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スイレン

作者: のおと

     カラス



 城の上空を一羽のカラスが飛んでいた。気流に乗り羽ばたきもせず、音もなく旋回している。カラスの灰色の翼から一枚の羽が抜け落ちた。羽は不規則な軌道を描きながら落下していき、城に唯一開いている窓の中へと入っていった。



     パンケーキ


 

 それはちょうど朝食の時間だった。スイレンはベッドの上にいた。彼女は二人のクマのぬいぐるみに、蜂蜜のたっぷりとかかった厚いパンケーキを食べさせてもらっているところだった。

 二人の男の子のクマのうちの、小豆色のアズキは、窓から何かが舞い込んで来たことに気づいてベッドから飛び降りた。そしていつものように着地に失敗して転び、絨毯敷きの床に倒れた。起き上がるとおぼつかない足取りで窓際に歩いて行った。

「羽だ」

 アズキは窓の下に置いてある椅子の上からそれを拾い上げた。灰色の大きな羽。

「カラスだ」

 ヨモギが叫んだ。彼はまだ半分以上残っているパンケーキの載った皿を放り投げ、蓬色の体を機敏に動かし窓際へと駆け寄った。その後にスイレンも続いた。ヨモギは椅子によじ上り、窓に付いている硝子張りの扉を閉めた。スイレンは首から下げている鍵を錠前に差し込み鍵をかけた。カーテンも閉める。ヨモギが背伸びをして隙間から外を見る。

「またでかくなってやがる」ヨモギが言った。

「見せて」アズキがヨモギを押しのけて椅子に上がった。

「ほんとうだ。あれじゃ朝食のパンケーキが何枚も必要だろうね」

 アズキが舌足らずのゆっくりとした口調で言った。

「この城を狙ってるの?」スイレンは尋ねた。

「さあね。灰色のカラスは気まぐれだからな。でも窓さえ閉めれば大丈夫だよ」

 ヨモギは言った。彼はアズキの手から羽を取り上げて椅子を降り、廊下へ通じる扉へと向かう。

「どうするの、それ」スイレンは聞いた。

「焼いてくる。新しいパンケーキも」


「灰色のカラス、あいつはなんでも食っちまう。あいつのくちばしに入らないものなんてないんだ」

 ヨモギは新しく焼いたパンケーキを、フォークでスイレンの口に運びながら言った。ヨモギの焼いたパンケーキはスイレンのお気に入りだった。

 スイレンの口元に垂れた蜂蜜をアズキが舐めた。スイレンはくすぐったくて、くすくすと笑った。

「それから黒色の蝶。幻で人を惑わす。金色の粉をまき散らして飛んでいる。その粉に触れたら終わりだよ。幻しか見えなくなる。それからゴースト、隙間からどこにだって入り込む。普段は人を避けているけれど、もし出会ったら呪いをかけられるんだ」ヨモギは真面目な顔をして言った。「それから……」

「分かってるよ、かわいいクマさん」スイレンは言った。「外の世界には恐ろしい者がいっぱいいるけれど、ここにいる限り大丈夫なんでしょう?」

「そのとおり。ここは安全だよ」

 実際この城はとても安全なのだとスイレンは思う。ヨモギから聞く外の世界はほんとうに恐ろしいものだった。窓から眺めているだけで十分だと彼女は思っていた。

 ヨモギはとても物知りだった。この世界のことをいつもスイレンに教えていた。料理も上手だし遊びもいろいろと知っていた。スイレンはヨモギをとても頼りにしていた。

「ごちそうさま」

 スイレンは口元を寝衣の袖でぬぐいベッドから出た。

 彼女は窓の扉を開け、その下の椅子に腰掛けた。穏やかな風とほのかな甘い香りが部屋に入って来る。クマたちもやって来て彼女の膝の上に乗った。

 窓からは、地平線まで咲き乱れる様々な種類の花が見渡せた。スイレンは毎日、花が敷きつめられた大地や流れる雲、刻々と様変わりする空の色を飽きることなく眺めた。そんな時はスイレンは無口になったので、クマたちは彼女の膝の上で静かにしていた。スイレンは二人の頭を撫でながら景色を眺め続けた。

 アズキはいつも気持ち良さそうに眠ってしまう。まるでそれが自分に唯一与えられた務めでもあるかのように。彼の無邪気な寝顔を見るとスイレンは心が安らいだ。この舌足らずのおっとりとした小さな男の子が愛おしくて仕方がなかった。その隣のヨモギは、いつもスイレンの顔と外の様子を交互に見ていた。彼は窓を開けているときは大抵心配そうな顔をしている。スイレンが笑いかけるとヨモギは目をそらした。

 風が吹いて、極彩色の大地は大きくうねった。



     月の色の絵本



 月の明るい夜だった。三人はカードゲームをして遊んでいた。スイレンはヨモギに一度も勝つことができなかったので、だんだんいやになってきていた。彼女は持っていたカードをベッドの上に放り出した。

「ねえ、もう飽きたわ。何か別のことしない?」

「じゃあ、すごろくしよう」アズキが言った。

「それも飽きた」

「かくれんぼ」ヨモギが言う。

「気分じゃないな」

「じゃあ絵本読んでよ。このあいだの海賊のお話、あれ途中だったでしょ」

 アズキが自分の思いつきに嬉しそうに言った。彼は絵本が大好きだ。そしてヨモギもスイレンも。

「いいわね。でも海賊のお話はいや。違うのがいい」

「じゃあね、人魚。船を沈めちゃうの」アズキが言った。

「いや」

「小人は? 小人が女の子を襲うやつ」

「だめ」

「魔法使い。火あぶりにされちゃうの」

「飽きた」

「何がいいのさ」

「新しいのがいい。新しいお話が欲しいなあ」

 スイレンはヨモギを見た。

「分かった、取って来るよ」

 ヨモギは急ぎ足で部屋を出て行った。


 城にはスイレンの望む物ならなんでもあった。彼が地下から持ってくる物にスイレンはいつも満足した。持ってきてくれた物に飽きると、ヨモギはちゃんと新しいものを探してきてくれた。

 ヨモギによると、地下はたくさんの物で溢れているらしかった。スイレンも地下に行ってみたかったが、ヨモギは許してくれなかった。太陽の光の届かないところにはゴーストが住み着きやすい、だから行ってはいけない、彼は言った。スイレンはヨモギの言葉に従って地下に行くことはしなかった。


 スイレンはベッドで二人に挟まれて、月の色に輝く絵本を読んだ。それはお姫様と、お姫様に仕えるガドガドという巨大なクマのお話だった。三人はその物語を大好きになった。

物語の最後はこうだ。

「そしてガドガドは世界を全部壊してしまいました。最後に残ったのはお城だけです。お姫様とガドガドは、いつまでもお城で幸せにくらしましたとさ。おわり」

「良かったね。二人とも幸せになれて」ヨモギが嬉しそうに言った。

「すごいなあ。ボクも大きくなりたいなあ」

「アズキは大きくなる必要なんてないじゃない」

「そうだけど。でも、もし大きくなったら、灰色のカラスも、ゴーストも、やっつけられるかも知れないよ」

「そうなったら素敵ね。でも大丈夫、このお城にいる限り心配ないんだから」

「そうだよ。それに大きくなったら暮らしづらくてしょうがないよ。このベッドにだって寝れないじゃないか」

「そうかあ。ベッドに寝れないのは、嫌だな」

 本を閉じようとした時、スイレンは部屋の空気が急に冷たくなるのを感じた。

「来たあ」

 アズキが大声で言った。

 ヨモギは小さく舌打ちをしたあと、素早くカーテンを閉めた。

ゴーストだ。城の周りをうろついている。その気配は窓やカーテンを閉めても消し去ることはできない。不穏な空気が部屋に漂った。

 三人はベッドに頭から潜り込んだ。ゴーストの気配を感じることは今までに何度もあったが、決してこの不快感に慣れるということはなかった。

 こんな時、彼女たちには全く成す術がない。震えて朝を待つしかないのだ。

 スイレンは胸の鍵を握りしめた。この城の全てを開ける鍵だ。穴に紐を通し首から下げている。銀色に鈍く光る、いくつかの突起が付いた棒状の鍵。全てを開けられるといっても、スイレンには部屋の窓の鍵さえ開け閉めすることができれば十分だった。しかし何かの間違いで、なくしたり誰かの手に渡ってはまずい。城壁や門もこの鍵で開くのだ。誰かに勝手に入ってこられるのは困る。スイレンはその鍵を何よりも大切にした。絶対に首からはずさなかった。

「大きくなりたいなあ」アズキが呟いた。



     ガドガド



「だめ」

 そう叫ぶヨモギの声にスイレンは驚いた。彼女はいつものように窓際の椅子に座り空を眺めていた。

 窓の外に黒色の蝶がいた。スイレンはヨモギが叫ぶまで蝶に全く気づかなかった。蝶は金色の輝きの中で羽ばたいている。その姿は彼女が今までに見たどんなものよりも美しかった。彼女はその蝶に向かって手を伸ばそうとしていた。ヨモギの頭がスイレンの目の前に現れ、大きな音をたてて窓が閉まった。

