀が心外そうに怒鳴り返した。
「タケ、全員捕まったら誰が助ける、それより脇に寄ると鍋に落ちるぞ」
下は煮えたぎる泥油だ。四人は慌てて後ずさると、足場から地面に飛び降りた。
踊り場の油樽に火が回ったらしく地下への階段口から火柱が吹き上がる。その炎と湧き上がる煙から逃れるように、四人は前方の石組みの間に駆け込んだ。見る間に煙は神殿中を靄に埋めていく。漂う煙を透かして、小悪魔たちが走り回る姿が見え隠れ。その小悪魔たちが、トラックほどもある機械を引き出してきた。交錯する叫び声から、それが集塵機だと知れる。煙を吸い取ろうというのだ。
絶壁で囲まれた閉ざされた空間である、煙が晴れてしまえば、すぐに見つけ出され、今度こそ四人全員切り刻まれて油釜に放り込まれてしまうだろう。
這いつくばって周囲を探っていたジンが、前方に汚水を流す溝を発見した。伝えば絶壁の縁まで行き着けそうだ。四人は石組みの間から飛び出すと、深さ二メートルほどの汚水溝に身を踊り込ませた。
油の浮いた汚水に首まで浸かりながら、絶壁へ。
その途中で、いいものを見つけた。吊り下げ式のワゴンだ。
この煉獄の空洞は、十階建てのビルがスッポリと納まる高さがある。その巨大な空間の上と下を繋ぐために、壁面の所々に昇降用のリフトが、櫓やクレーンと併せて取り付けられている。目の前、煙の中に薄ぼんやりと見えている四角いものが、その煉獄の上と下を結ぶリフトのワゴンだ。五台ほど並ぶ櫓の中で、ワゴンが下に降りているのは一台だけ。他のリフトはワゴンの代わりに、一抱えもある分銅が床に鎮座している。巻き上げ機を使って分銅を持ち上げ、落下の力を利用してワゴンを引き上げる仕組みなのだろう。
とにかくリフトの一つは、重しの分銅が煉獄の天井に吊り上がり、乗って下さいとばかりにワゴンが下にある。これを利用しない手はない。
四人は排水溝から這い上がると、リフトに向かってダッシュ、後先考えずワゴンに跳び乗った。そしてワゴンの中、一畳ほどの四角い編み籠の中を見回し困惑した。ワゴンの上げ下ろしを操作するレバーやスイッチが見当たらないのだ。
外に目を向けた保が、「アレや!」と、ワゴンから少し離れたところにある小屋を指した。リフトからロープが、その小屋に引き込まれている。おそらくは、あれが操作場だ。その証拠に、小屋の中には子供の背丈ほどもあるレバーが並び、内一本は上に跳ね上がっている。しかし……、と四人は絶句した。
小屋とワゴンは、ひとっ走りの距離だが、間に汚水を溜めた大きな溝がある。操作場に行ってレバーを操作、上手くリフトが動き始めたとして、戻ってくるまでに、ワゴンが手の届かないところまで上がってしまう可能性がある。ならどうすれば。
四人が互いに顔を見合わせている間にも、煙が薄れてきた。モーターの回る機械音が耳に煩い。集塵機が動き出したのだ。急がなければ煙が晴れてしまう。
焦る皆を押しのけ、剛士がワゴンから飛び降りた。
「どうする」と叫ぶ三人に、「これしかなか」と、剛士が腕をぐるぐると回す。その手に野球のボールが握られている。ぶつけてレバーを倒そうというのだ。しかし、レバーの手前には小屋を支える太い柱が。そのまま投げたのでは柱にぶつかってしまう。
「タケ、柱が!」
「黙るとっ、集中でけん」
怒鳴り返すや、タケシは大きなモーションで振りかぶった。燃える炎に照らされた剛士の顔は、サタンの向こうを張って阿修羅の形相。
剛士が渾身の力で腕を振り下ろした。白球が小屋の中、レバーに向けて糸を引く。
煙が小屋の前で渦を巻いているため、ジンにはボールの行方を見定めることはできなかった。しかし直後、ワゴンはガクンと一揺れ、ゆっくりと上昇を始めた。剛士の一投が功を成したのだ。剛士がワゴンに飛び付くように乗りこんできた。
「頭を引っ込めろ、見つかる」
秀が、ジンと保の頭を上から押さえた。
