過ち、とは
ストーリーの性質上、女性蔑視の表現があります。
ご気分を害されましたら、お許しください。
アディード王立学院の学長ガリク・メイフル伯爵は、幼いころに数式に出会ってから五十年、変わることなく数学を愛する科学者である。
負けず嫌いで研究熱心なことでも知られている。
熱心なあまり、食事を取り忘れたりするので、高身長のわりに痩せぎみだ。妻には見劣りするから太れと言われている。けれど、歴史科教授の腹の分厚さを見ると、あぁはなりたくないと思う。
正直に言うなら、メイフルは、学長にもなりたくなかった。研究以外の事に気を使いたくない。学生相手の講義さえ面倒だと思うのだ。
けれど最近は、教育者として、後進の育成によりいっそうの情熱を傾けていると評判だ。
セアラ・ディパンド著の『アディード建国以後の歴史』を世に出したのが彼だからだ。女性に本名で学芸書を出版させた事が「英断」と受け止められたのだ。
実際は、違う。
二年前の新年を祝う宴で、年甲斐もなく深酔いをした。本会の後、王都の酒場で個室をとり、年長者ばかり五人集まって気の置けない酒盛りをしたのだ。
翌日、メイフルは、記憶が途中からないことに気付いたが、深刻には受け止めなかった。五人もいたのだ。おかしなことをしていたら、誰かが止めていたはずだ。
まさか全員同じように記憶がなくなるまで飲んでいたとは思いもしなかった。
その日から三ヶ月近くも経った冬の終わり、学長室に歴史科教師が駆けこんで来た。息を切らせて、まともに話せない彼が、手に持った本をメイフルに押しつけてくる。
『セアラ・ディパンド著 アディード建国以後の歴史』。
目を疑った。と同時に、新年を祝った夜の記憶の断片がよみがえってきた。あの夜、この論文の話をして、学院に一度戻った気がする。
メイフルは、慌ててあの酒盛りに参加していた全員を集め、記憶をつなぎ合わせた。
話はこうなる。
あの夜、酒代が足りなかった。ツケも残っていた。
セアラの卒業論文は出来が良い、あれなら売れる、と言いだしたのは歴史科教授だったが、誰もが迷わず賛成したから同罪だ。
酔っ払いは時として、とんでもない行動力を見せる。
五人はわざわざ学院に戻り、セアラの論文を持ち出すと、夜中にも関わらず版元の主を起こして売りつけたのだ。酒代とツケはそれで支払った。
記憶をつなぎ合わせて、全員、どうしていいのか途方にくれた。
これがセアラ・ディパンドの一生を変えてしまうことは間違いない。女性が学術論文を発表するなど、あり得ないことだからだ。
物語を書く女性は少なくない。けれど、たいてい作者不詳とするか、男性名の筆名を使う。誰が書いたかは、結局知られてしまうが、自分の名を晒さないことが大事なのだ。
今回のことは、常識はずれも甚だしい。
事情を知られれば、メイフルたちが今まで築いてきたものも全て崩れ落ち、泥にまみれて終わるだろう。
それでも基本的に人がいいメイフルと四人の教授は、教育者として、一番にセアラのことを考えなければいけないとの意見の一致をみた。
その夜、伯爵であるメイフルは、自分の息子に向けて手紙を出した。孫はセアラより六才年下だが、責任を取って孫の妻に迎える、と。セアラに今後嫁入り先などないだろうから、その責任を取らねばと思お詰めてのことだった。
他には打つ手を思いつかないまま、事態が変わったのは、幾日もしないうちだった。
アディードの宰相自らが、学長室にやって来たのだ。
世に問うことなど全く考慮されていなかったセアラの論文は、貴族の都合など気に留めていなかったから、社交界でも激震を起こしていた。
セアラ・ディパンドの命にもかかわると知らされ、自分が思っていた以上に問題が大きかったことにメイフルは恐れを抱いた。
それでも責任は自分にある。学長の座を退くと申し入れたが、宰相は受け入れなかった。
