蒼き狼と白き女勇者
ジョゼ兄さまの背中が見える。
巨大な蒼狼と対峙し、爪をかわし、そらし、腕を払う。
一気に距離をつめ、巨体めがけ、拳を突き出す事もあった。
けれども、風をうならせる拳を避けられると、兄さまは即座に防御に戻った。
深追いせず、最小限の動きで間合いを保ち、巨体と対し続ける。
ピアさんは、そんな兄さまの頭上に浮かんで光り輝いている。
夜目が効かない兄さまの為に、明かりとなっているのだ。
アタシから見えるのは、兄さまの背中ばかり。
狼とアタシの間に常に入っているんだ……そうと気づき、叫んだ。
「兄さま、好きに動いて! アタシ、もう起きたから! 自分の身ぐらい守れるわ!」
「わかった」
そう返しながら、兄さまの動きは変わらない。
迫り来る狼からアタシを守ろうとして、戦いの幅を狭めている。
アタシは剣を抜いた。
ただの鋼の剣だ。アタシの武器はこれしかない。
下唇を噛み、戦いをみすえた。
兄さまも狼も、もの凄く動きが早い。
攻防を目で追うのが精一杯だ。
兄さまの助けに入りたいけど、どうしたらいいのかわからない。入る隙がない。
狼王の標的はアタシ。
のこのこと近寄るのは、危険すぎる。てか、兄さまの戦いのペースを余計に乱すだけ。
参戦しても兄さまの足をひっぱるのは明らかで……。
アタシにできることは、剣を構えて待機していること。
あの狼に近寄られたら、攻撃できるように。
振り下ろされた左前足。鋭い爪を避け、兄さまは手首辺りを右掌で弾いた。
すかさず下ろされる右前足。そちらも左掌で弾こうとした兄さまに、蒼狼がのしかかる。
押しつぶそうと力をこめてくる両前足を、兄さまが押しとどめる。
上から体重をかけてくる狼に、負けてない。両足を開き、腰を落として、巨体の狼の攻撃を受け止めている。
「人間にしては、強いな」
狼のでっかい口が、だらしなく広がる。
「強いの、いい。戦い、たのしい」
「……おまえも、狼にしては強いな」
返す兄さまの声には、まだ余裕があるけれど……
体格差がありすぎる。大人と子供みたいな身長差だ。
「だが、しょせん馬鹿の力押しだ……俺の敵じゃない」
一瞬、兄さまの背がぐぅんと大きく揺れた……ように見えた。
蒼狼がくぐもったうなり声をあげ、両前足を急いで離した。熱に驚き、手を引いたみたいな動きで。
よろけた狼に駆け寄り、兄さまが拳を叩きこむ。
「はぁっ!」
重い一撃だ。
狼の巨体が、後方へとふっとんでいく。
「やった!」
アタシは身を乗り出した。たぶん、拳に闘気をこめたんだ。昔、ベルナ・ママが手刀で岩を割るのを見たことあがる。闘気のこもった拳は熱を帯び、どんな硬いものでも粉砕するんだ。
くの字形に身を曲げて飛んでった狼が、後ろ足で地をすってふんばり、四足となって勢いを殺す。
とどめとばかりに兄さまは駆け寄って、狼の顔面に蹴りを入れようとした。
けれども、一瞬早く狼は跳躍していた。
全てがスローモーションのように見えた。
蒼狼が、高々と宙を飛ぶ。
兄さまやピアさんを飛び越えて。
大きく口を開き、前足を突き出し、迫って来る。
飛びかかってきた……
そうとわかっても、動けない。
どこを狙えばいいのかわからない。
アタシは剣を構えたまま、ただ茫然と狼を見ていた。
そこへ。
アタシの足元から目にも止まらぬ速さで飛び出した何かが、蒼狼の鼻に直撃する。
「キャゥン!」
情けない声をあげて、狼は転がるように地に落ちた。
アタシの前で、右足を突き出しているのは……
「クロさん!」
狼が素早く立ちあがり、すごい勢いで四足で飛びかかって来る。
クロさんは今度は左足を蹴りあげ、左の鉄下駄を飛び道具とした。
けれども、狼は右前足でそれをはね飛ばすと、振りあげた掌と鋭い爪を小さなクロさんへと振り下ろし……
クロさんの小さな体が、地面へと叩きつけられる。
勢いのままにバウンドして、クロさんは転がってゆき……
白い学生帽が宙を舞った……
「ジャンヌ!」