 スイレンは椅子から立ち上がった。二人のクマが膝から落ちた。

「大丈夫?」ヨモギはスイレンに尋ねた。

「蝶」

「そうだよ黒色の蝶だ。こんなところまで飛んで来るなんて」

 スイレンは何が起きたのか分からなかった。彼女は黒色の蝶に触れようとしていた。

「蝶以外に何か見えた?」ヨモギが尋ねる。

「蝶以外って?」

「幻だよ。いつもと違うものは何か見えた?」

 いつもと違うもの? 私はただ雲を眺めていたのだ。他には何も見ていないはずだ。

「見えなかったよ」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

「粉は? 金色の粉。触れなかった?」

 スイレンは自分の体を見まわした。それからヨモギの前にしゃがんだ。彼は彼女の顔や髪を調べた。それらしいものは何も付いていなかった。

「ボクが見える? 誰だか分かる? この部屋は? 何も変わってない?」

 スイレンは辺りを見回した。いつもどおり、変らない自分の部屋だ。

「何も変わってないよ、ヨモギ」

「良かった」ヨモギは床に座り込んだ。「ごめん、ボクの不注意だ。ちゃんと見ていたつもりだったのに」

 スイレンは首を横に振った。

「蝶の羽の斑点、見た?」

「斑点?」思い出せなかった。

 スイレンが窓の外を見ると蝶はもういなかった。

 アズキは床で気持ち良さそうに寝息を立てていた。

 それを見てスイレンとヨモギはやっと笑うことができた。

 二人の笑い声でアズキが目を覚ました。彼は起き上がるとスイレンを見上げて口を開いた。

「姫、このガドガドがお守りいたします」


 浴槽の中でアズキは泡だらけだ。スイレンは細心の注意を払いながらアズキの体を柄付きの手持ちブラシで擦った。

 アズキの額に金色の粉が付いていたのだ。他にもどこに金色の粉が残っているか分からない。ヨモギが浴槽の縁に立って、桶で水を浴びせた。

「ヨモギ殿、もっと優しくお願いいたしまする」アズキが言った。

「なんてことだ」ヨモギはため息をついた。

「もとには戻す方法はないの?」スイレンはブラシを動かし続けた。

「ないよ。ボクたちにできることはなにもない」

「そんな」

「いつかは戻る。でもそれがいつになるかは分からないんだ」

「どうして?」

「幻は、その蝶の命が尽きるまで続くんだ」

「命が?」

「そして黒色の蝶がどのくらい生きるのかは種類による。黒色の蝶は知られているだけで三種類あって、黒地に赤い斑点の蝶の寿命は、ひと月から三ヶ月、青い斑点は一年、紫が三年くらい。だからヨモギが元に戻るのは早ければ明日かもしれないし、遅ければ二、三年後ってところかな」

「二、三年も」スイレンは驚いた。

「姫、心配なされるな。このガドガドがついておれば安心ですぞ」

 アズキが泡を飛ばしながら大きな声で言った。

 スイレンとヨモギは深くため息をついた。



     クモの巣と風



 ヨモギは数日間窓を開けないことを提案した。まだ黒色の蝶が近くにいるかも知れない。その提案には誰も反対しなかった。

 けれども窓を開けなければ開けないで別の問題が起こった。この城は風を入れないとたちまちのうちに朽ちていくのだった。クモの巣が至る所に張り巡らされ、ベッドは音を立てて軋み出し、洋服やカーテンは急速に色褪せた。それも数日間の辛抱と思い、スイレンたちは我慢した。

 アズキはガドガドのままだった。自分が物語の巨大なクマであると錯覚し、手当り次第に部屋の中の物を破壊した。以前の穏やかな彼のかけらも見当たらない。口調や歩き方まで変ってしまった。彼は絵本や物語をばらばらに破り、楽器を分解し、おもちゃを壁に投げつけ、食器を割り、シーツを引き裂いた。そしてこう言うのだ。

「姫、このガドガドがどこまでもお守りいたしますぞ」

 初めはいちいち彼の破壊行動を止めようとしていたスイレンもヨモギも、それが無駄に終わるだけだと分かると何も言わなくなった。荒れた部屋を片付けたのも最初だけだった。淀んだ部屋の空気はスイレンの気力を萎えさせ、思考を麻痺させた。不快な匂いが漂い、息をするたびに体が汚れていくような気がした。ヨモギも同じようだった。

 そしてスイレンたちは窓を閉めた目的を忘れ、再び窓を開けることを忘れた。ひどい状態に慣れ、それが普通であると感じるようになっていた。スイレンとヨモギはベッドの上でぼんやりと日々を過ごすだけになっていた。スイレンの体は重く、目は曇っていった。アズキだけがひとり破壊を続けた。

 ゴーストの気配が頻繁に漂うようになった。彼らは昼にまで城を取り巻くようになっていった。しかしもう以前のような恐怖をスイレンは感じない。感覚が鈍ったのか、それともいつの間にかゴーストの呪いにかかってしまったのかもしれないと彼女は考えた。ゴーストよりも、カーテンの隙間から差し込む日差しが嫌で仕方がなかったのだから。

「姫、そのような顔をしていてはなりませぬ」

 ある時アズキがベッドに昇ってきて言った。

「笑わねばなりませぬ。私は姫の笑顔を守るのが使命。それが出来ぬのならもはやガドガドがガドガドである意味もありませぬ。それだけはこの私、耐えることができぬのでございます」

 スイレンはそんな彼を煩わしく感じ、目をそらした。

 私が笑っていない? だから何だというのかしら。笑いたくないから笑わないの。笑えるようなことは何もない。でも、何故? いつから? スイレンの頭に疑問が湧いたが、それもすぐに消えた。

「ヨモギ殿、何をしておられるか。そろそろ昼の時間、姫に食事を」

 スイレンは首を力なく横に振った。食欲なんてなかった。放っておいて欲しかった。自分が消えてしまえばいいと思った。

「つくるよ」

 ヨモギはだるそうな仕草で体を動かし起き上がった。

 その時、ヨモギの顔が明るく照らされた。彼は顔をしかめた。

「ややや」アズキが窓に駆け寄った。

 光はカーテンの隙間から差し込んでいた。太陽の光ではない。

 窓。スイレンはいつの間にかその存在を忘れていた。

 彼女はカーテンを開けた。空の青が目に痛い。

 地平線のあたりで、光が鋭く点滅していた。

「何かしら」スイレンは呟いた。

 ヨモギが窓を開けた。

 強い風がスイレンを通り抜けた。



     フォークと笑顔



 スイレンは風呂に入り体を隅々まできれいにした。その後で、ヨモギのつくってくれた温かいパンケーキを食べた。彼女は、久しぶりにおいしく感じる食事を、久しぶりに残さず食べた。

「ごちそうさま」

 スイレンは食器をテーブルの上に置いた。大きく伸びをした。しばらく忘れていた、さっぱりとした気持ち良さが彼女の心と体を満たした。

 ヨモギは自分の体よりも大きくて厚い本を床の上に広げている。彼が気が向いた時によく眺めている辞典だった。

「やっぱり」ヨモギは言った。

「何?」

「ボクの勉強不足だ。やっぱりボクたちも黒色の蝶に惑わされていたんだよ。でなきゃあんなになるまで窓を閉め切っているなんてことあるわけないもの。ボクがそんな間違いをするわけないんだ。黒色の蝶の仕業だよ」

「金色の粉に触れたの?」

「それはないと思う、幻を見たわけじゃないからね。黒色の蝶は、その姿を見ただけでも理性や判断力を失ってしまうことがあるらしいんだ。それで……」ヨモギは辞典を見た。「見ただけの場合の効力の強さや持続期間には蝶の個体差及び見た者の個人差があるが、通常それほど長くは続かない。理性や判断力を失うとゴーストを呼び寄せやすいので注意が必要」ヨモギは辞典を読み上げた。

「それに運が悪かった。通常はこんな高さまで飛ばないらしい。蝶が間違って風にでも乗らない限りね」

「怖い。まだ何かあるのかしら」

「姫、心配は無用でござる。このガドガドがすべて壊してあげまする」

 アズキはいつの間にかテーブルの上で食器をいじっていた。

「安心くだされ」

 彼はそう言って壁にフォークを投げつけた。フォークは跳ね返り、さっくりとアズキの額に刺さった。

「何をする、無礼者め」

 突然の自分を襲う凶器にアズキは驚き、あわてて取ろうとしてテーブルから足を踏み外した。床に転げ落ち、手足をばたつかせた。

「ばか」ヨモギが言う。

「無礼者、ばかとは何でござるか」

 アズキが勢い良く起き上がった。

「自分の頭にフォークを刺す奴はばかだろう」

 ヨモギはフォークの柄を持ち、アズキを窓際へと引っ張っていった。

「ばかはカラスに食われちまえ。ほら、灰色のカラスが飛んでるぞ」

「やめろ、無礼者。やや、やめてくだされ、ヨモギ殿」

 カラスなんて飛んでいない。ヨモギのめずらしい悪ふざけだった。

 スイレンは思わず笑った。ちゃんと笑えた。

「やった」二匹のクマがスイレンを見て、声をそろえて言った。

 スイレンはクマたちに歩み寄った。彼女はアズキのフォークを抜き、二人を抱きしめた。

「もう大丈夫だと思うよ」ヨモギが言った。

「うん、そうだね」スイレンは窓の外を見た。

「あの光は何だったのかしら」

「何だろうね。今まであんな光、見たことなかったよ」

「助けられたね」

「うん。助けられた」

「姫、やはり姫は笑顔が一番ですぞ」

スイレンは二人に頬をよせた。



     望遠鏡



 ヨモギは椅子に辞典を載せ、その上で細長い円筒の望遠鏡を覗いた。

「城だ」

「城? お城があるの?」

 スイレンはヨモギから望遠鏡を受け取った。望遠鏡は果てしなく続く花々を円形に切り取っていく。昨日光っていたあたり、大地と空が交わるところを彼女は探した。

「ほんとう、お城がある」

「驚いたな。他にも城があるなんて」

「昨日の光はあそこからかしら」

「だろうね。他には何も見当たらないし」

 その城にはスイレンたちの城と同じような窓があるのが見えた。

 きっとあの窓から誰かが光を放ったのだ。この地に私たち以外の誰かが暮らしている。望遠鏡で見れば手の届きそうな位置に。

 スイレンの胸は高鳴った。私の知らない誰か。あの城から、誰かからの光が届いたのだ。どこかで何か大きなものが動き出したような、不思議な感覚を彼女は感じた。

 スイレンは手鏡を取り出した。太陽は真上にある。

「見てて」ヨモギに望遠鏡を渡す。

 手鏡を城が見えた辺りに向けた。ヨモギがスイレンに指示をした。

「そこ」ヨモギが言った。

 彼女は手鏡を小さく振った。

 スイレンは長い時間、鏡を振り続けた。時々ヨモギが光の位置を確かめた。太陽の位置が変わっていくので何度も角度を調節し直した。手首が痛くなってもスイレンは鏡を振り続けた。

「今日はもうあきらめよう」ヨモギが言う。

「もうちょっとだけ」

 そんなやり取りを何度か繰り返したあと、突然また、地平線が光った。

「やった」ヨモギが言った。

「誰? どんな人がいるの」

「人だ。男の子だよ」

「見せて」

 人が見えた。その人もこちらに向けた望遠鏡を覗いていて顔がよく分からない。彼が手を振った。スイレンも望遠鏡を覗きながら手を振り返した。すると男の子が望遠鏡を顔から外した。

 目が合った。スイレンはそう思った。男の子は小さく笑顔をつくると、窓から消えた。


 その夜、スイレンはベッドの中であの男の子のことを考えた。目を閉じると彼の笑顔が浮かぶ。あの人は誰?