「別の責任の取り方をしていただきます。幸いなことに、ディパンド嬢は春一月より内宮に出仕が決まっていますので、社交の場に出ない理由ができます。行儀見習い侍女をしている三ヶ月の間に事態を収拾します。内宮の方々は、例の本をお認めになりました。ディパンド嬢に、学院内に研究室を持たせてください。真っ当な学者だということにして頂きます。学長は、彼女の才能が埋もれる事を惜しんで世に問うたのだと、今後はそのようにお話しください。幸い、庶民の間では好意的に受け止められていますし、学生たちにも好評のようです。社交界に今起きている大波さえ無事にやりすごせば、危機は去るでしょう。」
宰相の言う通りになった。
どれだけの人たちが、この件で動いてくれたのか、メイフルには知らされていない。
結果的に、メイフル学長の評判が上がり、女学生の数が増えた。
女学生の数には、メイフル自身少々思うところがある。女性が高等教育を受けても生かす場所などないだろうにと思っていたのだ。しかしもう何かを言える立場ではなくなってしまった。
そうして事態が沈静化すると、学長の胸には、別の心配が頭をもたげてきた。
セアラ・ディパンドが、何も言って来ない。
本当なら一番に文句を入って来るはずの相手が何も言わない。
内宮で行儀見習いをしているせいかと思っていたが、彼女に与えられた研究室には時々出入りしているらしい。
謝るべきなのは学長の方だが、何の先触れもなくやってくるので、話をする機会が捕まえられないのだ。同罪の教授たちも同じ悩みを持っているようだ。
夜会や園遊会で彼女を見かけることもあるが、そんな場所で本の話はできない。宰相に何を言われるかわからない。
学院を卒業したご婦人たちが何も言わないのも気になる。彼女たちの強い結びつきを良く知っているからだ。
そうして二年。メイフルが、研究室には来るのだから、学長の自分に挨拶のひとつくらいしに来てもいいじゃないか、セアラ・ディパンド、どういう嫌がらせだと、逆恨みにも似た気分になって来た頃。
思った以上に長引いたセアラの行儀見習い期間が終わった。
冬三月の半ばから、彼女の研究室に人の出入りが多くなり、私物が持ち込まれ始めたようだ。
メイフル学長は初心を思い出した。酔った上で愚挙に出たのは自分の方だ。
いつセアラと顔を合わせ、どう謝るか。メイフル学長の落ち着かない日々が始まった。
春一月に入ると、すぐにも現れると気を引き締めていたが、セアラはなかなか学院に来ない。
考えてみれば彼女は伯爵令嬢だ。実家に帰れば、しばらくは貴族令嬢としてすべきことがあるのだろう。
そう思って少し気が抜けていた頃、留学している第一王子が帰って来ないという噂が聞こえて来た。
セアラの兄ゼフィルも同行しているはずだ。
彼女に会ったらそれも確認したいと、メイフルは今度はジリジリとした気持ちで待つことになった。
春一月十日。
風も少なく穏やかに晴れた午後。
セアラ・ディパンドが、先触れもなく学長室にやって来た。
とうとう来た、と心の中で思いつつ、メイフル学長は笑顔を作る。
記憶の中のセアラは、美しい容姿を持ってはいたが、落ち着きのない娘だった。
けれど今目の前にいる令嬢は、隙のない美しい立ち居振る舞いを見せている。愛想の無さは相変わらずだが、美しい仕草が美貌を引き立てている。連れている侍女も美しい。
存在が華やか過ぎて、この場に似あわない。
学長の応接室も他の学者同様多くの本が置かれているが、それらはきちんと書棚に収まり、何とか来客を迎えられる状況を保ってはいる。だが、花が飾られているわけではないし、気の利いた柄のクッションひとつない。カーテンもベージュ一色と言う個性の無さだ。
「ご無沙汰いたしております、メイフル学長。」
