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粉砕

 恋人に求婚出来ない。

 クラン・ベッツ、二十七才は、子爵家の次男だ。騎士爵位しか持っていない。

 恋人は子爵家の令嬢だ。世襲でない爵位しかもたない自分との結婚を、彼女のご両親が許してくれるとは思えない。なにより、結婚は家が決める。自分の親にも結婚の許しを得なければいけない。

 立ちはだかる壁はいくつもあったが、一番の問題は自分自身にある。

 クランもそれはわかっていた。

 自分には、一歩踏み出す勇気がない。情けない。近衛騎士だと言うのに。


 カディール殿下お迎え役として、やっと目的地にたどり着いた。

 春一月十八日。昼下がり。

 人は思いがけない事態に直面すると硬直する。そして後退る。

 その実例を、今、クラン・ベッツは見ていた。

 広間の開かれたドアの前で、カディール殿下が、固まって、信じられないものを見るような目で、セアラを凝視している。

 それから片方の足が後ろに下がる。強張って上手く動かないのか、二歩下がったけれど、半歩に満たない距離しか動けていない。

「どうして、ここにいる。」

 やっと出たカディール殿下の声はうわずっていた。

 対するセアラは、ゆっくりと立ち上がると、軽く腰を落とし少し頭を下げるという略式の礼をしてから、姿勢良く殿下と向かい合う。

「お久しぶりです。カディール殿下。誤解のないように、先にお知らせいたします。」

 セアラが左の掌を殿下に見せた。そして、目を見開いた殿下は放っておいて、その掌を全員に見えるようにゆっくりと見せて行く。

 その手の中に国王陛下のご紋章のペンダントを持っている。勅命を受けている事の証だ。ある意味クランは、セアラよりもこのペンダントを守っているという感がある。失う訳にはいかない。

「陛下からの返事を携えて来たのだな。」

 カディール殿下が、即、気を取り直した。

 それに真っ直ぐに返事を返さないのが、セアラだ。

「お話は、少しばかり長くなりそうです。座らせていただきますわ。」

 最初セアラが一人で座っていた三人がけのソファに、ジェインが一緒に座った。下座側だ。セアラのもう一方の隣が上座になる。そこには、一人掛けのソファがあり、その席はミリアが占める。

 貴族女性の序列は爵位に関わらず、結婚している女性が常に上位だ。今日は、勅命を受けているセアラが上座でもいいとクランは思うのだが、女性の序列には嘴を入れない方が賢明だろう。

 そのミリアの隣が、この場の一番の上座だ。

 殿下は迷わずそこに座った。反対側の隣は一人掛けのソファが三つ。アレド、ゼフィル、レイオンの順に座って行く。

 クラン自身は、前に人がいるけれど、絶妙な椅子の配置のおかげで、中心人物全員の表情が見られるといういい位置にいる。

「皆さんも、お掛けになって。」

 この言葉に、全員が戸惑わずに座る。

 打ち合わせ通りだからと言うのもあるが、国王陛下の紋章を持っているのなら、セアラはカディール殿下と同等以上ということになる。騎士なら皆、指揮命令系統には敏感だ。

 殿下もこれには何も言わなかった。アレドが少し不審そうな顔をしただけだ。

「セアラ、陛下のお返事を持ってきたのだろう。出せ。」

 陛下の返事が、カディール殿下には重大事項だ。

「私が陛下からお預かりしましたのは、これだけです。」

 セアラがもう一度左の掌を殿下に向ける。陛下の紋章だ。

「カディール殿下は、ローザ王女とご結婚されたいのだとか。」

 話の方向をセアラが決めた。

 カディール殿下は、最初の動揺など忘れたかのように、堂々と胸を張って言った。

「そうだ。私はローザを心から愛している。ローザのいない人生などもう考えられない。私の妃はローザだけだ。」

 これはいろんな意味で凄い、とクランは思った。

 ローザ王女とのことはわかっていたが、こんなに堂々と言うとは思わなかった。何しろアディードで指折りの淑女である婚約者を、自分の勝手で捨てることになるのだ。誰が聞いても眉をひそめる。