     贈り物?



 次の日、太陽が真上にある頃にまた光が届いた。

スイレンは望遠鏡を覗く。昨日と同じ、男の子がいた。彼は望遠鏡を置くと何かを両手で持った。黄色いかたまり。そしてこちらに見せるようにその黄色を突き出した。それから両手を頭上に上げ、手を離した。黄色は大きく開いて、望遠鏡の視界から消えた。男の子も窓から立ち去った。


 しばらく経った時、スイレンの部屋には一羽の黄色の鳥と一匹のカエルがいた。カエルは鳥の足にリボンで縛りつけられていた。ヨモギがリボンをほどくとカエルが高く跳ね上がった。

「どうして鳥とカエルなのかしら」

 スイレンは飛び跳ねるカエルから逃げながら言った。

「何だろう。何か挨拶みたいなものなのかな」ヨモギにも分からない。

 アズキがカエルを捕まえてぐるぐると振り回しはじめた。カエルは耳障りな甲高い声をあげた。

「だめよアズキ、乱暴に扱わないで。それは大切なものなの」

「こんなカエルを大切と申されるか、これが一体何の役に立つと。壊してしまえばよいのです、世界はいらないものばかり」

 アズキは振り回していた手を離した。カエルは石の壁に腹からぶちあたり、ぺしゃんこに潰れてそのまま壁の模様になった。

 スイレンとヨモギは鳥とカエルについて話し合った。それが一体どういう意味なのか。でもやっぱりなんだかよく分からない。

「意地悪ではないよね。リボンが付いているし」スイレンは言った。それにあの笑顔、彼女は思った。

「贈り物ってこと?」ヨモギ。

「分からないけど。ねえ、こっちも試しに何か贈ってみましょうよ」

「おもしろいかも。でも何を贈るのさ」

「素敵なものよ」

「素敵なものって?」

 いろいろ迷ったあげく、スイレンは一枚のハンカチを贈ることにした。お気に入りの薄桃色のハンカチだ。端に小さく象の刺繍がしてある。

 黄色の鳥は窓際で時々あくびや毛づくろいをするだけで、ずっとおとなしくしていた。スイレンは鳥の足にハンカチを縛りつけた。

「よろしくね」

 鳥はまたあくびをして、それから飛び立っていった。


 黄色の鳥が再びやってきたのは次の日の朝だった。鳥が窓硝子をつつく音でスイレンは目が覚めた。窓を開け鳥の足を見る。リボンで縛りつけられているのは、なんだかギザギザした歯車だった。

 ますます意味が分からない。なぜ私に銀色でぴかぴかでギザギザの歯車を? 私はあんなに綺麗なハンカチを贈ったというのに? 気に入らなかったのかしら。模様が象だったから? 薄桃色だったから? ハンカチがいけないの? それともやっぱりこれは好意の贈り物なんかではないのだろうか。スイレンは考えた。

 スイレンはヨモギに手伝ってもらい、男の子の城に手鏡で光を送った。男の子はすぐに出てきた。望遠鏡の中の男の子は、スイレンが贈ったハンカチを首に巻いて笑っていた。ちょっときつそうだ。

 間違ってるよ、それは首に巻くものではないわ。スイレンは思った。思ったけれど、男の子の笑顔が嬉しかったのでそれでよかった。スイレンも笑顔で歯車を持った手を振った。

「なんてかわいい人なんでしょう」


 スイレンは、おもちゃを入れるのに使っていた金色に装飾された木製の箱から、アズキが壊して使いものにならなくなったおもちゃを全部出した。そこに男の子の歯車を入れた。

「アズキ、この箱に触ったらだめよ」

「姫、そんなもの何の役にも立ちませぬ。このガドガドが壊して差し上げまする」

「ダメ。そんなことしたらもう口聞かないから」

 アズキはうなだれて頭を床に着けた。


 それからスイレンと男の子は何度も贈り物を交換した。

 男の子は相変わらず意味の分からない物を贈ってきたし、スイレンはいつも自分のお気に入りのものや素敵だと思う物を贈った。男の子の贈り物をスイレンは好きになっていった。箱から取り出しいつも手に取って眺めていたので愛着が湧いてきた。

 素敵なのは透明の小さな石だ。それは茶色い皮の袋に入っていた。袋から取り出すと雨が降る。穏やかで優しい雨。スイレンは青空と同じくらい雨を好きになった。日がたつにつれお互いに姿を見せたり物を贈るおおよその時間は決まっていった。だからスイレンはそれ以外の時間には、時々透明な石を取り出しては雨を降らせた。

 空を満たす静かで細やかな水は彼女の心を落ち着かせた。世界が水の衣をまとったような感じ。聞こえる音は淡く鈍くなり親密さを増し、目に見える色は丸みを帯びて心地よく響いた。自分と世界の境界が曖昧になり、彼女は全てと繋がっているような気がした。どこからかやって来る緩やかなうねりが体を通過して行くのを彼女は感じた。

 あの人も同じ雨の中にいる。スイレンは男の子との繋がりを感じた。うねりは彼からやって来たのかもしれない。彼女は目を閉じて彼を想う。私の想いも彼の心をうねらせるのだろうか。彼女の中で男の子はとても大きな存在になっていた。もっと素敵な物を彼に与えられればいいのに。スイレンはそう思った。



     探し物



 スイレンの思いとは裏腹に、男の子からの贈り物が届かなくなった。五日程前、白く乾いた動物の骨のようなものが届いた。スイレンはきれいな色のボタンをいくつも袋に入れて黄色の鳥に持たせた。それっきりだ。鏡で光を送っても彼は姿を現さない。黄色の鳥はやって来ない。

 どうしたのだろう。彼の身に何か起こったのだろうか。それともとうとう私の贈り物に愛想を尽かしたのだろうか。それとも黄色の鳥がカラスに食べられてしまったのだろうか。それとも他に何か大事な用事ができたのだろうか。それともそれともそれとも。スイレンの胸の中で何か得体の知れない不快な物が暴れ出した。ゴーストの気配を感じた時の感覚に少し似ていた。でもそれよりもずっと激しくて熱い。それはどんどん大きくなっていくのだけれど、彼女はどうしていいのか分からない。

 それからまた二日、太陽が世界を照らしている間ずっと、スイレンは鏡を振り男の子の姿を待った。彼は現れなかった。

「どうしてあの人は現れないの? 一体何があったっていうのかしら」

「さあね。もう飽きちゃったんじゃないかな」ヨモギが望遠鏡を覗きながら言った。

「そんな。私の贈り物が気に入らなかったから?」

「カエルや骨を贈って来る人が何を気に入るかなんて分かるわけないじゃない」

「透明の石は素敵よ」

「雨なんて嫌いだよ」

「意地悪なのね」

 ヨモギは椅子から降り、望遠鏡を放り出した。

「ヨモギ、おかしいよ、どうしたの?」

「おかしいのはそっちだろ、一日中あの城ばっかり見て。付き合ってられないよ」

「姫、ヨモギ殿の言うとおりでございまする、二人が外ばかり見ているのでガドガドは退屈で仕方がない。壊す物もなくなってしまいました。姫、どうかこの私めと遊んでくだされ」

 アズキはベッドの足を引っ張りながら言った。

「アズキ、ベッドは壊さないでって何度も言ってるでしょう」

「もう終わりにしよう、忘れようよ男の子のことなんて。こっちからは何も出来ないんだしさ。きっとそのうちまた黄色の鳥が来るよ」

 ヨモギは言って、ベッドから手を離さないアズキの尻を蹴った。

「無礼者、何をする」

「ベッドは壊すなよ」ヨモギはもう一度アズキを蹴った。

「無礼者無礼者、壊してやる」アズキはヨモギに飛びかかる。

「お前こそカエルみたいに壁の模様になってしまえ」

 ヨモギはアズキの腕を掴んだ。

「やめて」スイレンは言った。

「私が悪かったわ。ごめんなさい。みんなで遊びましょう」

「ほんとうでござるか」

「ヨモギお願い、何かみんなで遊べる楽しい物を持ってきてくれる?」

 ヨモギはアズキの腕を離した。頷いて部屋を出ようとする。

「それから」スイレンはヨモギを呼び止めた。

 壁のカエルが壊れたトランペットみたいな声で鳴いた。


 部屋の床が地下からの沢山の物で埋まった。スイレンはヨモギと二人で床の空いているところに座って物の山を物色している。

「姫、なんでござるかこの仕打ちは。一緒に遊ぶと言ったではないですか、姫」

 スイレンはベッドの足にロープでアズキを縛りつけていた。

「遊ぶわよ、でももうちょっとだけおとなしく待っててね」

 ヨモギは黙って物の山をかき分けている。

「ごめんねヨモギ。わがまま言って」

 ヨモギは返事をしない。スイレンは硝子でできた透明な靴を手に取った。しばらく眺めてからそれを自分の後ろの方に追いやった。

「でもどうしようもないの。自分でも良く分からないわ。気持ちがおさえられないのよ」

 ヨモギはごつごつとした小さな棒を手に取って何度も振った。使えないと判断したのか、つまらなそうな顔のままそれを遠くへ投げた。

「ないね」ヨモギは両手を挙げた。

「もっと探して」

「もう全部見たよ」

「どうしてないの? 今まではちゃんと私が満足するものが必ずあったじゃない」    スイレンは物をかき分け続ける。

「そんなこと言ったって今までとはわけが違うよ。何でもいいから男の子と繋がれる物、なんてさ。曖昧すぎる」

 スイレンは手を止めた。

「地下にはまだいろいろあるんでしょう?」

「あるよ。いろいろね。でももう嫌だよ。何往復したと思ってるのさ」

「ごめんなさい」

 スイレンはぼんやりと物の山を眺めた。一番肝心な物がないなんて。

 一番肝心な物……。スイレンには男の子と繋がることがとても大切なことになっていた。ほかのどのようなことも今の彼女には関心が持てない。こんなに物があっても今は役立たずのがらくたの山にしか見えない。

