不死なるもの――屍王
胸がキュンキュンした……
心の中でリンゴ〜ンと鐘が鳴る。
欠けていたものが、ほんの少し埋まっていく、あの感覚がした。
《あと四十〜 おっけぇ?》
と、内側から神様の声がした。
黒のローブをまとったその人は、とても美しかった。
深い憂いを帯びたような緑の瞳。思慮深そうな眉。高い鼻。毅然とした口元。
冷ややかな、玲瓏たる美貌というか。
肌は透けるように白く、それでいてフードからこぼれる前髪は黒くて……
何もかもが美し過ぎる。
顔立ちが整い過ぎていて、恐い。
なのに目が離せない……甘く切ない感情に、アタシの胸はかき乱された。
《えへへ。ダーちゃん、美人さんでしょ?》
そう言ってローブの男性の横に並び立ったその人……いや、天使も光り輝くばかりに美しい。
空色の髪も、笑みを浮かべる慈母のような顔も、六枚の翼も、すらりとした華奢な体も、高貴で華やかで……目が吸い寄せられてしまう。
右眼を隠すハート型の眼帯も、ツンとした形のいい胸も目に入っているのに、ときめきが止まらない。天使なら両性具有、胸があってもいいわよね、なんてみとれてしまってる。
超絶美形が、二人並んで立ってる!
それだけでも、ドキドキバクバクものなのに。
《えい》と、ばかりに、天使が黒髪さんのフードを外した時、アタシは黄色い悲鳴をあげてしまった。
だって、だって、だって!
耳が長くて、先っぽが尖がってるのよぉぉ!
エルフよ!
エルフだわ!
そりゃあ、美しいわけだわッ!
アタシの胸は、キュンキュンキュンキュンした!
エルフといえば、アレよ。
とんがり耳の、美形。
ほっそりとした、美形。
強力な魔法が使える、美形。
ちょっぴりお高くとまってるけど、美形。
年をとっても、美形。
ともかく美形!
幻想世界で、一人仲間にしてるけど! 蜂だらけになっちゃう、残念すぎる人! エルフの王子様だったわよね! 名前は……エ、エル、なんとか!
エルフの王子様も綺麗だったけど、このエルフさんのが凄味があるというか……美しすぎて近寄りがたいというか……溜息がでちゃう!
あああ、髪型も素敵! うなじで一つにまとめた三つ編み! 似合う男の人って、少ないのに! ちょ〜似合う! 艶やかな黒髪が綺麗にまとめられているのが、知的で格好いい……。
うほっ!
六翼の天使が、美形エルフの二の腕をとってスリスリしたッ!
キュキュキュキュキュンキュンキュン!
《むかしのダーちゃん、ほ〜んとキレイ。お人形にしたーい♪》
《下がれ、死神王》
《え〜》
ハートマーク飛ばしまくりの天使を、冷めた目でみすえるエルフ……うはぁ! いい! すっごくいいッ! 鼻血出そう!
《借用の対価は支払い済み。汝がこの場にいる理由などなし》
《え〜 いても、いいじゃん。ジャマしないもん。ねー ユーシャちゃん、あたし、ここにいてもいいよね?》
全身が硬直した。
天使が、アタシを見つめている……。
蠱惑の瞳に、目も魂も吸い寄せられてしまう……。
動けない。何もできない。息をすることすらも。その美しい青い瞳を見つめることしか……。
《繰り返す。下がれ。汝が側にいては、勇者が鏡を使うこと能わず。鏡の影響下の汝は、人にとって凶器に等しい。勇者を狂死させる気か?》
美貌の天使が、その姿に似つかわしくない表情となる。
子供みたいに、ぷぅ〜と頬をふくらませたのだ。
《ダーちゃんの、ケチぃ》
ぷんぷん怒って、六翼の天使が背を向け、歩き出す。
途端、楽になった。
ドキドキする胸を押さえ、息を整えた。
ふと見れば、サリーはチビッコ天使に戻っていた。翼も背の二枚しかない。サリーは入り口のそばに立って、アタシたちにべーっと舌を出している。
そのすぐ側まで、死霊王のベティがヒョコヒョコと近づく。アタシを見て、首から下がハーピーな死霊王はイヒヒと笑った。
《死神王も死霊王も、今は、真実の鏡の支配の外。接近したもののみが、鏡の影響を受ける》
この世のものとは思えない美形エルフが、静かな口調で言う。