 クランも恋人を大事に思っているが、身分や親や将来のことを考えて躊躇っている。何も考えずにこれだけ言えたら、さぞやすっきりするだろう。

 セアラは静かに返した。

「ローザ王女は殿下のお妃にはなれません。」

 これに、カディール殿下は悲しげな面持ちになる。

「お前も人を愛したことがあるだろう、セアラ。この痛みを知っているはずだ。ローザだけが、私を救える。ローザとの未来だけが私に希望を抱かせるのだ。」

 カディール殿下が一旦言葉を切ったが、セアラは少し首を傾げただけで何も言わない。殿下の話がまた始まった。

 少し視線を下げ、今度は苦痛を感じているという表情だ。クランはこの感情表現に感心する。役者並みだ。自分なら、たとえ酒に酔っていても、こんな姿は恥ずかしくて見せられない。

「ヴィエラのことは、申し訳なく思っている。」

 殿下の言葉に、アレドの目が一瞬きつくなったが、すぐに彼は視線を落とした。

 それに気づくことなく、殿下は話し続ける。

「幼い頃から側にいて、好きだと思っていた。けれど恋ではなかったんだ。そのことに、ローザに出会って初めて分かった。ローザのことを思うと胸が苦しくなる。会えば心が弾む。いつもローザが何をしているのかと考えてしまう。ヴィエラには感じなかった想いだ。婚約を破棄してしまう事を許して欲しい。いや、許されなくても仕方がない。リザルの王都を出た時、ローザを諦めようと思った。けれど彼女が追って来てくれたとき、これが運命だと気づいたんだ。手放してはいけない運命だと。」

 どこかで聞いたような言葉で、表情豊かに語るカディール殿下に対し、セアラは通常の無愛想さを発揮し、何の反応も見せない。

 ジェインは、何度か眉根にしわがよりそうになっていた。ミリアは殿下から少し引いて、呆れ気味な表情を隠していない。

 沈黙が降りて来た。

 ただセアラに眺められて、カディール殿下は明らかに焦っている。

「私は、ローザと結婚する。私の妃は彼女だけだ。」

 言い切った殿下に、セアラが返した。

「ローザ王女は殿下のお妃にはなれません。」

 さっき聞いた言葉だ。

 今度は殿下が口を開く前に、セアラが続けた。

「カディール殿下が、ローザ王女とご結婚されるなら、廃嫡されます。」

 廃嫡と、とんでもない言葉をセアラがさらりと言った。思わずクランはまわりの反応をみる。ただ目を見開いている者、クランと同じようにまわりに視線を走らせている者、様々だが、動揺しているのはわかる。

 もちろん殿下もだ。

 セアラは平然として話し続ける。

「王家と貴族院との契約をご存じでしょう。次代の王妃はアディードの貴族からという取り決めです。殿下がご自分でお決めになりました通り、すでにヴィエラ・オルゼナとの結婚式と、カディール殿下の立太の儀の準備は始まっています。アディード王国内だけでなく、諸外国にも知らされていますから、これを潰すのは大変な失態です。殿下が臣下にくだるくらいで済めばいいですね。つまり、殿下は王族ではいられませんから、ローザ王女とご結婚されても、ローザ王女は、妃にはなれません。」

 妃にはなれない。

 確かにそうだ。クランは、セアラがそこから突くとは思わなかった。

 ヴィエラに掛けられた言葉を思い出す。

 優しい声だった。世話を掛けますと、謝っていた。何事もなく戻られますようと、案じてくれた。

 だからクランは、セアラが王子を責めるものだと思っていた。素晴らしい婚約者がいるのに何をしているのだと。

「お前はっ。」

 カディール殿下が声を張り上げた。

「お前は私を王位から引きずり降ろすつもりか。そうなんだろう。レンカートと恋仲なのは知っているぞ。アディートの王妃になりたいがために、私を陥れようとしているんだろう!」

 これまたすごいと、クランは思った。王国内を二分にする王位継承権争いを始めるつもりだ。

 けれど非常に卑近な話だが、噂に聞く第二王子レンカートとセアラの仲は気になる。真相はどうなんだろうと、セアラを見た。

「殿下、『王位から引きずりおろす』と言うのは、正確な表現ではありません。殿下はまだ、立太の儀すら終えられていません。『王太子の地位を奪うつもりか』、という辺りが妥当でしょう。」