兄さまが駆け寄って来る姿が、目の端に見えた。
狼王の大口が迫る。
でも、アタシは……
何が何だかわからなくなっていた。
怒りで視界が真っ赤になって……
そして……
気がついたら、拳で戦っていた。
うっすらと思い出す。
剣は……
折れてしまったのだ。
狼王に突き刺さらなくって。
鋼の剣を捨て、アタシは……
自分の拳で、狼を殴っているのだ。
狼王の巨体に、拳を沈める。
硬い。
殴る度に、鈍い衝撃が拳に走った。が、そんなこと、どうでもよかった。
頬が熱い。
アタシは泣きながら、狼を殴っていた。
許せない……
よくも、アタシのクロさんを……
眼に、狼の動きが遅く映る。
反撃も怖くない。
その爪も牙も、今のアタシを捕らえることなどできるはずがない。
アタシは今、無敵だ。
スピードも、腕力も、脚力も、動態視力も異常に高まっている。
俗に言う『勇者の馬鹿力』状態になったのだ。
『勇者の馬鹿力』の発動の形は、さまざま。
残りHPが1になった途端、回避率が向上する。
仲間全員が戦闘不能に陥った後、攻撃にクリティカルが出やすくなる。
MPが尽きた勇者が、うてるはずのない回復魔法で仲間を復活させる、等々。
強い意志の力で勇者が起こす奇跡と言われている。神様からの祝福とも。
それだけに、めったに起きない。『勇者の馬鹿力』は勇者にとって、一生に一度あるかないかの、フィーバー状態なのだ。
「待て、ジャンヌ!」
アタシを羽交い絞めにしようとした兄さまを振り払い、狼へと殴りかかった。
狼は、もうフラフラだ。
あと少し……
もうちょっとで倒せる……
「もういい! やめろ!」
兄さまの声が聞こえてはいた。
けど、まだだめだ。
まだこいつ、動いてるもん。
倒さなきゃ。
クロさんの仇をとらなきゃ。
アタシをかばってクロさんは、こいつに……
涙でにじんだ視界に、黒いものが飛び込んでくる。
「!」
目を疑った。
白学ランの黒ウサギがアタシを見上げている。狼とアタシの間に立って、両手を広げ、静かにかぶりを振っている。
『これ以上殴ってはダメ』と言うように。
かわいい垂れ耳が、ゆらゆらと揺れる。
「クロさん……」
力が抜けた。
へたっとその場に座り込んだアタシ。
素足のクロさんがペタペタ歩み寄って来る。白学ランから出したハンカチで、アタシの頬を優しく、そっと、ぬぐってくれて……
無事……だったんだ。
クロさんに抱きついて、アタシは号泣した。
硬くて、冷たい。
クロさんがゴーレムで良かったと心から思った。
でなきゃ、死んでた。
あの爪で地面に叩きつけられたんだ、本物のウサギだったら間違いなく……
クロさんが頬を撫でてくれるもんだから、よけいに涙があふれた。
「まだやるか?」
兄さまの問いに、蒼狼が答える。
「……やらない」
ごそごそと動く音がした。
「なら、失せろ」
「いやだ。さらうの、やめる。でも、おまえ、勝ってない。やくそく、なし、だ」
む?
顔をあげた。
光輝くピアさんに照らされて、兄さまは狼王を見下ろしていた。
というか、狼王が居た所を見ている。
けれども、そこに居るのは蒼毛の大狼じゃなくて……
あぐらをかいて座る、ふさふさの蒼の長髪の美形だった。
獣人、だと思う。
頭のてっぺんに、犬みたいな耳がある。前方にちょっと垂れているのは、落ち込んでいるからかも。
首と手首、腰から足にかけて、もこもこの蒼毛が生えている。
でも、それ以外は、人間と一緒で……
上半身裸の男の人みたい。
背の高さも、人間ぐらい。
肩幅も胸板もあって、腕も逞しい。けど、筋肉の塊ってわけでもない。細マッチョだ。兄さまより痩せて見える……
鋭い金の瞳、意志の強そうな眉、高い鼻、厚い唇。
ワイルドな風貌のイケメンだ。
赤い長い舌で、傷ついた自分の腕をペロペロと舐めているのが何ともエロティックで……
ドキン! とした。
「……狼王?」
金の瞳が、アタシを見る。
けっこう好み……
でもでもでも! こいつ、クロさんを殴ったのよ! アタシを喰おうとしたし!