 あの人に会いたい。それが叶わなければ永遠の眠りにでもついてしまいたい。彼女は思った。

「私が行くわ」

 ヨモギが怪訝な顔でスイレンを見た。

「私が自分で行って探して来る」

「地下に?」

 スイレンは頷いた。

「危ないよ」

「今までゴーストに出会ったことは?」

「……ないけど」

「私が行く時に限ってゴーストが現れるなんてことあるかしら?」

「万が一ってことがあるじゃないか。だから今までボクはキミを行かせなかったんだ。キミだって怖がってたじゃないか」

「大丈夫よ。もしゴーストが現れたらすぐに逃げるわ」

「絶対だめ」

「いいよ、勝手に行くから」

 スイレンは立ち上がってスカートの埃をはたいた。

「ボクは行かないからね」

「いいわよ。待っててね」

 スイレンは廊下へ出た。後ろ手に部屋の扉を閉める。

 歩き出そうとしても彼女の足は動かなかった。彼女は怖かった。ほんとうはとても不安なのだ。ひとりで城を歩くことさえ滅多にない。ましてや今まで行ったことのない部屋、地下室に行くなんて。ヨモギとアズキがいつも一緒だった。小さいけれど頼もしい二人なのだ。でもひとりで行かなければ。スイレンは深呼吸をした。

「やっぱり怖いんじゃないか」

 スイレンは驚いた。ヨモギだった。彼女は気づかなかったが、彼はこっそり彼女について部屋を出たのだ。

「今回だけだよ」ヨモギは言った。

「ありがとうヨモギ」

 スイレンはヨモギを抱きしめた。

 部屋から何かを叫ぶ声が聞こえた。スイレンはアズキを縛りつけたままだということを思い出した。



     地下室



 スイレンはランプを持ち地下への暗い階段を下りて行った。両肩にアズキとヨモギがしがみついている。

「ひどいでござる、あんまりでござる。ガドガドは悲しくて仕方がない。姫はいつからそんな薄情なお人になられたのか。嘆かわしい。実に嘆かわしい」

「だから謝ってるじゃない。ごめんなさい。お願いだから耳元であんまり大きな声出さないで」スイレンはアズキの頭を空いている手で撫でた。

「ねえヨモギ、ゴーストの呪いって何?」

「分からない。そこまでは辞典にも書いてない」

「きっと大したことないのよ」

「そう願うよ」

 目の前に扉が現れた。

「ここね?」

「うん」

 扉には鍵穴があった。

「鍵は?」

「鍵はかけてない。キミが持っているのだけだからね」

「そうだったね。開けてもいい?」

「大丈夫。落ち着いて」

 スイレンは扉を引いた。


 地下室は冷たい空気が張りつめていた。スイレンは壁のランプに火を灯しながら石の床を歩く。足音が部屋に響き、小さく揺れる炎は床に置かれた物の影を揺らした。アズキはスイレンの肩の上でくるくると辺りを見回した。物の多さに興奮しているようだった。

「お願いだから、今だけは何も壊さないでね。部屋に帰ったら何でも、いくらでも壊していいから」

「姫、大丈夫でござる、心配なされるな。ガドガドがお守りいたします。世界はいらないものばかり」

「何か壊したらまた縛るよ」

 アズキは黙った。

 地下室は、スイレンが絵本で見た大きな象が二十頭は入りそうなくらい広かった。そしてほんとうにたくさんの物が溢れていた。

 この中に男の子と繋がれる何かがあるかもしれない。二人のクマを肩から降ろし、スイレンは置いてある物を端から順番に調べていった。

 ずらりと並んだ本、積み上げられたおもちゃ、使い方の分からない機械、色とりどりの壷や食器、変なかたちの椅子やテーブル、絨毯に絵画、楽器と思われるもの、人形、巻物、剣、そのほか一体何なのか分からない物の数々。違う、違う、私の欲しい物はこれじゃない。手に取っては元の場所に戻す。何だかよく分からない物はヨモギに聞いてみる。スイレンはそれを何度もくり返した。

 しばらくたって、どれくらい調べ終えたのかと、スイレンは部屋を見渡し自分の位置を確認した。まだまだ全然、ほんの数歩しか進んでいない。限りがない、彼女は思った。調べれば調べるほど物が増え部屋が広がっていくみたいだった。見つけ出すまでにどれだけの時間がかかるのだろう。それに全部調べられたとしても無駄に終わるかもしれない。そもそもこの中に男の子と繋がれる何かがあるのかも分からない。あったとしても私は気づけないかもしれない。なにしろヨモギでさえ何に使うか分からない物もたくさんあるのだから。

 スイレンは弱気になった自分に気づき、それでも探そうと思い直した。見つけなければもうあの人の顔を見ることさえできないかもしれない。そう思うと彼女は胸が苦しくなった。この苦しさから早く解き放たれたい。どうしてもあの人と繋がるための何かを見つけなくてはならない。スイレンはふたたび探し始めた。

 どのくらいの時間がたったのだろうか、スイレンの腕は重くなり、足は痛み出した。時々視界がぼんやりする。大丈夫? ヨモギの声が遠くに聞こえた。

 突然、どこかで陶器のようなものが割れる音がして、スイレンの消えかけた意識が戻った。アズキが暴れ始めた。スイレンはそう思った。音のするほうに、物の間をなんとかすり抜けながら彼女は向かった。

 アズキは手当り次第に物を破壊していた。彼のまわりには破壊された物の残骸が積み重なっていた。

「アズキ、やめて」

「どれもこれもいらないものばかり。いらないいらないいらない」

 アズキは何段にも積み上げられた木箱の上にのぼり、そこから鉄のかたまりを投げ下ろした。鉄のかたまりは床に並べられた壷を砕いた。

「アズキ、お願いやめて」

 ヨモギが木箱を登り、アズキを後ろから蹴り飛ばした。アズキは箱の上から落ち、スイレンの前に転がった。スイレンはアズキを拾い上げた。

「壊しちゃだめって言ったでしょう。どうして言うことを聞いてくれないの」

「姫のためでございまする。姫をお守りするのがガドガドの役目なのでございます」

「気持ちは嬉しいわ、でも壊しちゃだめ。そんなことで私は喜ばないのよ」

「姫、部屋に帰りましょう。ガドガドは部屋に帰りたい」

 ヨモギが木箱から降り、アズキが投げた鉄のかたまりの方に行った。割れた壷のかけらをかき分け、空けた場所で何度も飛び跳ねた。

「どうしたの?」

「ここだけ音が違ったんだ。木だよ」

 壷のかけらをすべてどかすと、床に埋込まれた長方形の木の板が現れた。

「扉だ。鍵穴がある、開けてみよう」ヨモギが言った。

 スイレンは床に現れた扉の鍵を開けた。鍵穴の上に鉄の輪が付けられていて、輪には縄が縛りつけられていた。縄を引いて扉を開く。そこには階段があった。

 スイレンの心臓が大きく脈打った。

「どうする?」ヨモギがスイレンを見る。

「行こう。ここにあるよ」スイレンは言った。



     赤い魚



 階段を下りると小さな部屋だった。手持ちのランプひとつで部屋の端まで光が届く。部屋は真ん中に石の台座があり、台座の上には透明な丸い鉢が載っている。部屋にあるのはそれだけだ。スイレンは台座の上、鉢の隣にランプを置いた。鉢には水が入っていて、水の中には一匹の小さくて赤い魚が泳いでいた。魚の丸い体は光に照らされ艶かしく輝き、尾は花のように広がり垂れ下がっている。

「金魚だ」ヨモギが言った。

「知ってるの?」

「辞典に載ってる。こんなところにいるなんて」

 ヨモギは驚いていた。

「来たな」

 低い声が部屋に響いた。

「出た」ヨモギが言った。「ゴーストだ、逃げよう」

 スイレンの足は動かなかった。

「我は影。光と共に現れる者」

 スイレンの向かいの壁に、台座と鉢の影が大きく揺れている。その影が口のようなかたちに割れて動き、声はそこから出ていた。

「出たなゴースト。このガドガド、貴様に会える日をどんなに心待ちにしていたか。壊してやる、覚悟しろ」

 アズキが影の映る壁に走って行き、両手で影を何度も叩いた。

「幾日も待っていたぞ。ずいぶん遅かったな」

 今度は後ろから声が聞こえた。振り向くとスイレンの影の頭の部分、ちょうど口のところが開いていた。アズキがまた走って行こうとする。スイレンはアズキを捕まえて、彼の顔を自分の胸に押しつけるように抱きしめた。