 セアラは正しい。たぶん正しいと思う。けれど言い返すのはそこじゃないだろう。クランは呆れ顔を隠せない。

 そうしているうちに、セアラが、すっと扇を持ちあげ、兄のゼフィルを指した。

「それから、殿下はお忘れのようですが、私の兄は殿下のご一行におります。このような不祥事を引き起こしたものの身内が、内宮に入れるわけはないでしょう。」

 不祥事、とはっきり言った。

 カディール殿下は言葉に詰まったようだ。俯いて、握りしめた手を両ひざに置き、苦しげに言う。

「どうしてローザが王妃になれないんだ。母上も、リザルの王女だったではないか。」

 いや駄目だろう。そもそも二代続いて王妃が外国の王女だったことが、次代の王妃を貴族から選ぶと言う結果を作ったのだからと、クランが思っていると、セアラが別視点を持ち出した。

「二代続けて同じ国から妃を娶るなど、アディードをリザルの属国にするつもりですか?」

 そういう見方もあるかとクランは目を見開いた。確かに大国に従う立場にある小国は、宗主国の姫君が妃になることが多い。

 殿下が訝しげにセアラを見る。

「ですから、殿下。二代続けて同じ国から王女を娶るのは、属国と化している小国のすることです。アディードは一応大国でしょう。ですから、ローザ王女には王妃になって頂く訳にはいきません。」

 丁寧にセアラが説明をした。

 殿下が説明されなければ理解できなかったことにも、セアラがアディードを『一応大国』と言ったことにも、クランは情けない気分になる。

「何故邪魔をするんだ。」

 殿下は苦悩の声を上げたが、セアラの平静さは変わらない。

「殿下、王都では、戦争が起るかもしれないという噂が出ています。」

 いきなり変わった話題に、はじかれたように、カディール殿下が顔を上げた。

 セアラがその顔を、いつものゆるぎない視線で見ている。

「殿下がいつまでもリザルにおられる事で、国王陛下が殿下の身を案じ、兵を挙げるのではないかと。そうなれば、東の国境でジゼット王国が大人しくしているわけがない。西でも東でも戦が起り、多くの若者が徴兵され、前線に送られるのではないかと、不安がっています。」

「陛下がそのようなことをされるわけがない。」

 睨むようにセアラを見て、カディール殿下が言う。それに彼女も頷いた。

「私もそう思います。けれど、民はそう思いません。カディール殿下が、ご自分で選ばれた婚約者を裏切り、隣国の王女と恋仲になっているのです。貴族との約束さえ疎かにする王家です。王家の勝手な事情で戦争が起ってもおかしくないと、彼らは思っているのです。」

「そんなこと……。」

 殿下の言葉の後を、セアラが引き取った。

「そんなことがあるわけがないと、殿下が思って下さったこと、安心しました。もうひとつ事実をお伝えします。ザッハ砦が増強されています。」

 息を飲んだのはカディール殿下だけではなかった。殿下の随行者たちも、それまでの傍観する態度から一気に話に聞き入る態勢になった。

「去年のことですが、アディードで薬の値が急に上がったのです。原因はリザルからのたったひとつの薬草の輸入量が一時期減ったせいです。そのため全ての薬の値が便乗して上がってしまいました。原因がはっきりしている事だったので、問題は貴族院まで上がることなく、王都の商業組合が治めました。けれど、そのリザルの薬草と言うのは、リザルの王太子殿下の治める地方の物です。しかも輸出量が減ったのは、アディードだけなのです。変だと思いませんか。まるで実験です。一つ物を減らしたら、事がどのように動くか測っていたような気がします。」

「まさか、リザルがアディードに……。」

 殿下の声が、言い切ることが出来ずに消える。

「リザル王にそんな気はないでしょう。王太子殿下の一番の敵対者は、ご自分の弟君でしょう。まだ王位を狙っているようですね。ですから、王太子殿下は物資を握る事で優位を保とうとされているのではないかと考えます。弟君は武人です。王太子殿下に対抗しようとするなら、軍を動かす力があることを示すのが一番の方法です。けれどリザル王が勝手なまねはさせないでしょう。弟君がとれる安全な力の示し方は、城砦や砦を修復することではないでしょうか。」

「修復?」

 いつの間にか殿下がセアラの話に聞き入っている。

「はい。物資をどれだけ動かせるかで、王太子と弟君は駆け引きをされているのではないかと。」

 カディール殿下は何かを考え込むように、視線を落として言った。

「確かに、リザルの社交界に、王太子派と第二王子派は存在していたようだった。」

 沈んだ声だ。

 セアラが静かに声を掛けた。

「ローザ王女はどうやって王都を出てきたのでしょう。」

 殿下の目がセアラに戻る。

「王宮から王女が抜け出して国境まで来るなど、簡単にはできないでしょう。誰かの手引きがあったと考える方が自然です。そう言うお話を、殿下はローザ王女からお聞きになっていませんか。」

