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【ベラドンナの”魔女”】

作者: 蒼宮 那雪

 僕の妻は、突然光を失った。

 ある男はそう云った。


 ある朝、目を覚ますと隣に寝ている妻の様子がおかしかった。確かに起きているのに、声を掛けてもこちらを見ようとしない。背を向けたまま、弱々しい声で「はい」とだけ答える。いつもなら黒々とした丸い瞳を半分閉じてこちらを向くのに。無言のまま、背を震わせている。ただならぬ様子の妻の肩を掴んで、無理やりにこちらを向かせた。

失明したわけではない。恐らく彼女の瞼の下では、彼女の小鹿のように愛らしい黒々とした瞳が正常に働いているはずなのだ。瞬きをするたびに雫が零れ落ちて来そうなほど、艶やかで大きな彼女の瞳。それが今は、瞬きどころか、黒の一端も見せることなく、瞼に覆われている。

何も見えないのです。

と、そう妻は云った。瞼を閉じているのだから当たり前だと男は云った。しかし、妻はそれでも首を振って男から目を逸らす。目を見せたくないというより、顔を見せたくないように見えた。そんな状態の妻に、男は理不尽に苛々を募らせた。瞼を開ければ見えるだろうと、声を荒げることもした。それでも首を振るだけの妻に見切りをつけ、起き上がっても妻は布団を頭まで被ったままじっとしている。普段なら、男が目を覚ますよりも早くに起きて、朝食ができる少し前に男を起こし、男が顔を洗って着替えが済んだ頃に朝食を食卓に並べる。流れる様な日々の中に埋没している当たり前の情景。妻が立つキッチンに立って、男は自分の無力を知った。

着替えてベッドに戻り、ようやくどうしたのかと問い掛けた男に、妻は弱々しい声で答えた。


 ベラドンナの魔女が……。


 それきり、妻は何も語らない。ただ、壊れた人形のようにごめんなさいと繰り返し、閉じた瞼から涙を零している。




「それが、最初の被害者ですか。」

 使い古した万年筆でメモを取るのも忘れ、僕は目の前の老人が語る話に飲み込まれていた。ふうと老人が息を吐いたところで我に返り、急いで左手に持った取材帳に書き込む。

「ああ、その後、男の妻は二度と目を開ける事はなかった。一〇年もすれば妻は死に、男は愛する妻を失った悲しみで後を追うように亡くなったそうだ。」

「その話はいつのことですか?」

「……今から五〇年は前の話だ。私がまだ若い頃に起きた事件だからな。被害者は最初の男の妻を含めれば、この小さな街だけでも一〇人を超える。」

 老人は皺を多く蓄えた目尻をきゅっと萎め、なお辛そうな顔をした。

「被害者の一〇人に共通点などはありますか。なんでも些細なことでもいいので」

「共通点、と云っても、両目が開かなくなるのは決まって女だということ以外には、何もないように思うがね。」

「そうですか……」

 僕は取材帳を閉じて、老人に礼を述べた。老人は疲れた様子で深いため息を吐く。もう話すことはないといった様子だ。しかし、僕はまだ自分が聞きたい最も重要な事柄に触れていなかった。

「最後に一つだけ聞かせて下さい。“ベラドンナの魔女”について、何かご存じですか?」

 ベラドンナの魔女。

 それは、突如両目が見えなくなるこの奇怪な事件の被害者の共通点の一つだった。被害者の話を聞きまわるうちに浮かび上がった、容疑者の名前だ。勿論、その“ベラドンナの魔女”が実在しているのか、同一人物なのか、そもそも人間であるのか、被害者あるいはその周辺の人間、事情を知る人々が口を揃えてそう云っていたというだけで、確証は何もない。しかし、僕はこの事件がその“ベラドンナの魔女”のせいであるとほぼ確信している。根拠はないに等しいのだが。

 老人は僕の希望に反して、つまりは僕の予想通り、目を伏せて首を横に揺らした。

「残念だが、“ベラドンナの魔女”というのは両目が開かなくなった妻が一度口にしたというだけで、それ以外に私は何も知らん。男もその魔女というのが妻の目を見えなくしたものと思って、妻に問い質したらしいが、妻はその魔女と呼ばれる者について語るどころか、その言葉を口にしたことも覚えていないのか、とぼけているのか、知らないと云ったそうだ。」

「そう、ですか……」

 僕の落胆は老人にも伝わったのだろう。突然の訪問者、彼にとっては悲しい記憶を蘇らせるだけの僕に、老人は気の毒そうな顔をし、珈琲のおかわりを勧められた。それをできるだけ丁寧に断り、僕は席を立つ。足の悪いらしい老人は、さすがに見送ろうという気配は見せず、すまないな、と一言謝った。