「人間に変身したの?」
答えたのは、獣人ではなく兄さまだった。
「ああ。さっき縮んだ」
狼男みたいに変身するのか、こいつ。
クンクンと鼻を動かし、狼獣人は太い眉をしかめた。
「おかしい。……おまえ、変わった」
「変わった?」
アタシが?
「におい」
耳を伏せ、獣人が目をパチパチさせる。
「悪くなった。昼のが、よかった」
むっ。
失敬な。
臭いものなんか食べてないわよ。お風呂もちゃんと入ったし!
「だが、強いな」
ニッと狼獣人が笑う。
胸がちょっとキュンとした。
いやいやいや! ダメ! 顔だけでときめくものですか!
「ねえさんみたい、だ」
……それ、誉めてるの?
「おまえ、悪くなった。けど、いい。おまえ、オレさまに勝った。強い。おまえ、いい子、産める、ぜったい」
「は?」
「オレさまの、ヨメ、おまえだ」
「へ?」
ヨメ……?
「許さんと言っただろうが!」
兄さまが大声を張り上げ、狼王に殴りかかる。
「ケダモノなんかに、ジャンヌをやれるか! いや! 俺のジャンヌは誰にも渡さん!」
でも、その拳はスカッと宙を切った。
そこにあったはずの頭が無かったんで。
「あきらめる、やくそく、おまえ勝ったら。オレさま、負けてない」
金の瞳が兄さまを見上げる。
拳を握りしめながら、兄さまの動きがピタリと止まる。
攻撃ができないのだ。
と、いうのも……
狼王が更に変化してしまったから……
おすわりしているのは、もこもこの蒼い毛糸玉のような……
アタシの両手にすっぽりおさまりそうな、ちっちゃな、ちっちゃな、子供の狼だ。
柔らかそうな蒼毛。まん丸おめめ、黒ボタンみたいなラブリーなお鼻。
あどけなさの中にも凛々しさが漂う、めちゃくちゃ可愛い子で……
……アタシのハートに、ずっきゅんと何かが突き刺さった。
魂の奥深いところが揺さぶられてしまったのだ……
胸がキュンキュンした……
心の中でリンゴ〜ンと鐘が鳴る。
欠けていたものが、ほんの少し埋まっていく、あの感覚がした。
《あと八十二〜 おっけぇ?》
と、内側から神様の声がした。
あああああ。
アタシってば! なんで萌えちゃうのよ!
元は、あの大狼なのに!
ヨダレたらして、変顔してた、あの凶暴狼よ!
クロさんを殴った乱暴ものなのに!
子供の狼に変身しただけで、どうしてこうも簡単に……
落ち込むアタシの前に、尻尾ふりふり小狼が駆けて来る。
兄さまもアタシも、ラブリーなその子を殴るなんてできなくて……ただ、ただ、その動きを見守っていた。
「なおす」
だらりと垂らしていたアタシの右手を、フンフンと息をふきかけながら、小狼がペロリと撫でる。
「いッ!」
痛っ〜〜〜〜〜〜
思わず手を引いてしまった。
今、初めて気づいた。
アタシの手、すごい事になってる。
指と手首がアレな感じにアレしてて、皮が……血が……
カーッとなってむちゃくちゃに暴れたせいだ。
狼王の頑健な体を殴った反動で、両手を痛めてる。
意識したら、すっごく痛くなってきた!
『勇者の馬鹿力』状態が去って、感覚がまともになったのね。
クロさんが慰めるように、ポンポンとアタシの肩を叩いてくれる。ありがと……でも、痛い!
涙が出る。
「すまん……止められなくて」
兄さまが申し訳なさそうにアタシを見てる。
いや……止めてくれようとした兄さまを弾き飛ばしたの、アタシだし……
「なめる、なおす」
クゥゥンと鼻を鳴らし、小狼がアタシを見つめた。
クロさんが、うんうんと頷いている。
嘘は言ってないっぽい。
「……舌に治癒能力があるわけ?」
クロさんが、大きく頷く。
「じゃ……おねがい」
アタシがひっこめてた手を下ろすと、狼は大きく尻尾を振った。
赤い舌が触れた途端、激痛が走った。
「いったぁぁぁ!」
飛びあがりそうだ。
「ジャンヌ!」
拳を握りしめたままの兄さまに、へーきと笑顔をつくってみせた。
「いだだだだだだ!」
声は漏れるけど!
