軽やかな風に乗せて
《よぉ》
目の前に、突然、ハンサムが現れた。
疾風と共に。
風をはらんで靡いているのは、肩までの緑の髪と薄緑色のショートなマントだ。
マントを羽織ってるわりに、下は薄着。ふわっとした薄布を体に巻きつけて腰でとめている。丈が短いから、膝上のワンピースみたい。ふ、太ももがチラリ。履いてるのは、踵に翼のついたサンダル。
《パンジーみたいな、オジョウチャンだ。可憐でかわいいね。オレと遊んでみない?》
しなやかな風のような男が、軽く誘う。
笑顔がまぶしい……
こっちまでつられて微笑んじゃいそうな素敵な笑顔だ……
胸がキュンキュンした。
心の中でリンゴ〜ンと鐘が鳴る。
欠けていたものが、ほんの少し埋まっていく、あの感覚がした。
《あと七十六〜 おっけぇ?》
と、内側から神様の声がした。
はや。
風の神殿に移動してからわずか数十秒で、アタシは風の精霊を手に入れたのだ。
炎界じゃ二日、水界じゃ五日かかったってのに!
《即断即決! きっぷがいいねえ、オジョウチャン。おにーさんは気に入ったよ》
差し出された右手。
《よろしく、ヴァンだ》
細くて長い指。
器用そうな手と、握手をかわした。
《あんた、ラッキーだったぜ。オレは風界で一、二を争う『使える精霊』なんだ。オレがしもべになりゃ、あんた、天下だって取れるよ》
ハンサムなヴァンがニコニコ笑って、軽〜く言う。
んでもって……
「仲良くやってこうぜ、アウラ」
アタシの横で、ドロ様が綺麗なおねえさんの手をとっていた。
何というか……エッチな格好だ。全裸に、半透明な薄緑色のベールを何枚も巻きつけている。風の精霊だけあって、薄絹のベールをうまいこと風に舞わせ、大切な部分をきっちり隠している。
胸に腰に腿に巻きついた薄布。その合間から、素肌が見える。ほっそりとして、しなやかで……それでいて弾けるような若々しさのある体が……
目の端に見えた。
あんぐりと口をあけていた幼馴染が顔から火を噴き、恥ずかしそうに両手で顔を覆ってうつむく。
マルタンという大荷物を背負った兄さまは、ドロ様達から露骨に顔をそむけてる。頬が赤い。
うん、まあ……青少年には刺激が強すぎるわよね、おねーさんのあの格好。
お師匠様は眉ひとつ動かさないで、色っぽいおねえさんを見つめている。
兄さまの荷物を頭の上にのせてるピナさん、その側のピオさん、寝こけてる使徒様の荷物を持つ水の精霊ラルムは『興味なし』って感じ。
初めて見る風精霊だろうに。
アタシと視線があったラルムが、笑みをつくる。
《あなたの方が魅力的ですよ》
え?
《私は、あなた以外のものに興味はありません。心をかけるのは、あなただけです》
肩より下の辺りで結ばれている水色の髪、涼しげな切れ長の瞳。男にしては線が細い、優美な美貌……
ラルムは瞬きを惜しむかのように、アタシを見つめる……
そのひたむきな眼差しに、ドキンとした。
「あたし、だけ……?」
《はい。大切なのは、あなただけ……。あなたは恩人。そして、カガミ マサタカ様の後輩……百一代目勇者ですから》
あ、そ。
そーいう落ち……。
《たとえ、あなたが……マサタカ様のようにお美しくなくとも、賢くなくとも、魔力がなくとも、品がなくとも、知識も常識もなくとも、大目に見ます。あなたは勇者ですから。更に言えば、……》
やかましいわ!
《よ。アウラ、おまえ、そのドレッドに決めたの?》
ヴァンが、裸ベールのおねえさんに軽く手を振る。
おねえさんも手を振り返す。
《はぁ〜い、ヴァン♪ あんたは、その可愛い子? 熟女キラーのくせに、ロリコンに趣旨変え?》
は?
熟女キラー? ロリコン?
《老いも若いもない。オレは全ての女の味方。それだけさ》
軽い笑顔の風の精霊が、アタシと向き直る。
《あの精霊は、オレのダチ。アウラ。オレと風界で一、二を争う『ノリのいい精霊』》
はあ。
《そんな顔すんなよ、オジョウチャン。浮気はしない。こう見えてオレは誠実な男だ。主人を決めたら、その女一筋だ。あんたの幸福だけを祈って、これからは生きるよ》
きりっとした顔になってヴァンが、アタシを抱き寄せる。
そして、熱い目でアタシをジーッと見つめながら……
少しづつ、顔を近づけてきて……
《今、オレの女はあんただよ……》
アタシのハートはキュンキュンキュンキュンと鳴った!