四人を乗せたワゴンが、ギシギシと軋む音と共に上がっていく。
あとは小悪魔たちが小火の消火に気を取られて、動きだしたワゴンに気づかないのを願うだけだ。ワゴンの中で身を屈め、篝火に赤く照らされた天井を見上げながら、必死に祈る。ジンと剛士は仏様に、秀はロザリオの十字に、そして保はといえば財布に付けた恵比寿様のお札にデコ頭を擦りつけている。気付いたジンが冷やかな視線を投げると、「大阪人の神様はコレやねん」と、保が口を尖らせた。
しばらくすると上から降りてきた分銅とすれ違った。そこがリフトの中間地点らしい。ワゴンの隙間から外を覗くと、煉獄の外壁、ゴツゴツとした岩肌が手を伸ばせば届くところにある。と、唐突にワゴンが停止。上と下で歓声が上がった。
ワゴンの縁から顔を覗かせた四人の体に、悪寒が走る。小悪魔という小悪魔が憎悪丸出しの顔でこちらを見ていたのだ。
停まっていたワゴンが再び上に向かって動き出した。
櫓の最上部、リフトの詰め所で、小悪魔たちがオイデオイデをしている。下ではなく上でひっ捕まえようというのだろう。
リフトの動きが速まってきた。このままでは万事休すだ。
何か手は……とワゴンから身を乗り出す秀と剛士の背後で、ロープがギグギグギグと奇妙な音を立てた。そして再びワゴンが停止。ロープの潜る金具の隙間に、ジンが運動靴をねじ込んだのだ。靴とロープがせめぎあって喉の奥が痒くなるような音をたてている。
ジンが目の前の岩壁を指した。なんとトンネルが口を開けている。上手い具合に、トンネルの前には岩の張り出し。ジンが叫んだ。
「跳ぶしかなかーっ!」
平らな地面なら楽勝の距離だが、四人がいるのは不安定なワゴンの上だ。それに眼下、五十メートルはあろうかという奈落の底では、目をぎらつかせた小悪魔たちが手ぐすねを引いている。しかし尻ごみをしている暇はない。決断を急かすように、ワゴンがジンの運動靴を擦り上げながらジリジリと動き始めた。
「行こばい、続けーっ!」
雄叫びを上げるや、剛士がワゴンの縁に這い上がる。そして思い切り体を反らせて跳んだ。剛士は柔道の心得もある。受身をするように前方の穴に転がり込んだ。
「さすがや、次!」
言って秀がジンをワゴンの上に押し上げる。
自分から言い出したことだが、ジンにはまだ心の準備ができていなかった。それでも秀に背を押されるようにして、目を瞑ってカゴの縁を蹴る。体が宙に浮いたと思った時には、靴の前半分が岩の出っ張りに乗っていた。剛士が腕を掴んで引き寄せる。
問題は保と思ったが、意外や保は高いところが平気らしく、無造作にヒョイと跳んで、ゴムマリのようにトンネルの中に身を踊り込ませた。最後が秀。
がその時には、すでにワゴンはトンネルの口よりも上に来ていた。早くと三人が手を振るのに合わせて、秀の体がワゴンを離れた。がその瞬間ワゴンが横にひと揺れしたため、跳ぶ方向がずれる。足先が石のでっぱりに届かない。だめだ、これでは下に落ちてしまうと、ジンたちが息を呑んだ瞬間、秀は右手一本で岩の出っ張りにしがみ付いた。
三人でごぼう抜きに秀を引き揚げる。
滑り止めに突っ込んだジンの靴が二つに千切れて落下していくのを見届けることなく、四人は坑道に走り込んだ。奇しくもその穴は、四人が煉獄の空洞に転がり落ちた際に通った穴だった。なぜそれが分かったかというと、懐中電灯が落ちていたのだ。
すぐさまそれを点灯。
しばらく行くと、秀と保の荷物が尖った岩に引っかかる形で残っていた。
このまま上に向かって登れば、煉獄の闇から脱出できるのではと淡い期待を抱いたのもつかの間、次の関門が四人を待ちうけていた。上に上がる穴が幾つも口を開けている。どの穴も、かなりの急勾配だ。
登る穴を迷う間にも、下から小悪魔たちの声が聞こえてきた。
「どれでもよか、とにかく上や」
