壁
昨日、散々だったテストが今日返ってくると思うとまだ登校中とはいえ、足取りが重くなる。まあ、物理的に坂だから自転車のペダルが重くなるのは当然なんだけど。昨日は新鮮味を感じていた道も、二日目ともなると少し慣れてくる。それどころか上り坂が多いことに気がついてしまったせいで余計にへこんでしまった。そんなことを考えているうちに、遠い通学の道も終わってなんだかんだで学校についた。それにしても爽やかな学校だ。
「おはよー、稲葉くん!だよね?」
靴箱で後ろから声を掛けられた。多分クラスメイトだろうと振り返る。案の定、自己紹介で名前を覚えることにした秋山さんだった。
「えーと、秋山さんだよね。おはよう」
「遥でいいよぅ、よろしく!」
いわゆる世間話というやつをしていると、後ろからまたしても誰か近づいてきた。これまた自己紹介シリーズの倉畑さんだ。
「先に行くなら言え、危うく待ちぼうけだ」
「あー、ごめんね」
この状況から推察するに、二人はカップルで一緒に登校するってところか。
「秋山さんと倉畑さんって、えっと」
と聞きかけたところで二人は息ぴったりに答えた、
『ただの幼なじみで、カップルとかではない』
なるほど、友達以上恋人未満…的なといいかけてやめた。余計なことは言わない、いわゆることなかれ主義だ。倉畑さんはさっさと教室に行ってしまった。その後、秋山さんに聞いた話によると、家が近いのと親同士も仲がいいらしく倉畑さんは親から一緒に登校するのを命じられているらしい。転勤族の俺には、まして人間関係に一定の距離を置くようになってしまった今の俺には起こり得ないことだ。
教室に着いた俺は、真っ先に保田に話しかけた。もちろんシャーペンを返すためだ。
「保田さん」
保田さんが振り向く。一瞬脳裏に見返り美人、という単語が浮かんだが気のせいだ。昨日の夕飯のとき、親父が観てたお宝査定団とかいうテレビに菱川師宣の美人画が持ち込まれてたからだ。確か、めちゃくちゃいい値段がついたんだっけ。そんな余計なことを考えていると、保田さんに声を掛けられて現実に戻った。
「あの、何か?えっと確か名前は…」
「稲葉です。シャーペン助かりました、ありがとうございました」
昨日借りたシャーペンを手渡す。英語はこれのおかげで解けた問題を書くことができた。数学は…まああれだけど。
「ああ、そうでしたね。よかった、お役に立てて」
「保田さんって、言葉使いが妙に丁寧ですよね」
ふと気になったことを考えるもせずに口走ってしまった。やってしまった。昨日知り合ったばかりで、たかだかシャーペンを貸したくらいの男が馴れ馴れしく話しかけてしまってはどう思われたかわかったもんじゃない。
「そうでしょうか…」
ほら見たことか、ものすごく微妙な表情と空気になってしまった。この事態をどう打開したものか。と考えていると救済の一声。秋山さんだった。
「あー、確かに!すごくおしとやかって感じだよね」
話に突然入ってきた感は否めないがここを打開するには充分だ。ここぞとばかりに追撃する。
「そう!すごくおしとやかで…言うなれば菱川師宣の美人画って感じで…」
…プロの転校生を自称する俺が、なんでさっきからこんなにも訳のわからないことばかり言いまくっているんだ。わからん。高校数学よりもわからん。二人とも目が点になったまま動かないぞ…と思ったんだけど
「ありがとうございます。美人画って褒め言葉ですよね、しかも見返り美人図で有名な菱川師宣の作品に例えて頂けるとは」
目が点になるのは俺と秋山さんの方だった。菱川師宣をまさか知っているとは誰が予想できようか。
「そ、そう!褒め言葉!見返り美人!」
「菱川師宣?見返り美人?」と相変わらず目が点の秋山さんだったがチャイムとともに入ってきた先生のおかげもあって、なんとか取り繕うことに無事(?)成功した。にしてもこんなに調子が狂うとは、よほど昨日のテストがショックだったようだ。
昼休み直前の四時間目。ショッキングな数字を目の当たりにした。そう、例のテストである。元から成績優秀な訳ではなかったけど、人並みくらいではあった。もちろん数学は除いてだ。にしても今回はひどすぎた。まさかの一桁で過去最低点だった。しかも先生いわく「七割解けて無い人は来週追試」なんだそうだ。困りものである。俺のその悲壮感漂う表情を感じ取ってか、秋山さんが話しかけてくる。
「稲葉くん、テスト何点だった…?」
「あー、お察しの通りです…」
悲壮感を感じ取ったとしたのなら、むしろ聞かないで欲しいけどね。
「追試だったりする?」
「まあ…ね」
軽く笑いながら返す。我ながら悲しい微笑みだ。数字に強い人の脳ミソと俺のとでは、多分できかたが違うのかもしれない。
「遥も。追試お仲間だねー」
「お、おぅ。秋山さんか」