「幾日も? 私が地下に降りるのを決めたのはつい今日のこと」

「もっと前からお前がここに来ることは分かっていた。金魚の氷が溶けたからな」

「氷が」

「金魚は眠りから覚めた」

「それと私に何の関係が?」

「何か望みがあるのだろう?」

 スイレンは頷いた。

「その金魚はお前の望みを叶えることができる」

 スイレンは金魚を見た。やはりここにあった。この金魚が私とあの人を繋げてくれるのだ。

「この金魚を持って行っても良いでしょうか」

「覚悟があればな」

「覚悟?」

「お前は一体何が欲しいんだ」

「会いたい人がいるのです」

「人に会いたい? それだけか?」

「はい」

「ならば自分の足で歩いて行けば良いではないか」

「外は危険すぎるんだ」ヨモギが言った。

「危険? ほう、危険なものなどあったかな」

「黒色の蝶や灰色のカラスです、他にもたくさんあります」

「それでお前はその危険を犯さずに望みを叶えたいと?」

「はい」

「都合のいいことを。傲慢で欲深い女だ」

「そんな。私はただ……」

「黙れ、認めるのだ。お前は傲慢で欲深い愚かな女だ」

「私はただあの人に会いたいだけなのです。それはいけないことなのですか?」

「ずいぶんと自分を綺麗に飾ったものだな」

「他に何かを望んでいると?」

「知っているだろう?」

「与えたいのです。私はあの人から素晴らしい贈り物をもらいました。私も何か素敵な物をあの人にあげたい」

「お前は一体何が欲しい?」今度はヨモギの影が口を開いた。

 影には私の心が見えるのだろうか。私が何か間違っているのだろうか。スイレンは思った。

「綺麗な飾りを取るのだ。何が見える? 」

 会いたいのも与えたいのも正直な気持ちだ。飾ってなどいないはず。それ以上を私が望んでいると? 私は何が欲しい? もしもあの人に会えたとしたら? 望みが叶うのだとしたら? スイレンは自分の心を覗いた。彼女は想像した。彼と会う時のことを、会った後のことを。

 確かにそうだった。私はあの人に会えればそれでいいなんて思っていない。何かを与えられればそれでいいなんて思っていない。私はそれ以上のことを望んでいるのだ。できることならば、私はもっと欲しい。彼女は思った。

「お前は傲慢で欲深い愚かな女だ。そうだな?」スイレンの影が言う。

 スイレンは頷いた。

「声に出して言え」

「私は傲慢で欲深い愚かな女です」

「何が欲しい?」

「あの人の全てを」

 影は黙った。鉢の金魚が水をはねた。

「この金魚で私の望みはほんとうに叶うのでしょうか」

「飛べばな」台座の影が言った。

「飛ぶ?」

「その金魚が空を飛んだ時、お前は望むものを手に入れる。そしてもし飛ばなければ、お前はその金魚をここから持ち出した代償を払わなければならない。覚悟はあるか?」

「代償とは一体何なのでしょう」

「今のお前の心の苦しみが永遠に続く。お前の真に欲するものは永遠に手に入らない。そしてお前は手に入らないものだけを永遠に欲し続けるだろう」

 この心の苦しさが永遠に? 私はあの人が欲しくて苦しいのだ。そして望みを叶えられるのは金魚だけなのだ。私に選択の余地はない。スイレンは思った。

「覚悟します」

「愚かな女よ。早々に魚を持って立ち去れ」

 それきり影が口を開くことはなかった。



     祈り



 地下室から戻るとすでに日が暮れていた。スイレンはベッドの上で辞典を開いた。隣にはヨモギがいる。アズキは寝息をたてて眠っている。金魚はテーブルの上だ。スイレンは金魚の頁を見つけた。


金魚

氷に眠る伝説の魚。金魚が空を飛ぶ時、祈りを捧げた者は望む限りのものを手に入れる。

金魚が空を飛ぶ為の条件

壱、金魚を手にした後、最初の新月より満月までの毎夜、月が空の真上にある時刻、金魚に月光を浴びせること。

弐、月光を浴びせている間、ひとり金魚の為に祈ること。

参、祈りの間は絶えて何も望み願わないこと。

上記条件のいずれかが守られなかった場合、金魚は立ち所に水に溶け消える。


「矛盾してるよ。金魚が飛んだら望みが叶うんでしょう? でもその為には決して何も望んでも願ってもいけないなんて、どうすりゃいいのさ、何を祈るっていうの?」ヨモギが言った。

「分からない」

 ヨモギの言うとおりだ。望みが叶うのは金魚が飛ぶ時。だとすれば飛ぶことを願わずにはいられないというのに。あの人と繋がりたい、金魚に飛んで欲しい、という望み、願い。それを禁じられ、それでも金魚が飛ぶ為には祈らなければならない。金魚の為に祈る? どんな祈りが一体金魚の為? スイレンの頭は混乱した。

 スイレンは窓から空を見た。月は今にも消えそうなくらいに細い。

「次の新月はいつかしら」

「明日だ」ヨモギが暦を見て言った。


 次の日の夜、スイレンは窓に金魚の鉢を置いた。月は空から消えている。一緒に起きていると言い張るクマたちを、スイレンはなんとか寝かしつけた。彼女はひとりで祈らねばならない。

 もうすぐ時間だ。今夜、祈らなくても、祈りを間違えても、金魚は消えてしまう。昨日から考え続けて出した、祈りについての結論。自信があるとは言えない。それは祈りと呼べるものなのかどうかも分からない。それでもとにかく祈るしかない。スイレンは覚悟を決め、窓の下にひざまづいた。手を合わせ目を閉じる。

 静寂と星明かりの中、彼女は祈りはじめた。


 気がつけば朝だった。太陽の光がスイレンの瞼を明るくした。祈り以外の想いが入り込まないように集中していたので、時間の経過が分からなかった。祈りの途中で時間について気を散らすよりは朝まで祈り続けたほうがいい、スイレンはそう思った。

 スイレンはその場に横になった。緊張が解け、心と体を疲れが襲う。彼女は喜びの中で眠りに引きずり込まれていった。

 淡い太陽の光は、水の中の金魚を優しく照らしていた。


 それから毎晩、スイレンは祈った。夜明けまで祈り、金魚を見届け幸福な気分で眠りに落ちる日々。月は夜毎その幅を広げ、月の幅と同じにスイレンの期待も膨らんでいった。

 祈りは通じた。このまま満月まで祈り続ければ、私はあの人と繋がれる。そう思うと彼女は体からあふれるような喜びを感じた。

 そして最後の夜になった。

 スイレンは窓を開けた。月は丸く、窓を埋め尽くすくらい巨大だ。

 今日は金魚が飛ぶ日だ。嬉しさにはしゃぐ心をおさえ、スイレンは最後の祈りに向けて気持ちを落ち着けた。テーブルの上から窓に金魚の鉢を移す。

「今日で最後だね」ベッドからヨモギが言った。

「起きてたの?」

「眠れなくて」

「うん、今日で最後」

「金魚が飛ぶと何が起こるんだろう」

「何かしらね、想像もつかないわ」

「金魚が飛んでもボクたち一緒にいれるのかな」

 意外なヨモギの言葉にスイレンは驚いた。

「あたりまえじゃない、私たちはずっと一緒よ。そんなこと考えてたの?」

「ちょっと思っただけ」

「大丈夫よ、心配しないで」

「うん、おやすみ」

 ヨモギは背を向けた。

「おやすみ」スイレンはかわいらしい小さな背中に言った。

 スイレンはもう一度月を見た。澄んだ空に静かな光。この光の力なら金魚が空を飛ぶのも全く不思議ではなく感じられる。彼女は最後の祈りのために、床に膝をついた。


 長い長い祈りの中、それは起こった。

 水のはねる音がした。スイレンは思わず目を開けた。金魚の鉢はまるで月の中にあるように見える。鉢の中で金魚が何度も飛び跳ねた。それは次第に激しさを増していく。今ここで願ってしまってはならない。彼女は金魚を見つめながらも祈り続けた。

 そして、金魚は飛んだ。鉢から飛び出し、月へ向かって。スイレンにはそう見えた。彼女は急いで立ち上がり、金魚の行方を目で追う。

 その時だった。突然視界が真っ暗になった。月の光が消えたのだ。

 スイレンは何が起こっているのか分からなかった。体が硬直して声も出せない。胸に不穏なものがこみ上げ体が冷たくなった。金魚は闇に飲み込まれた。

 スイレンの意識が遠くなっていった。彼女が最後に見たのは、月に向かって飛び去るカラスだった。



     伝言



 不快な甲高い音でスイレンは目が覚めた。彼女はベッドの中にいた。日の光がまぶしい。ヨモギとアズキが彼女の顔を覗き込んでいる。スイレンは体を起こした。体が重い。何か悪い夢を見ていたような気がしたが思い出せない。彼女は頭を振った。鈍く痛みが走った。

 不快な音の出どころは壁のカエルだった。スイレンが顔をしかめると、アズキがカエルを蹴り潰した。カエルはグエッ、と気持ちの悪い声を上げて黙った。

 スイレンは風呂に入り体をきれいにした。気分は全く良くならない。

「大丈夫?」ヨモギが言った。

「姫、心配しましたぞ。何日も目を覚まさないのですからな」

 私は何日も眠っていたのか。一体何があったのか思い出そうとしたけれど、スイレンの頭は思考を停止したままだ。

「金魚は? 飛んだんでしょう?」ヨモギが言った。

 スイレンは再びベッドに倒れ込んだ。金魚? 何か大事なことのような気がする。金魚? 彼女は顔を上げ部屋を見渡した。テーブルの上に見覚えのある鉢が置いてある。中には水が入っているだけだ。金魚?