意を決して四人はエイヤで一番手近な穴に走り込んだ。しかし、ほどなく穴が横向きに変わる。おまけに足元に鉄のレールが現れた。自分たちが滑り落ちた穴とは別の穴だ。
しかしもう後戻りはできない。後ろから小悪魔たちが歓声を上げて近づいてくる。
「石を積んで穴を塞げば」
「ぎゃん間に合わん、とにかく奥や!」
真っ暗な坑道を懐中電灯の明かりを頼りに走る。しかしゴロゴロと転がる岩が邪魔で、思うように前に進めない。そうこうするうちに枝道が現れた。それも同時に四つも。いや少し先にも穴が二つ。四方八方、クモの巣状に穴が開いている。
後からだけでなく、前方からも小悪魔たちの気配が伝わってくる。
どの穴に進めばいいか全く判断がつかない。
頭を抱えた四人に、トロッコの音が迫る。もう破れかぶれ、今度は一番大きな穴に走りこんだ。直後、後方をトロッコが通り過ぎる。数秒後、耳を貫くような金属音と、小悪魔たちの叫び声がトンネルを駆け巡った。トロッコが脱線、ひっくり返ったのだろう。
後方の喧騒に構うことなく先へ。
しかし進むに連れて、崩落した瓦礫が坑道の底を埋めるようになってきた。
保のズボンが坑木の金具に引っ掛かって裂ける。
後ろにまた小悪魔たちの騒々しい気配が迫ってきた。歓声に加えて、金属の棒を打ち鳴らす音や鉦やラッパの音、歌声までが聞こえてくる。まるで狐狩り、獲物の追い出しだ。
その小悪魔たちの楽しげな合奏に追い立てられるように、石を乗り越え、這いずり、躓き、走る。ジンと保は大柄な剛士と秀に付いていくので必死だ。
ジンが前を行く剛士の背に頭をぶつけた。
見ると剛士が足を止め天井を見上げている。天井を支える梁が大きく下に撓み、左右の坑木も傾いて、いまにも頭上の岩盤が崩れ落ちそうになっている。支柱の坑木が少しでも動けば、釜の底が抜けたように天井が落ちるだろう。
剛士が坑木に手を押し当て怒鳴った。
「お前ら先に行くとーっ!」
ギョッとして秀が剛士の顔を見つめた。
「どうするつもりや、タケ」
「柱を倒すたい」
「バカな」
「こんままやと、みんな捕まってロウソクにされるばい」
「ふざけんな、自分だけ格好つけて犠牲になるつもりか」
怒鳴り返して秀も柱に手を掛ける。保もだ。
小悪魔たちに捕まって油で唐揚げにされるくらいなら、石に押しつぶされて、ひと思いに死んだほうがよほどましだ。その気持ちは秀も保も同じだ。剛士に並んで坑木に肩を当て、全身に力を込める。しかし支柱はびくともしない。
「クソッ、ばり重か、まるで岩盤たい」
力を入れようと体の向きを変えた秀が、アレッと顔を上げた。
「ジンはどうした、あいつ、一人で逃げたのか」
間髪いれず坑木の陰からジンの声が返ってきた。
「怒るとよヒデ。明かりばのーて、どげんして逃げるち、それよか、これ!」
憮然とした顔でジンが差し上げた手に、フックの付いたワイヤーが握られていた。その先には金属製のてこのような道具。パワーウインチだ。
剛士と秀の顔が輝いた。直ぐに先端のフックを別の坑木の金具に引っ掛け、パワーウインチを鉄の軌道の隙間に固定する。
そうするうちにも小悪魔たちの忌々しい嬌声が近づいてきた。
「これでよか、崩れそうになっとー、奥ば走るけんな」
呼びかけながら剛士がパワーウインチのレバーを動かす。しかしワイヤーが伸びきると、後は秀と剛士が二人一緒に力を込めても、レバーは溶接したように動かなくなった。松明の赤い炎が坑道の闇の中に現れた。鬼たちの顔が見える。ニヤニヤ笑いながらこちらに向かってくる。舌舐めずりをしているやつもいる。
「タケやん、四人で並ぶたい」
ジンが足元を指した。そこにあるのはピンと張ったワイヤー。説明されるまでもなく、他の三人もジンの意図を感じ取っていた。全員が一度に飛び上がって、全体重をかけてワイヤーを踏んづけるのだ。中学生の腕力などタカが知れている。でも四人で勢いよく全体重を乗せて踏みつければ……。