「それがあなたの本当の姿なの、ダーモット?」
《否。今の我の真なる姿は、汝も知っていよう。この姿は、生命ありし時代への郷愁に過ぎぬ》
自嘲の笑みすら、絵になる。みとれちゃうわ。
「リッチになる前の姿ってわけね?」
《然り》
「じゃ、サリーの六翼の姿は、堕天前の姿?」
《少し違う。先程の姿こそが、死神王の真なる姿。幼児姿は、変化に過ぎぬ》
へー そうなのか。
《死霊王も同じ。あの姿はかりそめのもの。真実の鏡の前に立てば、違う姿に映るであろう》
どんな姿? と聞いたら《知らぬ》と返された。
《純然たる魔族といえども、変化をしていれば変化前の姿に。神や精霊、人や獣、木石などが、ゆえあって魔に転生しているのであれば、魔に堕ちる以前の姿を鏡は晒す》
死霊王がグヒヒと笑う声が聞こえる。
《なぁるほどね。近づくだけで、本来あるべき姿をバラされちゃうんだ。虚飾は捨てよ、裸になれってか。やらしいねえ》
死霊王に聞いてみた。
「そっちからだと、どんな風に見えてるの?」
《屍王はしかめっつらのエルフに見えるねえ。ゆーちゃちゃまは、そのまんまだ。ぜ〜んぜん変わってない》
「そうなの?」
アタシは、自分の体を見てみた。
いつもの服、オニキリと不死鳥の剣、精霊達との契約の証の宝飾品。ポケットに触れれば、歴代勇者のサイン帳やポチの入った培養カプセルの手触りがある。
たしかに、いつも通りだわ。
《変化せぬのは、汝が天にも地にも恥じぬ勇者である証。人としての力で手に入れたものだけを纏っているゆえ、外見すら変わらぬ》
よく見れば、契約の証が淡く光っている。左の指輪は青に近い水色に、左手首の腕輪は紫に、右手首のは水色がかった白に、左の胸のブローチは闇の色に、右胸のは白光に。宿る精霊に対応した輝きなのだろう。
《姿を暴くのは、副次的な現象にすぎぬ。勇者ジャンヌよ、望みを抱いて近づき、鏡に触れよ》
エルフが、部屋の中央にある黒いものを指差す。
あと数歩歩けば、あれに手が届く。
壊れた柱のような、上部が砕けた彫像のような、金属の塊。でっかいモニュメントにも見える。
まったく鏡っぽくないけど、あれが真実の鏡だ。
《四才の秋に汝の身に起きたことを思い出したい……そう望むがいい。あの日、汝は汝が敵とまみえているはず。鏡は記憶の封印を解き、あの日の汝では知りえなかった真実すらも伝える。敵の正体、倒す手立て、知ること叶うやもしれぬ》
黒い鏡の前で、足を止めた。
びっしりと模様が刻まれている。円、三角、四角、多角、直線、曲線、ジグザグ線……規則正しく施されたそれは、魔法陣模様に似ている。
不思議なことに、こんだけ模様があるのに表面は滑らかだ。凸凹してない。
黒い金属鏡は、アタシと背の高いエルフの姿を綺麗に映し出している。
深呼吸してから、右手を鏡へと向けた。
負けたくない。
生き延びたい。
自分の世界を滅ぼしたくない。
大好きな人たちが、笑って暮らせる世界を守りたい。
勇者として、アタシは真実を知りたい。
鏡にそっと触れた時だった。
背後からの手が、鏡をドンと突いたのは。
こ、これは!
も、もしや!
かの有名な壁ドン?
いやいやいやいや!
違うか。アタシ、壁に追い詰められてないし!
まるで背後から抱きしめるように、ダーモットがアタシに覆い被さっている……
《魔力を持たぬ汝が代わりに、我が鏡に力を注ぐ》
そ、そういうことなんですか……ありがとうございます……
《心に波風立てず、一つがことを望め。真実が欲しい。ただそれだけを思い、》
うひ!
ちょっ!
ちょっ!
ちょっ!
近すぎっ!
頭の上からイケメン声で囁かないで!
自覚ある? あんた、今、超美形エルフなのよ!
ほら! 鏡にも映ってる! 黒髪三つ編みエルフが……ア、アタシを包み込むように……
胸がキュンキュンした……
美しすぎる……
この美形が今は骨だなんて……もったいない!
美形は、国の宝なのに!
なんで、リッチなんかに!