 しばらくしてスイレンは思い出した。金魚がカラスに飲み込まれたことを。彼女は二人にあの夜のことを話した。

「でも飛んだんでしょう?」ヨモギが言った。

「そう見えたけど」

「飛んだ後にカラスに食われても問題ないんじゃないかな」

「あの人からの連絡は?」

「それはまだだけど」

 スイレンとヨモギは、前にそうしていたように男の子の城に光を送ってみた。返事はなかった。

「灰色のカラスに食べられてしまったらどうなるの?」

「灰色のカラス。大きなくちばしは世界の入り口であり出口。胃袋は飲み込んだものの肉を溶かし骨を砕く。際限のない快楽と苦しみ、痛みと喜びが渦を巻き、飲み込まれたものは渦の中で異質に変化するが、そのかたちは食われたものの持つ資質により様々。純粋な意思は稀に、善悪に拘らずそれをかたちにすると言われている」

「それが辞典に書いてあること?」

「うん、そう」

「ずいぶん恐ろしいことになっていそうなんだけど、つまりどういうことなのかしら」

「飲み込まれたものがどうなるかは全く分からないってこと」

 私の金魚はどうなったのだろう。祈りは通じたはずだ。なのに……。私の望みは叶うのだろうか。スイレンの胸は不安と悲しみで苦しくなった。カラスの爪に締めつけられているのだ、私の金魚も今頃きっと苦しんでいる。彼女は思った。

 硝子をとがった金属でこするような音がしたが、それは締めつけられたスイレンの胸から発せられたのではなかった。壁でぺしゃんこになっているカエルがまた鳴きはじめたのだ。アズキが蹴ろうとするのをスイレンは止めた。

「ヨモギ、あのカエル、鉢の中に入れてあげましょう」

 ヨモギはカエルを壁から剥がし、鉢の中に放り込んだ。

 ぺらぺらのカエルは鉢の中で急速に膨らんでいった。スイレンはヨモギを抱き上げ、その様子を見守った。アズキは彼女の足にまとわりついている。

 口を動かし水を飲みはじめたカエルの勢いは止まらず、一気に鉢の水を飲み干した。それからカエルは鉢から飛び出し、テーブルの上で長くて大きなげっぷをし、それが終わると大声でわめきはじめた。

「ひどいひどいひどいひどい。なんという仕打ちだ、この城の者は礼儀というものを知らぬのか」

「喋った」ヨモギが言った。

「あたりまえだ」カエルが飛び跳ねる。

「あなたは?」スイレンは尋ねた。

「私は王子に仕える名誉あるカエル、名前をライチと申す」

「ライチ?」

「王子?」

 スイレンとヨモギは顔を見合わせた。

「あの地平線のお城のですか?」

「いかにも。私は王子からの伝言を伝えるべくこの城にやって参りました。言わば親善大使。なのになんですか私に対するこの扱いは。やっと到着したと思ったらいきなり壁にぶち当てるなんてあんまりです、侮辱です、屈辱です。戦争にもなりかねないところでしたぞ」ライチは早口でまくしたてた。

「戦争なんてそんな」

「失礼。興奮のあまり言い過ぎました。何しろ喋りたくても喋れない状態が長かったものですから。戦争はあり得ません、王子はそんなお方ではありません。私だって平和主義者であります」

「ご無礼をお許しください。まさかあなたが伝言を持って来られていただなんて」

「良いでしょう、この私、心の広いことでは有名でございます、全てを水に流しましょう。あなた方に悪気のなかったことも重々承知しております」

「ありがとうございます。それで、あなたは何を伝えに来られたのですか?」

「王子の気持ちです。王子はあなたに恋をしておられる」

「あの人が?」

「はい」

 ライチの言葉に、スイレンの冷たくなっていた胸が熱を取り戻していった。

「でも、贈り物が急に届かなくなりました。姿も見えません」

「はいはいはい、分かっております。このライチ、たとえ壁の模様に成り下がろうともちゃんと全てを見ておりました。もどかしい思いをしましたぞ。何せ喋りたくても喋れなかったのですからな。王子から贈り物が来なくなったのには理由があります」

「理由?」

「左様、理由とはあなたが贈られたあのボタンです」

「ボタン?」

「うかつでした、まさかこちらとあちらでは贈り物に対する意味が違っているなんて。王子が今まで贈ってきた物には、全てにちゃんとした意味があります。ですがその意味がこちらでは全く通じない。あなたが王子に贈られた物も、私たちの地ではあなたが意図していない別の意味があります。これはさすがのこの私にも予想外のことでありました。まあ、それも私が壁の模様にさえなっていなければ何の問題もないことではあったのですがね。まさか、壁にぶち当てられようとは、いくらこの私と言えども夢にも思わぬことでありました」

 ライチはアズキを見た。さすがのアズキも申し訳ないと思ったのか、スイレンの足元に隠れておとなしくしている。ライチは咳払いをして話を続けた。

「しかし、しかしそれにしてはなかなかいい線をいっておられました。お互い贈り物の本当の意味が分からないのにもかかわらず、あなた方はなかなかの交換をし合っておられました。もちろん、ちぐはぐなことは何度もありましたがね。ええ、例えば王子が、天気がいいですね、と言っておられるのに、あなたは、お腹がすきました、みたいな感じですね。まあ、これは私が今考えた例えですが。いやあ、しかしよくぞ王子の贈り物をちゃんと好意として捉えてくださった。そしてあなたの贈り物も、私どもの意味に照らし合わせても悪くはありませんでした。素敵な物もありましたよ、ただひとつ、あのボタンを除いては」

「あのボタンはそちらではどんな意味になるのでしょう?」

「聞きたいですか」

「ぜひ」

「その前に水をもう一杯頂けませんかな。久しぶりに喋って喉が痛くなってまいりました。なにしろ随分長い間、壁の模様になっておりましたからな。あんなに喋らなかったのは私がまだ母親のお腹の中にいた時以来であります。思い出しますなあ、私の母親はそれはそれは優しいカエルでした。何十匹といる兄弟の中でも、特に私をかわいがってくれましてねえ、お前は兄弟の中でも一番頭がいいからきっと将来は立派になるよ、なんて言ってくれまして。そしてどうですか、今ではその言葉どおり、城の王子に仕えるまでになったのです。いやあ懐かしい、実に懐かしい。そもそも私が王子に出会ったのは……」

「水」ヨモギがライチの前にグラスを置いた。

「いやいや、これはかたじけない。それではちょっと失礼」

 ライチは頭からグラスに飛び込んだ。グラスから足だけが飛び出している。

「きっとその王子は、今頃城が静かで喜んでるんじゃないかな」ヨモギが言った。

「そうかもね」

「どうやって出るんだろう」

ライチはグラスにすっぽりとはまった状態で口を動かしている。両腕は脇に着いていて、自力でグラスから出られるようには見えない。

「はまってるわね」スイレンは言った。

「はまってるよ」ヨモギ。

「はまってるわ」スイレン。

「良かったね」ヨモギがライチを見ながら言った。

「何?」

「恋をしてるってさ」

「うん」スイレンは頷いた。

 ライチの足が激しく動き出した。苦しがっているようだ。

「どうしようか」ヨモギが言った。

「意地悪しないで」

 ヨモギがテーブルに乗り、ライチをグラスから引っ張り出した。


「ええと、どこまで話しましたかな。そう、王子はあなたに恋をしております」

「金魚の力かな」ヨモギが言った。

「金魚は関係ありません。考えてみてください、私はあなた方が金魚を見つける前に、王子の伝言を伝えにこの城にやって参りました。王子の恋心と金魚は全く関係ありません。それに」ライチは咳払いをした。

「金魚が空を飛ぶわけはないでしょう。こんなことを言うのは大変心苦しいのですが、金魚が空を飛ぶなどというのは一昔前の迷信に過ぎません。迷信、あるいはただの古い伝説です。あの理不尽な条件を考えれば分かるでしょう?」

「そんな」スイレンは言った。

「しかし、あなたの祈るお姿はとても美しかった。迷信を信じない私でさえ、もしかしたら金魚が飛ぶのではないかと思った程です。あなたの王子へのお気持ちに、私は痛く心打たれました」

「金魚の部屋を見つけた時、私の胸は高鳴ったのです。影だって言いました、金魚が望みを叶えると。金魚が迷信だなんて、私には思えません」

 ライチはふん、と鼻を鳴らした。

「最近、黒色の蝶を見たことは?」

「私が正気でないと?」

「気分を害されたら申し訳ない、可能性のひとつとしてお聞きしたまでです。それに蝶を見ていたとしても、それは別に悪いことではありません」

「金魚は空を飛ぶと、辞典にだってちゃんと載ってるよ」ヨモギが言った。

「書物ほどあてにならないものはありませんよ。書物は私たちを気持ちよく騙す為に、玉石入り混ぜてつくられております。ましてや、あのような古い本ならなおさらです」

「ひどい。あなたは全てを否定するのですね」スイレンはライチを睨んだ。

「いや、これは失礼致しました。全てを否定するつもりなど毛頭ございません。どうやら、ええ、何と言うか、そう、こちらと私たちの地では世界の認識の仕方が多少異なっているということなのかも知れませんな、贈り物についてもそうでしたし。なにしろ交流のまるでなかった離れた地でありましたからな」

「金魚は空を飛びました。カラスに食べられてはしまいましたが。影も、辞典も、幻でも嘘でもありません」

「分かりました。では、金魚の力、影があなたに言ったこと、辞典に書いてあること、どれも本当のことであるという前提でお話ししましょう。私としましてはそれで一向に構いません」

「では話を元に戻してください」

「承知しました。それでは、お手数ですが王子の城を望遠鏡で見て頂けますか」

 スイレンは黙ってライチの言葉に従った。城が見える。

「旗が揚がっていると思うのですが」

「はい、揚がっています」

「どんな旗が?」

「黄色地に、線が二本、斜めに交差しています」

「線は何色でしょう?」

「赤と緑です」

 ライチは頷いた。

「もし金魚があの時飛んだのだとして、それでもやはりあなたは王子の心を手に入れることはできません」

「どうしてでしょう?」

「王子は今、心のない状態だからです。胸から心臓を取り出され、眠っております。そして城は今、喪に服しておるのです」

「心がない?」

「はい。王子の恋心は破れました。あなたの贈り物によってです。王子の最後の贈り物、小さな白い骨ですが、あれはあなたへのいわゆる求愛でありました。あなたをお慕い申しております、迎えに行ってもよろしいでしょうか? まあ、そんな感じの意味であります。それに対してあなたの贈ったボタン、あれは……」

「何ですか?」

 ライチは咳払いをした。

「拒絶を意味します。私はあなたのことなど露程も思ってはいない、どうかもう私に構わないでください。そういう意味になります。はい、大変なことになったと私は思いました。なんとかしてあなたに間違いを伝えねばと。しかし私は壁の模様、まるで木の葉のようにぺったんこ。動くことも喋ることも出来ない。力をふりしぼって出した声は象のおならのような音。恥ずかしい、いや、もどかしい思いをしました」

