ここはどこ? アタシはジャンヌ
頭の中は、真っ白だった。
泣き叫んでいたような気もするし、反対にまったく声が出せなかった気もする。
よく覚えていない。
天界のバルコニーから落ちてから先の記憶が、飛び飛びになってる。
断続的に気絶したのかも。
ものすごいスピードで、アタシは落ちていた。
だけど、風圧は感じることなく……
痛みも息苦しさもなく……。
やわらかな布で包まれているかのような、不思議な感覚だけがあって……。
覚えているのは、白い雲の海。
ずっとず〜っと下にあったはずのそこに、アタシは突っ込んだ。
雲の中は真っ白だった。靄の中に居るみたいに。
けれども、どんどん視界は暗くなってゆき……
やがて、真っ暗となり、
気づいた時には、真っ赤になっていた。
そして、今……
アタシは一人だ。
もう落ちてはいない。
地面の上に寝転がっている。
「助かった……?」
雲の上の天界から落ちたのに?
「なんで生きてるの……?」
見上げれば……赤い空と赤い雲。目が痛くなるような、毒々しい血の色が見える。
上半身を起こした。
ちょっと体が痛いけど、たぶんゴツゴツした岩地にひっくりかえってたせい。大きな怪我はなさそう。
辺りには何もない。どっちを見ても、どこまでもどこまでも岩場が続いているだけだ。
風はなまあたたかく、臭い。生ゴミみたいな臭いが漂っている。
なんか肌がヒリヒリしてる。
手をついて起き上がりかけて、顔をしかめた。
アタシ、裸足だ。
てか、ほぼ裸。赤いビキニを着てるだけ。
靴も服も武器もない。
荷物もない。
そばに誰もいない。
何もない岩場に、たった一人……。
風に乗って、ウォォォォンって音が聞こえた。
獣の遠吠えような、亡者のうなり声のような。
あたりを見回したけど、何も動いているものはいない。
だけど……
だけど……
だけど……
ウォォォォンって声、どんどん大きくなってる!
体が震えだした。
「おし……」
お師匠様って、叫びかけて口を閉ざした。
違うわ。
今、アタシが真っ先に呼ぶべき名前は……
「ピクさん!」
アタシが抱き上げていた闇精霊。
落ち込んでたアタシの側にいてくれた、心優しい黒クマさん。
アタシは、あの子を落としてしまったのだろうか?
返事はない……。
「ピオさん! ラルム! ヴァン! ソル! ピロおじーちゃん! レイ! ルーチェさん!」
精霊達から、答えはない……。
呼ぶこともできない。
アタシは身一つで、天界から落ちたのだ。
契約の証は、手元にないのだ。
ウォォォォンと風が鳴く。
痛いなんて言ってられない。裸足で岩場を踏みしめ、アタシは立ち上がった。
全身に鳥肌が立っている。
ここに居たら、マズイ。
逃げなきゃ、死ぬ。
直感的にそう思った。
でも、どっちへ? あの不気味な音が何処からしてるのかすら、わからないのに。
青白く光るものがぼうっと現れる。
小指の先ぐらい小さいものから、アタシよりも大きいものまで。ゆらゆらと揺れる炎が、アタシをとり囲むように宙に浮かんでいる。
人間のうめき声とも獣の鳴き声ともつかぬ声を漏らしながら。
じりじりとアタシに近づいてくる。
がたがたと体が震えた。
ケケケケと笑う声、ヒィィィィと空気をふるわす悲鳴、『憎い憎い憎い憎い』とか『喰わせろ』とか『引き裂いてやる』だの聞こえて……
目の前に、巨大な鬼火が迫って来たのだ。
「いやぁぁ!」
悲鳴をあげ、アタシは……
右ストレートをお見舞いした。
「キモい! キモい! キモい!」
左ストレート! ジャブ! ジャブ! ジャブ! 後ろに肘打ち! 回し蹴り!
夢中になって、あっち行け〜! と腕と足を振り回した。
しばらくして、気づいた。
アタシが攻撃を放つ度、いい香りがするのだ。
よく熟した果実のような甘い香りがふわっと広がり、攻撃を浴びた鬼火はふっとんでゆくのだ。
処々から『あああああああ』って絶叫があがる。泣いているようにも笑っているようにも聞こえる叫びをあげ、鬼火たちがスゥッと次々に消えていく。
アタシの拳が、鬼火を浄化した……ような?
だけど! 鬼火の数はどんどん増えるのだ! 砂糖に群がる蟻のように、アタシのもとへ押し寄せてくる!
前に拳を振るえば、背中から。
頭を振っても、足から。
払いきれない。
数が多すぎる。
鬼火がアタシに触れてくる。
熱くはない。だけど、『殺す』だのわめくし、冷たいし、ぬらぬら動いて気持ちが悪い。
触れられているところが、チクチクする。
痒いような、痛いような。
「やめて!」
アタシに触らないで!