そう思った時、すぅぅっと現実が遠のいた。
見えるのは、鏡像だけになった。
真っ黒な鏡に、闇のごとく黒いものが映る。
生きとし生けるものを死に追いやる、おぞましい穢れ。
瘴気だ。
瘴気の中心に居るのは、異形の魔法使いだ。
錆びた王冠を被り、朽ち果てたローブを纏う、干からびた骨。手に持つのは、黒の錫杖。
不死の魔法使いだ。
だけど、ダーモットじゃない。そのしゃれこうべは、人の形をしていない。フードを被らず晒した頭部には、二本の角がある。
《汝、雑念を抱いたな》
頭の上からダーモットの声がする。
けど、その姿は見えない。
見えるのは、禍々しいリッチだけだ。荒れ果てた大地に、まるで彫像のようにたたずんでいる。
そして……
キィィ―ンと耳をつんざく音がした。
リッチが頭上を見上げる。
黒い雲に覆われた空に、次々に亀裂が走っていく。布がびりびりと裂けてゆくように、空がどんどん割れてゆくのだ。
やがて、切れ目同士がつながり、空は不格好な四角い形に切り取られ、そのまま、がくんと抜けた。
空が切り取られたところから、黒く巨大なものが現れる。
大きな黒い鳥のような。
それは、現れるなり、羽ばたいて、旋風を起こした。
背の二枚の翼で空を飛ぶ巨大なもの……ドラゴンだ。
黒い鱗で覆われた、大トカゲに似た恐ろしげな外見。小山を思わせる体、鋭い口に、巨大な爪、ぎょろりと獲物をみすえる赤の両眼。
カッと口を開き、ドラゴンが口から強烈な火焔を吐く。
鉄をも溶かす、高熱の炎だ。
天から降り注ぐ炎の濁流を、リッチはよけようともしない。錫状を持った姿のまま、その場にたたずみ続ける。
凄まじい勢いで吐かれた炎が、リッチを包む。
ドラゴンの炎は全てを燃やし尽くしたかのように見えたけれども……
ドラゴンがブレスをやめた時、何も変わっていなかった。
リッチはノー・ダメージ。ボロボロのローブすら焦げていない。
魔法障壁を張ったのだろう。
《儂に挑むか、『勇者』よ》
髑髏の眼窩に、赤い炎が灯る。
《神の天秤は無情。儂の討伐を望めば、『勇者』たる御主ももろともに滅ぶ。世界の理を知らぬ御主ではあるまいに、何ゆえに死に走るのだ。ダーモット》
『理よりも仁ゆえに』
ドラゴンの背から朗々とした声が響く。
『汝が在るだけで滅ぼされゆく命を守る為、我は『勇者』として汝を討つ。強大となりし汝は、もはや吹き止まぬ嵐に等しい……。すまぬな、『魔王』。共に滅びてくれ』
黒竜の背に、黒髪のエルフがたたずんでいる。蔦が絡まった長杖を持ち、黒のローブをまとうそのエルフは、確かにダーモットで……
《『魔王』ゆえに『勇者』が生まれ、『魔王』の滅びと共に『勇者』も消えゆく。調和神の思惑のままに、踊らされ、滅びる、あわれなる『勇者』よ。いずれにも傾かぬ正と邪の天秤なぞに意味は無い。神の戯言に流され戦ったところで、神々を喜ばせるだけ。そこに救いは無い》
『守るべきものたちを守れ、この世界の和が守られるのであれば、後悔はない。我は『勇者』としての正義を貫く』
《愚かなり、『勇者』よ》
リッチが、錫状で大地をつく。
《不死の魔法使いは、滅びぬ》
『行くぞ、デ・ルドリウ。我が友よ。我が魔力が牙となり盾となり、汝を守らんことを』
呪をはらんだ祝福を受け、黒のドラゴンが咆哮する。
空間が、ギシギシと揺らぐ。
巨大なドラゴンの姿が、何重にも大きく見える。
ドラゴンの巨大な口から、紅蓮の炎が生まれる。先程よりも苛烈さを増した炎を吐きながら、ドラゴンが急降下する。
ドラゴンの背のエルフ、大地にたたずむリッチ。
二人の魔法使いが杖を手に呪文を唱える。
二人の周囲で、魔力のゆらめきが現れては消える。
激しい魔力の応酬で、発現する前に、そのほとんどの魔法は無効化されていた。
けれども、全ては消しきれなかったのだろう。
いくつかの魔法が鋭い刃となって、ドラゴンの黒い鱗を貫き、その背に居た者すらも傷つける。
それでも、ドラゴンは急降下を止めない。傷つくことを恐れず、裂けた鱗より血を流し、潰された右眼で前方をみすえ、ブレスを吐き続け、そして……
リッチの魔法障壁を、噛み砕いたのだ。
『光よ』
杖を支えにかろうじて立っていたエルフより、まばゆい光が広がる。
まるで太陽が地に落ちたかのような激しい光。
全てが白光に包まれてゆき……
悪しきリッチの体は、砂のように崩れ……
悲痛な声が響き渡った。