 殿下の眉間のしわが深くなる。口を噤んだままだ。詳しい話を聞いていなかったのか、ローザ王女が話をはぐらかしたのか。どちらにしても、浮ついた恋にありがちな会話しかしてこなかったのかもしれない。ふたりが、将来を真剣に話し合っていたら、こんな状況には陥っていなかっただろう。

 セアラの話が続いた。

「リザル王が、ローザ王女を連れ戻さないのも気になります。はっきり言ってこれは醜聞です。ですが、リザルの第三王女とアディードの次の王太子では、国の威信に大きな傷がつくのはアディードの方です。リザルは友好国ですが、アディードが勝手に名を落とすのを、わざわざ救ってはくれないでしょう。近隣国への影響を考えれば、リザルの利になることですもの。」

 これが政治と言うものかと、クランはため息がつきたくなった。

 カディール殿下がセアラから顔を背けた。

「ローザは私を愛してくれている。」

「そのお気持ちは疑わない事にしましょう。その上でお考えください。カディール殿下が望まれるように、ローザ王女が殿下の妃になった場合です。アディードの貴族たちからの風当たりは強いですよ。内宮でも、侍女や女官はよそよそしいでしょう。彼女たちが仕事に手を抜くことはありませんが、型どおりの事しかしないでしょう。親しく相談など出来るようになるには、ローザさまは時間をかけて努力する必要があります。加えて、元ご婚約者のヴィエラ・オルゼナ公爵令嬢は、完璧と言われるほどの淑女です。常に彼女と比べられる事を覚悟なさらなければなりません。ヴィエラに引けを取らない美しい振る舞いと、礼儀作法を身につける努力も必要です。さらに、妃として公務を行わなければいけません。第三王女のローザさまは、国内貴族に降嫁されるはずというお話を、王妃さまから伺ったことがあります。他国に王妃として嫁ぐ準備はされていないでしょう。あらゆる分野の基礎的知識を今一度学び直して頂かなければいけません。ヴィエラは王立学院の総合学科を卒業していますよ。これも相当な努力がいります。他にもローザさまには多くの壁が立ちはだかるでしょう。ローザさまは、それらに、殿下ただお一人をお味方と頼り、立ち向かわなければならないのです。」

 言っていることはどれもありそうだ。けれどクランが呆れた気持ちになるのは、セアラが言葉を途切れさせることなく、流れるように話すからだ。

 殿下が低く声を荒げた。

「私が支える。」

「大丈夫ですか?」

 セアラの声が少し高くなった気がする。

「殿下にも公務がおありです。王太子になられたら、今まで以上に多くの責任を負われることになります。殿下は貴族院との大きな契約を破られるわけですから、当然、今後は厳しい目が向けられます。小さなあやまちも見過ごしてはもらえないでしょう。それとは別に、自分の利益のため、殿下が気に入りそうな事を言って取り入ろうとする者たちが増えるでしょう。殿下がご自分のお気持ちだけを大事にして、他の者を軽んじる行動を取られたのですから、そこに付け込んでくるものは必ずいます。貴族院は、殿下のご提案にはことごとく異を唱えるかもしれません。最初に約束を反故にしたのは殿下ですから、信頼関係を取り戻すためには、誠実に努力をされる必要があります。もう今までのように、身近の者全てがお味方ではないのです。その上で、ローザさまを支えなければいけないのですよ。」

 言外に、本当に出来るのですかと問うているのがわかる。

 殿下はセアラが話している間、何度か首を横に振り、まるで自分を守るかのように、だんだん前かがみになって来ていた。

「助けてくれる者もいる。」

 痛みにこらえるような殿下の言葉に、セアラが明らかに疑いをにじませて聞いた。

「そんな方がいますか。王妃さまを頼りにしても無駄ですよ。」

「いる。アレドが。」

 言った。

 やはりアレドが煽っていたのかと、クランは彼に目をやる。

 アレド・カガントは、憮然とした表情で視線を落としていた。

「どうしてアレドが助けてくれるのですか?」

 セアラの言葉に、殿下がするすると言葉を出してくる。

「アレドは私の気持ちをよくわかってくれている。本当に大事なものなら諦めるべきではないと、支えてくれたんだ。」

「その支えもこれまでです。」

 セアラはアレドを一度も見ない。殿下だけを見て、話しかけている。

「同行者は全員、今回の醜聞の責任を取り、解任か蟄居を言い渡されます。アレド・カガンドは一介の騎士にすぎません。今後お会いになることはないでしょう。離れていても心の支えになるかもしれませんが、王太子となられた殿下のお側で手助けし、励ますことはできません。」