舐められてるうちに、痛みより、ぬめぬめぬるぬるしたなまあたたかさや、くすぐったさのが気になりだした。
手が唾液でテカテカで気持ち悪い。けど、切れてた傷口は塞がってるし、アレな感じに曲がってた指はまともな方向に向いている。癒されてる。
小狼は、右手の次には左手を舐めてくれた。
「うひぃぃ」
兄さまやクロさんに見守られながら、アタシは踊り出しそうな痛みと戦った。
「ちいさい、なめる、うまい」
アタシの治癒を終えた狼王は、ペロペロと自分の体を舐め始めた。
自分の傷よりも、アタシの治療を優先してくれた……それはわかった。
けれども……
「兄さま、説明して。なんで、アタシ、ここで狼に襲われてたの?」
アタシの問いに、兄さまが頭を横に振る。
「俺にもわからん。ピアさんと一緒に寝…………いや! 寝てたんだ! しかし、ふと目を覚ますと、おまえと一緒にここで焚き火を囲んでいて、嫌な気配が漂ってきて」
「闇の中から、狼王が現れた?」
「そうだ」
兄さまが狼王を見つめる。
「おまえを連れ帰って嫁にするなどと、ふざけた事を言ってな」
アタシを食べようとしてたんじゃなくって、さらおうとしてたのか……。
「俺のジャンヌは誰にも渡さん、きさまの歪んだ欲望はこの俺が払ってやる、と言ったんだが……」
兄さまの頬がゆるんでいる。お腹をなめるラブリーな小狼に、目はくぎづけ。睨もうとしてるのに、睨めないって感じ。
「だが、この馬鹿……いや、狼は意味がわからないと首をかしげた」
兄さまは、手をわきわきしている。抱きしめたくってたまらなさそうに。
「だから、わかりやすく言い直してやった、『俺に負けたら、ジャンヌをあきらめろ』と」
あ! とアタシと兄さまは声をあげた。お腹の下の方を舐めてた小狼が、大きな頭を傾けすぎてバランスを崩し、コロンと前転しちゃうんだもん!
やだ、もう! おバカすぎてかわいい!
我慢できなくなって、アタシは小狼を抱きしめてしまった。
元がアレでも、可愛いものは可愛いんだもん!
「名前……何だっけ?」
「オレさま、カトヴァド」
「そっか。カトちゃんか〜」
「ちがう、カトヴァド」
「いいの。愛称よ、カトちゃんは」
「アイショウ?」
「なかよしの名前よ」
「なかよし……。おまえ、オレさまのヨメ。いいぞ、なかよし」
「お嫁さんは無理だと思うわ」
種族が違うし。
魔王を倒したら、アタシ、不老不死の賢者になっちゃうし。
「おまえ、きめた。子づくり、王の仕事。ヨメ、さがす、おわった」
「前のお嫁さんは?」
「いない。こんどのふゆ、子づくり、さいしょ」
「王様になったばっかなの?」
カトちゃんが頷く。
「おやじ、しんだ。あにき、しんだ。ビョーキ。かあさん、しんだ。オレさま、王」
あら……
「ねえさん、言った。いいヨメさがせ。強くて、きれいなヨメ。オレさま、ヨメ、おまえいい」
カトちゃんが、すりすりと鼻をこすりつけてくる。
うぅぅぅ、かわいいぃぃ……
嫁は無理だけど……
「ねえ、カトちゃん」
頭が良くないのはわかってる。期待できないけど、聞いてみた。
「アタシ達、竜王デ・ルドリウ様のお城にいたはずなの。それが、気がついたらここに居たの。どうしてだか、わかる?」
カトちゃんが、首をかしげる。
やっぱわかんないか……
ゴーレム達はしゃべれないし……何があったか尋ねても、答えてもらえない。
「オレさま、おまえ、会いたい、おもった。ここに、いた」
カトちゃんは耳を前に倒し、甘えるようにアタシの指をなめた。
「会えた、よかった」
胸がきゅぅぅぅんとした……
それどころじゃないのに、可愛すぎてキュンキュンしちゃう。
魔王が目覚めるのは、九十三日後。
じゃないか。寝て起きたから、九十二日後?
さて……どうしよう……