「いえ、こちらこそ、突然お邪魔して申し訳ありませんでした。失礼します。」

 僕はソファーの隣で一礼すると、唯一の荷物である黒の手提げ鞄を持って部屋を出て行こうとした。僕が重厚な木製の扉を開けた時、ふと老人は何かを決心したように視線を上げて僕を引き留めた。

「役に立つかはわからないが、そういえば最初に目が見えなくなったその女性には、確か姉がいたはずだ。」

「姉、ですか」

「その姉という人ならまだ生きていたはずだ。」

 最初の被害者の家族。これまでで最も被害者と近しい人物の予感がする。老人は手近にあった紙片を取ると、簡単な地図を書いてくれた。部屋の様子(この街の新旧複数の地図、本棚にずらりと並んだ古い本、コンパスなど)から察するに、老人は歴史家であるらしい。深く皺が刻まれた手に反して慣れた手つきでさらさらと書かれた地図を、僕は丁寧に受け取った。老人はソファーに深く沈み込み、机に置かれていたパイプに火をつけた。

「そうだ。“ベラドンナの魔女”と関係があるかはわからないが、昔、この辺りには魔女と呼ばれるような女性が多くいたそうだ。」

「魔女がいたんですか?」

 初めて聞く情報に、僕は思わず大きな声を出した。

「魔女、と云ってもお伽噺に出て来るような魔法を使う類の魔女ではなく、薬草や病気についての知識を多く持っていた女性のことを魔女と呼んでいたようだが、そう呼ばれる女性がいたことは確かだよ。私が子どもの頃には、今のように便利な病院なんぞ、大都市にしかなかったからな。そういう女性が小さな村や町には必ずいて、軽い怪我や病気はそういった女性が治してくれたものだ。私は“ベラドンナの魔女”と聞いて、真っ先に思い出したよ。」

「魔女……」

 老人はそれ以上本当に何も知らない様子で、ゆっくりと目を閉じた。昔懐かしい記憶を手繰り寄せているような顔だ。

 僕は静かに扉を閉め、老人の家を後にした。

 外はいつの間にか日が沈みかけていた。秋の冷たい風の中、コートのボタンを留め、これまで取材で手に入れた情報を反芻する。両目が見えなくなる女性は、この小さな街を中心に少なくとも一〇人はいた。女性たちの多くは、朝目が覚めると目が開かなくなっており、視覚がないことで生活が困難になった彼女たちは、徐々にその生活を放棄し始めた。これは僕が取材したある人の表現だったが、その表現は当たっていると思う。彼女たちの多くは、外に出ることも、食べることも、もしかしたら寝ることすら放棄して徐々に衰弱していったのだ。そして、最後には死を迎える。彼女たちはいずれも家族、あるいは恋人に見守られながら微笑んで死んでいくという。

 どの女性も“ベラドンナの魔女”という言葉を遺して。

 僕はもらった地図を改めて見つめる。最初の被害者の姉がいるだろうと老人が教えてくれた場所に、黒い丸の印がつけられている。その印を見る限り、この街の北側、緑に覆われた山の中にその女性はいるらしい。

 もう、陽が落ちた。今からその姉に会いに行くにはもう遅い。僕は日を改めることにして、取材の拠点にしている小さな宿屋に戻った。拠点としている宿は、この小さな街で唯一の宿泊施設で、僕以外に客はいない。元は老夫婦が経営していたようだが、今は若い娘夫婦が切り盛りしている。丸太を組み立てて作ったようなログハウス調で、洒落た見た目は明るい若夫婦の人柄を表しているような、ようは居心地のいい宿だった。

「お帰りなさい。今日も取材お疲れさまです。」

 夫婦の妻、つまりこの宿の一人娘に出迎えられる。丸い大きな瞳が印象的な、可愛らしい女性だ。人懐っこい彼女に出迎えられて、僕も思わず自分の家のようにただいま帰りましたと返す。

 温かな家庭を切り取ったような一コマ。実際、孤児院で育った僕はこんな温かな出迎えを受けたことなどないのだけれど、想像するに普通の家庭とはこんな感じなんだろうなと思っている。

「記者さんって、朝早くからこんな遅くまで働かないといけないんですね。」

「宿の経営もそうじゃないですか。僕たち客が寝なければ仕事は終わらないんでしょう。」

「あら。それもそうですね。」

 笑いながら、彼女は僕に夕食を勧めてくれた。ダイニングに行くと彼女の夫がまたお帰りなさいと出迎えてくれる。テーブルの上にはすでに料理人だったという彼が作った料理が並べられていた。豪華なものではないか、家庭の味、といった風で美味しかった。