 殿下の反論はなかった。

 しばらく沈黙が落ちる。

「お茶が頂きたいわ。」

 一時休戦とばかりに、セアラが言った。

 侍従ふたりがすぐに立ち上がり、出て行く。

「そういえば、王弟殿下のお子様たち、まだ木登りに夢中なの?」

 唐突に、セアラが内宮の話を始めた。

 これに、王城を二年離れていた者たちの顔が晴れる。自分たちのお守りしていた方々の話には興味を持たずにはいられないだろう。王弟殿下のお子様は、七才と五才の男の子だ。

 殿下は顔を上げないままだったが、ジェインが話に乗った。

「毎日何度も登られていますわ。騎士の方々の肩より上には行かないように、お止めしていますけど、大変です。隙あらば木に向かって駆け出して行かれるのです。」

 ねぇ男爵夫人と、ミリアに同意を求める。

「えぇ、お部屋でも走ったり、ソファで跳ねたり、大暴れです。男のお子様は、そういうものなのでしょうけど。」

 ミリアは楽しそうに言う。

「近々、お行儀の家庭教師がつきます。剣のお稽古もお始めになる予定です。そうしたら、お部屋では少しは大人しくなって下さると期待しています。」

「そういえば。」

 ジェインがふいに声を上げた。

「陛下が髪形を変えられたのです。」

「えぇ? 本当なの?」

 セアラが凄く驚いているが、クランも驚いた。陛下の髪形って、変わっただろうか。

 ジェインが意気込んでセアラに訴える。

「そうなのです。前髪の分け方、真ん中から少し左よりでしたでしょう。いまは明らかに左わけになっているんです。」

 左わけと言われて、クランは思わず首を傾げそうになった。変わったかどうかわからない。

 けれどセアラは真面目な顔で返している。

「何かご心境に変化があったのかしら。」

 絶対ないとクランは心の中で断言した。

 クランだけでなく、周りにいた者たちも、緊張感が抜けている。

 話のあまりの内容に、カディール殿下が怒りだすのではないかと思ったが、静かなままだった。

 そんな中、やっとお茶が届く。

 ワゴンがいくつか持ち込まれた。人数分の用意があるようだ。

「お茶請けをどうぞ。」

「嬉しいわ。」

 侍従にクッキーを差し出されて、ご婦人たちは笑顔で受け取っている。

 茶を飲み始めてから、クランは随分喉が渇いていたことに気づいた。

 しばらく、静かな時間があった。

 世間話が終わったことはわかっていた。次に話し始めるのが誰であっても、内容は、カディール殿下のことだ。

 口火を切ったのは、結局セアラだった。

「カディール殿下。先ほど、もしもの話をいたしましたが、ローザ王女が王妃になることは本当にありません。」

「私を、虜囚のように王都に連れ帰るか、セアラ・ディパンド。」

 殿下は床を睨みつけて、低くそう言った。

「虜囚より、酷いかもしれませんよ。」

 セアラが淡々と告げる。

「私たち、四日で王都からアコードまで来たのです。当然、帰りも四日で帰ります。馬車、揺れますわよ。」

 眉を寄せ、訝しげな酷い顔を、殿下がセアラに向けた。

「四日?」

「そうです。四日で帰れば、殿下の王都でのご予定を変更なく行えます。アディードの民も、戦争の心配はないと知るでしょう。」

 一番に考えなければいけないことは何か。

 その選択を今、カディール殿下に迫っている。殿下が苦しげに言った。

「それで、私は、愛していない女と結婚するのか。」

 いきなり、立ちあがったのはアレド・カガントだった。

「ヴィエラが、殿下を愛しているとでも思っていたのか!」

 カディール殿下は困惑の表情になって、アレドを見上げる。

 見下ろすアレドの表情は険しい。

「愛していない相手と結婚するのは、ヴィエラも一緒だ。そんなこと、婚約する前からわかっていたことだろう。殿下だけがしたくもない結婚をするわけじゃない。ヴィエラだって同じだ。ヴィエラに、好きだの、運命だのと言っていたのは、殿下だけだろう。」

