星を数えて
「ンヌ…… ジャンヌ」
澄んだ声が、アタシの名前を呼ぶ。
「目を覚ませ、ジャンヌ」
感情のこもっていない、平坦な声がアタシを呼び続ける。
体が静かに揺すられている。
《すまねえ、ジャンヌ。起ぎてけろ。急用だっちゃ》
頭の中に、ピクさんの声が響く。護衛役として、アタシについていた精霊だ。てか、移し身の姿(ぬいぐま)を抱っこしてたんだっけ。
うっすらと瞼を開けた。
ほの暗い。
橙色の淡い室内灯に照らされた部屋、人が見えた。
陰になってるんで、アタシを覗きこんでいる人の顔はよく見えない。
けれども、さらさらの銀の髪、白銀のローブ。誰だか、間違いようがない。
「……お師匠様」
「外へ行く」
え?
「こんな時間に……?」
まだ暗いのに。
室内はシーンとしている。壁掛けの時計を見るまでもない。真夜中の時間だ。
「おまえに見せたいものがある。ついて来い」
うむを言わさぬ口調。
こうなったお師匠様は、梃子でも動かない。
黒クマさんを離してあげ、寝ぼけ眼をこすって、体を起こした。
ベッドの横に座っていたお師匠様が立ち上がる。
「行くぞ」
ちょ!
アタシ、寝間着なんですけど!
「待ってください、着替えます」
「そのままで構わん」
いやいやいやいや!
「アタシが構います。廊下で待っていてください」
「私に廊下に出ろ、と?」
「着替えるんです。外に出てください」
夜中だから大声は出さなかったけど、強い口調で言った。
「間違った時ははっきりと伝えてくれって言いましたよね? アタシ、十六歳なんです。男の人の前じゃ着替えられません」
見つめ合うこと数秒。
「私も『男』か」
フッと呼気がぬける。
それが忍び笑いのようにも聞こえ……ちょっと、びっくりした。
「……長くは待たんぞ」
そう言って、お師匠様は部屋を出て行った。
《ジャンヌ、だいじょうぶだ。おら、見えねえから》
黒クマさんは、かわいいおててで両目を覆っていた。
その横で、急いで寝間着から着替えた。
《日付が変わったのう》
枕元のアクセサリーから声が聞こえる。いつも右手首につけているトパーズのブレスレットだ。
《今日の護衛当番は、わしじゃクマー 精霊支配者よ、実体化していいかのクマー?》
心の中で『どうぞ』と答えてじきに……手が止まった。
精霊との契約の証をまだ装備してないんだけど!
それどころじゃなくなったというか!
ブレスレットの側に出現した白クマさん。
そのつぶらな黒い瞳が、アタシを見上げる……
あまりのラブリーさに、頭の中は真っ白になった。
アタシの胸は、キュンキュンと鳴った! 鳴り響いた!
「どーしちゃったんです?」
ベッドに膝をついて、おじーちゃんクマを覗きこんだ。
ブレスレットよりも、ずっと小さい。
小指サイズのクマさんが、頭を動かし、手足を振る。そのちょこまかした動きに、胸が更にきゅぅぅんとなる。
《外出仕様じゃクマー。このサイズなら、邪魔にならぬであろう? ポケットにでも入れてくれんかのクマー?》
そして、アタシは……
幸せいっぱいのポケットを手に入れた。
夜だからピクも一緒の護衛の方がよかろうという、おじーちゃんの提案にのっかって大正解。
スカートのポケットから、白と黒のクマさんがちょこんと顔を出してるのだ。
目にするだけで、ううん、意識するだけで癒される……
ラブリー♪
『不死鳥の剣』をつけるかどうか、ちょっと考えた。
英雄世界は武器を所持しているだけで犯罪者扱いされるらしい。アリス先輩が教えてくれた。
駄目なら駄目って、お師匠様が注意するだろうし。
怒られたら外せばいい。
ドワーフの剣を腰につけて廊下へ出た。
待っていたお師匠様は、特に何も言わなかった。
背を見せ、静かに歩き出す。
部屋の扉を閉めると、辺りは一層暗くなった。
真っ暗ってわけじゃないけど。足元を照らすように、温かみのある色のライトが小さく灯っている。
薄暗い廊下を、足音を殺して歩く。
この階に、兄さまとクロードとジュネさんが寝てる。下の階には、アリス先輩とフリフリ先輩が。
みんなの眠りを邪魔しちゃいけない。
リビング・キッチンを通り抜け、階段へ。
灯りは無し。お師匠様はスタスタと降りたけど、怖いのでアタシは壁に手をつきながら降りた。
同じようなつくりの一階のリビング・キッチン、更に廊下を通って玄関へ。
玄関前は、ほんのりと明るい。
外に出ると、ドアの横の灯りがいきなりパッと明るく点灯した。
