揺らぐ距離
春先のすこし肌寒い風と柔らかな日差しに包まれ、道行く男女。端からみたら完全なカップルだろう。この状況に飲まれてしまった俺はただ黙って秋山さんの街紹介を聞くしかない。突然前を行く秋山さんが振り返った。
「稲葉くん。さっきから心ここに無し!って感じだけど」
「んん!?そんなことはない。断じて」
「そうかなー。怪しいなー。図星でしょー」
いっそのことこの擬似恋愛を楽しんでもいいのではないだろうか。まともな青春を送れないのならせめてそのくらい。
「あちゃー。ばれちゃったか」
柄にもなくひょうきんな顔をしてみた。いいじゃないか、今ぐらい楽しんだっていいじゃないか。人間だもの…と続けてしまうのはわりとあるあるな気がする。秋山さんの隣を歩くことにしよう。どうせ楽しむのならとことん楽しんでやる。
「お。隣に来るのが遅いぞ稲葉氏よ」
すごくいいかほりがする。こんなことを思うとは我ながら気持ち悪いがあるいは男子高校生として正しいのかもしれない。とはいえ口に出すのは寿司屋でシャリを残すのと同じくらいご法度だ。いくら距離を置くとはいえ、嫌われるのは結構こたえる。
「はい!あちらに見えますのが、我が街自慢の商店街でございまーす」
指差す先に見えるのは、たとえ見たことがないとしても人々に懐かしさを思い出させるような商店街だった。
「下町情緒…って感じだね。来たことないのになんか懐かしい」
「でしょ。私も好きでよく来るんだ」
入り口にそびえるアーチがなんとも言えない雰囲気を醸し出す。そのアーチをくぐり抜けて、商店街へ足を踏み入れる。オープンしまくる大型商業施設に負けまいと息巻くパワーさえ感じ取れそうな活気だった。
「ここね、大輔とよく遊びに来てたんだよ。昔は大輔もかわいかったんだよ」
笑いながら話す秋山さんの横顔は、例えるならひまわりとでも言うべきか。ただどこか寂しげに見えなくもないのは、気のせいだろう。
「今じゃあんなに素っ気ないんだもん信じられないよねー」
笑いながら頷く。確かに愛想は無かったな、昨日。
八百屋の前に差し掛かったときだった。
「あらー、遥ちゃん。デート?彼氏さんイケメンねー」
「イケメンさんでしょ。残念ながらまだ彼氏じゃないけどねー」
立ち位置をどうしたらいいのか戸惑う俺を秋山さんが紹介した。当然会釈と軽い自己紹介を交わすことになる。少なくとも当分はこの土地に住むわけだし、必要だ。
「稲葉くん、野菜はうちで買っていきな!イケメンに免じて安くしとくよ」
キャラが濃すぎるけど、愉快でいい人だ。今どきこんな人に出会えるとは思ってもみなかった。
愉快なおばちゃんと別れて、また商店街を進む。行く先々で声をかけられる秋山さんはきっと人の懐にスッと入れるんだろう。確かにわかる気がする。
「お腹、空いてない?」
秋山さんが得意気に紹介したのは、古そうなお好み焼きの店だった。確かに色々歩き回ってすでに十二時近いし、朝食を適当に摂ってしまったせいもあってかなりお腹は減っていた。店先に香るソースの焦げた匂いが更に空腹を掻き立てた。
「めちゃくちゃ空いてる、お腹」
と二つ返事をして、店ののれんをくぐった。店はいかにも、という感じの雰囲気だった。家族連れに学生とおぼしきグループ、他にも人が結構いる。秋山さんに先導されて席に着いた。あ、対面に座るといけないとかなんとか…どこかの心理学者が言ってなかったか?いや、俺にそんなの関係無いだろ。何も仲良くなりたいとかそういう訳じゃない、と言ったら本心じゃないけど。
「何か食べたいやつある?」
お好み焼きの種類は豊富だ。定番の豚バラなんか以外にも、変わり種やら何やらたくさんある。これは結局、無難なやつに落ち着いてしまうパターンだ。となると…
「あー、わかんないから秋山さんのおすすめがいいな」
この選択が一番手っ取り早く、おいしいやつにありつけることになる。わかった、と頷いた秋山さんが注文する。こなれている感じだ。店員さんが注文を聞き終えて厨房へ向かった。
「ねえ、稲葉くん。いや、渡くん!いつになったら名前で呼んでくださるのかしら??」
半分冗談ぽく、半分本気な顔つきで聞いてきた。これをどう答えるべきなのかわからずにごまかそうとすると更に秋山さんが続ける。
「なんか稲葉くんとの間に凄まじい距離がありそうだわ。これじゃ、当分は名前で呼び合う仲にはなれないのかなー」
今度はほとんど冗談に見えた。だがそれは、そう思いたいがゆえの錯覚かもしれない。凄まじい距離か。図星すぎて何も言えずに、ただ苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「お、きたきた」