 殿下の顔がこわばっていく。

 クランは小さく息をついた。カディール殿下が、ヴィエラ・オルゼナ嬢の気持ちを慮ったことはなかっただろう。きっと同じ気持ちだと信じていたに違いない。

 ふたりの気持ちの違いを、まわりにいた者たちは皆知っていた。いや、社交界全体に知られていたかもしれない。

 気づいていなかったのは、殿下だけなのだ。

 ヴィエラの気持ちを大事にして、とカディール殿下に忠告をした者は多い。けれど、それが意味するところをカディール殿下は気づかなかった。

「アレド殿は、殿下の御味方ではなかったの? 殿下のローザ王女を想うお心に寄り添っていたのでしょう。」

 セアラが冷めた目で見ている。

「それとも他に、ローザ王女とのこと、後押しした方がいらしたのかしら?」

 一同が見渡される。

 誰も動かない。

 ここが重要だ。クランは留学同行者たちをみた。クランの死角に入っている者は、他のお迎え役が見ているだろう。

 アレドは、殿下から目を逸らして床を睨んでいる。

 カディール殿下もぼんやりとした様子で、視線だけが床に落ちていた。

「殿下は、耳触りのいい言葉だけを言う者の意見しか聞かなかったのですね。」

 セアラが残念そうに言う。

「たったひとりの言うことしか聞こえませんでしたか。」

 大きなため息をついた。それから、また張りのある声を上げた。

「殿下には、『愛していない女と結婚するしかない』とご自覚頂いたようですから、早々にアディードに戻りましょう。」

 言葉と共に立ち上がる。

「え?」

 驚きの声と共に、殿下がセアラを見上げる。その顔には本当に驚きしかない。

 クランも驚いた。もっと殿下に言うべきことがあるのではないか。どれだけ莫迦なことを考えていたか思い知れとか、ヴィエラがどれだけ傷ついたと思うのか、とかだ。

 そう考えながら、思い出した。出発前夜のセアラとヴィエラの会話。ヴィエラは自分で言うといっていた。セアラは、カディール殿下とヴィエラの問題は、全て彼ら自身に任せるつもりなのかもしれない。

 これからの人生、ずっとふたりは一緒にいることになるのだから。

 そして、そのセアラが今見ているのはアレドだった。

「アレド殿、座ってください。」

 言葉は丁寧だが、低く深い命令する声と、強い意志が込められたゆるぎない視線。

 アレドは、顔を上げセアラをしばらく睨みつけていたが、結局座った。

 それから、セアラは殿下に向かい合う。声は淡々としたいつものセアラに戻っていた。

「今夜、アコードで一泊したら、明日から馬車を飛ばして、四日で王都に戻ります。早くアコードに行って、これからに備え、ゆっくり休みましょう。正直言って、私、昨日アコードに着いたばかりで疲れております。早く帰って休みたいのです。」

 最後は自分の都合を並べ出した。とてもセアラらしい。

「男爵夫人、例のものを。」

 ミリアが言われて、あの手紙の下書きを差し出した。セアラから、殿下に渡される。

 クランはつい身を乗り出し、その手紙の行方を追った。迎え役全員で考えたものだが、仕上げはクランがした。ナイールとジェインが、自分の考えた言葉は絶対はずさせないとうるさく言うものだから、『美しい、詩的なお別れの手紙』には残念ながらならなかった。

 しかし、セアラは全く気にした様子もなく、差し出している。

「私も、ローザ王女にあまり残酷なことをしたくありません。こちらのお手紙を殿下に書いて頂ければ、ローザ王女に届けます。これがあれば、今は辛くても、若い時にとても素敵な恋をしたと思って下さる日がくるでしょう。」