お師匠様は気にせず、そのまま歩いてく。
胸をおさえるアタシに、ポケットの白クマさんが《機械のからくりじゃよ。人が近づくと、灯りがつく仕掛けなんじゃろクマー》と教えてくれる。
玄関から門へと、飛び石が続く。
お師匠様は、門に一直線だ。
門柱灯もアタシ達が近づくだけで、急に明るくなった。
「この家から出て行くんですか?」
「うむ」
「いいんですか? アジトに籠っててって、サクライ先輩は言ってましたよ」
「問題などない。不都合があれば、この家を守護しているサクライ殿配下の精霊が止めよう」
それはそうかもしれないけど……
「でも、アタシ、剣持ってきちゃったし、目隠しを持ってませんよ?」
いったん部屋に戻ります、そう言いかけたのに、お師匠様がアタシの言葉を遮る。
「そのままでいい。ついて来い」
え? と思ってる間に、門扉を開けお師匠様が外へ出てしまう。
慌てて後を追いかけた。
背後を振りかえった。
玄関前がほのかに明るいだけ。
勇者の家は、しぃんと静まり返っていた。
お師匠様が足早に歩く。
夜だけど、街灯や門柱灯が点々とあるので、わりと明るい。
英雄世界を歩くのは初めて。
キョロキョロと辺りを見回した。
住宅街……だと思う。
さほど広くない道の左右に、家並みが続く。貴族の屋敷のような大きなものはないけど、どれも二階建て以上。
道路が石のようなもので舗装されいて、左右の端にまっすぐに白い線が引かれている。何の為の線かわかんなかったけど、何となくそこは踏まないようにしてお師匠様を追いかけた。
最初は、腰の剣を隠すように歩いていた。
でも、深夜だからか人影がない。
歩いているのは、お師匠様とアタシだけだ。
アタシ達の足音だけが、やけにコツコツ響く。
ゆるやかな風が、アタシ達の間を吹き抜ける。
静かすぎて……
落ち着かない。
おかしい。
しっくりこない。
アタシ達以外誰も通らない。
うっかりキュンキュンもありえない。たしかに、目隠しは必要なさそう。
でもいつものお師匠様なら、それでも『どんな形で、誰と出会うかわからん。赤ん坊でも、おまえが萌えたら仲間となってしまう。不自由でも我慢しろ』とか言って目隠しを強要する……はず。
アタシの未来を、心から心配してくれているから。
前を行く背に聞いてみた。
「英雄世界の勇者に会いに行くんですか?」
「いいや」
抑揚のない声が返る。
「急用なんですよね?」
「そうだ」
「だから、こんな真夜中に出かけてるんですよね?」
「うむ」
お師匠様の歩みは止まらない。
「……アタシに見せたいものって何なんです?」
「行けば、わかる」
首筋の辺りが、チリチリとする。
息苦しい。
靴音がやたら大きく耳に響いて……胸がドキドキする。
お師匠様の目指す先には、ただ闇が広がっている……
《ジャンヌ、だめだ》
ポケットから黒クマの声がする。
《行ちゃなんねえ》
うん……
だよね。
アタシもそう思ってた。
足を止める。
すぐに、前を行くお師匠様も立ち止まった。
お師匠様は街灯の下だ。
長い髪と白銀のローブが、キラキラと光っている。
その後ろ姿は、夜空の星か新雪か、天から降りて来た月のよう。とても綺麗だ。
絹糸のような柔らかな髪が靡き……
ゆっくりと、お師匠様が振り返る。
透き通るような白い肌。
感情がうかがえない、まるで氷像のような、冷たい美貌。
切れ長のスミレ色の瞳が、アタシをジッと見つめる……
「お師匠様……?」
アタシはツバを飲み込んだ。
「お師匠様ですよね……?」
「私は……私だ」
平坦な声が返る。
「おまえを見つめ続けるもの」
いつもと同じ感情の浮かんでいない顔。
それが……
ほんの少しだけれども、口角をあげて……
目元を細めて……
笑みを形作ったのだ。
アタシには一度も見せたことのない、優しい表情をつくったのだ。
「私はいつも、おまえの事だけを思っている……」
胸がキュンキュンした……
心の中でリンゴ〜ンと鐘が鳴る。
欠けていたものが、ほんの少し埋まっていく、あの感覚がした。
《あと六十五〜 おっけぇ?》
ありえない顔、ありえない言葉。
わかっていたのに、ときめいた。
ずっと欲しかったものだから。
だけど……
お師匠様がそんな風にアタシに微笑みかけるなんて、ありえない。
十年間いっしょに過ごしたから、よく知っている……
「あなた、誰?」
なによ、あんた……
なんなのよ……
「なんで、お師匠様に化けてるの?」
アタシの大切なお師匠様に!