荒れ狂う獣の啼き声とも、断末魔の絶叫とも、狂気に陥った人の絶望の叫びともつかぬ、聞く者の胸をえぐるような悲鳴だ。
エルフだ。
ドラゴンの背から転げ落ちたのか、大地にうつぶせに倒れ、己が体を抱きしめて叫んでいる。
《いかがした、ダーモットよ》
ドラゴンが、人の姿に変化する。
その身を包む黒い鎧はひしゃげ、マントは破れている。黒の髪は乱れに乱れ、右眼があるべき箇所に穿った傷が開いているのに、血に染まった自分など気にもとめていない。その場に跪き、ダーモットの身をひたすら案じている。
地に転がった角つきの髑髏が、カラカラと乾いた笑いを漏らす。
《不死の魔法使い最後の秘術を与えた……『勇者』よ……御主に『死』の安息はない。御主が消滅すれば、呪は御主に近しいものに移る……御主を解放せしもの、或いは御主が最も心をかけたものに……》
乾いた音が響き、しゃれこうべに亀裂が走る。
《調和を望むのであれば……『勇者』として、とこしえに『魔王』の身で生きるがいい……御主が、調和神の、天秤より、こぼれ……神ならざるものの楽土を……築く未来を望み……儂は沈黙する》
頭骨は崩れゆき、ただ二本の角だけが残る。
突き上げるような悲鳴も、長く長く尾を引く残響もやがて途絶え……
ダーモットが、ゆっくりと体を起こす。
その姿に息を呑んだ。
彼を形作るもの、全てが無残に壊れていた。
腐り、乾き、崩れ……何もかもがポロポロと削げ落ちてゆき……
白骨と化した体だけが残る。
不死の魔法使いダーモットが、誕生したのだ。
気がつくと、アタシはもとの場所にいた。
黒い彫刻のような金属鏡に触れたままで。
滑らかな黒い鏡に映っているのは、アタシとその背後に居る背の高いエルフだけだ。
右手を鏡につき、ダーモットは前だけ見つめている。怒りも嘆きも戸惑いもなく、石のように硬い表情で、ただ前だけを見つめている。
胸がズキンと痛んだ。
「……ごめんなさい」
《汝、雑念を抱くな、勇者。真実の鏡は、触れしものの望みのままに、そばにいるものが抱く真実を見せる》
そう言って、ダーモットは左手に持つ杖を軽く持ち上げた。
二本の角がついた杖……角の形には見覚えがある。ダーモットに秘術をかけて逝った『魔王』の角だ。さっきの映像は、ダーモットと『魔王』の記憶だったのだろう。
背後から、グヒヒヒと笑い声があがる。
《こうして、屍王は生まれました……か。なみだなみだの物語だったねえ。安っぽい三文小説かと思ったよ。つっまんない理由で魔族になったもんだ》
鏡に映ったものは、死霊王たちにも見えてたのか……。
《あんたが善の心を持つ悪であり続けることが、神の天秤とやらを支えてるんだろ。バッカバカしい! 虫唾が走るよ。屍王。あんたは世界を救ったんじゃない。神を喜ばせただけさ》
「やめて、ベティさん!」
叫んでから、アタシはもう一度ダーモットに謝った。
「失礼なことをしました。ほんとうにごめんなさい。アタシが集中してなかったせいで……」
《過ぎ去り日の記憶が再現されただけのこと。汝、気に病む必要はなし》
この世のものとは思えない美しいエルフが言う。
《だが、二度と心を乱すなかれ。汝が知りたき真実は、汝が敵のことであろう?》
「はい……すみませんでした」
鏡面に映るエルフは、静かな眼差しでしばらくアタシを見下ろし、それからほんのちょっとだけ口角をあげた。
《汝の世界と我が世界は、在り方からして異なる。正義も『勇者』の生きる道も異なる。要らぬ関心は捨てよ。汝は汝の世界を救うことだけを考えればよい》
それはそうかもしれないけど……
さっきの『魔王』とダーモットのやりとりが、気になる。
『調和神の天秤』
『いずれにも傾かぬ正と邪の天秤なぞに意味は無い。神の戯言に流され戦ったところで、神々を喜ばせるだけ。そこに救いは無い』
『『魔王』ゆえに『勇者』が生まれ、『魔王』の滅びと共に『勇者』も消えゆく』
『神ならざるものの楽土』
意味を問いたい気持ちもある。
だけど……
《闇雲に神を信奉したって、屍王みたいにバカを見るだけさ。せいぜい気をつけるんだねえ、ゆーちゃちゃま。気まぐれで利己主義で残酷なのは、神も魔と一緒だもの。神は、自分の為に世界をつくり、自分の為に奇跡を起こす。人間なんざ石ころ同然、弄ぶことにためらいはない。あいつら、とことん下衆だからね》
「ベティさん、うるさい」
ゲヒヒと笑う死霊王を睨み、アタシはため息をついた。