鳴り響いた!
近い!
近い!
近すぎ!
心臓がバクバクする。
ヴァンの唇が、アタシのそれへと……
くっつく寸前に、ヴァンは離れた。
ホッとした……
けど、ほんの、ほんの、ほんのちょっとだけ……残念。いやいやいやいやいや!
「調子に乗るな、精霊!」
兄さまの怒声。
ブンと風がうなる。
「俺のジャンヌに、汚い顔を近づけるな!」
そっか。兄さまが迫って来たから、ヴァンは離れたのか。
背負われていたマルタンは、床の上に移動してた。カッとなった兄さまに、かなり乱暴に床に落とされたんじゃないかと思う。でも、目覚める気配なし。床に転がってグーグー寝こけてる。
兄さまの怒りの拳が、ヴァンの顔面を狙う。
けれども……
「んっ? くっ! くそっ!」
兄さまの拳が、スカッ、スカッと宙を切る。
対するヴァンは、へらへら笑っている。手を頭の後ろで組んで、足まで組んだ、余裕の態度で。
《へー 拳や足に闘気をこめて攻撃か〜 そーいうの久々に見た。うん、若いのに凄い。なかなかの格闘家だ。誉めてやるよ》
ヴァンへと放つ拳や蹴りは、彼に届く前に何故かあらぬ方向へとそれてゆく。
兄さまの攻撃は、届きそうで届かない。
《当たったら、オレ、まちがいなく四散だな》
意地の悪い顔でヴァンが笑う。
《けど、絶対、当たらない。残念だったねえ、おにーさん》
やっきになって兄さまが攻撃を繰り出す。
素早く重い、拳と蹴り。
でも、漂々としたヴァンに当たらない。普通に立ってるだけで、かわしてもいないのに。
《ジョゼ〜 わたしを使って〜》
兄さまの荷物を置いてピナさんが、トテトテと走ってゆく。
《炎のユージョウよ〜 合体攻撃よ〜 二人で戦いましょ〜》
白いチュチュを着たピンクのクマさんが、向かい合う二人のもとへ。
と〜っても愛らしいバレリーナのクマが、つぶらな瞳で兄さまを見上げる。
ヴァンが、プッと吹き出す。
《その子、あんたの?》
んでもって、口元を押さえてプププと……
《やだ、もう、おステキ……硬派きどりの格闘家のくせに、少女趣味というか……意外な嗜好をお持ちで》
あああ、そんなに笑ったら……
「ぶっ殺す!」
……に、なるわよね。
ピナさんが炎そのものの姿になって宙を駆け、兄さまのもとへ。
ピナさんがスッと体へと沁み込んだ途端、兄さまの体から炎がメラメラと舞い上がる。
大きな火柱というか、燃える昇竜というか。
兄さまが燃えている……
炎に包まれてるけど、兄さまが焼けてるわけじゃなくって……炎と一体化しているのだ。
「うぉぉぉ、ジョゼ、かっけぇぇー!」
幼馴染が拳を握りしめる。
うん……
格好いい……
まさに、炎の格闘家……。
いいなあ……アレ……
ピオさんに頼んで、アタシもアレやろっかな……
兄さまが動く。
速い!
炎をたなびかせ、兄さまが繰り出す拳と蹴り。
アタシの目に見えるのは、炎の残像だけ。攻撃から攻撃へと流れるように動いているみたいだけど、速すぎて目で追えない。
今までより速いんじゃ?
けれども、ヴァンはニヤニヤ笑ったままだ。
炎の拳や蹴りも、ヴァンを捉えられない。
ヴァンの横を炎が通り過ぎてゆく……
「空間を歪曲して、攻撃をそらしているのだ」
お師匠様が淡々と言う。
「自分の周囲を結界に包んでいるのだろう」
あ〜
そういや、三十九代目の書に書いてあったな。
結界はどんな精霊でも張れる。でも、風精霊の結界が最も使い勝手がいいらしい。
炎の精霊に結界を張ってもらうと、結界は炎の形で現れる。水の精霊なら、水壁になる。
風精霊のそれは、空気を利用するから目に見えない。結界が張ってある事が内緒にできちゃう。
その他にも利点があったよな……
何だっけ……?