どうやら秋山さんの脳も俺と同じ道を辿ってできたらしい。秋山さんと数学のわからないあるあるで盛り上がっていたところに倉畑さんが通りかかった。秋山さんが呼び止める。
「ねぇー、大輔はどうだった?」
「俺か?俺はな…」とも言わずに黙って突き出してきたテストにはことごとく三桁の点数が並んでいた。どうもこっちは脳ミソの違う方だったらしい。倉畑さんは一言も言葉を発せぬまま立ち去ってしまった。
「まあ、悪いやつじゃないからさ、仲良くしてあげてちょ」
秋山さんがそう言って席を立った。仲良く…か。一応頷いてはおいた。でも多分これから先、秋山さんにも倉畑さんにも、一定の距離を作ってしまうのだろう。現に名前で呼ぶことを敬遠している。親密になりやすくなってしまうからだ。少し壁を作る。そうすれば変に悲しむことも悲しませることもない。もはや俺にはうわべだけの付き合いしかできないのかもしれない。ちゃんとした付き合いのしかたなんて、とうに忘れてしまった。…こんなこと考えるのはやめにして、昼休みらしくお昼を食べるとしよう。
「稲葉さん、追試なんですね」
隣の保田さんだ。通路を挟んで隣の秋山さんと話していたから声も大きかったし、多分筒抜けだったのだろう。
「声、大きすぎましたよね。すみません」
「いえ、こちらこそ盗み聞きするつもりはなくて。ただ聞こえてしまって」
まあ、無理もない。うるさすぎましたよ、と文句を言っているのだとばかり思っていた。が、違うようだ。
「稲葉さんがよろしかったら、これの解き方お教えしますよ?」
思いもよらぬ提案に、今の自分がどんな表情になっているのか想像もつかない。しかしこの提案を受けてしまっていいものなんだろうか。一桁を打開するにはもちろん教わった方がいいだろう。いや、自力でなんとかしよう。ここは逃げの一手と行こう。
「ありがとうございます。でも面倒をおかけするのは悪いので大丈夫です」
他人行儀を醸し出すことで誰からのどんな誘いもまず無くなる。たまに来たとして元々がそんな人なんだと思われていれば、断りやすくもなる。完璧だ。と思っていた矢先だった。
「なんだか、朝とは人が違うみたいです」
「え?」
「さっきは、見返り美人とか冗談言ってた人がいきなり他人行儀になったから…」
変なことを言ってしまったと思ってか、どこにということもなく立ち去った。もうお昼は食べ終わっていたらしい。保田さんが察したというより、朝と今とでは確実に人が違ったのだろう。朝のあの言葉は咄嗟に出てしまったことだった。だから素顔が一瞬出てしまったということか。驚く俺に更なる追い討ちをかけるように、昼休みが終わりを告げた。まだ一口も昼食を口にしていないというのに。
午後の一番眠くなる時間帯の授業を乗り切ると、クラスメイトたちの動きが一様に慌ただしくなる。部活へ行く者、帰り支度を急ぐ者、はたまた教室に残ろうとする者。俺は前から生粋の帰宅部だから、授業が終われば当然家に変えるのみだ。もし帰宅部なる部活動が本当にあったとしたら、結構いいところまで行けるんじゃないだろうか。何を競うのかは全くの謎だが。一緒に帰る友達いないから帰宅部エースらしく、さっさと帰るとしよう。秋山さんと出会ったのは、偶然にも朝と同じ靴箱だった。声を掛けないというのも変な気がするし、一声掛けていくことにしよう。
「秋山さん、帰りは一人なんだね」
「お、稲葉くんだ!そうなんだー、大輔はサッカー部だからさ」
なるほどそれで帰りは一人なのか。せめて朝だけは、という親心もわからなくはないが帰りが一人で平気なら行きだって別に大丈夫なんじゃないかと思う。向かうところが駐輪場だから、自然と一緒になった。
「もう学校には慣れた?どう、前の学校より綺麗じゃない?」
「あー、そうかも。前居たところは結構古かったから」
駐輪場に着くまで、他愛もない話に花が咲いた。荷物を荷台にくくりつける。秋山さんより早かったようだ。
「じゃあ、また明日」
「うん、じゃあね」
なんだか疑似恋愛をしているような気分だった。そんなことを匂わす訳にはいかないと自転車にまたがり、走りだそうとしたときだった。秋山さんが俺を呼び止めた。
「ちょっと気になったんだけどさ、なんか莉帆ちゃんにだけなんだかすごく距離を置いてるよね」
「え、なんで?」
「いや、莉帆ちゃんにだけ敬語だなーと思ってさ。やっぱなんでもない!忘れてー」
「おう」
そう頷いて自転車を走らせる。確かに言われてみれば、秋山さんには敬語じゃないし、まだ話したことはないけど倉畑さんにもそうするつもりはない。少し壁を作るにしたって、そこに敬語は必要ない。むしろ距離を作りすぎてしまうからだ。じゃあ、どうして保田さんにだけはあんな敬語なんだ。見返り美人発言の反動なんだろうか。それとも何か絡みにくい気がしたとか?いや、そんなこともない。ならどうして保田さんにだけ、より壁を作ろうとしたんだろう。