俺の苦笑いをよそに、店員さんが持ってきたお好み焼きに秋山さんは関心を移した。かく言う俺も空腹には勝てず、鉄板の上で再び焦げるソースの香りとともに湧き出る食欲に任せてお好み焼きを食べた。食らった、という表現の方が正しいかもしれない。
「おー、稲葉くん食べっぷりいいね!」
「そういう秋山さんも、なかなか…ね」
俺も秋山さんもお腹の減りは最高潮だったようだ。
しばらく食べては話し、話しては食べ…を繰り返し昼食を終えた。会計は二人で千二百円だった。幸いなことに秋山さんは男は奢るべき主義ではなかったようで、会計はきっちり割り勘してくれた。男たるもの奢るべき主義も嫌だけど、何も言わずに割り勘ってのもどこか引っかかる気がするのは俺の悪いところだろう。
「さ、お腹もいっぱいになったところでなんなんだけど。私午後からバイトあるからお先ー」
「ああ、バイトあったんだ。悪いね秋山さん」
「ううん、大丈夫よ。じゃあまたねー」
手を振り返しながら、秋山さんと反対の方向へ進む。せっかくだし、もう少し歩きたいとも思ったのだが通学路以外知らない街で迷うというのは困るから来た道を戻ることにしよう。そうだ。さっき紹介してもらったあの八百屋で、今朝空っぽになった冷蔵庫を満たしてくれる野菜たちを買うとしよう。こんなところで、財布を個人用と食費用を分ける、さながら主婦のような習慣が役に立つとは。一応親父に、野菜買っとくということを伝えておくとしよう。もし今日帰りに買い物してきてしまったら、家が野菜だらけになる。そうなったら当分はモデル並の食生活だ。俺は押切もえか!とつっこまざるを得ない状況にもなりかねない。きちんとメールを入れておこう。と脳内漫談を繰り広げているうちに、八百屋に着いた。歩きながら何をしてたんだか…。
「あらー?さっきの彼氏さんじゃないの。まさか遥ちゃん怒らせるようなことして…」
「いえ!決してそんなんじゃないです。バイトだそうです」
「あら!そうだったのかい」
と言いながら肩をぶっ叩かれた。ついでに言うと爆笑している。俺もTHE愛想笑い、というような笑みを浮かべておいた。
「で?何か用かい。あいにく肉は売ってないよ」
「そりゃ八百屋さんですから!野菜を買いに来ました」
こんな楽しいやり取りは何年ぶりだろう。猛烈に愉快なおばちゃんを大いに気に入った俺が、この店で野菜を買うようになるのは言うまでもない。
平日は一日をものすごく長く感じるが、休日ともなるとそうはいかないものだ。土曜日、日曜日…とたった二日しかない週休は脱兎のごとく過ぎ去っていく。無論、今は長い長い通学の最中だ。いや、そうも言っていられないか。はる…いや、秋山さんも倉畑さんの通学も俺と大差のない距離なのだから。それよりも、あの八百屋のおばちゃんとずいぶん話していたせいで「秋山さん」と呼んでいたのに、つい「遥ちゃん」と呼びそうになってしまう。名前だけならまだしも、間違えたって「ちゃん」なんてつけてしまったときには、かなりの確率で引かれるだろう。そうなったらそうなったで嫌なんだな、これが。
「おーい」
後ろで誰か叫んでいる。誰だ?朝からでかい声で。人々の目線を一斉に集めてしまうことに気がついていないんだな、きっと。呼ばれている方もなかなか恥ずかしいんじゃなかろうか。
「おーいおーい…って稲葉くーん!」
まさかの俺だったー。冷静に考えれば聞き覚えのある声だし、ていうか心の中でディスりました、ごめんなさい。ちょうど信号が赤になって、すぐ隣まで来た。と、とりあえずあいさつか。
「お、おはよう。遥ちゃ……あ」
あれだな、俺ってあれだ。テンパるとこう、上手く演じれないのな。至って冷静ですが何か?みたいなのはできないのな。
「名前、呼んでくれたね」
お?思いのほか、嬉しそうに見えるのは俺の脳がそう見えるように錯覚させているからかそれとも現実か。わからん。
「嬉しいな、渡くん」
信号が青になった。人々が渡りだす。当然、秋山さんも。ただ一人だけ、俺だけが動けなかった。渡れなかった。足も思考も止まってしまった、もしかしたら呼吸さえも止まっていたかもしれない。ただ、彼女の姿と言葉が焼き付いていた。なんだ、なんなんだこの感覚は。もしかしてこれは、この胸の高鳴りの正体はもしかして…。青信号が点滅した。もう渡れそうにはない。もう一度、待つしかなさそうだ。
どうにか学校にたどり着いた。危うく遅刻というところで教室に入る。当然、彼女は視界に入る。名字で呼ぶべきなのか名前で呼ぶべきなのかわからない。倉畑さんはいない。だから一緒じゃなかったのか。休みなんだろうか。ふいに肩を叩かれる。
「あの。大丈夫ですか?稲葉さん」
「え?」
「なんだか顔色、良くないので」
そうだろうか。そう言われて見れば何だか具合が悪い気がしてきた。それに熱っぽい感じもするぞ?