「今日はいかがでした? 取材、上手くいきました?」

 僕と一緒に、というより僕の方が一家の食事に邪魔しているような形で、食卓を囲みながら彼女が云った。

「そうですね。最初の被害者の姉が、まだこの街にいるという話を聞けたので、明日その人に会いに行ってみようと思います。」

「まあ、それは良かったですね。」

 ぱっと花が咲いたように彼女は笑顔を見せた。僕もつられて笑顔になる。彼女の笑顔はどうやら他人に伝染するらしい。

「なので、明日は少し朝が早くなるので……」

「ええ、では少し早めに朝食を用意しておきますね。」

「あ、はい、お願いします。」

 僕は朝が早いから朝食はいらないと云おうとしたのだが、彼女の楽しそうな様子に云いそびれてしまった。彼女の隣に座っている彼女の夫は、小さく苦笑しながら僕に向けて肩を窄めて見せた。いつもこうだ、という意味だろうと読み取れた。

 夕食は、そうして終わった。


 朝はすぐに訪れた。

 朝、というよりまだ夜明け前だ。カーテンからは全く日が透けていない。予定していたいつもより早い起床時間よりもさらに早い。なぜこの時間に目が覚めてしまったのか、原因は考えるまでもなく、廊下から聞こえてきた。

 ごめんなさい、ごめんなさい

 悲痛な、あの女性の声だった。何度も繰り返し、声を聞く限り泣いているのではないだろうか、謝罪の言葉を繰り返している。

僕は咄嗟に部屋のドアを開けて廊下へ出た。宿泊施設とはいえ、客用の部屋は二部屋しかない。狭い廊下の突き当たりで、蹲る女性と、その側に立つ夫の姿があった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 同じ言葉を繰り返す妻に、困り果てた夫が背を摩って宥めている。それでも妻は落ち着く様子を見せない。それどころか、首を振り、顔を自分の腕に埋めている。まるで顔を見せたくないというように。

 その様子に、僕は奇妙な既視感を覚えた。

「どうしました」

「それが、起きたときにはもう妻が泣いていて……私は何がどうしたのかさっぱり……」

 夫の方がそう答えた。状況がさっぱりわからず、どこか苛ついてすらいるように見える。

 僕が近づくと、彼女は一瞬ぴたりと止まった。そして、夫に見えないよう気を遣いながら、僕の腕を掴んだ。驚きで何も云えないでいると、彼女は口の動きだけで何かを呟いた。


 ベラドンナ


 僕にははっきりとそう見えた。そしてまた、ごめんなさい。

 なぜそんなに謝るのだろう。彼女は再び廊下に縋りつく様に泣き始めた。

 また、被害者が出た。



 太陽がようやく山の端からその全体像を浮かべたとき、僕はその太陽の方向へ向かって歩いていた。太陽を背にした、その山に最初の被害者の姉はいるという。最初の被害者はもう五〇年も前に亡くなっている。そうであるなら、その姉という人は少なくとも七〇歳かそれに近い年齢であるはずだ。深い森を歩きながらその姉のことを考える。元来、体力に自信はある方なのだが、それでも三〇分も歩けば息が切れた。山に入る人は殆どいないようだ。人間が通れるような道はなく、獣道が延々と続いている。草木を掻き分けながら進めば、息は上がり、汗が浮き出てくる。こんな場所に、一人で住んでいるのだろうか。僕には正気の沙汰とは思えなかった。

 山を登って行くと、様々な植物があった。それに比例して、僕が見たことのないような木の実が成っている。赤色、緑色、黄色。そのあたりの色は木の実として自然な色なのだが、中には自然の中にはあまりない青色、雪のような白色、朽ちたような茶色、毒々しい紫色まであった。しかも、それらは同じ色、同じ木でまとまって生えている。手入れが行き届いているような印象を受けた。その中で一際目を引くのが、背の低い木に成っている黒い実だった。瑞々しく艶のある一粒は、見ていれば吸い込まれそうなほどだった。不思議なことに、僕が歩く道に沿って生えているような気がする。そんな訳はないと思うが、それでもその黒い実に誘われているような嫌な予感を抑えることができなかった。

一時間登ったところで、僕は足を止めた。急に目の前の樹木が開けた。山の斜面が緩やかに、ほぼ平らになっている場所を避けるように木々は生えている。辺りを囲むようにして、あの黒い実をつけた木が生えているのだ。