「私は……私だ」
それが、笑う。
「魔王と勇者がある限り、終わりなき過ちが繰り返されるだけ……」
口元を歪めた、冷たい表情で。
「その愚かなる輪を断ち切りたいがゆえに、私は常におまえの事を思ってきた」
喉を鳴らし、それが笑う。
「いかにしておまえを殺そうか、と」
前方から、何かが迫ってきた。
目には見えない。
でも、わかった。
そこに邪悪なものが居るって。
凄まじい嵐のような……
荒れ狂う波のような……
凍てつく氷のような……
闇よりも黒いような……
得体の知れぬ何かが、奔流のように押し寄せて来ている……そう感じた。
アタシの体から、ゆらりと白い霧が生み出された……と、思った時にはピシピシピシと何かに亀裂が走るような音が急速に広がっていった。
周囲に氷のオブジェみたいなものが乱立している。蛇や蛙、蝙蝠、魚を象ったような……氷の内側に黒いものが封じ込められているように見える。グロテスクな氷の彫像群だ。
「ありがとう、ピロおじーちゃん」
お礼を言ってから、アタシは前方の奴を睨みつけた。
「何なの、あいつ?」
《すまぬ。わからん》
氷の精霊が、真面目な声で答える。
《わしより上位者じゃ。創造神、破壊神、魔界の王……その級の存在。あやつにかかっては、わしなど塵芥も同然じゃろう》
「へー」
気がつけば、体は勝手に震えていた。
「氷界の古老が塵芥じゃ、困るわ。人間のアタシなんかどーなるのよ……ゴミ粒以下?」
《ごめん、ジャンヌ。おら、あいつ、おがしいっで、わがんながった……。ジャンヌのお師匠さま、心、読めねえ人だがら、違う奴だなんで、まっだく疑いもしねえで》
《落ち着け、闇の精霊》
厳かな声で氷の精霊が言う。
《緊急対応じゃ。主人の守護を優先せよ。闇の精霊ならではの働きを見せるがいい》
《え? 闇ならでは?》
《魔と闇は近しい。なれど、闇は魔に非ず。己に親しくなき闇は、全て敵と心得よ。主人に近づけてはならぬ》
《わがっだ……けど、どしたら、いいの?》
《結界を張るのだ。わしと同調せよ、力の使い方を教えてやる》
輝く髪を靡かせ、それがたたずんでいる。
口元だけで笑みをつくりながら。
《精霊支配者よ、命令を。他の者を呼びよせよ》
そーだった。
アタシは、真っ先に光の精霊の名前を呼んだ。
「ルーチェさん!」
けれども……
ピンポンパンポーン。
返って来たのは、チャイム音だった。
《ただいま、導き手の職務中です。呼びかけにお応えすることができません。十二時間五十三分後でしたら、おそらく通話可能です。ご用の時はピーという音の後にメッセージをどうぞ》
ピー。
や、役に立たない……
「……来られそうなら、あとで来て」
プツン。ツー、ツー、ツー。
気を取り直し、
「ピオさん、ラルム、ヴァン、ソル、レイ」
と、叫んだ。
叫んだのだけれども……
その時には、アタシは闇に包まれていた。
「あら?」
街灯も家も道も消えている。
真っ暗な空間だ。
契約の石を意識し、もう一度精霊の名前を呼んだ。
しかし……
精霊達が来ない。どんな遠くに離れていても契約の石を通して主人の声を聞いて、石のもとへ駆けつけるはずなのに。
《精霊支配者よ、わしらは異空間に閉じ込められた》
え?
《精霊は、自力では次元の壁を越えられぬ。異空間に居る限り、ヴァン達は来られぬ。援軍は期待できん》
何ですとぉ?