おぞけがする!
そう叫んだ時だった。
カッ! と、まばゆい光が広がり、アタシは吹き飛んだ。
岩場の上を転がりながら、ドドン! と耳をつんざく音を聞いていた。
《遅れて申し訳なし》
心の中に、声が響く。
《緊急対応。主人の守護を優先する》
この声は!
レイ?
紫の光が目にも留まらぬ速さで宙を駆け、鬼火を散らしてゆく。
凄っ……
あ。
てか! あんた、今、敵ごとアタシをふっ飛ばさなかった?
そして、少し遅れて。
《もぉ、レイさん、速すぎぃー 一体でズンズンいっちゃうんだもんー》
ブーイングと共に明るい声が!
《ジャンヌ! おまたせ! 守るね!》
ピオさんが聖なる炎で、鬼火を燃やしてゆく。
更に……
《勇者ジャンヌ、癒しますね。多少精気を吸われてますが、問題のないレベルです。怪我は、切り傷と打撲だけです》
七色の光が、アタシを包み込む。
「ルーチェさん……」
どうして?
どうやって、みんな駆けつけてくれたの?
アタシ、契約の証を持ってないのに。
《契約の証? あるぜ、ここに》
緑の髪の青年が、アタシの前に現れる。
アタシのバッグと、服、靴、剣を空中浮遊で浮かせながら。
《まさかの堕天じゃん? もうソッコーでオジョーチャンの脱ぎ散らかしたの抱えてさ、移動魔法でかっとんだよ。次元の壁越えるタイミングに間に合ってホッとしたぜ》
「ヴァン……」
《契約の証を持っててもらわなきゃ、愛しい女といっしょに居られねえだろ?》
風の精霊が、アタシにウインクを送ってくる。
《オレに惚れ直した?》
ありがとぉぉ! ヴァン!
《まあ、まあ、まあ。まずはお靴をどうぞ、お姫さま。ビキニ勇者はオレ的にありだけど、冷えは女の大敵だし、このへん瘴気に満ちてるからなー いつものかわいい服も着なよ》
靴を履き、服に袖を通した頃には、周囲から鬼火は一掃されていた。
レイとピオさんが、紫クマさんと赤クマさんの姿に変化する。
ヴァンに手伝ってもらいながら、不死鳥の剣とオニキリを装着していると、
《やれやれ、てこずったわい。齢かのう……あ、いや、クマー》
空から、ふよふよと白クマさんが降って来た。
《空に居た魔はあらかた祓ったぞぃクマー》
《すみません、氷の御大に殿なんか頼んじまって》と、ヴァン。
《いやいやいや。適材適所。わしゃ素早く動けんし、精霊支配者を癒すこともできんからのうクマー。魔の掃除でもなんでも、働きどころでは働くクマー》
アタシを見て、ピロおじーちゃんが大きく頷いた。
《精霊支配者よ、無事で何よりじゃ。どうやらソルは、そなたを守り終えてから四散したようじゃな》
え?
四散?
「ソルが四散したんですか……?」
《ソルだけじゃねーんだ、オジョーチャン。ラルムくんとピクも散った》
ソルと、心配性の水精霊、それにアタシが抱きしめていた黒クマさんが四散した……?
「どうして……?」
《あなたを守る為ですよ、勇者ジャンヌ》
ルーチェさんは、虹色のぬいぐまになっていた。
《生身の人間は、落下の風圧に耐えられません。頚椎などを骨折、呼吸困難等々で、死亡します。ラルムもソルもピクも、あなたの無事を第一に考える精霊です。あなたの周囲を包む結界となって、天界やこの世界の境界を越え、あなたが受けるはずのダメージを代わりに受けて四散したのです》
《天界の境界を越える時にラルムが散り、この世界への侵入時にピクが散じ、このエリアに張られた結界を突破したことでソルが大ダメージを受けたのじゃクマー》
《オレら五体が無事に次元の壁を越えられたのも、ラルムくんたちの結界の内に入れてもらったからでね……。ま、主人を守る為には誰かが逝かなきゃいけなかったんだ》
《次はボクの番だったんだー それからレイさんでー ピロおじーちゃんでー ヴァンでー 治癒魔法を使えるルーチェさんを最後にしよって、残ったみんなで決めたんだー もう、ラルムさんやピクには困っちゃうよねー ジャンヌを癒せる能力者が、まっさきに逝ってどーすんのってかんじー》
アタシのせい……?
アタシが、ソルとラルムとピクさんを四散させてしまったの……?