「何も知りませんでした。王子は一体どうなるのでしょう」

「我らの地では恋に破れると、その破れた者の心臓を胸から取り出します。そしてその心臓を四十九日間清らかな水に浸け、それから土に埋める。心臓はしばらくして土から芽を出し、一年かけて、枝がなくて細長い、硬くて高い高い木に成長します。木の頭頂部にはこれまた大きな葉が何枚かあり、葉のつけねに実がひとつだけなる。その実の中には新しい心臓が入っています。実から心臓を取り出し、それを眠っている、恋に破れた者の胸に入れる。するとその者は目を覚まし、新しい心臓で再び生活を始めるのです。その時はもう、一年前の恋心はすっかり消えている。二度と同じ人に恋をすることはありません。新しい心臓を入れるまでの一年間、我々城の者は喪に服します。城を閉ざし口をつぐみ一切の言葉を禁じます」

 ヨモギが今度は、水を深めの皿に入れて持ってきた。早口なカエルは皿の水を飲み干し、一息つくとまた喋りはじめた。

「だから、金魚の力が本当だとしてもあなたは王子と結ばれないのです。いくら金魚の力と言えども、心のない者の心を手に入れることはできないでしょう。それにもし、金魚の力が取り出した王子の心臓に及んでいたとしても、その心臓はもう王子の物でなくなってしまします。土に埋められ木になるのです。そして新しい心にまでは金魚の力は届かないでしょう。仮に、金魚の力が王子の新しい心にまで及ぼされるとしましょう。しかしその場合は王子があなたを愛するのは金魚の力があったから、ということのみになってしまいます。今の王子のあなたへの想いは、もうその時はなくなっているのですからな。それは王子に仕えるこの私としては全く感心できません。あなたも本意ではないでしょう。それに一年待ったとしても金魚の力が効いていなかったら? あなたは大変失望なされることでしょう」

 スイレンの体から力が抜けた。私はあの人ともう繋がることができないのだろうか。これでは影の言っていた代償のとおりではないか。やはり金魚は飛ばなかったのだ。

「そう気を落とされるな」ライチが言った。「まだあなた方が結ばれる道はあります」

「それは何でしょう?」

「あなたのくちづけです。先程申しましたように、今現在、王子の心臓は汚れ無き清らかな水の中にあります。水の中にある四十九日間、それは実は、心臓を胸に返すことが可能な期間でもあるのです。そして胸に返すことができるのはただひとり、王子の心を破った者に限られます。つまりあなたです。他の者が返しても、破られた心は暴れ狂い、王子を死に至らしめてしまうだけです。暴れ狂う心を静め、破れた場所を修復するのが、あなたのくちづけです」

「私のくちづけ……」

「今なら間に合います。今ならまだお互いが想い合っておられる。今すぐあなたが王子の元に行けば、あなたは、必ず、王子と結ばれるのです。金魚が飛んでいようがいまいがです。カラスに金魚の力を打ち消されていたとしても関係ありません。そうでしょう?」

「王子の元に行けば」私はあの人と結ばれる。

「そうです。他の者は何も手助けすることが出来ません。あなたがご自身の足で歩いて行かねばならない。あなたが歩き、王子の城の扉を開け、心臓を胸に納め、くちづけをするのです。簡単です」

「危険すぎる」ヨモギが言った。「あまりにも危険すぎるよ。何が起こるか分からない」

「危険なものなど何もありません。外は一面花が咲いているだけではありませんか」

「カラスや蝶のことです」スイレンは言った。

「カラスや蝶が危険? いやはや、あなた方は何かとんでもない勘違いをされているようですな。カラスも蝶も全く危険ではありません。それはこの私、自信を持って断言できます。確かに蝶の金色の粉は我々に幻を見せる。しかしそれに何の問題が? 金色の粉は私たちの望む幻を見せてくれます」

「ひどい目に遭いました。蝶のせいで私たちは生活が荒みきったのです。その時、そちらの王子が助けてくれなければ大変なことになっていました。もうあんな体験はしたくありません」

「カーテンをずっと閉め切っていた時ですな。はい、あの時王子は大変心配しておられました。それで光を送ってみたのです。ひどい目に遭ったのはこの狭い城などに籠っておるからです。蝶の力は大勢で共有しなければなりません。皆で見る幻は素晴らしいですよ」ライチは言った。

「でも」

「いや、議論はやめましょう」ライチはスイレンを手で制した。「要はあなたが城にいらっしゃるかどうか、それだけです。心配ありません、あなたが王子を想い続けてくだされば、必ず城に辿り着きます」


 窓からライチが大きな声で鳴くと、その声に呼応して花の大地のあちこちからカエルの鳴声がした。声は王子の城の方へと伝わっていき、しばらくして黄色の鳥がやって来た。スイレンは鳥の足にライチを結びつけた。

「それでは城でお待ち申しております。王子の心臓が土に埋められるまで、あと二十日間ほどあります。あなたの足では多く見積もっても五日というところでしょう。途中には食べられる花の実や水場なんかもたくさんあります。なるべく早く来てください。私どもとしましても喪中は気が滅入って仕方がありませんからな。それに王子の笑顔を早く見たい」

 鳥が羽を広げた。

「言い忘れるところでした、カラスは望む者の所にしかやって来ません。望まなければ会うことなどありませんよ、心配無用です」

 黄色の鳥は地平線に向かって飛んで行った。



     告白



「まさかあのカエルのでたらめを信じるなんてね」ヨモギは言った。

「少なくとも王子についての話はほんとうだと思うの」

「どうかな」

「お願い、行かせて」

「危険は覚悟の上なんだね」

 スイレンは頷いた。あの人に会えないということ以上の不幸はきっと私にはない。

 ヨモギは何も言わず扉へ歩いて行った。

「ヨモギ?」

「旅の準備。ボクがするから、休んでて」ヨモギは部屋を出た。

 スイレンは胸の鍵を握りしめた。まさかこの鍵で城の門を開ける時が来ようとは。彼女はここしばらくの出来事を思い返した。いろいろあったがこれでやっとあの人に会える。スイレンは鍵にくちづけした。

 

 扉を閉める音でスイレンは目が覚めた。椅子に座り外を眺めているうちに、風の気持ち良さで眠ってしまったようだ。彼女の膝の上にアズキも眠っていた。地下から戻ってきたヨモギは、手に綺麗な帽子を持っていた。スイレンはアズキをベッドにそっと置き、ヨモギから帽子を受け取った。

「素敵」彼女は言った。

 スイレンは鏡台の前に座り帽子をかぶった。鏡には乱暴者の小さなクマのせいで端にひびが入っていた。スイレンは鏡に映った自分の姿に、言いようのない違和感を感じた。ひびのせいではない。帽子が似合っていないわけでもない。どう、と尋ねるヨモギに曖昧な返事をしながら、彼女は違和感の原因を探った。そしてそれはすぐに分かった。彼女は胸に手をあてた。鍵がない。


 部屋をどれだけ探しても鍵は見つからなかった。鍵を結んでいた紐が、切れて床に落ちていた。それともうひとつ、灰色のカラスの羽。

 何と素早く狡猾で残忍な鳥なのだろう。金魚ばかりか鍵までも奪ったのだ。絶望的だった。あの鍵がなければ城から出られない。門以外に外に通じているのは部屋の窓だけだ。小さな城と言えども地面から窓までは相当な高さがある。そして城の周りは城壁が囲んでいる。城壁の扉を開けるのにも鍵は必要だし、壁をよじ上るなんて到底無理だ。

 スイレンはライチの言葉を思い出した。カラスは望む者の所にしかやって来ない。そんな馬鹿な。私が望んでいるのはあの人だ、灰色のカラスなどではない。スイレンの心は悲しみを通り越した。顔が熱い。それは彼女が初めて感じる強い怒りの感情だった。

 スイレンは地下室へと向かった。何としてでも城から出なければ。地下には何か使えるものがあるはずだ。絶対に城から出てやる、彼女は心に誓った。二人のクマが追ってきた。スイレンは地下室の扉を開け中に入った。アズキが続く。扉が閉まった。ヨモギが入ってこない。

 扉から冷たい金属の音がした。鍵を閉めた音だった。


「何するの?」スイレンは扉越しにヨモギに言った。

 ヨモギは答えない。気配はある。

「どうして鍵を持ってるの?」

「鍵を盗ったのはボクだよ」

「嘘、だってカラスの羽が」

「前に窓から入ってきたやつだよ。焼き捨てようと思ったんだけどね、めずらしいから思い直して取っておいたんだ。こんなふうに使うとは思っていなかったけど」

「ヨモギ殿、乱心されたか。姫を閉じ込めるなどと不届き至極、早急に扉を開けられよ」アズキは扉を叩いた。

「ごめん、こうするしかないんだ」ヨモギは言った。

「どうして? 」

「キミは城から出ちゃいけないんだ。何度も言ったじゃないか、城の外には恐ろしい者がいるって。キミのためだよ、ボクはキミを守らなきゃいけない」

「あの人に会いたいの、あの城の王子様よ。私は覚悟したの。危険な目に遭ってもあの人に会えないよりはずっといいって。知ってるでしょう、ずっと助けてくれてたじゃない」

 ランプを床に置き、スイレンは扉の下に座った。彼女の頭の位置が、ちょうどヨモギの声がするあたりだ。

「ボクのこと、好きじゃないの?」ヨモギの声は震えていた。

「何言ってるの、好きよ。嫌いなわけないじゃない」

「でもキミはあの王子のことばかり考えてる。ひどいよ、ボクはどうすればいいのさ。ボクはキミの為に頑張ってきんだ。まだ足りないの? 足りないんだったらもっと強くなるよ、もっと物知りになる。ずっと守ってあげるから。ずっと一緒だって言ったでしょ」

「ずっと一緒よ、一緒にこのお城を出ましょう」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。そんなの嘘だ。あの王子に会いたいだけじゃないか。キミはあの人が一番なんだ。そんなの嫌だ。王子に会ったらきっとボクなんかいらなくなるよ。ボクがいればいいじゃないか。ボクがキミのこと一番好きなんだよ。ボクがキミのこと一番分かってるよ。キミだって好きって言ったじゃないか。一緒に遊んでて楽しかったじゃないか。お願いだから、ボクをひとりにしないで。ボクをひとりにしないでよ。あいつはキミのことなんて何も知らないじゃないか。ボクをひとりにしないで」