「セーノ!」、四人がタイミングを合わせて、ワイヤーの上へ身を踊り上がらせた。そして八本の足がワイヤーに乗った瞬間、耳を聾する轟音が当たりを包んだ。
四人の意識はそこでプツリと途切れた。
ピタン、ピタンと水滴の落ちる音が耳元で鳴り、水滴の跳ね返りが、首元まで土砂に埋まったジンの頬にかかる。うっすらと目を開けたジンに、赤い夕日が見えた。
秀、剛士、保の三人も、ジン同様、土砂に体を潜り込ませていた。気がついたのだろう、それぞれが体を起こす。四人は瓦礫まじりの砂から這い出すと、互いに顔を見合わせた。ぎこちなく手足を動かす。痛みはあるが怪我はないようだ。
見るとトンネルの壁面が大きく崩れ落ちていた。どうやら崩落してきた土砂に埋もれて気を失っていたらしい。
四人はとにかく急いでトンネルを抜けることにした。日没間近の夕日が真横からトンネルの中に差し込み、目を開けていられないほどに眩しい。
小走りに、最後はほとんど競争でもするようにトンネルから飛び出すと、四人は出口に転がる瓦礫の上に座り込んだ。
日没間ぎわの山の冷気が背後の鋸山から忍び足で降りてくる。
荒い息を付きながら四人は再度互いの顔を見合った。石炭の粉を擦りつけたように真っ黒な顔のなかで、白目だけが妙に浮き上がって見える。
汚れた顔に、かぎ裂きだらけの学生服、保のズボンなど膝から下が破れてなくなっている。しばし四人は虚脱状態のようにそこに座り込んだ。
差し込む夕日が逃げるようにずれ動き、トンネルが闇に戻っていく。
最初に声を上げたのは剛士だった。
「くそう、ボールがなかと、落としたばい」
ボールを押し込んでいたズボンのポケットが、へしゃげていた。
ジンが辺り前のように言った。
「リフトのレバーば動かそうち、投げたきりと」
ぎょっとしたように剛士がジンの顔を見すえた。
「煙が邪魔で、当たる瞬間ば見えんやった、ばってん、よう柱にぶつからんと……」
ジンが尻すぼみに声を細めた。自分の口にしたことの意味を考えていたのだ。
保がジンの右足を指している。靴が脱げ、靴下も破けて親指の先がむき出しになっている。保が恐る恐るジンに聞く。
「わいの記憶では、ジン、月星の靴を滑車に挟みよったよな」
半信半疑でジンも答える。
「そげんかこつ、あれは夢やなかった……、と?」
眉間にしわを寄せた秀が、「亡者のロウソク」と、ぽそりと口にする。
四人がゾッとした顔で後ろを振り向き、トンネルの闇を覗き込む。
次の瞬間、焼き鏝でも当てられたように四人は跳ね起きると、日が翳って薄暗くなった山道を県道に向かって走り出した。
息を切らせて県道に躍り出た時には、日も完全に沈み、頭上は一面の夕焼け空に変わっていた。その赤焼けの空が地底の煉獄を思い出させる。
トンネルのあった鋸山は後方に下がり、右手に女性の乳房を並べたようなボタ山の並びが見えてきた。竪坑の櫓が作る綾取り糸のようなシルエットが、空の底に聳え立つ。道路脇に転がる土管を見つけると、四人は荒い息を宥めるように腰を落した。
日中風の音で満たされていた稲田が、夕刻からは狂おしいほどの虫の音の海に変わる。その姦しい虫の音に包まれて見やる道路の先に、オレンジ色の灯がチラチラと灯り始めた。自分たちの住む町の明かりだ。夕餉の煙が幾筋も横に棚びいている。
土管に腰掛けたまま、四人は肩の力が抜けたように大きな息をついた。
秀がドロップの缶からピースの最後の一本を引き出すと、胸のポケットに手を当て天を仰いだ。
タバコを指に挟んだまま動かない秀を見て、「どげんした」と剛士が声をかける。
「やっと手に入れたのに」と、秀が悔しそうな声を吐いた。ジッポウのライターを、あの煉獄に置いてきたのだ。
剛士たちが油釜の上に吊り上げられるなか、秀は一人取り調べのために祭壇下の聴聞所に連行された。その途中で泥油の樽を見つけた秀は、とっさに垂れた泥油の下にジッポウを置いた。もちろん火を付けた状態でだ。秀の願いは神様に届き、樽に火が回って本当に小火が起きた。いや期待以上の騒ぎになった。そしてその騒ぎの隙を突いて、皆を助け出すことができた。