そして、そこに女性がいた。太陽に当たったことがないかのように白い肌が深緑の中では浮いている。目鼻立ちのはっきりとした人で、服はこれもまた白い布を巻き付けただけのように見える、といっても蒼白ともいえる肌の色のせいで布の白は煤けて見えた。その中で髪だけが黒い。木の葉のせいで太陽光が遮られているというのに、艶々として光を反射している。真っ直ぐに背中まで伸びた髪は、辺りを取り囲む黒い実に似ていた。

僕の探していた女性ではない。五〇年も前の事件の被害者、その姉がこんなに若いはずはないのだ。

若い女性は僕に気付いたようで、こちらをじっと見つめている。蛇に睨まれた蛙のように、僕は動くことができなかった。互いに一分はそうしていただろうか。先に動いたのは女性の方だった。踵を返して山の奥へ行こうとする。

「待って!」

 僕の声は植物しかないこの空間によく響いた。いや、山全体に僕という異物が跳ね返されているのだ。女性は僕の声を山と同じように受け入れず、振り返りもせずに奥に向かって行ってしまう。僕は慌ててその後を追い掛けた。

 女性は斜面を滑るように登って行く。僕は登るたびに草に足を取られ、その度に女性との距離は離れていく。息を切らして必死に登るのに、女性の後ろ姿からは全くその様子がない。気を抜けば足を滑らせてしまいそうだ。

 女性に、山のどこかに僕の探している女性がいないか、聞いてみようと思ったのに。もう声も出ないほどで、ぜいぜいと嫌な振動が喉の奥から伝わってくる。

 気が付くと、女性は姿を消していた。

 僕は来た道を振り返って絶望した。道などどこにもない。いや、元々道などないところを長く登ってきたが、そのために掻き分けたはずの来た道も、そこにはなかった。

どうしよう、そう呟いた声も声にはなっていない。いや、どうしようではない。ここまで来て、探している人に会わずに帰るなどできない。唇を噛み締めて、僕は斜面を見上げた。

 すると、木を一本挟んだその奥に、小さな家が見えた。一瞬前に斜面を見上げたときに、こんな家あっただろうか。思考の端を掠めた疑問は鳥の声に掻き消され、僕は枝を潜ってその家の戸を叩いた。

 家の中はしんと静まり返って人の気配がない。誰も住んでいないのだろうか。この山奥に、こんな小さな、小屋のような家に誰かが住んでいると考える方がおかしい。しかし、被害者の姉の家ではないかと想像しただけに、その落胆は大きかった。誰もいないのだろうと見切りをつけて、僕は勝手に目の前の戸を開いた。

「どちら様だい?」

 僕は心臓が止まりそうになった。断りなしに開けた小屋の中には人がいた。薄暗い小屋の中では、姿がはっきりとしないが、声やうっすらと見える影のような姿から察するに、老女のようだ。人がいた、それに気づいた僕は慌てて頭を下げた。

「す、すみません、人がいるとは思わず勝手に入ってしまって、あの……」

「構わないよ。」

 その言葉通り、老女は僕のことなどお構いなしに手に持っていたポットで茶を注ぎ、きぃと耳障りな音を立てる椅子に深く腰掛けた。

 一つ呼吸をして、なんとか落ち着こうと試みた僕は、老女に向けて口を開いた。

「あの、あなたは……」

 最初の被害者の姉ですか、とそう訊いた。老女は驚く様子も見せず、僕の方をゆっくりと向いた。

「そうだよ。」

「で、では、妹さんが両目を失明して亡くなったことはご存知ですか?」

「ああ。」

「その原因は……」

「妹は、本当に可愛らしい娘だった。」

 僕の言葉を遮り、老女は天井に目を向けていた。

「人懐こい子だった。何をするにも私の真似をしたがるようなところがあってねぇ。それなのに全く性格も見た目も違う私の真似をするんだよ。」

暗くてその表情まではよく見えない。しかし昔を懐かしむような口調からは、妹への愛情を感じられた。僕は取材手帳と万年筆を取り出し、急いで書き取った。

「私も、妹なんていなかったからねぇ。両親にとっては、きっと懐かない可愛げのない子だっただろうけど、妹にはそれでも心を許していたんだよ。隣の街まで一緒に通ってね。学校でも妹は同級生よりも私について来るくらいだった。私と違って、友達の多い子でね。目が少し小さかった。妹はいつも笑っていたよ。楽しそうだったねぇ。でも、一度だけ、私に悲しい顔をしたことがあったねぇ。目がいやだって、そう云った。」