「いや、大丈夫」
「本当ですか?」
保田さんがおもむろに左手を俺の額にやった。右手は自分の額に当てられている。
「なんだかすごく熱いです。本当に大丈夫なんでしょうか」
保田さんが首をかしげた。俺は元気であることをアピールしようと立ち上がった。少しふらついたが、大丈夫だ。なんとか取り繕えた。
「そうですか…少し心配ですが」
音を立てて戸が開き、田村先生が入ってきたことでこの話は終わった。朝のホームルームが始まった。
なんとか一日を乗り越えた。午前中から徐々に体調は右肩下がりだったが、ここ一番の粘りを見せたことでなんとかなった。とはいえひどい有り様なことに変わりはない。さっさと帰って寝よう。さて、いざ帰らん…と立ち上がると、今朝よりひどいふらつきが襲った。危うく倒れるところだった。
「稲葉さん。朝よりひどい顔色です。明らかにダメそうな雰囲気が漂っています」
「ああ、保田さん。大丈夫さ。このくらいね」
保田さんもちょうど教室を出るところだったらしい。廊下を突き当たりまで進んで、階段を降りようとした時だった。最大級のめまいが俺を急襲した。突然、視界に手を伸ばす保田さんが飛び込んできた。あれ?横にいたはずじゃ…と思っていたのも束の間、衝撃とともに目の前が真っ暗になった。
気がついたら俺は保健室にいた。そういや初めて来たな、保健室。体を起こすと保田さんがそばにいた。
「気がつきましたか」
保田さんが汗をかいている。もしかしてここまで運んでくれたんだろうか。
「もしかして、保田さんがここまで?」
「はい。大変でしたが、それどころではないと感じましたから」
そこに割って入ってきたのは白衣の、おそらく保健の先生だ。
「気がついたのね。私、養護教諭の高嶺玲子よ。よろしくね稲葉くん」
青年漫画にそのまま出てきても違和感がないのではないかと思ってしまうくらい美人だ。
「それとね、発熱が四十度近いんだけど、お父さん仕事でどうしてもすぐは来られないらしくて。三時間くらいかかるかもって。さすがに一人で帰す訳にもいかないから、待ってもらうわね」
「はい」と頷く。確かに四十度では帰してもらえないのも当然だ。
「私、職員室に用があるからちょっと行くわね」
先生が保健室から出ていってしまった。保田さんと二人きり、なんだか不思議な空間だ。
「保田さん、なんだか悪いし帰ってもいいですよ?」
半分本心で半分は嘘だ。弱っているせいでとても自分を別物に演じることはできないと思った。
「そうですか…」
一旦間をおいて答えが帰って来た。
「でも、ご一緒します。なんだかそんな気分です。稲葉さんのことを何も知らないからでしょうか、隣なのに」
帰ってきた答えが意外すぎて、余計熱が上がったかもしれない。朝の秋山さんのことだけでさえ、考えが巡らないと言うのに保田さんまで何を…。ただ心のどこかで喜んでいる自分もいて、もう頭の中は大騒ぎだ。
話してみると意外と保田さんはフラットで気の合う人だった。一番驚いたのは保田さんも中学までは転校続きだったということ。保田さんと話すのが楽しくて楽しくて三時間なんてあっという間だった。案外、共通点だらけで時間もかからずに打ち解けた。今まで距離をおいていたことも忘れて。そして、「さん」付けだったのが「くん」になったのはちょっとした昇格で、かく言う俺は「保田さん」から「莉帆さん」に呼び方が変わっていた。
そんなこんなで迎えが来た。夢のような時間だった。初めてこんなに楽しいと思えた気がする。もしかしたら、本当に夢なのかもな。
「では、また明日。稲葉くん」
「じゃあね、莉帆さん」
今まで俺が必死に作ってきた距離が、なんだか揺らいでいる。そんな気がした。