秀の話を聞いて、三人がようやく腑に落ちた顔をした。都合よく火事が起きたことが不思議だったのだ。剛士が秀の肩を揺すった。
「悪かった、俺が小遣いば貯めて、弁償したるけん」
「そうそう、あれ高かとね、幾らぐらいすると」
真顔で聞くジンに秀が頬をかいた。今さらあのジッポウが模造品だとは言えなかった。
「ばってん、俺はボール、ジンは新品の月星ば犠牲にしとっと、おあいこたい」
高らかに言う剛士の前で、秀が改めて手にした袋をまさぐり肩を落とした。念のためにと放り込んで置いたマッチが、入っていなかったのだ。
「悔しいな、こういう時に一服できないのは」
心底残念そうな秀の鼻先に、マッチの小箱が差し出された。保だ。
喫茶エンジェルのマッチを、保が秀の手に置く。
「なんでお前が?」と、秀が不思議そうに保の顔を覗き込む。
保が恥ずかしそうにナップサックの中から、封を切っていない新品のホープを取り出した。三人がまさかという顔で保を見た。
剛士が顔を赤らめ言い寄る。
「おいタモツ、おまん、俺がタバコば勧めた時、なんちゅうた。ぼく喘息やからって、あれ口からでまかせやったとー」
保が消え入りそうな声で釈明する。
「そやかて、学校の連中みんな両切りのピースやろ。フィルター付きの煙草を好きや言うたら、仲間に入れてもらえへんかと思うたんや」
真顔でそういう保に、秀が膝を叩いて笑った。
「ばっかだな、あれは、安いからというだけの話や」
「時代ば、もうフィルター付きん煙草ぞ」
剛士とジンも笑う。
四人でホープとピースを吸い回しながら、夕暮れ時のでこぼこ道を行く。タバコをくゆらせ、喉の奥に煙を吸い込む度に、大人への階段を一歩上がったような気になる。道路から昼間の焼けた土の匂いが立ち昇っている。その昼の名残を夕刻の風がさらりと払い、その風にタバコの煙が乗る。歩きながら映画で見たゴジラのように、タバコの煙をガーッと吐き出す。それを皆で競い合う。
ジンが心底極まったように言った。
「今日のこつ較べるばってん、ゴジラなんか子供だましや」
「ほんま、ごっつほんまや」
秀が思いついたように剛士に聞いた。
「タケシ、お前、いつカーブを覚えた」
足を止めかけた剛士が「何のことや」と、とぼけたようにタバコを吹かす。
「誤魔化すな、地底で剛士が投げたボール、カーブだったぞ。カーブやから、あの小屋の柱に当たらず後ろのポールを倒すことができた。だいたい手の振り方が、いつもと違ってた。おれ、球筋をしっかり見極めてたんやで、球の回転もや」
剛士が感心したように部活の旧友を返り見た。
「さすがはヒデや、だてん野球ば齧ってなかと」
話を聞いていたジンと保が驚きの声を上げた。
白状しろとばかりに秀に脇腹を突かれ、剛士が参ったとばかりに空を見上げた。そして一息大きくタバコを吸うと話し始めた。剛士が部の練習参加禁止を言い渡されたそもそもの原因は、監督がカーブの練習を勧めてくれたことを、自分の速球を監督が評価してくれてないと、剛士が早合点したからだ。辞めた後でそれに気づいた剛士は、詫びを入れて野球部に戻る時のために、自分でカーブを投げる練習を始めた。皆には内緒でコツコツとだ。いかにも見栄っ張りの剛士らしい。
「ちーっ、もっとうもうなっちから披露ばして、驚かそう思うてたに」
「あれでも十分凄かった、金田二世の片鱗ありだな」
「何やそれ、オレはオレの一世ば、めざすたい」
「はは、そこがタケシのいいところや、もしタケシがプロを目差すんなら、おれも野球部に戻るかな、もちろん今度は打者でだ」
「相変わらず、気の多かことか」
「アホ、お前と競争したくないからや」
言って嬉しそうに剛士の背を押す秀に、ジンが提案する。