《これだろ?》
ヴァンの声が頭に響く。アタシの思考を読んだっぽい。
《よく見てな》
ヴァンが、マントをバサーッと翻す。
薄緑色のマントがどんどん広がってゆく……
丈が伸びてる。
横にも上下にも。
そして、ヴァンの全身は布に包まれ……
パッと消えた。
兄さまの攻撃の手が止まる。
アタシや兄さま、クロードが周囲をキョロキョロと見渡す。
だけれども、軽い風の精霊の姿は何処にも見あたらない。
ヴァンは消えてしまった……
燃える兄さまの内側から声がする。
《あれ? あれ? あれ? どこなの〜?》
ピナさんにも、ヴァンが見えないようだ。
「風の精霊は 空気の屈折率を変える事ができる」
お師匠様が平坦な声で言う。
「透明になれるのだ。空気の屈折率を変え、結界外に居る者に偽りの映像を見せて姿を隠す。風を自在に操って、攻撃、風渡りができる他に、風精霊は透明化結界が張れる。消音、消臭効果もあるので、潜伏に適している。覚えておくがいい」
「はい」
アタシは頷いた。
「くっそ……」
兄さまが、ぎりりと歯ぎしりをする。
女の風精霊がドロ様の後ろから、甘えるように抱きつく。口づけするかのようにドロ様の耳元に顔を近づけて。
ドロ様はフフッと笑い、右の二の指をあげた。
兄さまの背後の宙を指して。
と、同時に兄さまは反転した。
右の裏拳を宙に叩きこんだのだ。
拳から生まれた炎の渦が、ぶわっと広がって宙を焼く。
《うはっ!》
目には見えない。けれども、何かが床に倒れ、転がりゆく音がした。
唐突に床にヴァンが現れる。仰向けに倒れていたところを、上半身だけ起こした感じだ。
《アウラ! 悪戯がすぎるぜ! モロにくらってたら、オレ、四散したぞ!》
ドロ様にもたれかかっていたおねえさんが、ケラケラ笑う。
《悪戯好きは、あんたの方でしょ。そっちのおにーさんを後ろからくすぐろうとしてたくせに》
炎をまとった兄さまが、ヴァンへと迫る。
《うわ! ちょ! まっ! ごめん! オレが悪かった! 拳を引いて!》
ヴァンが体術で逃げる。
兄さまに悪戯しようとした時に、空間歪曲の結界を解いてしまっていたようだ。
結界を張らせまいとする兄さま。
死ぬ死ぬ〜とわめいて、ヴァンが炎の連続攻撃をかろうじて避ける。身をひねったり、転がったり。意外と動きがいい。
「視覚・聴覚・嗅覚では、風精霊の透明化結界を捕らえる事はできない。しかし、同族或いは大気の流れを読める者には、何処に潜んでいるか見通される。風精霊の結界が通じぬ相手も居るという事だ。覚えておくがいい」
あくまで淡々と、お師匠様が教えてくれる。
《あ〜 もう〜 無理!》
そう叫び、ヴァンがフッと消える。
目標を失い、兄さまの炎の拳がスカッと宙を切る。
《反省した。もう勇者さまに悪さはしない。炎の精霊のことも謝る。だから、お願い、許して、勇者さまのお義兄さま》
ヴァンの声は アタシの背後……ずっとず〜っと遠くからした。
アタシは振り返った。
今、居るのは、風の神殿だ。造りは炎や水の神殿とまったく同じだけど、柱も天井も床も全てが緑。
ヴァンの声は神殿の外から響いているような。
「移動魔法を使ったのだろう」と、お師匠様。
「風の精霊は風から風に渡れる」
あ〜 そんなことも書いてあった、あった。三十九代目の書に。たしか、『風渡り』って言うんだ。
「知覚できる範囲か、訪れた事のある場所へ跳べる。透明化結界に包まれた状態で短距離の移動魔法を繰り返してもらえば、馬車よりも速く隠密移動ができる」
へー
いろいろ便利ね、風精霊。
「ジョゼフ。一発殴ったのだ。もう良かろう? 拳をおさめろ。あの精霊はジャンヌの伴侶となったのだ。四散させては、ジャンヌが困った事になる」
お師匠様の説得じゃ構えを解かない兄さまも、
「私闘禁止」ってアタシが怒鳴れば、素直に言う事を聞いてくれる。
でも、ちょ〜不機嫌そう。
「……水の精霊といい、風といい……どうして、あんな男どもを……」
苦々しいつぶやきを漏らす兄さま。
むぅ。
二人とも悪い精霊じゃないと思うんだけど……。
ぬいぐまに戻ったピナさんが、よしよしと兄さまの頭を撫でて慰める。
じきに、へらっとした顔のヴァンが疾風にのって現れる。
《ごめん、ごめん。もう悪さしないからー 許してちょ〜だい》と、明るくおどけながら。
ヴァンとの契約は、まだ口約束の段階。
正式にしもべにするには、本契約を結ばないといけない。
ドロ様が、アタシにエメラルドのイヤリングを渡してくれる。
精霊支配者が精霊に自分の所有物である印をつける事で、契約は成立する。
魔力が無いアタシは、宝石を契約の証に利用している。
ピオさんの珊瑚のペンダントも、ラルムのサファイヤの指輪も、タダでもらっている。
なのに、『ヴァン』のエメラルドのイヤリングまで……
「いつもいつもありがとうございます。お代は、還ってからでいいですか?」
「そんなもんは、いらねえよ」
ドロ様はフフッと笑った。
「言ったろう? あんたを救う為に、俺は仲間になったんだ。この先もあんたが仲間を増やす度に、契約の為の宝石を贈るよ」
という事は、八つも宝石をくれるの?