「あなたをひとりになんてしないわ。ずっと一緒よ。アズキだっているでしょう」

「アズキなんていらないよ、他の誰もいらないよ、王子もカエルもいらない。ボクはキミだけいればいいんだ」

「約束する、あなたをひとりにはしない。あの人に会ってもよ。あの人に会ったとして、それからどうなるかはまだ何も分からないのよ。どうなったとしても、あなたとアズキは離さないから」

「会えるわけないだろ。幻だよ」ヨモギは叫んだ。「王子も城も蝶の幻に決まってるよ。キミの王子への気持ちだって、蝶に惑わされてるだけなんだよ。ボクたちはわけが分からなくなってるんだ」

 その言葉はスイレンの胸に刺さった。黒色の蝶の幻。その可能性がないわけではなかった。彼女は考えないようにしてきた。ヨモギはずっと考えていたのだ。

 私のあの人に会いたいという気持ちは蝶のせいなのだろうか。アズキがおもちゃを全部壊してしまったように、私も何かを壊し続けているのだろうか。スイレンは思った。

「でもさ」ヨモギは嗚咽した。「でもさ、それを言ったら、ボクのこの気持ちも嘘になっちゃうしさ、でもボクはキミのこと、大好きだしさ、誰にも渡したくないしさ、分からないよ、どうしていいか分からない。苦しいけど、どうしていいか分からないんだよ」

 それからヨモギはしばらく泣き続けた。スイレンは扉にもたれかかってヨモギの声を聞いていた。

 ヨモギの泣き声が小さくなってきた頃、スイレンはヨモギに話しかけた。

「ヨモギ、あなたの気持ちは良く分かったわ。今まで気がつかなくてごめんなさい。あなたとちゃんと話がしたいの。勝手にお城から出たりしないから、部屋でお話しましょう。鍵だってあなたに預ける。私に顔を見せて」

 少ししてから、鍵を開ける音がした。

 スイレンが扉を開けた途端、アズキがヨモギに飛びかかった。

「姫を閉じ込めるとは何事か、姫が許してもこのガドガドが許さんぞ」

 二人のクマは揉み合った。

「いいのよ、アズキ、やめて」

 アズキはヨモギの手から鍵を奪い、階段を駆け上って行った。ヨモギが後を追った。

 スイレンが二人を追いかけて部屋に入ると、アズキが窓に上っていた。窓の扉は開いている。ヨモギが窓の下でアズキを追い詰めるかたちになっていた。スイレンが二人の間に入ろうとしたその時、アズキが足を滑らせ、視界から消えた。スイレンは窓に駆け寄った。

 一瞬の出来事だった。空から大きな影が音もなく落ちてきた。灰色のカラスだった。カラスはアズキを飲み込んで空に消えた。とがった冷酷な声だけがスイレンの耳に残った。



     雨


 

 アズキがいなくなってから三日が経っていた。アズキのいない城は静かだ。スイレンはテーブルをはさんでヨモギと向かい合って座っていた。二人とも言葉は少なかった。スイレンが入れた紅茶は、カップで減らないまま冷めた。

「カラスを呼んだのはボクだ」ヨモギが呟いた。

「そんな、あのカエルの言ったことなんてでたらめよ。カラスを呼ぶなんて出来るわけないでしょう」

 ヨモギは首を横に振った。

 スイレンは雨を降らせる石を取り出した。すぐに空が曇り出して、部屋は薄暗くなった。そして雨が降り始めた。

「ヨモギ、来て」スイレンは両手を広げて言った。

 ヨモギがスイレンの横に来た。彼女はヨモギを抱きしめた。

「ボクとアズキが城に来た頃のこと、覚えてる?」ヨモギは言った。

 それは三年前のことだった。その日も雨が降っていた。二人のクマが城の門を叩いた。びしょ濡れの二人をスイレンは城に招き入れた。旅をしていた二人は、スイレンの頼みでそのまま城に居着いた。ヨモギはそのころから物知りで頼もしかったし、アズキはのんびりとしていて、可笑しなことを言ってはいつもスイレンを笑わせた。スイレンは二人のかわいい友達ができたことをとても嬉しく思った。

「覚えてるよ」

「ずっと三人でいたかったのに」ヨモギは言った。

「一緒に泣こう」スイレンは言った。



     再会


 

 それから毎日、スイレンは雨を降らせ続けた。王子を忘れたわけではなかった。忘れられないから雨を降らすのかもしれなかった。スイレンとヨモギは静かに泣き続けた。

 ある朝、スイレンが起きると雨は止んでいた。スイレンはテーブルの上の石を手に取った。石は彼女の手のひらで砕けて砂になった。

 雨が止んだ日からヨモギは地下に通い出した。何をしているかスイレンが尋ねても答えない。地下に通い出して三日目に、ヨモギは長い縄を見つけてきた。彼はそれを窓から垂らしてみた。地面に全然足りないのを見て、彼はがっかりしたようだった。次の日はスイレンを城の入り口に連れて行き、見つけてきた斧で扉を壊すように言った。スイレンは何も言わず彼の言うとおりにしたが、斧を持ち上げるのが精一杯だった。

「もういいのよ」スイレンはヨモギに言った。

「時間がないんだ」ヨモギが言ったのはそれだけだった。

 スイレンは暦を見た。王子の心臓が土に埋まるまで、あと九日だった。

 スイレンはヨモギと一緒に地下に行くようになった。けれども城を出るという期待は持たなかった。王子への気持ちが無くなったわけではなかったが、ヨモギとアズキのことを考えると彼女は複雑な気持ちだった。

 王子の心臓が埋まる日まであと六日という朝になった。ライチは、スイレンの足では城まで五日かかると言っていた。

「今日で地下に行くのは最後にしましょう」スイレンはヨモギに言った。

 地下で物をかき分けながら、スイレンは王子のことを思い出していた。今日何も見つからなければ、彼にはもう会うこともないだろう。そう思うとやはり彼女の胸は痛むのだった。最後にもう一度顔だけでも見たい。スイレンは思った。

 キノコのかたちをした置物らしきものを手に取ろうとした時、スイレンはそれが一定のリズムで細かく震えていることに気がついた。震えは少しずつ大きくなっていった。震えているのはその置物だけではなかった。地下にあるあらゆる物が震えていた。

「上に行こう」ヨモギが言った。

 二人は部屋に戻った。部屋も微かに振動している。ヨモギが窓を開けた。

「あれだ」ヨモギが言った。

 城壁のすぐ先に巨大なクマがいた。スイレンの大好きな色、小豆色のクマ。

「もしかして」ヨモギが言った。

「ただいま」大きなクマはスイレンたちに向かって言った。声も大きい。そして、喋り方がおっとりとしていて、足取りはおぼつかない。

「アズキなの?」スイレンは叫んだ。

「ボクだよ、アズキだよ。やあ、お姫様お久しぶりです」アズキがおどけた。

「純粋な意思は稀に、善悪に拘らずそれをかたちにすると言われている」ヨモギは言った。「すごい、アズキの思いがかたちになったんだよ」

 スイレンとヨモギは手を取り合って喜んだ。

「おかえりアズキ」ヨモギが叫んだ。

「おかえりアズキ」スイレンも続いた。

「おかえり」二人は声をそろえて叫んだ。


 三人は城の入り口の前で再会した。アズキは城壁の厚くて高い扉も、城の入り口の扉も簡単に開けてしまった。何しろアズキはその扉より大きかったのだ。

「アズキ、カラスはどうしたの」スイレンは尋ねた。

「さあねえ、壊しちゃったかも」

 スイレンとヨモギは笑った。

「間に合って良かった」ヨモギは言った。

 スイレンはひとりで部屋に戻った。窓から二人のクマがじゃれ合っているのが見えた。彼女は望遠鏡を覗いた。アズキの幻が解けた。それはあの時見た黒色の蝶の命が尽きたことを意味していた。城は?

 望遠鏡の中には王子の城がちゃんと見えた。

 


     別れ



 二人のクマが、再び旅に出ると言い出した。スイレンが王子の城に行くのがちょうど良い機会だから、と彼らは言った。

 彼女は一緒に王子の城に行こうと言ったが、二人は聞き入れなかった。それでは王子に会った後、戻って来るから待っていてくれと彼女は頼んだが、それもだめだと言う。

 スイレンは三人それぞれのことを考えてみて、それも良いのかもしれないと思った。私はあの人に会うことを選んだのだ、二人が好きな道を選ぶのも当然だ、スイレンは思った。それに二度と会えないわけではない。さびしいが、スイレンは快く別れる決心をした。三人は最後の夜を語り明かした。


 次の日の朝が来た。三人は城壁の前で別れを惜しんでいた。

「約束して」ヨモギは言った。「ボクたちと別れたら、王子の城に着くまで、決して振り返らないで」

「どうして?」スイレンは聞いた。

「幸せになれるおまじない」

「ふうん。いいよ、分かった。約束するよ」

「ちゃんと歩くんだよ」アズキが言った。

「先に行って」ヨモギが言った。「ボクたちは行く方向が違うんだ、見送るよ」

「ばいばい」アズキが言った。

「じゃあね」ヨモギが言った。

「またね」スイレンは歩き出した。

「振り返っちゃだめだよ」ヨモギの声をスイレンは背中で聞いた。彼女は振り返らずに手を振った。

 ほんの数歩、歩いてスイレンは立ち止まった。

 まさか、そんな。彼女は突然の思いつきを否定しようとしたが、しきれない。

 スイレンは振り返った。

 そこに二人のクマの姿はなかった。彼女の城もなかった。見渡す限りの花の咲く、広い大地があるだけだった。

 スイレンはその場に立ち尽くした。

 彼女の足下に、一羽の黒色の蝶が落ちた。















     ***


「それからその女の子はどうしたの?」

 金魚は黒色の蝶に聞いた。

「さあ、その後の話はボクも知らないんだ。王子に会えたのかもしれないし、王子も幻だったのかもしれない。また他の蝶の幻を見はじめたのかもしれない。ボクが知ってるのは、女の子はしばらく立ち尽くしていたあと、それでもまた、花の中を歩き始めたってことだけさ」

 黒色の蝶は言った。



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