 目。それこそ、あの事件で被害者が失ったものだ。僕は何か事件のヒントがないかと、老女の聞き取りにくい声に一層耳を傾けた。

「目がね、そう、小さくてねぇ。私に云ったんだよ。目を大きくできないかって。妹がそれを気にし始めたのは、あの人に会ったころからだった。」

「あの人?」

「あの人さ。」

 老女は“あの人”について詳しいことを話そうとはしなかった。想像するに、被害者である妹が好きだった人、そんなところではないだろうか。メモを取りながら想像を巡らせる。

「あの人と妹が話しているところなんて、見たことはなかったけどねぇ。私はあの人と友人だったんだよ。妹はあの人と話しこんでいる私を呼びに来るのが毎日だった。妹は綺麗になりたいと云ったんだよ。ずれているねぇ。」

「ずれている、とは?」

「ずれているよ。妹の願いは。だけどねぇ、妹の願いだ。私は私にできることをしてやったよ。」

「できること、というのは?」

「ベラドンナの妙薬、だ。」

 メモを取るのに夢中になっていた僕は、突如聞こえた声になぜか背筋が凍るような感覚を覚えた。僕がゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは老女ではなかった。

「ベラドンナの……」

 僕の前にいたのは、あの、黒い実をつける木の前で出会った、あの女性だった。その女性が、今まで老女のいた場所に立っている。老女の姿はなく、女性は背を丸めてメモを取る僕を見下ろしていた。

「妹の願いはズレていた。彼女は目を大きくしたいわけでも、綺麗になりたいわけでもなかった。彼女の本当の願いは、あの人の恋の相手に選ばれること。なぜ、妹がズレた願いを願ったか、わかるか?」

 女性はゆっくりと老女が座っていた椅子に腰掛けた。老女が座ったときのような耳触りは音はせず、ただかたんと微かに床と椅子が触れた音がしただけだった。僕は女性の雰囲気に吞まれ、メモを取ることも忘れて呆然と目の前の女性を見つめていた。

「妹の願いを私は叶えた。それがベラドンナの妙薬。妹は大きな目を手に入れて、本当に幸せそうだった。あの人と一緒になって、妹は本当に幸せになったことだろう。」

「では、あなたの妹が死んだのは……失明したのは……」

「私があの子に与えた薬のせいだ。」

 そう云って、魔女は円卓に載った籠の中から、一粒のベラドンナを摘まんだ。黒々としたそれは、光の少ない室内にも関わらず、魔女の指先で白く光を反射していた。

 僕の中の、腹の底の方で何か熱いものが湧きあがってくるような高揚を感じた。それは、真相に辿り着いたという達成感などでは決してない、沸々と湧き上がる湯のような感覚だった。絞り出した僕の声は、どこか震えていた。

「あなたの妹は、あなたのせいで死んだということですか。あなたの与えた薬のせいで、目が見えなくなって、外へ出ることもなくなって、食事もまともに採れなくなって、子どもを抱き上げることも、起き上がる気力さえなくなって、そんな、不幸になっていったんですか!」

 気が付けば、僕は僕の感情のままに声を荒げていた。それでも、魔女の表情は見えない。

僅かな沈黙。いや、僕の荒い息遣いだけが室内にあった。


「他人の幸せがなんなのか、お前が決めるな。」


 魔女は厳しい口調で、僕を睨んでいた。ベラドンナの実のように黒々とした丸い目が恐ろしかった。

「妹の願いはあの人と一緒になること。あの人に自分の思いを伝える勇気を得ること。その願いが叶って、あの人と一生添い遂げたのに、その妹が不幸だったなんて、なぜ云える?」

「そんな……」

「お前から見た私の妹は、不幸に見えたのかもしれない。だがな、妹は願いを叶えて死んだ。他の女もそうだ。ベラドンナの妙薬は、女の美しさと引き換えに視力を失う。それが原因で死んだ者はいるだろう。しかし、美しさを手に入れ、想い人を手に入れたそいつらが不幸だったと、云うのは周りの男どもだけだ。」

 魔女は弄んでいたベラドンナの実を、その細い指先で潰した。

「何も不幸なことなどない。女たちにとっては、願いを叶えて家族に見守られながら逝った。たとえ、夫と子どもを残して逝ったのだとしても、彼女たちにとっては不幸では有り得ない。」

「それでは、あの、僕の……」

「幸せだっただろうさ。」

 魔女は、そう云い放った。

 結局、女性たちを不幸にしていたのは

 僕自身だったのだ。

                     終


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