 殿下はセアラと手紙の間で視線を何度か往復させて、それから怒りの表情を見せると、手紙を掴み、破り捨てた。

 クランは危うく声が出るところだった。確かに良い出来ではないが、無茶な旅程の中で考えたものなのだ。

 そんなことはもちろん知らないだろう殿下の怒りは収まらない。

「私を操るつもりか。そんなことが出来るつもりか。」

 セアラは、左の掌を殿下に向けた。そこには陛下の紋章がある。毅然とした声が、カディール殿下に落とされる。

「『許さない』。それが陛下のお言葉です。手紙をご準備したのは僭越でした。けれどもう殿下には、ローザ王女にお会い頂くわけにはまいりません。」

 破られた手紙を、セアラが拾った。

「王都に帰ってしまったら、もうローザ王女にお手紙を書くことは出来ませんよ。殿下には婚約者がいるのですから。」

 再度、セアラが手紙を差し出した。

「時間を無為に使われたのは、殿下です。迷っている暇はありません。」

 殿下が馬鹿にしたように言った。

「自分の言葉でないなら、意味がない。」

「わかりました。」

 セアラは強制しなかった。殿下ではなく、この場にいる全員に言い渡す。

「私、セアラ・ディパンドは、恐れ多くも国王陛下より、カディール殿下の留学先からの復路について、全権を委ねられました。只今より、帰り支度をはじめます。この館をお貸し下さった方へご一報する役、どなたかお引き受けいただきたい。」

「私が行きます。」

 即答したのは、彼女の兄のゼフィルだった。

「ゼフィル殿。お願いします。口上はお任せします。」

 兄妹ではない立場からの呼び方だ。公私をはっきりさせるところは評価できる。けれどクランは、この兄妹に初めて痛々しいものを感じてしまった。自分に妹がいて、こんな役をしていると思ったら、どんな気持ちになるか想像できない。

「できれば、もうお一人、騎士の…。」

 セアラが言い終わる前に、留学随行者のフェナン・ソウザが立ちあがった。

「私に行かせてください。よろしいでしょうか、ラクレス隊長。」

 サザル・ラクレスが小さく息をついてから言った。

「先を越されたか。私が行こうと思ったのだけどな。よろしいか。セアラ殿。」

「はい。」

 セアラがフェナンに頭を下げた。クランが見上げたフェナンの顔は、活気に満ちていた。到着した時に見た、留学に随行していた騎士たちのどこか倦んだような気配は去っている。

「この館の警護にあたって下さっているリザルの方との連絡は、どうされているのですか?」

 続くセアラの質問に、ラクレスが答える。

「緊急時の連絡方法は決めてあります。レッドに対応させます。」

 指名された騎士が立ちあがり、目礼をする。セアラも目礼を返した。

 次は相談だった。

「リザルの方に、国境まで護衛をお願いした方がいいでしょうか。」

「物々しくなりますから、我々だけで行きましょう。必ず殿下はお守りします。」

「お任せします、ラクレス卿。」

 セアラが全員を見回す。

「他に、何か気になることはありますか?」

 何も出て来ないかと思った時だった。

「すみません!」

 随行者の騎士が一人、立ちあがった。

「部屋の花瓶を割ってしまいました。」

 頭を下げた。

 珍しくセアラがすぐに反応しなかった。少し呆気にとられたような顔は、きっと作った顔じゃない。いいものを見たと、思わずクランの口角が上げる。

「あ、そうなの。会計係はジグド殿でしたね。他にもそういうことがある方は、早急にジグド殿に申し出てください。ゼフィル殿、弁償金も一緒に届けてください。」

「すみません!」

 また勢いよく頭を下げている。

「大丈夫ですよ。正直に言って下さってありがとうございます。お屋敷は出来るだけ元の状態に戻してお返ししましょう。掃除までは出来ませんが、向こうのご領主も、出て行くことが一番有り難いと思ってくれるでしょう。」

 優しいセアラなんてなかなか見られない。

 彼女が、微笑みつきでもう一度聞いた。

「他に何かありますか? 無いようでしたら、準備を始めましょう。」

 その言葉に応えて、騎士たちが立ちあがる。

 領主のところへゼフィルと一緒に行く騎士フェナン・ソウザが、セアラ達の方へ行く。

 ここ数日、余裕のない旅をしてきたクランは、活気ある仲間の近衛騎士たちに囲まれて少し肩の荷が軽くなった気がした。

 食堂から広間に運ばれていた椅子を片づけながら、クランは思った。

 帰ったら、まず恋人に一生を共にして欲しいと伝えよう。自分の子ども達は、貴族の身分を失うかもしれない。それでも一緒に生きて欲しいと言おう。

 もし彼女にその気持ちが伝わったなら、互いの家のことはきっと何とかなる。クランも恋人も、政局を変えるほどの家に生まれたのではないのだから。

 王都に早く帰りたい。自然に笑みがでた。

 さて、帰りの四日間、殿下はセアラのように我慢強く耐えてくれるだろうか。


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