《言うまでもなく、主人のせいである》
両腕を組んだ紫クマがアタシを見つめる。
《主人は白竜の姿をしたものを見かけ、『もっと見たい。近くに来てほしい』と思ったであろう? その思考が、あのものをあの場に招きよせてしまったのである》
バルコニーから見かけた白竜。
雲の上に居たそれは、あまりにも白竜マルヴィナに似ていて……
マルヴィナはお師匠様を庇って百年近く前に亡くなっているんだ、マルヴィナのはずないのに、アタシは……はっきりその姿が見たいと思って……
現れた巨大な白竜の翼の羽ばたきに飛ばされ、天界のバルコニーから落ちたのだ。
《あの形であの場に出現すれば、主人が無事に済むはずはなし。かの存在は承知の上で、招きに応じたのである》
なぜ……
《主人を殺害する為。それ以外に理由など、あるはずもなし。かの存在が誰かはわからぬ。ブラック女神本人か、それに関わる輩か、まったくかかわりなきものか。だが、いずれにせよ……》
一呼吸おいてから、レイが言葉を続ける。
《覚えておかれるがいい、主人よ。直接手を下すことを許されぬものとて、やり方次第では主人を殺すことは可能なのである。吾輩とてできる。たとえば……主人自らに『超ド級の稲妻』を見たいと望ませる。吾輩はそれに応え、主人の至近距離で最大の雷撃を放つ……周囲への雷撃に愚かな精霊支配者が巻き込まれるだけ。吾輩に非なく、主人を殺害できる》
紫クマが顔を傾ける。やや陰がさしたその顔は、愛らしいぬいぐまのはずなのに……不思議なほど恐ろしげに見えた。
《不用意な言動は慎まれたし。また、いかなる場であろうとも、精霊をお側に置く事をお勧めする。厠や風呂場であろうとも、危機が迫る事とてあるのである》
ガンガンガンと頭が痛む。
アタシがバカだったせいで……ソルとラルムとピクさんを四散させてしまっただなんて……
アタシのせいで……
《おいおいおい。それぐらいにしとけよ、レイ。もうあまり時間はない》
ヴァンに対し、紫クマは頷きを返した。
《承知している。だが、あえてもう一つ。主人よ。これは既にお伝えしたことだが、しもべの魂が散ったとて何ほどのことはなし。四散したとて、時をおけば精霊は復活する。精霊支配者たる者、しもべの四散などに動揺すべきでない。泰然としていただきたい》
カッとなった。
「そんなことできるわけないわよ! アタシのせいでピクさんたちは!」
仮の肉体どころか魂まで吹き飛んだのだ。
死とは違うんだとしても、無痛のわけがない。そうとう苦しかったはずだ。
アタシのせいで、そんな苦しみを三体に……。
《主人が嘆き悲しんでばかりでは、四散した精霊が浮かばれぬ。主人の為を思い、砕けたというのに……四散損である。我ら精霊を大切に思われるなら、勇者としての生をまっとうされよ》
《必要とあらば、誇りも主義も捨てるべきである。意地でも生き延びられよ。主人が還ること叶わねば、主人の世界は滅びる》
《世界の命運を握る者は、己が感情にかまけてはならぬ。大局をみすえ、より良い未来を思索し続けねばならぬのである。必要とあらば非情の判断を下す……その覚悟なくば、世界を守護することかなわぬのである》
「レイ……」
《お伝えしたきことはすべて伝えた。主人よ、同化する》
紫クマはスッと姿を消し、アタシの内に沁みこんでくる。
《あー ズルイ。レイさん、次はボクの番なのにぃー》
ぷんぷんと頬をふくらませ、赤クマさんがブーイングする。
《吾輩の雷よりも炎の方が、次の敵には効く。ピオは単体で動くがいい》
なおも赤クマさんは、ブーイングしている。
けど……
敵?
《勇者ジャンヌ。私達の守護結界も、そろそろ限界です。強大なる魔が現れます》
え?
《このエリアの支配者なのじゃクマー》
《オジョーチャンが鬼火とじゃれあってるころからさー ずーっと見られてたんだよね。がんばってこの近辺をオレらの支配下に置いてきたんだけど、そろそろ限界つーか……あっちが本気になったら、オレらじゃ勝てないと思うんだわ》
ヴァンがアタシの胸元を指差す。
着た服の胸ポケットには、いつも通り勇者のサイン帳が入っていた。
《悪いけどさ、オレの苦手なあの男……呼んでくんない?》
それって、アタシも苦手なあいつのこと?
《まちがいなく敵は魔王級……Sランクの魔族だ。倒せるのは、神か、でなきゃ》
そこまで言いかけたところで、ヴァンは大きく舌を打った。
《来やがったか!》
アタシの前の空気が揺れる。
凄まじい瘴気……
穢れた気を放ちながら現れたもの……
そのあまりにも異様な姿に、アタシは目をみはった。
これが魔王級の魔族なのかと……