タダでいいだなんて……。本当……いい人だわ、ドロ様って……。
左手を顎の下にあてて、ドロ様が笑う。左手には、精霊が宿った三色の宝石が美しく輝いている。
そして、ドロ様の周りには美女が三人。さっき仲間にした風精霊。赤毛が色っぽい、炎の精霊。水色の髪と衣装で、黒い仮面をつけた水の精霊。
美女に囲まれたドロ様は、大人の男の色気が倍増! よりゴージャスに見えるわ!
《あんたいいねえ! 素直で、単純で、善人! 実にいい! 最高! これからしばらく、楽しい日々が送れそうだ》
何故だかお腹をかかえて、ヴァンはゲラゲラと笑っている。
《オレは、十一人の精霊支配者に仕えたベテラン精霊だ。頼りになるいい男ってヤツだ。ぜひ寵愛してくれよ》
十一人に仕えたの! それは凄い!
《精霊界は居心地はいいが、面白味のねえ所だからな。主人を無くす度に、新たな主人を探してきた》
『な?』と同意を求めるヴァンに、ドロ様の風精霊のおねえさんが『ね』と頷く。ご同類なわけね。ノリが軽いわ、風精霊。
アタシはヴァン達の背後を見た。
アタシ達が居るのは風の神殿で、その先には風精霊達の世界が広がっているわけだけど……
神殿の外には何もないのだ。
何処かに光源があるのか明るい事は明るい。
でも、太陽も雲も大地も海も無く……空気があるだけの空間なのだ。そこに、ゴーゴー、ピューピュー風が吹いているだけ。
確かに、ずっと居ると飽きそう。
《オレは、女を切らすのが嫌なんだ。さっき十一番目の女がポックリいっちまったんでね、風界に戻って来て最初に見つけたオジョウチャンに声をかけたわけ》
なぁんだ。
誰でもいいから声をかけたってわけ。
ヴァンがチッチッチッと指を振る。
《偶然こそが『運命』さ。あんたと俺が出逢うのは、『運命』だったんだよ。勇者さま》
そんな真顔で……
《……信じてくれるかい?》
いやいやいやいや。
でも……ちょっと信じたくなるかも。
面白い精霊。
《困った事があったら、オレを頼りな。あんたが可愛い女でいる限り、全力で助けてやるよ》
「可愛い女でいる限り?」
《ああ。オレを『男』として見て欲しい。愛しい女の為なら、オレは何でもする。だが、》
口の端をゆがめて、ヴァンが緑の瞳を細める。
《『奴隷』とは思って欲しくない。精霊にも意志がある。オレらを『便利な道具』としか思わねえクズ女には、近寄りたくないんでね》
冷たい表情……
けど、それはあっという間に消えた。
ヴァンは、さっきまでみたいに、へらっと笑った。
《てなわけで、そーいう契約でいいかな? あんたが死ぬまでか、どちらかが主従関係に嫌気がさしたら、契約解消。スパッとお別れって事で》
「いいわよ。でも、一つだけお願い」
《なんだい?》
「アタシがバカやっちゃった時は叱ってくれる? あなた的にNGなことをうっかりやっちゃって、それでサヨナラじゃ寂しすぎるもの。あなたの警告を無視してアタシがバカやり続けたら、見捨てて当然だけど……」
ヴァンが笑う。とても満足そうに、にこやかに。
《いいねえ、オジョウチャン。やっぱ、かわいいよ、あんた》
む?
《OKだ。馬鹿な女を正しい道へエスコートするのも、しもべの仕事。あんたがオレの手を振り払わない限り、あんたの忠実な下僕でいてやるよ》
アタシ達がそんな話をしている間、冷たい風、なまあたたかな風、突風などが神殿を吹き抜けた。
風の精霊達が次々と神殿に姿を見せては《しもべ、いりませんかー?》と、明るく声をかけてゆく。
ほ〜んとノリが軽いわ、風精霊。
爽やかな風を感じながら、アタシはヴァンと契約を結び……
左耳に契約の証のイヤリングをつけた。