「もし二人がプロ入りばしっち、絶対二人の名前ば入った酒んこつ、売り出すたい」
「ほなら、わいは出世払いで、先にたっぷり金を貸し付けとくわ」
指でソロバンを弾く真似をする保に、剛士が胸を叩いた。
「そうや、しっかり貸してくれや」
「で、利子はなんぼに……」と言いかけて、保が両手で頭を押さえた。
「みな、ナイター見るって言うてたよな」
その一言に、残りの三人が一斉に、ワーッと雄叫びを上げる。
完璧に忘れていた。巨人阪神戦は七時からだ。
「ナイターだ!」と高らかに叫ぶと、四人は我がちに夕暮れ時の農道を駆け出した。
月日は流れる。
あの不思議な体験の翌年のこと、ジンの両親は田舎町での商売に見切りをつけ、東京に居を移した。そして開業したのが現在の枡清である。
今では故郷の町にジンの級友は誰も残っていない。風の便りに、秀の父親が鉱山技師としての技術を生かすため、海外の炭鉱に仕事を求め、カナダに移住したと聞いた。秀も一緒に海を渡ったことだろう。保は博多に引っ越し、剛士は中学卒業後、集団就職で関西に出た。秀も剛士もプロ野球の選手には縁がなかったようだ。
残念ながら、東京への引っ越しと共に三人との繋がりも途絶えた。
先祖の墓を移したために足を運ぶ機会もなくなっていたが、ジンは昨年所用で福岡に出向いた折、レンタカーを借りて久しぶりに山間の懐かしい町に足を伸ばした。
あの夏の日、汗を流し流し歩いた県道は、舗道まで備えた二車線の立派な道に変わっていた。ただ過疎に泣く田舎の道である。車の往来もほとんどなく、ガランとした道は空ばかりが広く見える。カーナビに目を落とすと、あの隧道のあった場所に立派なトンネルが通っている。ジンは県道を折れて鋸山方行へハンドルを切った。
ハイウェイのような道が続く。
目の前に断崖のような峰が迫ってきた。山稜のギザギザは同じだが、何もかもが変わりすぎて、思い出の縁を辿るものが見当たらない。
トンネル手前の遊歩地に車を止めて、辺りを少しぶらつく。
どこもかしこもコンクリートで固められていた。山側のコンクリの壁面に、小さな石碑を見つけた。腰の高さほどの石碑。あの日、モッチンがションベンを引っかけた石碑だろうか。風化し苔蒸した石碑だけは、時間の名残を留めている。
横に解説のプレートが立っていた。埃がこびりついて読み難い。
『隠れキリシタンの……』とある。
老眼の入った目をしばたき、ジンは解説を拾い読みした。
『かつてここには岩の割れ目を利用した洞窟があった。江戸時代に隠れキリシタンの集会所として使われていた洞窟で、領主の迫害に追い詰められたキリシタンたちが、集団自決を図った場所とも伝えられ……』
白々と陽光を反射するトンネルの壁面からは、かつての陰惨な思い出は汲み取れない。トンネルの中は反対側の出口まで一直線に整備され、天井のナトリュームランプと合わせて、明るい光が満ちている。歴史も時間も人の想いも、全てをコンクリで塗り固めてしまったような素っ気ないトンネルだ。
それでもと、ジンは、あの日、友人たちと経験した煉獄の世界に想いを馳せる。
今にして思う。弾圧されたキリシタンたちの無念の想いが、あの隧道の奥に残っていたのではないか。山向こうには、明治期に開発された大小の炭坑が点在している。大人になってから知ったことだが、そこでは朝鮮半島から、半ば騙され、半ば強制的に連行されてきた人たちが、過酷な労働を強いられ、その多くは故国に戻ることなく異国の土に埋もれていったという。炭坑の坑道は、この地の足元に網の目のように広がっている。おそらくは、このトンネルの下にも……。
キリシタンの人たちの怨念と、強制労働に従事させられた朝鮮の人たちの無念が重なり合って、あのような煉獄の空間が生まれたのではないか。そういえば朝鮮の人たちにはキリスト教徒が多いと聞く。
ジンは胸で十字を切ると、静かにその場を離れた。