静かで落ち着いた声からは、彼女が怒っているのかどうかわからない。
「よく帰って来たね、セアラ。」
まず歓迎の意を示す。椅子を進めて、それから謝罪だ。そしてさり気なく第一王子の話題に移る。
そう思っていたのに、先を越された。
いきなりセアラが自分の本題を持ち出してきたのだ。
「メイフル学長、私が、アディード建国『以前』の歴史を研究することになっているのですけど、どうしてでしょう。」
淡々とした口調に、責める調子は全くない。ただ事実を確かめられているという印象しか受けない。
そういう話題は座って落ち着いてからだろうと、心の中で思ったが、負い目がある身としては、つい正直に話してしまう。
「それは、君が、次は最近の百年のことを書くのではと、心配されている方が多くてね。彼らを安心させようと思って、言ったのだが。」
「そうですか。」
セアラの声が変わった。突き放された、そんな感覚を受けた。
「今後はそのようなことをお話しにならず、知らないで通してください。では、失礼致します。」
「セアラ?」
メイフル学長は、あっという間に背を向けてしまったセアラに困惑して声をかける。
彼女のために、侍女がドアを開けている。
これで終わりか。終わりなのか。
慌てて呼び止めた。
「セアラ、少し座って話して行かないか?」
振り向かせた。それに満足して、メイフル学長はやっと作りものでない笑顔になる。
けれど彼女が振り向いたのは、学長のためではなかった。
「お話しするのを忘れるところでした。私、夏二月にアディード王国学園で二日間の集中講座をすることになりそうです。」
何を言われているのか、理解するのに少し時間が掛った。
王国学園は私立の学校で、学生は皆、貴族の令息だ。王立学院とは、密かに競い合っている相手だ。
困惑が顔に出ていたのだろう。セアラが小さく首を傾げた。
「私もどうしてそうなったのかは知りませんが、宰相閣下のお許しは出ています。ご不満は宰相閣下へお願いします。」
セアラの姿がするりとドアの向こうに消える。
「ま、待ちなさい、セアラ!」
声を上げたが、彼女が戻ることはなかった。
彼女の人生を、酔った勢いで大きく変えてしまったことを、誠実に謝りたかった。
会えば謝ることができると思っていた。
どうやらそれは大きな間違いだったようだ。セアラに許すつもりがないのなら、謝罪などさせてくれないかもしれない。
謝罪は相手に気持ちが届かなければ意味がない。
たとえ相手に許してもらうことが出来なくても、謝らないという選択はメイフルには出来なかった。
がっくりとした気分のまま、椅子に腰を落とした。
新たな問題も発生している。
王国学園での講義だと?
メイフル学長は想像もしていなかった事態に、思考を放棄したくなる。
あの保守的な学校が、女性の講師を受け入れるとは信じられない。けれど、もし本当にそんなことが起るなら、王立学院がセアラを講師に起用しないわけにはいかなくなるではないか。
第一王子の噂の是非も確認できなかった。
気苦労が増える一方だ。だから学長になどなりたくなかった。
「クッションを買おう。」
唐突にそう思い、呟いていた。
妻の顔を思い浮かべた。カーテンも、壁に掛ける絵画も、選んでもらおう。思えばこの応接室は、自分の屋敷のものに比べると雑然とし過ぎている。
少しだけ現実逃避をしてから、大きく深呼吸をし、今日の予定を消化すべく立ちあがった。
メイフルと教授達は知らない。
セアラの中では、論文が勝手に出版された事件はすでに終わっていて、教授たちの所業についてはただ呆れているだけで、怒りなどもう欠片もないことを。
学院を卒業したご婦人方は、女性が研究室を持つことになった結論に満足している事を。
これからメイフルは、セアラに、ただひと言、すまなかったと伝えるために苦労することになる。