そうこうしていたら、家に着いた。普段あんなに遠いと感じていたのに、考えごとのおかげで今日ばかりは短く感じていた。アパートの鍵を開けて、家に入る。家に帰って来たところで、誰もいない。もう四年前に母さんを亡くしたきり、おかえりなさいと言って迎えてくれる人はいなくなった。親父からの留守番電話が入っていた。きっといつもの通り、仕事で帰れないんだろう。最近管轄内で事件があったと言っていたから、捜査が忙しいのだろう。父は真面目な警察官だ。文句も愚痴もこぼさずに被害者のことを第一に仕事をしている。転勤が多くなったのも、今の部署に移ってからだ。そうなると犠牲を一番に被るのは家族だ。犯罪被害者は警察が助けてくれる。じゃあ俺たち家族は誰に助けてもらえばいい?頼りになる人さえいない土地で、一体誰に。こんなの理不尽だ。母さんだって…いや、やめよう。これ以上は惨めだ。たった今気づいたことがある。帰り道での考えごとが、俺にはわからなかった理由だ。それもそのはずだった。俺が今まで人との間に作っていると思っていた壁は、実は自分自身を覆っていく分厚い壁だった。感情を、本当の自分を隠している俺に、人とのことなんてわかるわけない。自分のことさえ、もう見失っているのだ。そんな俺にわかることなんてせいぜい、転校で渡り歩く術くらいなもんだ。まともな青春を謳歌したいと思っている俺のそんな変な能力ばかり上がるなんて、世の中皮肉なもんだ。突然、バスルームから愉快な音が流れてくる。若干驚いた。給湯器曰く、「お風呂が沸きました」ということらしい。夕御飯は後にして、今日のすったもんだを水に流してくるとしよう。
次の日は、ありがたいことに土曜日で休みだった。転校からドタバタしていたせいで、ここら辺のことをまるで知らない。せっかくだから、朝ご飯を済ませたら散策してみるとしよう。部屋から出るとリビングのテーブルに書き置きがあるのが目に止まった。親父からだった。
『昨日も帰れなくてすまない。着替えを取りに夜中帰ったが、悪いので起こさなかった。多分今日も帰れない。いつも悪いから、朝飯をつくって冷蔵庫に入れた。温めて食え
親父』
無愛想な文章だった。ここのところ何日もちゃんと家に帰ってないみたいだから、いくらなんでも悪いと思ったのだろう。親父がどんなものを作ったのか冷蔵庫を確認した。中に入っていたのは不恰好なアスパラのベーコン巻きだった。ところどころ焦げていたり、巻かれてさえいないものまである。母さんが亡くなってから、家事は基本俺がやっていたせいで親父のできることと言えば洗濯機を回すのと適当な料理が作れるくらいだ。とはいえせっかく作ってくれたものを食べない訳にもいかない。とりあえず電子レンジに突っ込んで温める。幸い米は昨晩の残りが炊飯器に残っているから、今朝はそれでいいか。
朝食をおざなりに済ませ、出かける準備を終えた。どこかに出かけるときは仏壇の母に挨拶してから行くのが決まりのようになっている。特に示し合わせた訳ではないが、親父も俺も自然と同じことをしていた。今日も当然、挨拶を済ませた。とりあえず、迷ってしまうと困るし、無いと不便なスマホと持たないことはまずない財布を持って家を出る。基本荷物はあまり持ちたくないのだ。自転車…という考えも浮かんだがせっかくだし歩くとしよう。何か発見が、いや知らない街だからむしろ発見だらけかもしれない。きっとそうに決まっている。歩いていてふと思った。なんだか新鮮だ。道端で日向ぼっこに忙しい猫とか、異次元に飛ばされそうな路地とか、私服の秋山さんだとか………!?
「お、稲葉くんだー。朝から何してんの??」
少し予想外の出来事に、出る言葉もない。秋山さんも歩きということから、家がこの辺であるということはほぼ間違いない。一応聞いておこうか。
「えっと、秋山さんの家はこの辺?」
「そー。そこ」
と指差す先には当然家がある。ということは、倉畑さんの家もこの辺ということになる。偶然は時として恐ろしいものだ。自分が越してきた家の近くに少なからず関係のある同級生が住んでいるとは、思いもしなかった。ただでさえ遠いと感じていたから、余計にそんなことはないと思い込んでいた。
「稲葉くん、この辺に越してきてたんだね」
「ま、まあね」
「で、朝から何を?」
「この辺のこと知らないから、ちょっと散策に…」
そう。そして一発目からこれである。これ以上の何かが、あるだろうか。いや、ない。反語を使う機会がこんなところに…。
「しょーがない。私が色々紹介するよ」
やっぱりこうなるのね。わかりました、わかりました。しょーがない紹介させてやるよ、特別だぞ。という多くの意味を込めて頷いた。こんな漫画みたいな展開に、どこかわくわくしている自分がいるのはきっと気のせいだ。きっと。