《まあ……八体揃ったところで、あやつには叶わぬであろうが》
闇の中でも、それは浮かび上がっている。
光のない世界で、そこだけが輝いているようにも見えた。
白銀の髪、白銀のローブ、すみれ色の瞳の美貌。
お師匠様にそっくりだけれども、それは冷淡に微笑んでいた。
お師匠様なら絶対に浮かべない表情だ。
そいつの背後から、何かが押し寄せてくる。
目には、見えない。ゴォォォーと吹き荒れる凄まじい風のイメージだけが頭に伝わる。
ピロおじーちゃんに凍らされ、氷のオブジェみたいなものが乱立してゆく。
《ピク、守護は任せた》
氷の精霊の鋭い声。
何かが迫ってきた……そう感じた時には、アタシはよろけていた。
頭の上、脇、足元が、がくんと揺れる。
上下左右に、無茶苦茶に体が傾く感じに。
ガツンガツンと、硬いものが壁にがぶつかるような音が響く。
どうにか顔をあげて、前方を睨んだ。
お師匠様によく似た男が悠然とたたずみ、アタシを見ている。
そして、その周囲の闇が……チラチラと赤くなっていた。
闇から吹き出し、闇へと戻るもの。
踊り狂うように舞うそれは……
炎……
所々で、オレンジ色の光が閃光のように弾ける。
そこかしこで、氷のオブジェが次々に溶け、砕けてゆく。
闇の中の攻防は、アタシには見えない。
でも、氷は炎と相性が悪い。
ピロおじーちゃん、苦戦しているんだ。
氷のオブジェが砕ける度、不快感が増す。
内に封じていたはずのものが逃げ出し、闇と同化しているのだ。
とめどもなく、闇が濃くなってゆく……
足元が揺れ、強風に煽られるように体が押しやられる。
アタシは背から倒れた。
《守るがら……》
闇の精霊の苦しそうな声がする。
《なにがあっでも……ジャンヌだけは……おらが守る……》
声は、消え入りそうなほど小さい。
視界が揺れる。
こんな所で死ぬわけにはいかない。
アタシが死んだら、アタシの世界は魔王に滅ぼされる。
何があっても生き延びなきゃいけない。
なのに……
「今日こそおまえを殺せそうだな、ジャンヌ」
物騒な台詞を、楽しそうにそれが言う。
視界に、紅蓮の炎が迫る。
飲みこまれる。
そう思った瞬間。
頭上で、炎は弾けた。
アタシに熱も衝撃も、もたらさないまま。
「え?」
地震のような揺れも弱まってゆく。
《助がった……》
《おおお、これまた意外な助っ人が……》
闇と氷の精霊が安堵の声を漏らす。
体を起こし、振り返った。
アタシの目に……
鮮やかな炎が見えた。
たとえるなら、大きな火柱。
メラメラと猛る炎は、燃える昇竜を思わせた。
炎が駆ける。
目にもとまらぬ速さで。
赤ともオレンジとも黄色ともみえる軌跡を残して。
たなびく炎が闇を祓い、腕から放つ炎でアタシの側の敵を焼く。
炎をまとうその人は……
「兄さま!」
そして、あともう一人。
紫の雲に乗った魔術師が近づいて来る。
杖頭に拳ぐらいのデッカいダイヤがくっついた杖を持ち、ごにょごにょと口を動かして。
ストロベリーブロンドの髪、大きな緑の瞳、女の子みたいなかわいい顔。
「クロード?」
突然、周囲が凄まじく光る。
昼間になったかと思うほどに。
強烈な光が降って来るのを感じ、急いで目を閉じ、顔を手で覆った。
間をおかず、ドドンと耳をつんざく音が響く。
鼓膜が破れるんじゃないかってほど、すさまじい音だ。
残響が残る中、
「すまん、遅れた」
すぐ近くで、兄さまの声がした。
目を開けると……
頼もしい背が見えた。
赤々と燃えている。
炎の精霊の炎を身にまといながら、兄さまは腰を落として拳を構えている。格闘家の迎撃の姿勢だ。
アタシを守ろうと、お師匠様の偽物との間に入ってくれたのだ。
「へーき?」
横を向くと、クロードが居た。
ふわふわの綿あめみたいな紫雲の上に、ちょこんと座ってる。
平気よ、怪我はないわ。助けてくれて、ありがとう。どうして、どうやって、ここに? 言いたい事、聞きたい事はいっぱいあった。
でも、アタシの口からポロッと出て来たのは違う事。
当然の疑問ではあるけれども。
「……なに、それ?」
指も、紫雲を指していた。
「トネールさん」
へら〜っと、クロードが笑う。
「ジョゼに追いつけないから、トネールさんに乗り物になってもらったんだー」
鼻の辺りを赤くしたクロードが、口元をニマニマさせながら嬉しそうに雲を見下ろした。
「かっこいいでしょー? 使徒様の真似っこしちゃった。乗って、乗って」
えへへと笑う顔は、ほにゃ〜としていて……
緊張感の欠片もなかった。